第14話 キャッチボールって楽しいよね
よくわからない言葉が隼人から聞こえた。
その瞬間、思わず手の力が抜けてしまった翠。
幸いにもバケツは空だったのだが、床に落ちたバケツから出るカランカランと乾いた音のせいで、一気に現実に引き戻される事となった。
「バケツ落として壊すなよ? 備品壊れたら部費で買わないといけないんだから。気を付けろよー」
「あ……ああっ! そうだな! それより、なんだ、え? なんだ、えー、何の話をしていたんだ?」
「は? 何がだ」
「いや、だから、黒川先輩がどうのと聞こえたものだから、何と言ったのかと思ってな」
「だから……乃愛に告って振られたんだって。それで今日の字はあんまりいい感じに書けなかったかもなって。悪かったよ、腑抜けた字ばっかり書いて」
「いいぃいいや? そんな事はぁ、別にぃい? 全然、ないんじゃないかぁ?」
「……まあでもさ、館花の言う通りいつまで経ってもしょぼい字しか書けないし。書道部も辞めた方がいいのかもなとは思ってるよ」
「そんな馬鹿なッ! 何故だッ!? 何故そんな事を言い出した! 先輩の字はいつだって綺麗だ! もっと自信を持って欲しい! 部活を止める必要なんてない!」
「は? ……いや、え? ……館花が弛んでるって言ってたんだろ? てか、別に無理に引き止めなくていいって。俺が居ると和が乱れるとか弛んでるとか、後輩目線からみてそう言う風に見えてるって事は多分そう言う事なんだろ」
「いやいやいやいやッ! そんな事はない! 断じて! 本当だ! 先輩は最高だ! 間違いない! 先輩以上に最高な人間を私は知らない! 書道部に必要な存在だから辞めるなんて言わないで欲しい! 先輩が居なくなれば御鐘井書道部は崩壊する!」
隼人の発言に焦った翠は、ガッツポーズを取りながら気合十分な言葉を放つ。
「……な、え? ……え? 崩壊? な? ど、どうした、急に? 大丈夫か? 頭?」
数分前と言っている事が完全に逆転した後輩。
そのあまりの急変振りに、隼人は思わず眉をひそめてしまう。
「これからも書道部に居て欲しい! 頼む、先輩! 辞めないで欲しい! これまでの私の言動が許せないと言うのであれば、腹を切って詫びるからァアッ!」
「お前はいつの時代の人間だよ! やっ! あ、まあ、……じゃあ、いや、まあ、わ、わかったけど。辞めないけど。なんなんだよ、急に。こえぇよ……」
「そうか! それは何よりだ。それより、黒川先輩に振られた話を詳しく聞かせてくれないだろうか!」
「は? やだよ。傷口に塩を塗るような真似をして楽しいのか?」
「え? いや! いやいや! そんなつもりはない! そうでは無くてだな。だから、そうではなくて、本当に振られたのかと思った次第で。黒川先輩とは知らぬ仲ではないのだから、何があったのかと思ってだな」
「はいはい。本当に振られたっての。乃愛にとって俺は男じゃないんだとよ。そんな感じだ。これ以上はもういいだろ。さっさと片付けて帰るぞ」
「そ、そうか。……そうか。そうか。なるほど、そうか」
いつも凛と澄ました表情を浮かべている翠。
そんな彼女がだらしない笑顔を浮かべている様子を見て、気味の悪さを感じた隼人は黙々と後片付けをする。
「あー……その、だな。先輩」
「ぁうん?」
一方、全然片付けをする様子がない翠。
身体の前で両手をモジモジと絡ませて何度も深呼吸を繰り返して、大きな胸を上下させながら隼人に話しかけていた。
「その……まあ、なんだ。良ければ、何処かに遊びに行くか? 付き合うよ」
「は? え? なんで?」
「いや、だから……辛い事は遊んで忘れると良いんじゃないかと。そう、思ってな」
「あー……」
つい先日も誰か似たような事を言っていたな、と。
隼人がぼんやりとした頭で考えながら口を開いた。
「そうな。それはそうかもしれないけど、何で館花と出掛けないといけないんだよ。さっきからこえぇよ。何企んでんだよ」
「なっ!? こっ、怖いとはどう言う意味だ!」
「怖いもんは怖いわ。貧弱だの腑抜けだの言われながら遊ぶ趣味はないっての。どんな拷問だって」
「え?! いやッ! そんな事は断じて言わないと誓おう! 断じて! 私は癒し系だからな!」
「ん? あー、そうなのか? だったら安心だな。ヒーラーとして迷える人間を癒してやってくれ。──よし、そんじゃ俺の分の片付けは終わったから、残りはちゃんとやってから帰るんだぞ」
「え? あ、いやッ! ちょっと! 待っ──……て、欲しい、です。癒し……癒し……」
翠がその言葉を言い終えるよりも前に、隼人はそそくさと部室を後にしてしまった。
「……ど……どう言う、事だ?」
部室に一人残された翠。
ポツリと呟いた言葉は静かに空気に溶ける。
思い出すのは先程隼人とした一連の会話。
(怖い? 意味がわからん。おかしい。失恋した直後の男子は他の女に癒しを求めるのではないのか? 何がどうなっている? 黒川先輩に振られたせいで、頭がおかしくなってしまったのだろうか……。怖いとはなんだ? どう言う意味だ? 一体私の何処が……私の、わた、しの──)
貧弱だの腑抜けだの言われながら遊ぶ趣味はないっての。
そして理解する。
(……あ、あれ? おかしい、なぁ……。もしかしてだけど、私って隼人君に怖がられている? と言うか、嫌われている?)
