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異世界における神様の奮闘記  作者: 初音の歌


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第1話・光と戦争の女神



 そこは魔法国の王都。その外れにある一軒家。その家の地下室。

 地下は、冷たい井戸の匂いがした。土壁に埋め込まれた魔力灯が低く唸り、青白い光が床いっぱいの術式を撫でていく。幾重にも重ねられた円環、角度の違う三角と六芒、細密な数列に似た符号。机の上には開きっぱなしの禁書、羊皮紙の余白には手書きの注釈が密生していた。

 魔導師は痩せた指で、最後の符を置いた。喉の奥でひとつ、唾を飲む。それは欲ではなかった。彼がこの場に持ち込んだものは、称賛も褒賞も、地位も、何ひとつ含んでいない。あるのはただ――知りたいという火だけ。


(見たい。扉の向こうを。世界が世界である理由の、外側を)


 結界は張った。外界に漏れる魔力の波形は抑えた。けれど、これだけの規模になれば探知は避けられない。王都の結界塔、王城の監視陣、魔法連の観測水晶――どこかが必ず揺れるだろう。罪に問われる可能性は高い。けれど見たい。この眼で見るまで止められない。だからこそ、早く。いま開く。

 呼気とともに術式が立ち上がる。床の線が淡く浮き、漂う埃が無風のまま渦を描いた。灯りが一瞬沈み、代わりに魔法陣そのものが光源になる。ここではない“どこか”が、井戸の底のように暗く、しかし確かに“こちら”へ傾いて――


 ふ、と音が消えた。


 次の瞬間、魔力が“断たれた”。綱が刃で一息に切り落とされる、あの単純な感触。積み上げた数年が、指先から砂のように零れ落ちる。術式の線は霜となって砕け、青白い光は紙片のように舞い消えた。


「――誰だ」


 怒りが舌に乗る前に、膝が震えた。地下室に“昼”が降りたからだ。光が来た。地上から差し込む陽ではない。名もなき朝でもない。


 その者、金色の長髪を高く挙げ、鋭い星光の如き瞳が、視線ひとつで秩序を示す。

 鎧と衣を同居させた荘厳な装いが眩しい。鎧は繊細な黄金の彫刻で装飾され、日輪の紋章が胸に輝く。体つきは女性らしさの均衡が取れている。星の光のような美貌。


 法と秩序の天蓋――「光と戦の女神アストラヴェル」の神威が、地下室の空気ごと形を変えた。


 光は眩くなかった。輪郭をあざやかにする種類の明るさだった。土壁の亀裂、紙の毛羽立ち、彼の指に固着したインクの黒まで、すべてが“正しく”見える。冷たい鐘の音を溶かして清水にしたような声が、地下の天井で静かに反響した。


「そこまでだ、探求の子」


 女神は剣ではなく、秤を帯びていた。左の手には秩序の天秤。右の掌には、刃のない光の帯。彼女が視線だけで術式を撫でると、残っていた魔力の光が解け、静かに床へ帰っていく。



「異世界召喚――禁じられた法だ」



 魔導師は息を止めた。反論は山ほど用意できた。利ではない。好奇心だけ。誰も傷つけない。結界も張った。万が一の時は我が身を犠牲にする覚悟。それでも彼は言葉を選べなかった。この光の前では、自分の声が憎らしく響くと直感したからだ。

 女神は理由を告げる。ひとつずつ、置くように。


「法。世界の境を破る行為は、“戦”に等しい。理念。異なる理は衝突し、いずれかを蝕む。道徳。招かれざるものに、帰る路を用意したか。菌と病。見えぬ矢は城を落とす。異郷の神々の怒り。向こうに法があり、ここに法がある。――挙げれば尽きぬ」


 その声は決して怒ってはいなかった。石に刻み込むときの硬さがあるだけだ。魔導師は肩を落とす。罰せられる。死罪が最も、単純で、速い。

 女神は、彼を見た。瞳は光ではなく、鏡だった。彼女はそこで彼の胸を覗き、ひとつ頷く。


「悪意はない。よこしまもない。求めは“知”のみ。――ならば私には、お前を斬れぬ」


 もしも悪意で動いていたのなら、言葉も交わさず、光の女神は断罪の剣を振るっていた。魔導師が今生きているのは、あまりに無垢な好奇ゆえ。

 魔導師は顔を上げた。救いではない。救いでは断じてないが、ただ、その一文は彼の呼吸を繋いだ。


「だが、世界を危険に晒した事実は消えぬ」


 女神が秤を軽く傾けた。光の帯が揺れ、地下室の戸板の向こうで、靴音がいくつも止まる。階段を駆け下りる鎧の音、短い号令。扉が開いて、冷えた空気が流れ込んだ。


「全員、床に触れるな。結界術式、ここ、ここ。――吸い込むな、無音結界展開」


 先頭に現れたのは、闇色のローブを羽織る黒髪の姫。魔法国の姫が自ら異変を察知し、乗り込んできた。

 彼女の背後に、封祓士の男、符陣兵、記録官が続き、入り口に魔法国の実戦隊が扇形に展開する。視線が光を捉え、次の瞬間、彼らは一斉に膝をついた。


「――女神」


 姫は膝を折り、胸に握った指を掲げる。


「御身の光、拝受いたします」


 アストラヴェルは、頷きもしない。ただ、法を言い渡す声の高さを半歩だけ下げた。


「魔法国の姫よ。そなたに伝える。これは王と法の下に執り行え。『世界を危険に晒した罪は、死以外で償わせよ。永劫の眠りにつくその時までの、無期の奉仕。その完遂をもって許しを与えよう』」


