前編
エドアルドとの会話を途中放棄して飛び込んだ先は一階奥にある厨房。
突然けたたましい音を立て開かれた扉に、朝の忙しい時間を一段落してくつろいでいた調理人夫婦は驚き扉に注目した。
「―――なんだ、奥様じゃありませんか。」
十数年ぶりに館の主人が帰郷した翌朝の騒動に何事かと驚いた調理人のマイアは、恰幅の良い体を椅子から持ちあげ、入り口で立ちつくすアリシアの姿にほっとして厨房へと迎え入れる。
「何事かありましたか?」
マイアは頬を染め明らかに様子のおかしいアリシアに、見目麗しい美貌の主との甘い話を期待する。とうに中年の域を過ぎていたが、いくつになっても女はそういう話に興味津々なのだ。
「大変よマイア…旦那さまはわたしを本当の妻にするつもりらしいわ。」
「何言ってんですか。奥様は最初から旦那様の奥様でしょうに―――」
朱色から一転、顔色を青くしたアリシアにマイアが呆れたように返すと、アリシアはそうじゃないのと頭を抱えた。
マイアの夫で料理人のギャンが気を利かせ冷たい水の入ったコップを渡すと、アリシアはそれを一気に飲み干し木のテーブルに音を立てて叩きつけるように置く。
「こんなの予定になかったわ。貴族だし、ずっと戦場にいたんだから冷徹な人を想像してたのに…旦那さまったら愛人を持つつもりはないし、後継ぎはわたしに産めって言い出したのよ。」
「愛人を持たないなんて、それが口先だけじゃなきゃ万々歳な話じゃないですか。」
何をそんなに悩むと首を捻るマイアに、アリシアは絶対におかしいと詰め寄った。
「義母様がわたしに求めたのはお金だけだったのよ。同じ空気を吸うだけでも汚らわしいって、後継ぎは他の女に産ませるって何度も何度も言われて、わたしだってそうなんだって信じて来たってのに突然こんな―――」
この屋敷でアリシアが先代夫人にどれ程虐げられてきたかを良く知るマイアとギャンは、テーブルに顔を埋めてしまったアリシアを心配そうに見つめる。どうしたらいいのかわからないと悲嘆に暮れる姿は哀れだが、幸薄い結婚生活を送って来たアリシアにこれは好機ではないかと勇気付けた。
「ダリさんによれば幼少の旦那様は悪戯好きでも心の優しい子供だったって話だし、それこそ戦争で酷い経験もされたに違いない。そこいらのお貴族さまと違って奥様の気持ちを解ってくれる、良い旦那様になってくれるやもしれないじゃないか。」
だからそんなに落ち込む事ないさと背中をさすり励ますマイアに、アリシアは鼻を啜りながら半泣きの状態で顔を上げた。
「それなら余計に申し訳ないわ。お金の問題が片付いた以上わたしなんかここには必要ないのだもの。非情な方だと思えばこそ無理なお願いもできたけど、旦那さまが本当にマイアが言うような方なら離縁していただいて相応しい奥様をお招きして頂くべきだと思わない?」
「今さら新しい奥方様なんてあたしゃ嫌だよ。ねぇ、あんたもそうだろ?」
同意を求めるマイアにギャンもその通りだと頷く。
「カフェクの領民が必要としとるのはお貴族さまじゃなく奥方様ですぜ。」
普段口数の少ないギャンがアリシアの目の前に大きなかごを置く。中身はギャン特製のサンドイッチや干し肉、果物といったいわゆるお弁当だ。
「特に今日は子供たちが奥方様を待ちわびている日じゃないですかい。」
子供たち―――その言葉がアリシアを引っ張り上げ、アリシアは自分を元気づけようとしてくれる調理人夫妻を仰ぎ見た。
アリシアが屋敷の使用人と交流を持ち出したのはほんの二年ほど前だ。
それまでは主の威厳を保つために使用人を見下すようにと義母により教育されて来た。言葉使いも命令口調で人間味にかけるもので、それが嫌でアリシアは彼らと言葉を交わす機会を避けてきたのだ。
それが二年前、義母が流行り病で呆気なく逝ってしまうと、義母もエドアルドもいない屋敷での主はアリシアになってしまったのだ。当初は亡き義母の言いつけを守り使用人に対して無表情無感動で挑んでいたが、もともとそんな性格ではないので長くは続かない。思い悩み弱っていくアリシアに最初に話しかけてくれたのがマイアだった。
