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前編





 「初めまして旦那さま。無事のご帰還、心よりお喜び申し上げます。」


 言葉とは裏腹に口を引き結び挑むような視線を向けてきた娘に対し、エドアルドは怪訝に眉を顰めた。

 




 王国の東に領地を有するカフェク伯爵家。父親を幼少に亡くし幼くして名ばかりの爵位を継いだものの母親との関係に嫌気がさし、家出同然に領地を出たのが従騎士として王家に仕え始めた十代前半の頃。その後騎士となり他国との戦争に参加し続けること数年。国を勝利に導いた英雄としてエドアルドが再び領地に戻るのが叶ったのは、家を出てから十年以上の月日が経過した二十七歳の春だった。


 出迎えた老執事のダリを伴い、屋敷の玄関をくぐると使用人一同が一斉に頭を下げる。それに遅れること数秒、漆黒の強い眼差しを向けていた若い娘が最後に首を垂れた。


 灰色に白いエプロンをつけたお仕着せ姿の使用人とは異なり、シンプルだが一目で作りの良いと解る薄紫色のドレスを着ている。侍女長になるには若すぎるし、それだと身なりが不自然すぎた。


 一瞬考え込んだエドアルドにダリがそっと耳打ちする。


 「奥様のアリシア様で御座います。」

 「奥様って、誰の奥方だ?」

 「貴方様のに決まっているではありませんか。」


 ダリが気を利かせ耳打ちしたにもかかわらず、エドアルドは声を静まり返ったエントランスに響かせる。

 娘が一歩前に出るとエドアルドの信じられないと言った深い青の瞳が漆黒の瞳をとらえた。騎士として戦場に立ち命のやり取りをしてきたエドアルドには、その漆黒の瞳が静かな怒気をはらんでいるのにすかさず気付く。


 「五年前にこちらに嫁いでまいりましたアリシアです。はじめまして、旦那さま。」


 口角だけを上げて微笑むアリシアに、エドアルドはなんて事だと掌で口元を覆い隠した。











 *****


 アリシアがカフェク領主であるエドアルドに嫁いだのは五年前の十七歳の頃。王都で名を馳せる豪商の娘として生まれたアリシアは貴族社会に血縁を求めた父の策略によって、先代領主の妻による散財で資金難に喘ぐカフェク伯爵家へ嫁ぐ事になった。


 カフェク伯爵エドアルドは大変有能な騎士で国王の覚えもめでたく、その名は王国中に知れ渡るほどであった。

 王都に住んでいたアリシアも金髪碧眼で見目麗しく、剣の腕は王国一と謳われるエドアルドに若い娘達が当然のように抱く淡い憧れを持ったのも事実。でもそれは遠くから見るだけの憧れであり、現実になり得る人ではなかったし、アリシアには想いを通わせる現実の男性がちゃんと存在していて、後に恋人同士にもなれた。

 だから突然降って湧いた自分の縁談相手がエドアルドであると知った時の驚きは尋常ではなく、父親が耄碌したのかと本気で疑ったものだ。だがそれが事実であると知るや特に美人でもなく、何の取り柄もない自分が国中の娘が憧れる存在に嫁ぐ恐怖に怯えた。恋人もいたしとんでもないとどんなに願っても父は許してはくれる事はなく、それ所か恋人は徴兵され戦地に赴くのが決定してしまった。


 ちょうどその頃から隣接する国々との戦争が激化し、有能な騎士であるエドアルドも指揮官として戦地に赴いていた。にも関わらずアリシアは莫大な持参金を持ってエドアルド不在の伯爵家に赴き、純白の花嫁衣装を着て一人神前で愛を誓い、結婚契約書に署名をさせられた。エドアルドの名は彼の母親である前伯爵の妻カーシャが代理を務め結婚が成立したのだ。

 

 戦争は激化をたどり、アリシアがいくら待ってもエドアルドが領地へ戻ってくる日は来なかった。

 どんな理由があるにしろ嫁いだからにはかつての恋人への想いは捨て去り、ただ一途にエドアルドに仕える覚悟を持ってひたすら耐えて待ち続ける日々。

 だが身を案じ手紙を出しても戦のせいかなしのつぶてで返事は一度もなく、アリシアの持参金を湯水のように散財する義母、なれない貴族社会に退屈な田舎暮らし。顔を合わせ言葉を交わした事すらない夫を待つ日々に疲れ果てたアリシアはついに音を上げる。


