溺愛されて大貴族に嫁いだ修道女見習いですが、初夜で「キミを愛することはない」と言われました
メイシー家の当主、ランドールが求婚した相手は、ただの修道女見習いだった。
「ルツ。っああ、今日も麗しい……キミの立ち姿はそれだけでボクの心を癒してくれる」
「ラ、ランドール様っ……! ここ、教会の前ですよ……!」
日曜の朝。礼拝の鐘が鳴る頃。
豪奢な花束を抱えて颯爽と現れたその人を、教会に集う女性たちは一人残らず目で追った。
ランドール・メイシー。
見惚れるほどの美貌、家柄、そして振る舞い。彼が微笑むだけで、女性たちの口から熱い吐息が漏れる。
けれど、当のランドールはその誰にも見向きしない。
彼のまなざしが注がれるのは、ただ一人。
頬を染めてうつむく、修道女見習いのルツだけだった。
「困ります。私のような者に、このような……」
「ふむ、聞き捨てならないな。ルツ、キミは自分の価値を何も分かっていない」
花束を差し出し、恭しく膝をつく大貴族。
受け取るのをためらい、身を縮める見習い修道女。
一体全体、何がどうしてこうなったのか。
---
はじめは誰もが気まぐれだと思っていた。
退屈した貴族のちょっとしたお遊びだと。
修道院長はやんわりと彼を諫めようとした。
身分が違いすぎる、あの子はいずれ誓願を立てる身です、と。
けれどランドールは諦めるどころか、日に日に熱を増していった。
週に一度の礼拝には欠かさず現れ、定期的に季節の花を贈り、ルツの好きだという詩集を取り寄せプレゼントし、孤児たちのための寄付を惜しまなかった。修道院や教会の傷んだ屋根は彼の私財によって修復された。
「ランドール様」
渋々花束を受け取ったルツが、困り果てたように眉を下げる。
「私は孤児で、ただの修道女見習いです。生まれも親の顔も知りません。貴方のような方が私に時間を割く必要は……」
「ルツ」
ランドールは即座に遮った。
「ボクはルツが好きなんだ。他の誰でもない、ルツ自身を愛している」
あまりにもまっすぐに見つめられて、ルツはとうとう言葉を失った。
頬が熱くなり、思わず視線が足元へと逃げていく。その初心な反応を見て、ランドールはたまらないというふうに目を細めた。
「……ああ、その顔だ。その顔を見るために、ボクは毎週ここへ通っているのかもしれないな」
「もう……っ、存じません!」
ルツは逃げるように身をひるがえした。
慌ただしく聖堂の奥へ消えていく小さな背中を、ランドールはいつまでも、飽きることなく見つめていた。
その横顔は、恋に落ちた人そのものだった。
---
「ランドール様は、本当に物好きでいらっしゃる」
礼拝後、声をかけてきたのは老神父だった。長年この教会に仕えており、ルツの後見人のような人物である。
ランドールは悪びれもせず微笑んだ。
「物好きとは心外ですね、神父様。ボクは至って真剣ですよ」
老神父は聖典を抱えながら、ふう、と息を吐いた。
「確かにあの子はよい子です。器量よし、気立てよし。よく働き、よく祈る。文字も読め、計算もでき、薬草の知識まである。正直に申せば……見習いに置いておくのが惜しいほどに」
「ええ。ボクもそう思います」
「……ですが、出自の知れぬ子です。誰の子かも分からぬ。貴族のあなた様が娶るには、あまりにも……」
「神父様」
ランドールはやわらかく遮った。
「ボクはルツの過去に興味はありません。ボクが知りたいのはルツという人間そのものです。彼女がどこから来たのかではなく、彼女が何を知っているのか……」
彼は小さく笑い足した。
「いや、訂正を。彼女のすべてが知りたい、と言うべきでしたね」
老神父は、この若く美しい貴族の本気をようやく認める気になったらしい。やれやれ、と肩をすくめた。
「……あなた様があの子を大切になさるというのなら。老いぼれが口を挟むことではありませんな」
「ええ。誓って、大切にしますよ」
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その日から、ランドールは一層足しげく教会に通うようになった。
ただ訪れるわけではない。ちゃんとした名目はある。
孤児院への寄付の相談。修道院や教会の修繕の申し出。あるいは王都で評判の菓子の差し入れ。
ただ、そのどれもがルツに会うための口実であることは、誰も疑いようのない事実であった。
「ルツ、これを」
「……またですかランドール様。私ばかりいただいてばかりで……」
「気にすることはない。ボクが勝手にしていることだ。キミはただ受け取ってくれればいい」
差し出されたのは、革表紙の古い本だった。
ルツが、はっと顔を上げる。
「これは……」
「ふふ、読みたがっていただろう。旧世界の旅の記録だ。手に入れるのに少々骨は折れたが……」
ルツはおそるおそるそれを受け取った。
