【14】大天使、恋の錯覚を知る。〜世界が閉じてゆく、幸せ〜
しばらくそうしていると、
ポツリポツリと雨が降ってきた。
路面に落ちた雫が、
静かに輪を描いていく。
まだ、雨雲は見えない。
それでも、空気は確実に変わり始めていた。
ルシアンは車に戻ると、
セレニス・ベイの中心街へと車を走らせた。
ワイパーの音だけが、
一定のリズムを刻む。
ロクシーとルチアーノへの
プレゼント交換のための、
プレゼントを買っておこうと思ったのだ。
それは、
余計な感情を排除するための選択だった。
バレンタインは明日。
時間だけが、
容赦なく進んでいく。
事前に買っておけば、
リオとアーチーボルトと
会わずに済むことも出来る。
そう判断するほど、
彼の思考は冷えていた。
そして、
大聖堂が見えてきて、気づいた。
胸の奥で、
何かが静かにほどけていく。
アンジュが、
帰り道に助手席に
乗りたがった理由を。
――アンジュさまは、
最初に大聖堂の聖遺物のことをおっしゃっていた。
大聖堂が、
よく見えるシートに座った。
ただ、それだけ――
虚しさが、
ルシアンの胸を過ぎる。
大天使として、
虚しさなど、
一瞬たりとも感じたことなど無かったのに。
ルシアンは、
揺らいだ無表情を引き締める。
バレンタインが過ぎれば――
自分は元の
"大天使ルシアン"として、
聖なる務めだけに身を投じられる。
ただ、
それだけを願って。
そして、
セレニス・ベイの中心街。
ハイブランドが立ち並ぶ通りで、
ルシアンは、
目についた物を片っ端から買っていた。
人々の視線を意識することもなく、
美しく、
バレンタイン用に包装されたプレゼントを、
ショップバッグに入れてもらい、
ただ、下げて歩く。
その足取りは、
不思議なほど機械的だった。
まるで、
目的だけが、
彼を前へ進ませているかのようだった。
そのうち、
雨は粉雪に変わり、
音を立てることもなく、
うっすらと道路を覆い始めていた。
だが、
ルチアーノの車ならば大丈夫だろうと判断し、
買い物を続ける。
立ち止まる理由は、
どこにもなかった。
何を見ても、
何の感情も動かない。
心は、
深く沈んだままだ。
男性用で良品と確認したもの、
基準はただ一つ、
それだけだった。
女性用で良品と確認したものを買うだけ。
そこに迷いはなかった。
それでも、
胸の奥は空白のままだった。
そうして、
いつの間にか、
ルシアンは両手に
10個以上もの紙袋を下げていた。
腕には、
確かな重みが残っていた。
ふと、
ロクシーには花も添えて贈るのが礼儀かと考え、
花屋の方向に歩いていると――
「……くしゅん!」
という、
小さなくしゃみが聞こえて、
ルシアンは立ち止まった。
聞き間違える筈もない、
アンジュの声。
――アンジュさま……!?
なぜ!?
いや、どこだ…!?
ルシアンが恩寵を使って探すまでも無く、
アンジュは見つけられた。
目の前のすぐ先のビルの影に、
隠れるようにして、
スマホを見ている。
そして、
顔を上げたアンジュと、
ルシアンの目が合う。
アンジュが、
鼻の頭を赤くして、
にこりと笑う。
ルシアンの手から、
ショップバッグが、
乾いた音を立てて、
次々と地面に落ちる。
「……どうして……」
ルシアンは、
それしか言えなかった。
アンジュが、
ルシアンに駆け寄って来る。
その金色の髪には、
雪が積もっていた。
そして、
紙袋を全部拾い集めると、
「ほら!」
と言って、
ルシアンに差し出す。
ルシアンが動けないでいると――
アンジュは、
屈託なく笑いながら告げた。
「ルシアンよ!
お前の使命は分かっておるぞ!
"聖バレンタインの効力を調べる"
であろう?
だから、
今日も協力しようと思っていたら、
お前がヴィラから突然いなくなったから……」
アンジュは、
それ以上話せなかった。
ルシアンに、
抱きしめられて。
せっかく拾ったプレゼントが、
再び地面に落ちる。
アンジュが、
ルシアンの腕の中で、
ふふっと笑う。
「ルシアン?
どうした?
私なら、
これくらいの雪は平気だ!」
「……どうやってここへ?」
ルシアンの震える声に、
アンジュが高らかに告げる。
「ロクシーに、
ルシアンが
ルチアーノの車で出掛けてしまった、
行方が分からないと言ったら、
イレイナに
連絡を取ってくれたのだ!
そうしたら、
イレイナの秘書が、
ここまで車で送ってくれた!
心配はいらない!」
ルシアンが、
アンジュを抱く腕に力を込める。
「あなた様は、馬鹿です」
「……何だと!?」
アンジュが膨れているのが分かって、
ルシアンは小さく笑った。
「私のことなど……
放っておいてくれれば良いのに……」
すると――
アンジュが、
ルシアンの腕の中で、
真っ直ぐに、
ルシアンを見上げた。
その清らかで無垢な青い瞳が、
ルシアンを射抜く。
「放っておくことなど、
出来ない。
ルシアンよ……。
お前は私をみくびっているのか?
私は、
大切な者を見捨てたりしない」
柔らかな、
やさしい声に、
ルシアンの瞳から、
一粒の涙が落ちる。
すると、
アンジュが、
ふわっと
ルシアンの胸に頬を預けた。
「それに私は、
今は人間の身!
お前の心は分からない。
だが、
分かることもある!」
そして、
アンジュの確信に満ちた声が続く。
迷いという概念そのものが、
そこには存在しなかった。
それは、
疑うことを知らない、
子供のように澄んだ世界を、
そのまま受け取る声。
「お前は今、寒い!
涙が出るくらい寒いのだ!
ここはセレニス州――
大天使の恩寵も、
ほんの僅かしか使えないからな!
だから、
私を抱きしめたい!
よかろう!
好きなだけ、
抱きしめていろ!」
「……ありがとうございます。アンジュさま」
ルシアンは、
それだけ答えると、
粉雪から守るように、
アンジュを抱きしめていた。
地面に落ちた、
数々のプレゼントにも、
粉雪は落ちていく。
ルシアンは、
これで良いと、
心から思った。
雪の中、
アンジュと二人。
世界が、
閉じてゆく。
その錯覚が、
幸せ過ぎて。
錯覚など持たない
大天使の自分が、
恋をして、
また一つ、
知ったこと。
それは、
バレンタインに
贈り物を渡せなくても――
"永遠の恋人"を胸に抱ける、
幸せな錯覚は、
自分にとって
かけがえのない
"幸せ"だということを。
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