 アリシアは結婚から二年が過ぎたのを気に離縁を申し出た。婚姻から二年たっても性生活が一度もなく清い結婚を貫いているなら離婚が認められるのだ。義母にそのように手続きを取りたいと申し出ると鼻で笑われた。


 「契の証は式の翌日に教会へ提出済みです。事実はどうあれ貴方は名実ともにエドアルドの妻なのですから、カフェク伯爵家の名に恥じぬよう身を慎み夫の帰りを待てば良いのです。」


 商家の娘風情が口答えは許さぬとばかりに突き放される。

 アリシアの莫大な持参金ばかりか、さらなる金銭を実家に要求しているにも関わらず商家の娘と馬鹿にする義母に、心では強い怒りを感じながらもアリシアは慎み深く口を噤んだ。アリシアの実家もカフェク伯爵に娘を嫁がせ、貴族社会に進出しさらなる荒稼ぎをしているのだ。伯爵家の名が両家に富を生む。


 その翌年、義母は流行り病であっさりこの世を去った。


 義母の散財がなくなれば有能な執事のおかげで伯爵家はゆとりを取り戻し、アリシアの実家からの援助も必要なくなった。それなのに囚われの身のままのアリシアは、やがて帰らぬ夫へ怒りの矛先を向けて行くことになったのだ。



 婚姻から五年が過ぎ、他国との長期に渡る戦も終わりを迎えた。そうなるとカフェク伯爵であるエドアルドも役目を終え領地に戻ってくる事になる。カフェク伯爵家の当主であるエドアルドが何時までも騎士を続けていられるわけでもない。国を守った後は領民を守るという領主としての重要な役目が待っているのだ。


 だがその頃のアリシアはエドアルドに対する少女時代の恋心も、嫁いできた当初の決意も夫への期待も何もかも消失してしまっていた。何故今更戻ってくるのか、ずっと王都で国王に跪いていてくれて構わないのにと、かなりうんざりした気持ちでその日を迎えたのだった。


 











 *****


 エドアルドの深いため息に、アリシアはため息を吐きたいのはこっちだと顔を背ける。


 ここは屋敷の一室、嫁いできてからこの日まで変わらず客人をもてなすのに使われている部屋だ。エドアルドは旅装束を解きもせずにここへアリシアを引っ張りいれた。


 「俺は式を挙げた覚えはないぞ。」


 漏れた言葉にカーシャが代筆をしたのだと告げると、エドアルドはさらにため息を深めた。文句が出ないあたり母親の気性を良く知り得ているのだろう。あの人なら代理で結婚証明書に署名するのに躊躇しないと想像できるのなら、あの屈辱の結婚式に何が何でも戦場から駆けつけてくるべきだったのだ。


 「女性には何よりも大切な時期を五年も縛り付け、あなたには本当に済まない事をした。私から教会に話し、白い結婚を宣言しよう。」


 本当にすまないと頭を下げるエドアルドに、かつて自身が味わった衝撃を吐きつける。


 「結婚から二年過ぎた頃に離縁を申し出ましたが、お義母様から式の翌日に契の証を教会に提出したのだと聞かされました。」

 「初夜までも代理ですまされたのか?!」


 驚きに目を見開くとエドアルドはアリシアの華奢な両肩に掴みかかる。


 「―――御冗談はよしてくださいませ。」


 なんて事を言うのだ、侮辱も大概にしろと言わんばかりに白い目を向け、アリシアは肩を掴むエドアルドの手を払いのけた。想像以上に固く大きくそして分厚い手に一瞬驚くアリシアに、エドアルドは失礼したと詫びを入れる。


 「今さら離縁など―――本当にすまないとお思いになられるのなら旦那さまの妻としてこちらに置いてくださいませ。実家に帰されても出戻りの娘では居場所がございません。」


 結婚から五年も経ってしまっているのだ、エドアルドの帰宅早々離縁となれば実家にも悪影響が及ぶだろうし、そうなればアリシアには居場所がない。それに新たに嫁ぎ先を言い渡され、また同じような思いをするのも面倒だった。


 「そういう訳にはいかない。」

 「思う方がおいでならわたしに遠慮なくどうぞ屋敷にお連れになって結構です。大丈夫、ちゃんと心得ておりますから。」

 「そういう女性はいないが…いや、そもそも私は貴方との婚姻を了承した覚えはないのだ。確かに母より連絡を受けたが出陣前に断りを入れておいた筈なんだ。」

 「左様でございますか。わたくしも嫁いでより幾度となく、何年も旦那様に便りをしたためたのでございますのよ。」 


 奇遇ですわねと涼しい顔で微笑むアリシアにエドアルドは返す言葉が見つからず、なんて事だと心の中で呟きため息を落とすしかなかった。


 