色あせた背表紙をそっと指でなぞる。表紙をめくり最初の一節に目を落とした。
その横顔を、ランドールはじっと見ていた。
彼女が文字を追うその目の動き。
ある一行で、わずかに止まった睫毛。
「……どうした?」
「い、いいえ」
ルツは、すぐに穏やかな笑みを取り戻した。
「とても嬉しいです。ありがとうございます。ランドール様。……ただ、こんなに貴重なものを私のような者がいただいてしまってよいのでしょうか……」
「全く、本当にキミは自分の価値を分かっていないな」
ランドールは微笑む。
いつもと変わらない、ルツだけに向ける甘く優しい微笑みだった。
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ランドールが教会を訪れるのが日課のようになってから、空気が少しずつ変わっていった。
はじめのうち、ルツと同じ見習いたちは複雑な顔をしていた。
無理もない。降って湧いたような大貴族からの求婚。そして相手は出自も知れぬ孤児のルツ。
羨望、嫉妬、意地の悪さ。これらが若い娘たちの胸に渦巻かないはずがなかった。
だが、いつの間にかそれは溶けていた。
誰かがふと漏らすのだ。
「……でも、ルツでよかったのかもしれないわね」
「ええ。あの方、ルツのことになると本当に必死になるのよね」
「この前なんてルツが気になってた本を……」
いつからか、見習い含め修道女たちはランドールの味方になっていた。
彼がいかにルツを想っているか。彼女が断る度にどれほど切なげな顔をするか。それでいて決して無理強いはしないこと。
そういう話を、誰が広めたわけでもないのに皆知っていた。
ある者は、ランドールから直接こう言われたという。
「ルツはキミたちのことを家族のように思っている。だからボクは、キミたちにも祝福してほしいんだ。彼女が幸せになる姿を一緒に見届けてほしい」
彼の言葉には不思議な力があった。
気づけば、かつてルツを妬んでいた見習いまでもが「早く求婚を受けてあげればいいのに」と、もどかしげに呟くようになっていた。
ルツの周囲は、ランドールによって少しずつ固められていた。
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「……ルツ。もう観念したらどう?」
ある夜、相部屋の見習いが寝台の上から声をかけた。
「あなたが幸せになるのをみんな見たいのよ。あんなにあなたを想ってくれる方、もう二度と現れないわ」
「で……でも、私は」
「孤児だから? 出自が知れないから?」
くすりと笑う声。
「ランドール様はそんなこと一度も気にしてないじゃない。気にしてるのはあなただけよ」
ルツは答えず、ただ、暗い天井をじっと見上げていた。
ランドールが次に求婚の言葉を口にしたとき、ルツは覚悟を決めた。
「ルツ。何度でも言う。ボクと結婚してほしい」
いつもの教会。いつものように膝をつき、いつものようにまっすぐな瞳で。
けれどルツは、いつものように身をひるがえすことをしなかった。
しばしの沈黙のあと。
頬を耳まで赤く染めて、彼女は小さく頷いた。
「……ふつつか者ですが。よ、よろしくお願いします」
その瞬間、教会のあちこちからこらえきれないような歓声が上がった。
いつの間にか、見習いたちや神父、修道院長までもが扉の陰から見守っていたのだ。
「よかった……!」
「おめでとう、ルツ!」
泣き出す者までいた。
祝福の渦の中心で、ルツは何度も頭を下げ、ランドールはとても満足げに、それはもう満足げに微笑んでいた。
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結婚式は、ルツが長く過ごしたあの教会で執り行われた。
純白のドレスに身を包んだルツは誰の目にも美しかった。
ランドールの手回しか、あるいはルツ自身の慎ましい人柄ゆえか、その日、たくさんの人が集まったのにも関わらず、棘のある言葉はただの一度も囁かれなかった。
祭壇の前に二人が並ぶと、老神父が聖典を開いた。
しわがれた、けれどよく通る声が聖堂の高い天井に響きわたった。
「……はじめ、世界は広かった」
参列者が静かに頭を垂れる。
「数えきれぬ国があり、数えきれぬ民がいた。しかし人々は驕り、互いに血を流した。エクウータ様はお嘆きになり、お決めになった。罪深き世界を海の底へ沈めることを」
ルツは静かに目を伏せている。
これは、今まで何度も聞いた新世界の創世記。
……自分たちの住む世界、マーログリフの成り立ち。
およそ400年前、この世界に起きた悲劇の歴史。
「されどエクウータ様は、すべてをお見捨てにはならなかった。信仰篤き者だけを、この祝福の地マーログリフへお導きになった。故に海の向こうに存在するは罪の名残。この地こそが、神に許されたただひとつの世界である」
アァメン、と唱和が満ちる。
