ナチス、汚水、姿見、または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか
──ボタンを押してください。
音声案内に従ってボタンを押す。
私の仕事はそれだけだった。ただ1日ボタンを押すだけでそこらのサラリーマンの数倍の給料を貰っている。
──ボタンを押してください。
私は再びボタンを押す。
ボタンと、テレビが置かれているだけの部屋。飲食物の持ち込みは自由で、まるでネットカフェの一室のような空間だった。
──ボタンを押してください。
私はボタンを押す。
朝、目覚めて姿見で自分を見る。疲れた顔だった。いや、憑かれているのか。自分の足元の空気が淀んでいるような錯覚。……錯覚だ。
淀んだ空気を蹴飛ばすように姿見から離れ、テレビをつけてソファに座る。テレビニュースは新型水素爆弾の活躍を褒め称えていた。
──ボタンを押してください。
私は叫び声を上げて立ち上がり目の前のテレビを薙ぎ飛ばした。電源コードが切れたが、テレビは自身のバッテリーでニュースを流し続けた。
倒れたテレビから流れる横向きのニュースに、私はその画面を撫でる為に手を伸ばしながら声をかけた。
「ああ、愛してるよ。愛してるとも。私は君が大好きなんだ」
水素爆弾が返事をするように、画面の中でキノコ雲を上げた。
──ボタンを押してください。
私はボタンを押す。このボタンで何が起きているかは知らない。いや、知らないワケじゃない。いや、知らない。私は汚水を作っているだけだ。ボタン1回で、赤く汚れた川を。
──ボタンを押してください。
私はボタンを押す。誰かの責任の肩代わりをして。ナチスドイツのヒトラーのように、誰か悪い人間が私の上にいて、私に命令しているのだ。
──ボタンを押してください。
私は考えている。常に考えている。このボタンで何が起きているかを。或いはナチスドイツの残虐な行いを考えている。見てもいない赤黒い汚水の源を考えている。
──ボタンを押してください。
仕事を始めた当初は心配だった。この仕事を終えた時、私はどういう扱いをされるのだろうかと。どういう気持ちでボタンを押していたか、世間の人間は知りたがるだろう。
──ボタンを押してください。
今はもうボタンを押すことに何の感情も抱かない。私はこの仕事を愛しているのだ。愛するしかないのだ。でないと私の心は……。
──ボタンを押してください。
この仕事から解放された時、私は世間の注目を浴びるのだろうか。ナチスドイツのヒトラーのように。
──ボタンを押してください。
その時私は語るべきだろうか。私はただ雇われてボタンを押しただけだと、または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったかを。
──ボタンを押してください。
私はボタンを押す。
──ボタンを押してください。
私は水爆を愛している。このボタンが何かは知らない。
──ボタンを押してください。
私は何も知らない。
──ボタンを押してください。
私は何も知らない。
了