当たり前である。
極めて特殊な界隈を除いて、罵詈雑言や人格否定をされて喜ぶ人間はいない。
多くの人間は冷たい言葉を吐いてくる人間に苦手意識を持つのが当たり前。ましてや頑張っている事を──隼人の場合は書道を──それを否定するような人間に好意を抱くわけがない。
(た、確かに。少々……。いやぁ……まあ……。かなり、それなりに、酷い事を言った記憶もある、が……。それは別に隼人君の事が嫌いだったからではなくて……。黒川先輩の話をされるのが嫌だったからであって、隼人君を貶めようとか、そう言う意図があったわけではなくて──)
片付けをしながら静かに考える翠。
少しでも彼の視線を自分に向けさせたかった。
最初はそれだけだった。
確かにそれだけだった。
不機嫌な時はよく見てくれた。構ってくれた。
文句を言えば見てくれた。構ってくれた。
黒川先輩ではなく、自分を見てくれる。
でも、それは正解だったのか?
(多少……まあ、多少、多少ね。多少はキツイ言葉を投げかけたかもしれない。だけど、隼人君だって怒らなかったじゃないか。いつもクールな目線で私を見てくれて、私の言葉にちゃんと返事をしていた。会話のキャッチボールは完璧だった、はず。今日だって沢山お話が出来た……と、思う)
これまで上手に会話出来ていたような気はする。
でも、本当に?
(……だ、だが確かに、高校生になってからは全然笑わなくなったなとは思っていたけど、あれは高校生になった隼人君がクール路線になったから……では、ないのか? いいや、そんなはずはない。あのクールな視線を受ける度に私の心はびしょ濡れだった。隼人君も私との会話を楽しんでいた……はず)
冷静な頭で振り返るこれまでの隼人との日々。
嫉妬に駆られる日々。
意味もなく強く当たる日々。
不必要に隼人に辛く当たっていた日々。
ちょっときつめの言葉を投げる。
すると、隼人の目が自分を向いてくれる。
自分だけを見てくれることが嬉しかった。
お話も出来て嬉しかった。
ちょっと素っ気無い会話だったかもしれないけれど、それもまた対等な感じがして、大人な感じで悪くない。なんて思ったりもした。
(……ひょっとしてあれはクールな目線ではなくて、単に冷めた目線だった、とでも言うのか? 実は話していて楽しかったのは私だけで、隼人君は楽しくなかった? そ、そんなはずは……何を言っても反応してくれたから、だから、てっきり、いや、でも……ま、まさか──)
本来なら無視をするレベル。
それでも最低限の関係を保とう。
そう思った隼人が全てを飲み込んで、受け答えをしていただけ。
自分がキャッチボールだと思っていた会話。
その正体が打者の全身を滅多打ちにするレベルのデッドボールだったのかもしれない。そんな結論に至るまでそう時間はかからなかった。
そうして、これまでの日々を思い出す。
「──お……終わってるではないか、私ッ!」
自己分析をした結果。
自分が終わっている人間であると言う、正しい事故採点が出来た翠は、手に持っていた筆をベキっとへし折ってしまった。
それが本当にキャッチボールならな!