「ランドール・メイシー。あなたは、ルツを妻とし、神の教えのもとに、生涯愛し慈しむことを誓いますか」
「誓います」
迷いのない、晴れやかな声。
「ルツ。あなたは、ランドールを夫とし、神の教えのもとに、生涯添い遂げることを誓いますか」
「……誓います」
鐘が鳴った。
祝福の声と花びらが二人に降り注いでいく。
教会中が心からこの結婚を祝っていた。
こうして、孤児でありただの修道女見習いだったルツは、大貴族のランドールに見初められ、たくさんの愛を注がれて、彼の妻となったのでした。
めでたしめでたし。
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ランドールの屋敷は、ルツが想像していたよりもずっと静かで美しかった。
寝室は淡い燭台の灯りに満たされていた。
天蓋から垂れる薄いベール、卓の上には香り高い葡萄酒、寝台には惜しげもなく花が散らされている。
「奥様、お美しゅうございます」
侍女たちが、うっとりとルツの夜着を整える。
「ランドール様は本当に奥様をお慕いで……。わたくしども、こんなに幸せそうな旦那様は初めて見ました」
「……ありがとう」
ルツははにかむように微笑んだ。
やがてランドールが現れる。
夜着の上に薄い上着を羽織っただけの彼は、どこか官能的で美しかった。
「下がっていい。あとはボクが」
「はい。……どうぞごゆっくり」
侍女たちが、含み笑いを残して退がっていく。
扉が閉まる。
かちり、と。
錠の下りる音が室内に響いた。
寝室には二人しかいない。
ランドールがゆっくりと近づいてくる。
ルツはしおらしく目を伏せた。差し出された手に、自分の手を重ねようと……
「ルツ」
その声には温度がなかった。
「ボクは、キミを愛することはない」
重ねかけた手が止まった。
「…………え?」
顔を上げたルツの目に映ったのは、見慣れたはずの夫の顔、のはずなのに、何かが違った。
あの甘く蕩けるような熱が、きれいにひとつ残らず消えている。
ランドールは、にっこりと笑っていた。
ただし、ぞっとするほど何も宿していない笑みで。
「ルツ。海の向こうには何がある?」
ひゅっ、とルツの息が詰まった。
しばらくの静寂の後、ルツは何とか絞り出すように言った。
「…………な、何をおっしゃるのですか、ランドール様」
声が掠れる。涙すら滲むような声音。
「う、海の向こうは罪の名残です。地獄です。神父様だってそうおっしゃっていたでしょう? 海の向こうを知ろうとすることは禁忌です。そっ、そのようなことを口にするのは……」
「うん知ってる。だから……」
それから首をかしげ、笑みを深くした。
「ボクが知りたいのは聖典の教えじゃない。キミが何を知っているか、だ」
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「っわ、私には何のことだか……」
「……まだとぼけていて構わない。ボクが勝手に話す」
ランドールは卓に歩み寄り葡萄酒を二つの杯に注いだ。一つをルツの前に置く。だが彼女はそれに手を触れない。
「ボクは本を読むのが好きだ。特に好きなのは教会が保管している記録の類。旧世界のものから新世界……つまり聖暦が始まって以降のものまで、全てを読んだ」
くるりと杯を回す。
「知ってるか? 人間って何でも書き残すんだ。旧世界の時も新世界となってからも、記録には何でも書いてある。台風も飢饉も疫病も、王の代替わりも何でも。」
「……だから何だと」
「だから、おかしいんだ」
ランドールは、杯の中身を見つめながら楽しげに目を細めた。
「旧世界から新世界へ移った時の記録が無い。約400年前、海が割れ、国々が沈み、数えきれぬ人間が死に絶えた。それほどの出来事なのに、誰ひとり詳細を書き残していない。世界の終わりと始まりの狭間だけが、すっぽりと抜け落ちている」
「ひ、酷い天災だったのでしょう」
彼女はまだ食い下がる。
「混乱の中で記録する余裕など……」
「混乱はせいぜい数年。その後、誰も書き残さなかったのか? 生き延びた祖先たちが未来の子孫のために、あの恐ろしい滅びの日を、聖典以外で一行も伝えなかったと?」
「…………」
「……ボクは考えた。これは伝わっていないんじゃない。最初からそんな滅びの日は無いんだ」
しん、と静寂。
「祖先はここに移ってきたのか、それとも初めからここに居て、ある日外との縁を断ったのか。まあそれはどちらでもいい。どちらにしろ世界は滅びてない。旧世界は在る。400年前、マーログリフの民が、海の向こうは地獄だと言い聞かせて扉を閉ざしただけだ」
ルツは、何も答えない。
ただ、じっとランドールを見ている。
その目の光が、さっきまでの怯えた花嫁のものとは少しずつ違ってきていることに、ランドールは気づいていた。
彼は二歩近づいた。