 *****


 届く事のなかったアリシアからエドアルドに充てた幾多もの手紙。それをエドアルドは亡き母が使っていた書斎の隠し金庫から見つけ出した。

 そこにはエドアルドが戦を理由に断りを入れた手紙もある。


 アリシアからの手紙は戦争に出るエドアルドを気遣う内容から、やがて切実に返事を願う物へと変わっていく。そうして最後の手紙はカーシャが死を迎える少し前のもの。義母の病状を綴っただけの素っ気ない内容がアリシアの立場を物語っているようでエドアルドの胸を抉った。

 

 持参金目当てで迎え入れられた花嫁だと容易く想像がつく。見栄と自尊心が並行する母の行動など少し考えれば想像できたはずだった。それをしなかったのはエドアルド自身が母が大事にする貴族社会に連れ戻されるのを嫌ったからに他ならない。エドアルドが愛したのは窮屈な身分制度ではなく、己の剣一つでのし上がっていける自由な世界だった。


 「罪深い事をしたものだ―――」


 母だけを責めることは出来ない、戦争を理由に目を背け忘れて放っておいたのは自分だ。手紙の文面からアリシアの人柄が伺える。繊細な文字で書かれたエドアルドを気遣う言葉は、見も知らぬ花婿の無事を願う新妻の切ない想いだった。それがやがて硬く強張った文字と文面になり、ここでの生活がアリシアを変えてしまったのだろうと推察される。愛人を囲えなど、たとえ貴族社会に育った娘であってもああも簡単に言える物ではない。


 どう償うべきかとエドアルドは思案に耽った。

 アリシアの言葉通り適当に愛人を囲のはもってのほかだ。このまま婚姻を続けるのもどうかと思うが、今さら実家へ帰されてもと言う彼女の言い分も正しい。


 一番良い解決策は二人して本当の夫婦になる事の様に思われるが、それは夫不在の地に五年も縛られ蔑ろにされたアリシア自身が望まないように思われる。何しろ会話の全てに棘があり、エドアルドに良い印象など微塵も持っていない様子が伺えるのだ。女性にそのような感情を向けられるのが初めてであるエドアルドはそれに戸惑い、また知らぬ間に彼女へ与えてしまっていた苦痛に大きな罪の意識を感じていた。



 離縁の選択肢がないのなら夫婦らしく、せめて最初はお互いを知り仲良くしていく事から始めよう。

 齢二十七になるエドアルドは純粋な少年の様な気持ちで一から始めて行こうと挑むが、対するアリシアにその気持ちは全くないようで、家長としてのエドアルドの命令に素直に従う妻を演じている様子だけ窺える始末。必要以上に接点を持ちたくない、これまでの自分のペースを乱されるのが嫌だと言わんばかりに無言でエドアルドを拒絶していた。


 もしかしたらアリシアには他に想いを寄せる様な相手がいるのではないだろうか? 拒絶の原因が自分のせいだけではないと楽になりたかったのかも知れない。

 確認しようと名を呼べば「何でしょう、旦那さま。」と事務的で冷たい返事を返され言葉を飲み込む。紡いでしまえば再び白い目で睨まれ二度と取り返しのつかない事態になるのではないかと感じたエドアルドは、帰郷の深夜に執事のダリを呼びだしそれとなく聞いてみたのだが―――


 「エドアルド様…それは奥様への侮辱で御座います。」


 誰知る者もいないカフェクへたった一人で嫁ぎ、貴族社会に馴染めずとも必死で頑張ったご自身の奥様に対して何と言う事だと、年老いた執事がエドアルドへ悲しそうな視線を向ける。

 

 先代伯爵の頃より執事として務めてきたダリはカーシャが嫁いできて以来その散財に先代と共に悩み、先代亡き後エドアルドが領地を出て行ってからもカフェク伯爵家をなんとか切り盛りして仕え続けてきた。そこに持参金目的で嫁がされてきたアリシアに同情心を持つのもあり得なくはないが、涙目になって侮辱と訴えるのはダリがアリシアをかなり気に入っているに他なるまい。


 まぁ見た感じ悪い娘ではなさそうだ。そもそも怒らせる原因を作ったのは自分の側なのだと、カフェク家を見捨てずに長年仕え続けてくれている執事を味方につけるアリシアに、エドアルドはどうしたものかと更に悩みを深くした。

 













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