前編
エドアルドが故郷のカフェクに戻って一ヵ月、領主業に専念し忙しく日々を過ごしながらふと気付いた事があった。
そう、既に一月。エドアルドがアリシアと婚姻関係にある事実を知ってからそれだけの日数が過ぎているのに、いまだ二人の関係は当初のままなのだ。
いやいや、当初のままと言うのは間違いだろう。
エドアルドの努力の甲斐あってかアリシアがエドアルドに冷たい態度をとったり拒絶したりといったりは無くなったし、共有する時間を得る為に彼女が孤児院へ赴く際の送り迎えを出来うる限りで請け負っている。そして時折だが孤児たちと遊ぶ時間も持った。特に男の子たちは英雄であるエドアルドに興味津々で、遊びがてら剣を教えてやると大層喜んでくれるのだ。遊びを通してエドアルド自身が子供を好きだと言う事実にも気付いたし、アリシアなどはその光景を微笑ましく見守ってくれている。全く子供たちさまさまだとアリシアとの関係が良くなるにつれ思っていたのだが、ここにきてふと改めて気が付いたのだ。
関係が良くなっているのにも関わらず、同じ屋根の下に暮らす夫婦だと言うのにただそれだけなのだ。夫婦であるのに互いに別々の部屋に住まい、共有の寝室を使ったためしがない。とうの昔に済ませてしまっていておかしくない夫婦の契りすら持っていない事実に、良好な関係を築くのに必死だったエドアルドは今更ながら気付いたのである。
自分が気付いていなかったのだ、アリシアなどとうの昔に忘れ去ってしまっているやもしれない。このままの関係が続けば夫婦どころかただの同居人ではないかと焦り始める。
流石のアリシアもここまできて離縁などとは言い出さないだろう。ならばそろそろ名実ともに本当の夫婦になるべきだとエドアルドはひとり頷いた。
エドアルドもアリシアも子供が好きだ。孤児たちを我が子の様に可愛がるアリシアなら子供を持つのを嫌がりはしないだろう。もし嫌がるとするならエドアルドとそういう関係になる事の方だろうが、出会った当初とは訳が違う。カフェク伯爵家に嫁いだアリシア自身も後継ぎ問題は承知しているのだし、何より嫌われてはいない。それ所か好かれているという妙な自信がエドアルドにはあった。自分たちは夫婦として上手くいくに違いない。
だからエドアルドは自分の提案に、まさかこのような答えが返ってくるとは思っていなかったのである。
「わたくしは今の部屋で十分満足しておりますが?」
夕食の席でそろそろ同じ部屋に住まないかと提案した所、どうしてわざわざ同じ部屋で寝起きする必要があるのだろうとアリシアは不思議そうにエドアルドを見つめていた。
アリシアは屋敷の中でも一階の北側に位置し、けして上等とはいえない小さな部屋に寝泊まりしている。エドアルドの部屋は二階の南、夫婦別室としても通うには離れ過ぎているので不便すぎるのだ。
虚をつかれ言葉を無くしたエドアルドをアリシアは首を傾げまじまじと見つめていた。解りやすい表情に『旦那さまは何を突然言い出すのだろう』と疑問が如実に表れている。
やがて何かにはっと気付き、アリシアの目が輝き出した。だめだ、これは何か大きな勘違いをしている目だと、こちらを信頼しきった表情にエドアルドは心の中で溜息を吐く。
「お気遣いありがとうございます。ですがわたくしは夜遅くまで起きて物音を立てている日が多いのです。煩くして旦那さまの睡眠を阻害するなんてとんでもない事ですし、何よりわたくしは狭い部屋の方が何処にでも手が届いて作業がしやすいのです。」
それは良く知っている。アリシアの日常は孤児院の子供たちの為にあると言っても過言ではない。暇さえあれば子供たちの為に新しい衣服を仕立てているのだ。新しいものを買うより布地から作った方が安いという理由で、今は冬に向け大量の編み物を仕上げている最中であるのも知っていた。
狭い部屋での作業は効率がいいと、だから狭くて日の当らない部屋にいても何の差し支えもないとそれを理由に断りを入れられ、エドアルドはだからと言ってはいそうですかと納得する訳にはいかない。
「私は長く騎士団の寄宿舎に寝泊まりしていたので、たとえ怒号の中であっても睡眠を阻害されるなんて事態には陥らない。なにより私が寝ても覚めても貴方の側に在りたいと願っているのだから、何も気に病む必要はないのだ。」
突然投下された爆弾にアリシアの顔がみるみる燃え上がった。おっ、やっと気付いたかとにんまりするエドアルドに、今度は逆に爆弾が投下される。
「目覚めに旦那さまのご尊顔を拝見すればきっと死んでしまいます!」
目覚めた瞬間に女性も羨む整い過ぎた顔が隣にあれば、どう贔屓目に見ても十人並みのアリシアなんて恥ずかしさのあまりに心臓が止まりかねない。いや、想像するだけで心臓が止まりそうだ。
だから絶対に無理ですと席を立ち逃げ出したアリシアをエドアルドは追いかける事が出来なかった。
「それは―――どっちの意味で取ればいいんだ?」
嬉しいからか、それとも嫌過ぎて死んでしまうとの比喩か?