「もし、海の向こうに今も世界があるなら。旧世界の書物にあるように、海を渡り未知の土地を片端から記録してきた人間が、この島を……マーログリフを放っておくはずがない。いつか必ず確かめに来る。攻め込むか上陸するか……何かしらの手段で接触を図るはず」
くす、と笑う。
「でも無かったんだ。過去400年、侵略の記録も、海から来た地獄の使者の記録も」
ランドールは、ルツの目の前に立った。
「じゃあ考えられるのは一つ。外の人間はとっくにここにいる。……海の向こうは地獄だと信じているボクらを刺激しないように、マーログリフの民の顔をして、ボクらの中に静かに潜んでいる。」
「…………」
「さて、ここまで来たらあとはどこに潜むか、だ。情報を知るなら情報が集まる場所がいい。王宮。あるいは貴族。そして……教会」
彼は、ルツの頬に、そっと手を添えた。
愛おしむような手つきで。だがその指は氷のように冷たい。
「ルツ。出自の知れない孤児。誰の子ともどこの生まれとも分からない、記録の無い娘。なのに文字を読み、計算ができ、薬草に通じている。 そして一点の隙もなく、敬虔で慎ましい。……普通人間はそんなに完璧にはなれない。完璧な信仰者なんて居やしない。皆多少は怠けるしサボる。神官ですら」
ルツの睫毛が震えた。
「ま、それでも絶対的な確証はなかった。これら全部ボクの想像にすぎない。だから……最後は賭けた」
ランドールは、囁いた。
「求愛して近づいて、ずっとキミを見ていた。そして質問した。”海の向こうには何がある?”と」
ルツの耳元に唇を寄せた。
「……純粋なマーログリフの民なら、禁忌に触れようとするボクを咎めたり、罰当たりな変人だと思ったりするだろう」
「っ。」
「だがキミは最初に息が詰まった。隠しているものを突かれたような、そんな風にボクは見えた」
「……」
「……さぁ、答えてもらおうか。海の向こうには何がある?」
---
長い長い静寂。
燭台の炎がぱちりと爆ぜた。
ルツは、ただじっとランドールを見ていた。
美しく甘く蕩けるようだった顔の、その奥にずっと隠されていたのは、底知れない知性。
ルツの心のどこかで、何かが折れた。
相手は見習いたちを絆し、神父を頷かせ、修道院ごと外堀を埋めてみせた男だ。
……正直侮っていた。ただの狂信的な移民の末裔のくせに、と。
だがその侮りの結果がこれだ。
何をどう画策しても無駄だった。
何もかも諦めたような長いため息を吐いた。
「……はぁーーー……」
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
燭台に照らされたルツの顔は、ぞっとするほど静かで冷たかった。
そして、どこか感心したようにランドールを見ていた。
「……流石に、驚いた」
声が別人のようだった。
ランドールがわずかに目を見開く。
初めて見る、妻の本当の顔。
「教えを疑う人間なら過去にも沢山いた。でも皆そこで止まった。異端者となるのが怖くて口を噤むか、焦って海へ出て捕まるか」
ルツは淡々と続ける。
「でも貴方は気づいた上で、ずっと黙って、周りを一人残らず味方につけて、私を娶ってから問い詰めた。……正気とは思えないわ。とてつもない執念ね」
ルツは卓の上にある、さっきまで指一本触れなかった杯を、無造作に取り上げ一息に呷った。
「……。海の向こうには……」
杯を置いた。
「イングランド。フランス。イタリア」
ランドールの呼吸が止まった。
「イタリアの中には、ヴェニス、ヴェローナ、ミラノ、ローマ……」
「あ……」
ランドールの目が、見開かれていく。
書物の中で、何度も何度も目にした名前だった。物語の舞台として。教訓のための架空の地名、あるいは旧世界時代の遺跡。そう教わってきた名前だった。
それが今、生きた人間の口から告げられている。
「えーっと、あとはエジプト、ギリシア、オーストリア……」
ルツはただ淡々と続ける。
ランドールの頬が、見る間に紅潮していった。
一語、また一語と彼女が地名を重ねるたびに、彼の中で何かが弾けていく。
長年の疑いはすべて正しかった。
海の向こうには、あの名前のひとつひとつが、今この瞬間も息づいているのだ。
「貴方が知ってるのはそんなところ? ……でもまだまだあるわよ」
ルツが、ふ、と口の端を上げた。
「ああ……っ……ああ……!!」
彼は顔を手で覆った。指が震えている。
だがそれは恐怖でも混乱でもない。
純粋な、震えるほどの歓喜。
「やっぱり……! やっぱりそうだったんだ……! ああっ……!」
ルツは、そんな夫をどこか冷めた目で眺めていた。
「……変な男」
ルツが思わず本音を漏らした、そのときだった。
がばっ、と。
ランドールが勢いよく顔を上げた。涙に濡れた目を爛々と輝かせて。
「もっと」
「……は?」
