表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

鳥人密室

作者: 鹿野介助

 のちに神話として語られる時代のこと。


 地中海沿岸の、あるギリシャ都市国家の岬に一本の塔が立っていた。切り石を積み上げ、その各面を東西南北に向けた塔であった。

 上下に長い四角柱の形をしており、天から見下ろすと正方形となっている。

 塔の中間には縦に細長い穴、いわゆる矢狭間が四方に三つずつ開けてあり、敵へ矢を射たり通行人を監視できるようになっていた。

 最上部には地中海を眺められるよう、大きな窓が南方へ向けて開いてある。


 かつては都市国家と都市国家を船で繋ぐための灯台として、あるいは敵国の軍船を見張る物見の塔として利用されていた。

 しかし陸路が発達した現在は海運船が通る事もなくなり、ごくまれにクレタ島との海戦が行なわれる恐れがある時を除いては、ただ古ぼけて苔むしていくだけであった。


 その幾度目かの対クレタ戦争のおり、ギリシャはクレタの王子、イカロスを捕縛した。

 ギリシャは各都市国家代表による合議の末、今ではほとんど使われる事のない件の塔に幽閉する事を決めた。

 かつて物見の塔であっただけに海側の動向が分かりやすい。さらに駐屯地が近辺に散在し、市街地から離れているために密偵に忍ばれる恐れもなく、奪還もしくは逃亡は難しいであろうとの判断であった。

 しかし人質として利用するには僻地にすぎたのも事実ではある。実際の所は、どの都市国家がイカロスを手許に置くかで意見が別れた結果であった。

 つまりは、どの国家から見ても重要でない場所、どの国家にも移動させやすい地点、そういった様々な要因による綱引きの結果として、打ち捨てられた塔に矛先が向けられたというわけである。

 いかにも直接民主政治を行なうギリシャらしい、決断力に欠ける話であった事はいなめない。

 何にしても、議会の結論は尊重されなければならなかったし、事実として尊重された。


 そのような経緯で、イカロスは塔の最上階、かつて灯台のための照明を灯していた部屋に閉じ込められる事となった。

 むろん塔での幽閉は国家間の意見が定まるまでの処遇であり、いずれ大国の皇太子らしく丁重な扱いにする予定であった。

 しかしその後、イカロスは石造りの部屋で三年と三ヶ月をすごした。


 夏の暑い日の事であった。

 イカロスを閉じ込めた部屋から、声が全く聞こえない。それどころか物音一つしない。

 衛兵の一人が扉の下部にある隙間に顔を近づけ、様子をうかがった。

 あわてた衛兵達は堅く閉め切られた扉をこじ開けようとした。木星の扉は堅く分厚く、斧を幾度も幾度も打ち付けなければならなかった。

 衛兵の一人が部屋に飛び込んだ時、そこにイカロスの姿はなかった。

「扉は鍵をかけ、我々が見張っていた。ではイカロスはどこへ消えたのだ」

「窓は一つあるが、下は断崖絶壁だ。しかし海にも死体は見つからぬ。まだ遠くに流れてはいないはずだ」

 開かれた窓から夏の陽光が照りつけ、石造りの部屋は蒸し風呂よりも熱い。床にはかなりの食事が残されていて、蝿がたかる前に肉はひからび、青菜は腐り溶けていた。部屋の隅にある粗末な寝台を使った形跡もない。

 ここしばらくイカロスは人質として与えられた食物を拒否していたらしいことを、衛兵たちは初めて知った。

「イカロスはただ呪詛のように父王を求め、食事を求める事はなかった」

 父よ、父よ、今すぐおそばに帰ります、とくり返していた。

「しかし、全く手をつけずに今日まで生きていたはずはないし、逃げる力を残せたとは思えないぞ」

 しばらくして、黄緑色の羽根数枚が部屋の中央に落ちているのが衛兵の目に止まった。

 近寄ってみると、部屋の燭台から取ったとおぼしき蜜ロウがかたまりとなっていて、陽光で柔らかく溶けている。羽根はそのロウに張りついていた。そして衣服を裂いて作ったらしい紐が一本、床をはっている。

「クレタのダイダロスは、羽根を固めて天を舞うと聞く。イカロスは塔に飛び込んだ鳥の羽根を集め、窓から飛び出たのではあるまいか」

「その技術があるならば、一年もしないうちに逃げだせたはず。さらにこの暑さだ。羽根をロウで固めども溶けてしまうぞ」

「しかし鳥がここにいたらしいのは確かだ。イカロスが父を求める声の他、時たまに鳥の声が扉の向こうから聞こえた」

 衛兵の一人が窓から海を眺めた。海鳥が白い羽根を優雅に羽ばたかせて舞っている。

 ふと衛兵は床の肉に目をやった。よく見ると、肉の表面に嘴の跡が無数に残されている。

「東には、葬儀で死体を鳥に食わせる習慣があると聞く。よもやイカロスはそうやって自害し、姿を消したのではあるまいか」

「たしかに食事は扉の下から差し出し、直接に姿を見る事はなかった。しかし父を求める声は昨日まで聞こえていた。身体の一部でも残らないはずはない」

 それでも衛兵は部屋を隅々まで探してみたが、骨の一欠片も残ってはいなかった。


 同じころ、クレタ島の海岸に一つの死体が流れ着いた。死して数カ月が経っていると思われるほど腐り、骨にこびりついた肉は鳥についばまれていた。

 姿形こそ変わり果てていたが、死体のはめた指輪から王子イカロスであると知れた。王は嘆き哀しみ、民衆は喪に服した。

 その後、怒りに燃えるクレタはギリシャを攻め、一夜のうちに平定した。


 地中海をさまよう、一羽のはぐれ鸚鵡があった。

 その脚には紐がくくりつけられ、紐の先には蜜ロウがこびりついていた。イカロスが鸚鵡を捕らえ、逃げ出さないよう紐を留めるために使っていたものだ。

 夏の暑さでロウが溶け、鸚鵡は自由の身になった。だが彼はかつて吹き込まれた言葉を、何も分からないままくり返していた。

 父よ、父よ、今すぐおそばに帰ります、と。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