貴族社会において執事以外の使用人が自分から主に話しかけるなどあってはならない常識だ。それを破れば解雇されてもおかしくない。そんな危険を犯し、おせっかいなマイアはアリシアに自分から話しかけてくれたのだ。『奥様のやりたいようにやっちゃ駄目なんですかい?』と甘い焼き菓子を差し出しながら。
水仕事で荒れた手だった。女性なのに太く硬くて荒れた、働き者の手。そういう手をアリシアは遠く離れた都で育つ中でたくさん見てきた。マイアの手を見てふと思い出したのはそんな人たちとの思い出で、中でも恋人だった人の仕事をする横顔が強く思い出され、差し出されたマイアの手をお菓子ごと両手で掴むと声を上げて泣いたのだ。
その日からカフェクでの生活が少しずつ変わっていった。
アリシアは両手を伸ばすとギャンが用意してくれた籠をしっかりと握る。今日も重くて、でもその重たい籠が帰りには空っぽになるのだと知っているアリシアは心が軽くなる。
「子供たちをどうか見捨てねーでやって下さいまし。」
「ありがとうギャン。子供たちはいつもギャンのお弁当を心待ちにしているのよ。」
もう一度ありがとうと言いながらテーブル越しにギャンの頬にキスを贈る。こうして籠を渡す度の恒例のキスに当初は驚き困惑していたギャンも今ではすっかり慣れてしまい、体を伸ばしてきたアリシアに自分の頬を差し出した。
「マイアもありがとう。こんな動揺した姿、とてもじゃないけどあの子たちには見せられないわ。」
恥ずかしそうに照れながらマイアの頬にもキスをすると、アリシアは籠を抱えて行ってきますと厨房から外へと向かって歩き出す。
マイアとギャンはアリシアの姿が見えなくなるまで見送ると、静かになった厨房へと戻って行くなり二人してぎょっとなった。
そこには入り口の扉に体を預け、腕を組んで佇むエドアルドが黙ってこちらの様子を窺っていたのだ。
調理人夫婦が屋敷に勤めだしたのはエドアルドがいなくなった後の事、それ故二人はエドアルドの人となりを知らない。知っているのはダリが話してくれる少年時代までの事と騎士としての武勇伝、そして―――青く冷たい瞳でこちらを睨みつける現在の姿。
「子供たちとは―――彼女は一人で何処へ行ったんだ?」
完璧な美貌を持っているエドアルドの冷たい視線はまるで悪魔の様で、マイアとギャンは背筋を凍りつかせ震え上がってしまった。
*****
エドアルドとの事は帰ってからまた考えよう。離縁されても実家には帰らずに仕事を見つけてカフェクに住まい続ける道もあるかもしれないし、何よりも今日は三日に一度の大事な日なのだ。
子供たちがアリシアを待ってくれているし、アリシア自身も子供たちに早く会いたくて自ずと足は速歩きになってしまう。
辛い生活の中でアリシアが見つけたもの―――それはかわいい子供たちだった。
屈辱の結婚式から三年、義母の葬儀で再び訪れた教会でアリシアは一人の神父に出会った。
本来なら新郎不在で代筆による婚姻など有り得ないのだが、それが金銭と権力を用いて解決されてしまう場合もある。不正にまみれた神父の行いは教会上層部に知れ渡る事になり、悪事が露見して神父は交代していたのだ。
新たに派遣された神父はまだ三十代と若かったが、前の神父と違い信仰心が厚く優しい人柄で瞬く間に周囲に溶け込んだ。その神父が赴任の挨拶でカフェク伯爵家を訪問してきた際、親のいない孤児たちへの援助と、教会の敷地内に孤児院を設立する為の資金援助を求めて来たのだ。その当時は義母が応対した為門前払いを食らったらしい。それにもめげず数カ月おきに屋敷を訪問していたらしい事実を、アリシアは義母の葬儀後間もなく再度訪問してきた神父より知らされたのである。
アリシアは領内に少ないながらも路上生活を強いられる孤児の存在がある事を知らず、まして孤児院すら存在していないなんて事態をこの時初めて知り、名ばかりとは言えカフェク伯爵夫人として無知な自分を恥じた。そして同時にこれこそが自分のやるべき仕事だと生きがいを見つけたのだ。
義母の死により散財は無くなったものの、領民の生活を考え税率をぎりぎりまで減らしたばかりの伯爵家に金銭の余裕はなく、アリシアは気のりはしなかったが背に腹は代えられぬとばかりに実家に援助を求めた。