「もっと聞かせて、ルツ。海の向こうの国を、街を。そこに住む人々のことを。何もかも全部っ!!」
ランドールの手が彼女の肩を掴む。さっきまで氷のように冷たかった指が、今は燃えるように熱い。
「ちょっ……!」
ドサッ。
寝台に押し倒され、散らされた花が優雅に舞った。
「言葉は? 向こうの言葉は何を話す? 食べ物は? 服は? 海はどうやって渡る? 船? 何日かかる? ああっ! それに暦だ! 向こうの暦は今何年なんだ!?」
矢継ぎ早に問いを浴びせながら、ランドールの顔がどんどん近づいてくる。
吐息がかかるほどの距離。瞳孔は開ききり、頬は上気している。
……どう見ても発情していた。
ただし、目の前の妻にではなく、その口から零れ落ちる外の世界の情報に。
「教えてくれ、ルツ。キミの知っていることを、全部ボクに。一滴残らず。さあ……さあ!」
今宵は初夜。
そして寝台にて妻を組み敷いた夫の息はとてつもなく荒い。
普通ならしかるべき展開が想像されるこの場面。
だが、この男が欲しがっているのは断じてそれではない。
(う、うわぁ……)
ルツは、生まれて初めて見る種類のド変態を前に、静かに戦慄していた。
---
翌朝。
初夜は滞りなく行われた……ように見せた。
寝台の上は適当に乱されており、一部には血痕も確認できる。
では、本来であればお互い戯れあっていたはずの長い夜に、二人は何をしていたのか。
「――それで? そのフランスという国は今は誰が治めているんだ? 王か? 教会か?」
「あー……今は国民が選んだ代表が……」
「国民……民が統治者を選ぶだと……! 貴族でも聖職者でもなく民が!?」
「普通選挙っていうのがあって……」
こうである。
ランドールとルツは眠らなかった。
ルツが一つ答えれば、ランドールからは十の問いが生まれる。
歴史を語れば制度を問い、制度を語れば技術を問い、技術を語ればまた歴史へ戻る。ランドールの底なしの知識欲はとどまることを知らなかった。
しかも恐ろしいことにこの男、一度聞いたことを決して忘れないのだ。
「待て。さっきキミは、そのデンキとやらで光を灯すと言ったな。だが先ほどの話ではその力は水を高所から落として生むとも言った。ならば雨の少ない土地ではどうする? まさか灯りひとつ灯せないわけでもあるまい」
「……っ」
ルツは、内心で舌を巻いた。
断片的に、順不同に、わざと分かりにくく与えた情報を、この男はあっという間に繋ぎ合わせた。
さらには矛盾を見つけその先を予測してくる。生まれてこの方、電気のでの字も知らなかった人間が。
ルツが想定していた『ほどほどに情報を与えて煙に巻く作戦』は、完全に破綻していた。
夜が明ける頃には、彼が書き留めたであろう走り書きの紙束が、枕元にうずたかく積み上がっていた。
たった一晩でこの男は、400年閉ざされた世界の中から、外の世界を理解しきろうとしていた。
「……ああ、夜が明けてしまう。残念だ……もっと聞きたいことがまだ山ほどあるのに」
寝不足のはずなのに、ランドールにはむしろ生気がみなぎっていた。
日は昇り、ランドールはルンルンと鼻歌混じりに足取り軽く執務室へ向かっていった。
一方残されたルツは、深々とため息をついた。
つやつやと生気に満ちた夫と、げっそりと疲れ果てた妻。
その対比を、朝の支度に現れた侍女はまるきり別の意味に取ったらしい。
「まあ……奥様、お顔の色が。ランドール様ったらお優しいようでいて、こういうことには存外……」
頬を染め口元を押さえて、侍女は妙に納得した様子で頷いた。
「今日はどうぞ、お部屋でゆっくりお休みくださいませ。旦那様にはわたくしからお伝えしておきますので」
とんでもない誤解をしたまま、侍女はいそいそとルツを私室へ送り届け、気を利かせたつもりで下がっていった。
ぱたんと扉が閉まる。
完全に侍女の気配が消えたのを確かめた後、ルツは寝台の下に隠していた小さな包みを引き寄せた。
布を解くと現れたのは、この世界には存在しないはずの代物。手のひらほどの黒く滑らかな板。
この物体は、この島のどんな職人にも作り上げることはできない。
慣れた手つきで操作すると、板は発光した。
それを耳に当てる。
「……こちら、〈エアリアル〉」
数秒の間。返ってきた応答に対し、ルツは事の次第を手早く報告した。
一貴族が自力で世界の真相に肉薄したこと。その男に正体を見抜かれ娶られたこと。一晩で外界の概要を把握されたこと。
潜入員にとってはこれ以上ない非常事態である。
しかし。
返ってきた反応は、ルツの緊張を見事に肩透かしにした。
なんなら通信の向こうの声は退屈そうですらあった。
『貴族の一人が妙な妄想を抱いたって話だろう。よくあることだ。放っておけ。こっちは例の漂着実験の方で手一杯でね。投入した被験者の適応が想定以上に早くて……』
「いや、こいつは本当に」