まさか顔が綺麗すぎるからだという答えだとは思いもしないエドアルドは、腕を組んで真剣に悩み出した。
*****
エドアルドは冗談ともつかない色香で度々アリシアの心を乱す。いつも優しく尊重し見守ってくれるからと油断したふとした隙にアリシアを絡め取ると、その反応を見て楽しんでいるのだ。
愛し合って結婚した訳じゃない。エドアルドは相手がアリシアでなくても責任を感じ、こうやって受け入れるのだろう。実際エドアルドがアリシアを離縁せず傍らにおいてくれるのもそのおかげだ。そう思うと胸がチクリと傷んで悲しくなった。
アリシアはその感情が何なのかとっくに気付いていた。認めた途端に辛くなる、だから気付かぬ振りをしてずうずうしく伯爵夫人の地位に留まっているのだ。どんなに飾り立ててもエドアルドの隣に並べば自分のみすぼらしさを思い知らされるから、わたしなんてと防御壁で心を固めていた。
たとえ冗談だと解っていてもあんな言葉をかけられたら心が浮かれてしまう。自分が頷けばそれが現実になるのだともいう事も、伯爵夫人としてここにいるのだから覚悟しなければならない事もだ。
アリシアも心のどこかでそれを望んでいるが、そうなるのはとても怖かった。男性なのにあんなに綺麗な人が隣にいてはとても眠れないだろう。目が覚めるたびに卒倒するのは容易く想像できるし、四六時中一緒にいればエドアルドに自分の失対も目についてしまう。
嫌われたくはなかった。
憎んだ人なのに、望んで結婚した訳でもないのに嫌われたくなかった。
覚悟を決めて雲の上の人の妻になって、帰りを待ち望んで、戦地にいるエドアルドに届くかも解らない手紙を書いて返事を待った。やがて自分が本当に名ばかりの妻なのだと理解して、喪失感に苛まれる日々に耐えかねて逃げ出したのだ。
戦争が終わっても領地に戻らないエドアルドに、やっぱりそうかと、何の期待も抱いてはいけないのだと痛感させらられた。それでも良かった。心の拠り所を見つけていたアリシアに名ばかりの夫は必要なくなっていたのだから。いつまでも都で、国を勝利に導いた英雄として持て囃されていてくれたらいいと思っていたのに。
『誰の奥方だ?』と領地に戻って来たエドアルドの一言に、記憶にすら残っていなかったのかとアリシアは心の底から怒りを感じた。
知らないなんてはずはない、あれほど手紙を贈り続けたのだ。戦場に立つエドアルドに届かずとも帰還すれば手に取るだろうと思っていたアリシアは、結婚話は知っていたが出陣前に断ったと弁明するエドアルドの言葉を信じず怒りを覚えた。
アリシアはその手紙全てが義母の判断でエドアルドに届けられなかった事実を今も知らない。だから戦時中のごたごたでエドアルドの目に触れなかったのだと今は思っているのだ。
これほど強く怒りを覚えた相手だと言うのに―――一晩明けて対峙したエドアルドはアリシアの想像とかけ離れた人物だった。長い年月をかけて培われた怒りは、たった一日で潰えて新たな感情を植え付け始める。
「駄目だわ、こんなんじゃ本当に愛想を尽かされてしまう。今から謝って一緒の部屋にしてもらって―――でもっ…いつもみたいにからかって遊んでらっしゃるだけかもしれないしっ、それならわたしと同じ部屋なんて旦那さまも本気で望んではいないって事よね?!」
ああ訳が分からない……
自室に飛び込んで思い悩むアリシアは頭をぐしゃぐしゃに掻き回し、必死になって解決策を思案するが良い案など見つかる訳もなく。
何にしてもまずはとにかく詫びだと、アリシアは恥ずかしさに顔を赤く染めたまま意を決して立ち上がり部屋を出る。
するとエントランスの方で何やら話声がして、そちらへ赴くとエドアルドともう一人アリシアへ背を向ける形で人影が見えた。
「お客さま?」
エドアルドより少しばかり背の高い短い茶色の髪の青年は、腰に剣を挿し騎士風の成りをしていた。エドアルドの友人が訪ねて来たのだと判断したアリシアは、伯爵家の妻として表に出ないように教育された過去から自分はどうするべきかと躊躇する。
判断に迷い立ち止ったアリシアに気付いたエドアルドがこちらに視線をおくると、エドアルドの傍らにいた青年が釣られて振り返った。アリシアはその青年の姿を目にとめると、驚きのあまり漆黒の瞳を大きく見開く。
「グレイっ!」
思わず叫んで走り出していた。
グレイと呼ばれた青年もアリシア同様に灰色の目を見開き驚いて立ちつくしていたが、それが誰であるかと認識すると両腕を広げ全身でアリシアを受け止める。
「お前―――何でこんな所に!」
胸に飛び込んできたアリシアを強く抱きしめ、アリシアも両腕を名を呼んだ青年の背に回してぎゅっと抱きしめた。
「良かった…良かったグレイ。ちゃんと生きて帰って来た―――!」
「俺は死なねぇって言っただろうが?」
グレイは抱きしめる手をアリシアの頭に固定すると、ちゃんと顔を見せろとアリシアを覗き込んだ。
「ちょっと見ない間に随分と綺麗になりやがって。そういやアリシア、お前貴族に嫁いだって聞いたが何でこんな―――」
所にと言いかけ、まさかと思ったグレイが視線を向けた先には、二人の様子を茫然として見つめるエドアルドの姿があった。