教会に隣接する小さな孤児院の建設にそれ程莫大な資金は必要ない。アリシア達からすると大きな額だったが、荒稼ぎするアリシアの実家から見ればその程度だった。間もなく孤児院が出来上がり、十数名の子供たちがそこで生活するようになると、アリシアは神父を手伝い子供たちに将来の生活の糧となる教育を施す役目を得た。
先代領主が亡くなり義母が実権を握ってから、領民は伯爵家の人間を毛嫌いした。
それも当然だろう。毎年毎年税率は上げられ、どんなに働いても自分達の生活は少しも楽にならないのだから。
それなのに前伯爵夫人のカーシャは領民の血税を湯水の如く使いまくるのだ。領民たちはエドアルドの妻となったアリシアもそんな女だと決めつけ冷たい視線を送っていたが、孤児院建設で仕事にあたる職人らに炊き出しをし、どんな非礼をしてもけして怒らない、薄汚れた子供たちを何の迷いもなく抱き上げるアリシアにやがて心を開き、気さくに話しかけてくれるようになった。
教会に隣接する孤児院、そこはアリシアがカフェクに来て初めて自分で作りあげ、やっと見つけた生きる場所だったのだ。
三日に一度孤児院を訪れ、子供たちに読み書きや計算の仕方を教えている。
十五になり成人を迎えた子供たちにはきちんとした働き口を紹介するようにもしていたし、それ以上に学びたいと願う優秀な人材には神父が王都にある寄宿制の学校への入学を取り付け、アリシアが資金援助を続けていけるように準備も進めている。
大きなかごを持って教会の敷地内に入ると、アリシアを見つけた小さな子供たちが一目散に駆け寄りアリシアに飛びついた。
「アリシア様おそいよっ!」
「わ―――っ、汚い手でアリシア様に触るなよ!」
「なんだよ、そういうお前だって汚いじゃないかっ!」
元気に口喧嘩を始める子供たちにアリシアはくすくすと笑って笑顔を向けた。
「おはようみんな。今日はおそくなってごめんね。」
身を屈めて子供たちにキスを贈ると返してくれる。この瞬間がアリシアにとって極上の一時だった。
子供たちに囲まれ孤児院に向かうと、中から少し大きめの子供たちと神父が姿を表す。小さな子にしたように大きな子供たちにもキスを贈ると返され、最後に籠を預けると今度は食べ物に釣られた子供たちは一目散に駆けて行ってしまう。ちょっと寂しいけれどギャンの作ってくれるお弁当は本当に美味しいので、食べ物に釣られてしまう子供たちの気持ちもよく解っていた。
子供たちが建物の中に消えてしまうと、黒くて長い祭服を纏った神父がいつもの様に細い目を更に細めて笑顔で迎えてくれた。
「おはようございます、アリシア。」
「おはようございます、ロゼー神父さま。」
アリシアが両手を前に腰を屈めてお辞儀をすると神父は頷き、建物の中へと促しながら質問を向けた。
「ご領主のお戻りで今日はおいでになれないと思っていましたが、大丈夫だったのですか?」
「それは―――はい、大丈夫ですわ。」
何故エドアルドの帰郷を知っているのだろうと不思議に思っていると、察した神父は湛えた笑みを更に深くした。
「無事の帰郷を真っ先に神へご報告いただいたのです。」
少年時代に領地を出る際に神の祝福を授けられたのだろう。それなら帰郷に際しても真っ先に教会へ報告するのも頷ける。ましてエドアルドは戦地を駆けた軍人だ。命の尊さを知り神に感謝と祈りを捧げるのも当然だろう。
歩みを止めたアリシアが表情を硬くして神父へ視線を向けと、どうしましたかと神父は首を傾げた。
「ロゼー神父様から見て旦那さま―――エドアルド様はどのようなお方に感じられましたか?」
不安に揺らめく黒い瞳にアリシアからこれまでの話を聞いている神父は、一度孤児院へと視線を向けたあとでアリシアへと一歩歩み寄った。
「深く言葉を交わした訳ではありませんが、一本芯の通った御人だと。」
「芯の通った―――そうですね。」
暗い顔で下を向いてしまったアリシアに神父は一瞬眉を顰めたが、悟られないよういつもの表情へと戻してから言葉を紡いだ。
「アリシア…貴方は昨日初めて夫であるご領主と対面したのです。長い時間婚姻関係にありながら会話の一つも交わすことなく、顔さえ会わせる時間を持てなかった。不安に思うのは当然、貴方のせいではないのですよ。」