『実害がなければ現状維持で結構だ。あ、結婚おめでとう。頑張れよエアリアル』
ぷつり、と通信が切れた。
「…………」
ルツはしばし黒い板を見つめたまま固まっていた。
ランドールの行動は組織から見れば、400年つつがなく回ってきた島の片隅で、一人の貴族が勝手に真実に気づいただけの、取るに足らない奇行にすぎないのだ。
ルツは黒い板を握りしめたまま、深いため息をついた。
そして。
ルツはゆっくりと立ち上がり、私室の扉に向かって平坦な声で告げた。
「……いるんでしょ。旦那様」
「……バレていたか」
扉が開き、ランドールがにこやかに私室へ入ってきた。
ルツは無言で黒い板を布に包み直した。今さら隠す意味もないが、手癖のようなものである。
「全部聞いてたの?」
「全部……。うーむ……」
ランドールは楽しげに首をかしげた。
「扉越しだからな。ほとんど聞こえなかった。でも、キミが誰かとボクらの言葉ではない何かで話していたのは分かった。それと……」
彼の視線が、ルツの手の中の包みに注がれる。
「黒い板が少し見えた。マーログリフのどんな品とも違う。……あれが、外と繋がる道具だな?」
ルツは答えなかった。だが、それが答えでもあった。
「ああ……素晴らしい……っ!」
ランドールは、うっとりと息を吐いた。
「キミは一人じゃない。外にはキミの仲間がいる。そしてこことそこを繋ぐ手立てがある。海は渡れる。繋がっている。ボクの考えは何ひとつ間違っていなかった……!」
ひとしきり感じ入ったあと、彼は、ふ、と笑みの質を変えた。
甘さの奥の、あの冷たい知性が、また顔をのぞかせる。
「だったら話は早い」
ランドールは、ゆっくりとルツの前に歩み寄り、その手を両手で包み込んだ。
求婚のときと同じような仕草で。
「ボクを、外へ連れて行ってくれ」
部屋の空気が静止した。
「……は?」
「海の向こうへ。キミが来たその世界へボクを連れて行ってほしい!」
「あ、貴方……正気?」
「これ以上ないほどに」
ランドールの目は澄んでいた。
「ボクは知ってしまった。外には世界があると。知ってしまった人間がこの狭い島で、何も知らないふりをして一生を終えられると思うか? ボクには無理だ。本音を言えばもう一日だって耐えられない……!」
「……できるわけないでしょ」
ルツは手を振り払い、即座に切り捨てた。
「組織は貴方を特に何とも思っていない。貴方は妙な妄想を抱いたただの一貴族でしかない。わざわざリスクを冒して外に出してやる理由がこっちには一つもないの」
「……組織」
ランドールが、その単語を味わうように繰り返した。
「先ほどキミが話していた相手か。キミを管理する、外の……」
「黙って」
ルツはぴしゃりと遮った。
だが、ランドールはいっそう楽しげに目を細めるばかり。
「……ははっ。理由……理由か。理由があれば外に出してくれるのか……」
声の温度がすっと下がった。
ランドールはにっこりと笑った。
「じゃあ、作ればいいだけだ」
その言葉の意味をルツが理解したのは、数日後のことだった。
---
その日、ルツはとある一室へ呼ばれた。
扉を開けて……目が大きく見開かれた。
部屋の隅で、一人の少年が縄で拘束されていた。
まだ年端もいかぬ、十二、三ほどの子供だ。粗末な服を着て、青ざめた顔でがたがたと震えている。
火事で焼け出され、身寄りをなくして孤児院に引き取られた子供。
……表向きは。
「先日、孤児院で見つけた」
ランドールは少年を一瞥した後、ルツに微笑みかけた。
「出自の知れない孤児。火事ですべてを失い、身元を証す者もいない。なのに妙に聡くて、読み書きができて、聞き分けがいい。……どこかで聞いた話だな」
ルツは何も言えなかった。
ルツはこの少年を知っている。つい最近、組織が新たに投入したばかりの若く幼い潜入員だ。任務に就いてまだ間もない。だから震えを隠せていないし、場慣れもしていない。
「キミの仲間だな?」
静かな声だった。
少年がびくりと肩を跳ねさせ、縋るような、助けを求めるような目でルツを見た。
「……っ」
「キミを見抜いたのと同じやり方だ。教会の養育記録を漁って、来歴の辿れない孤児を片端から拾い出す。その中からできすぎた子供を選り分ける。簡単だった」
ランドールは少年の傍らに歩み寄り、その頭にぽんと、労るような動作で手を置いた。
少年が、ひっと息を呑む。
「さて。これをどうしようかな」
くす、と笑う。
「そうだ、異端者として裁いてもらおうか! なに、難しいことじゃない。ボクは貴族だ」
彼はルツを見た。澄んだ目で。
「貴族の言葉は真実になる。ボクが『この子は異端だ』と言えばそれは異端になる。証拠なんていらない」
ルツの背筋を、冷たいものが滑り落ちた。
これは脅しではない。
事実としてこの男にはそれができる。少年一人を異端に仕立てることなど、上位貴族の彼には造作もない。
そして、きっとそれはこの少年一人では終わらない。
この島中に潜む潜入員を一人ずつ同じやり方で炙り出し、ありもしない罪をでっち上げ、合法的に一人残らず処分できてしまう。
……ランドールの言葉だけで。
ルツが必死に算段を巡らせ始めた、そのときだった。
「ああ、そういえば」
ランドールが思い出したように付け加えた。
まるで、世間話のついでのように。
「ロウェル家って知っているか? ルツ」
ルツの思考が凍りついた。
ロウェル家。
この島に古くから根を張る、由緒正しい貴族の家系。
出自に一点の曇りもない、生粋のマーログリフの一族。
ただし、その実態を知る者は組織ですらごく一部しかいない。
あれは、何十年も前に、組織が時間をかけて作り上げた『血統』だ。
第一世代が島に根を下ろし、結婚し、子をなし、孫をなした。一族ぐるみの潜入員。
出自の空白などどこにもないはずだ。記録を漁っても絶対に綻びは出ない。
見抜けるはずが、ない、のに。
ルツやその少年のような孤児型の潜入員とはわけが違う。
なのに、この男は。
「な……んで」
ルツの声が掠れた。
「なぜ、ロウェル家を……」
「さあ? なんとなく」
ランドールは、無邪気に首をかしげた。
「ボクは人をよく見る。仕草、間、物の見方……。あの一族はどこかマーログリフの人間とは呼吸が違う。……ほとんど勘だったが、当たったな」
ルツはもう、言葉が出なかった。
孤児を見抜くのはまだいい。記録という確かな手がかりがある。
だが、ロウェル家は違う。記録上は完璧な島民だ。
手がかりなど何一つない。
それをこの男は、なんとなく、で嗅ぎ当ててしまった。
……コイツは紛れもなく化け物だ。
外の世界を知ってしまったこの男を、これ以上島に置いてはおけない。
このまま放置すれば、組織の潜入網を根こそぎ引き剥がしていくだろう。
そして彼には、真実をこの島中に振り撒く力まで持っている。
彼の頭脳と権力は、彼の祖先が現実から目を背けて作った箱庭を、ぶち壊すことができる。
「…………」
ルツは観念した。
ふう、と、長い息を吐く。
「……分かった」
彼女は、両手を軽く上げてみせた。降参の仕草。
「貴方の勝ち。だからこれ以上この世界を引っ掻き回さないで。その子も解放してあげて」
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ルツの説得は長くかかった。
最初、組織は取り合わなかった。一貴族の奇行など放っておけばいい、と。
だがルツがランドールの危険性……記録の空白から潜入網を手繰り寄せる頭脳と、人を意のままに動かすカリスマ性を根気強く説き続けた結果、ようやく事の重大性を認識してくれた。
この男を島に置いておけば、いずれマーログリフそのものが壊れる。
400年物のカルト教団の集落が、たった一人の天才によって内側から砕かれる。
それだけは絶対に避けねばならない。
ゆえに、決定が下った。
ランドール・メイシーの望みを叶える、と。
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馬車に揺られること、数日。
王都の喧騒は遠ざかり、街道は細り、やがて人の声も絶えた。
辿り着いたのはマーログリフの西の果て。島をぐるりと囲う断崖の、ただ一箇所だけ口を開いた海への隘路。
深夜。
マーログリフの民なら誰もが寝静まっている時刻。
ルツとランドールは小さな灯りひとつを頼りに、岩の道を下りていった。
波の音が少しずつ近づいてきて、潮の匂いが濃くなる。
「こっち、こっち」
闇の中から声がした。
灯りを向けると、一人の男が岩陰から手を振っていた。人好きのする笑みを浮かべた、飄々とした風体。
「……〈パック〉」
「〈エアリアル〉。久しぶり」
パック、と呼ばれた男は、ルツの隣に立つランドールに目をやって、ひゅう、と口笛を吹いた。
「へえ……。君が例の。全部独りで辿り着いたっていう」
しげしげと、珍獣でも見るように眺める。
「いやあ、感心したよ。狂信的な逃亡者の血筋から、こんな知の化け物が生まれるんだから。遺伝ってのは面白いね。……まあ、おかげで組織は大忙しらしいけどね」
「そっちこそどうなのよ」
ルツがふと尋ねた。
「例の……漂着した子の方は。貴方の管轄でしょ」
「ああ……」
パックは頬をかいて苦笑した。
「今はちょーっとトラブってる。……でもまあ、なるようになるさ」
「相変わらず雑ね」
「現場ってのはいつだってそういうもんだ。……っといけない、長話してる暇はないな」
手招きして、先に立って歩き出す。
岩場を回り込んだ先、波の打ち寄せる小さな入り江に、それは静かに浮かんでいた。
小型の船だった。
マーログリフのどんな船とも違う。滑らかな船体に継ぎ目のない艶やかな曲線。帆もなければ櫂もない。船底からは生き物の低い唸りのような音が絶え間なく響いている。