「不安―――そうですね。不安なんです。」
貴族社会に不釣り合いな我が身と、英雄である旦那さま。やっと居場所を見つけたのに出て行かなければならないかもしれない不安。無理矢理居座る予定が思いのほか人間味のある旦那様に、申し訳ない思いから後ろめたさしか感じない。
まさか平民出の卑しい守銭奴の娘と罵られた自分が、あの義母の息子である伯爵に受け入れられるとは夢にも思ってもいなかったのだ。
だんだんと思い詰めた表情になっていくアリシアに神父は努めてにこやかに語りかけた。
「不安や愚痴は曝け出すほど楽になります、私で良ければいくらでも話を聞きましょう。ですが今日という一日はまだ始まったばかり。そんな暗い顔をしている間に貴方の可愛い子供たちが昼食をつまみ食いして、あっという間に空にしてしまいますよ?」
神父の言葉にアリシアはぱっと顔を上げた。
今のアリシアにはくよくよ悩んでいる時間はない。神父の言うように一日は始まったばかりだが、これから子供たちの相手をする忙しくも楽しい一日が待っているのである。そして持ってきたかごいっぱいのお弁当がつまみ食いされる事態に陥ったのも一度や二度ではなかったのだ。
「そうでした。取り合えず一日、一歩ずつでしたね。」
悩んでいても時間は過ぎて行く。悩んでも悩まなくても一つつづ解決していくしかないのだ。
そして子供たちも日々成長している。
良い匂いを放ち食欲をそそる籠いっぱいの食べ物を前に、涎を垂らす小さな子供たちが手出ししないよう、大きな子供たちが目を吊り上げてそれを死守してるのをみて、アリシアは神父と顔を見合わせ思わず吹き出してしまった。
*****
エドアルドは物陰に隠れ、教会に隣接する孤児院の前で話をするアリシアの様子を黙って見守っていた。
調理人夫婦が話した通りアリシアは屋敷を出ると徒歩でまっすぐこの場所までやってくる。すると数人の子供たちが声を上げて纏わりつき、アリシアは子供たちに嬉しそうに笑顔を向けるとキスを贈っていた。
女性とは涙を流しながら心の内で笑っていられる人種でもある。全ての女性に当てはまるとは思っていないが、少なからずそういう女性をエドアルドは知っていた。
アリシアと調理人夫婦の会話から『子供たち』という単語が出た時にはまさかと言う思いを抱いたが、アリシアが親のない子供たちに向ける笑顔があまりにも穏やかで優しくて、エドアルドは己の知る過去をアリシアに押し付けた自分が恥ずかしくなった。
そういう訳もあって物陰から怪しさ満点にアリシアの様子を盗み見ているのである。昨日教会を訪れた際に祝福を授けられた神父が出てきたときには、まさかその神父にもキスを贈るのかと動揺したが、そういう訳ではないようで何故かホッとしてしまった。
そのまま様子を窺っているとやがてアリシアの様子が一変した。笑顔が消え落ち込んで行く表情は、騎士と言う職業柄か目のいいエドアルドには手に取るように分かり、いったい何を話しているのだと思わず身を乗り出してしまう。
だが聞き取れずとも会話の内容はすぐに想像できた。
アリシアが落ち込む理由はエドアルドにあるのだ。しかも話し相手は神父で、まともな神父なら相談された内容は墓場まで持って行く。辛い気持を吐露するにはうってつけの相手だろう。
存在を知ったばかりだが相手は妻となった女性だ。だがエドアルドはその妻の事をあまりにも知らなさすぎる。それでも少しずつ会話を重ねお互いを知って行けばいいと思っていたが、調理人夫妻や執事、そして神父までもがエドアルドの知らないアリシアの苦悩を熟知している様子には流石に落ち込んだ。
彼女の負ってきた苦悩は想像できるが、その苦悩の一部はエドアルド自身がアリシアに与えたもの。挑むようにエドアルドの帰還を迎えたアリシアにとっては、彼女自身の戦の始まりだったのかもしれない。
アリシアと神父が建物の中に消えて行くと、エドアルドはしばらくその場に立ちつくした後、硬い表情のまま踵を返し来た道を戻って行った。
そして夕刻。
予定の時間になってもアリシアは屋敷に戻って来なかった。