操縦席には組織の人間が座っていた。
こちらには一瞥もくれず、無言で計器に目を落としている。名乗るつもりも関わるつもりもないようだ。
「……これは」
ランドールが息を呑んだ。
「帆がない。漕ぎ手もいない。なのに動くのか……? どうやって……いや、まさかこれがデンキの力か……!?」
ランドールは、ふらふらと船に歩み寄り、その船体にそっと手のひらを当てた。まるで聖遺物にでも触れるように。
その瞳孔は開ききり、頬は紅潮し、唇からは堪えきれない笑みがこぼれている。
「……ああ。なんて美しいんだ。これが外の技術っ……! っはぁぁ……!」
その様子を眺めて、パックがルツに耳打ちした。
「君の旦那、変わってるね」
「変わってるからこんなことになってんでしょうが」
ルツはげんなりと返した。
パックが岩にかけた舫いを外しにかかる。
ルツは船に手をかけたランドールの隣に立つと、最後の確認をした。
「もう一度だけ訊くわ」
月明かりの下、彼女は彼を見上げた。
「ここを出たら戻れない。貴方は死んだことになる。家も、家名も、今までの人生も……なにもかも全部捨てるのよ。本当に後悔はない?」
「ない」
即答だった。
一切の迷いなし。
「だってルツ。海の向こうには世界があるんだろう?」
ルツはしばしその澄んだ目を見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「……そう」
パックが肩をすくめて笑う。
「覚悟があるなら結構。じゃあ、あとはこっちで上手くやっておくよ。メイシー家の若夫婦は、新婚旅行の道中で不幸にも命を落とす。ま、よくある悲劇だね」
自分たちの死が淡々と告げられているにも関わらず、ランドールは眉ひとつ動かさなかった。
むしろ満足げですらあった。
二人は船に乗り込んだ。
パックが綱を解き、船を岸から押し出す。
「じゃあね、〈エアリアル〉」
「……ええ。貴方も頑張って、〈パック〉」
船がゆっくりと動き出す。
低い唸りを響かせて、暗い海原へと滑り出していった。
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マーログリフの島影が、夜の闇に溶けて少しずつ見えなくなってきた。
ランドールとルツは、船の席に並んで腰を下ろしていた。
ランドールは、まだ昂ぶりが収まらない様子で、暗い海の彼方を食い入るように見つめている。これから出会うすべてに胸を膨らませて。
その横顔を見て、ルツは小さくため息をついて呟いた。
「……海の向こうは地獄、か」
ランドールがきょとんと振り返る。
「ん? 聖典のことか?」
「……あれ、案外間違いでもないのよ」
ルツは、暗い海面に目を落とした。
どこか自嘲するように。
「歴史を話したときにも伝えたけど、外の世界は未だに醜く争い合ってる。人が人を、人とも思わない、そんな所業が数えきれないほど転がってる。マーログリフよりずっと愚かな魑魅魍魎が、当然のように跋扈してる」
言葉が少しずつ重くなる。
「貴方より遥かに無知で無能な人間が、貴方以上の権力を持っていて……」
その先は言えなかった。
しばらく波の音だけが続き、やがて、ランドールが口を開いた。
「ルツ。ボクは楽園に行きたいわけじゃない」
「……」
「ただ外に出たいだけだ。ボクは、祖先が目を背け続けた外の世界が見たい。この足で歩きたい。確かめて感じたいんだ。書物の中じゃなく、本物を」
彼はまっすぐに前を見ていた。
その横顔には、令嬢たちを蕩かした甘さも、人を欺いてきた冷たさもなかった。
あるのはただ、子供のように純粋な渇望だけ。
「海の向こうは地獄? ああ、大歓迎だ!」
そう言って、ランドールは笑った。
それから、ふと、ルツの方を向いて付け加える。
「それに、ルツ。キミが話してくれた地獄は……」
いたずらっぽく目を細めて。
「存外、心踊るものだったぞ」
ルツは思わず彼を見た。
人の世の醜さは、海の向こうにも数えきれぬほど存在している。
けれど、そんな世界で人は知恵を絞り、共有し、技を生み、止まることなく進んできた。
その全てをこの男は面白がっている。
何もかもを、この男は心躍ると言ってのけたのだ。
子供のように無邪気に、澄んだ目で。
呆れてため息が出た。
けれど、その呆れの底で、長いこと忘れていたあたたかい何かが、少しだけ灯った気がした。
ふと振り返ればマーログリフはもう、少しも夜と見分けがつかなかった。
船はひたすらに波を切って進んでいく。
その先に待つのは地獄か、楽園か。
それはまだ、誰にも分からない。
『異世界の浜辺に漂着したら、不器用な辺境伯様に拾われました』と同じ世界です
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