 地下室にいた誰もが、息を飲んだ。死ではない。だが軽くもない。終りの来ない“務め”。それは時に死より重い。

 女神は視線だけで魔導師を促した。言葉はいらない。彼は頷き、両手を差し出す。符陣兵が近寄り、光を含んだ封布で静かに手首を繋ぐ。荒っぽい扱いはない。むしろ丁寧すぎるほどだ。誰も、この場に怒りを持ち込まない。怒りは、法を濁す。

 魔法国の姫が立ち上がった。光の前に立つ彼女は、夜空の星座のようだった。冷たい眼差しに、ほんの針の先ほどの温もりが宿る。


「――聞いた通りです。あなたは生きて償う。魔導院に出仕し、禁呪の写本整理、結界塔の保守、庶務。学徒への戒めの講義。すべて“武器なき奉仕”です」


 魔導師は小さく首を振った。


「私の研究は……」

「異世界召喚は封じます。あなたの“知りたい”は、こちら側の世界のために使いなさい。封印の理、結界の継ぎ目、危険の伝え方、法の言葉。――好奇心は刃にも盾にもなる。今日は盾にしなさい」


 姫は清涼に言い切る。

 アストラヴェルの光がわずかに揺れ、空気に祈りの粒が溶けた。女神は最後に、魔導師へだけ届く声で囁いた。


「探求の子。知を愛するのなら、まず世界を愛せ。法を愛せ。そなたの目は美しい。ゆえにこそ、こちら側に置く」


 そして、光は去った。地下室の“昼”が引き上げられると、世界の輪郭はふたたび少しだけ曖昧になった。魔力灯が戻り、土壁の湿り気が現世を思い出す。


「封鎖、開始」


 実戦隊の部隊長が短く号令する。符陣兵が床の術式に封印の砂を撒き、禁書は中空に張った封印術式の中へと丁寧に移された。記録官は羽根ペンを走らせながら、淡々と読み上げる。


「事案番号二九八、禁呪未遂。容疑者一名、無抵抗。神威降臨あり。女神アストラヴェルの裁断に基づく“無期の奉仕”……」


 魔導師は抵抗なく立ち上がった。封布は重くない。ただ、心に重い。彼は自分の地下室を見回し、小さく頭を下げた。机、紙、インク、すべてが“向こう側”に手を伸ばそうとした手段だった。もう伸ばさない。伸ばさせない。それが、彼自身の選び直しになる。

 階段を上がる前に、彼は振り返って魔法国の姫を見た。


「――お手を煩わせました」


 姫は首を振る。


「法があるから、私たちは夜を渡れる。あなたは今日、法の側へ帰ってきたのです」


 彼女の瞳は、遠い未来を見る人の色だった。


「無期の奉仕は“無限”ではありません。あなたの眠りの日まで。ならば、その日まで、世界のために歩きなさい」


 地上の扉が開き、夜風が一行の頬を撫でた。王都の外れは静かだ。遠くで結界塔の光が脈打ち、星のない夜空に薄い白の柱を立てている。封鎖札が扉に貼られ、門の前には守衛が立つ。事は淡々と進み、誰も声を荒げない。怒りは、法を濁すから。

 背後で、地下室の魔法陣が最後の弱い光を吐いて消えた。石に刻まれた細い線が、ただの傷に戻る。

 魔導師はその音のない終わりを聴きながら、深く息を吸った。土の匂い、夜気の冷たさ、人のいる世界の温度。彼は生きる。無期の奉仕という、長い長い戦場に。

 その夜、王都の結界塔の記録には短い追記が残った。


「正義の光、降臨。法、執行。世界、保全」


 そして、誰も知らない場所で、ひとつの世界が“こちら”を見上げていたかもしれない。扉は開かなかった。開かれないまま、こちら側の夜は静かに更けていった。









 で、魔法国の遥か上空では……アストラヴェルが真剣な顔を崩して、全力で安堵の溜息を吐いていた。



「あっ……ぶなかったぁ……!」



 汗ダラダラである。さっきまでの威厳に満ちた姿は、どっかその辺に捨てられたようだ。ふーふー息吐きながら、ぷんすか怒ってる光の女神。

 眼下に魔法国。魔導の徒が大勢居て、様々な技術を編み出す国。それはいい。それはいいのだが……物事には限度がある。


「ほんっとうに……勘弁して。異世界召喚とか洒落にならないから……どれだけ世界の均衡が揺らぐと思っているのか!」


 うがー、と天高い空で、咆哮を上げるアストラヴェル。口調も崩れまくりである。見栄張る余裕なんて、今は無い。

 世界にはそれぞれの法則がある。秩序がある。生態系があり歴史がある。

 異世界召喚は、世界の理に穴を空ける禁忌。ぶっちゃけると、他の惑星の病原菌とか持ち込まれたら、その、非常に困る。緊急事態だ。


「大抵、魔法国の人間がやらかす。毎度毎度……前は確か二百年前だったか。あの時もちゃんと言ったでしょーが、しちゃ駄目だって……」


 二百年前も天界から駆け付けて、異世界召喚を阻止したアストラヴェル。あの時も大慌てで急行したなぁ、と遠い目で思い出す。

 でも人間は神様みたいに長く生きない。教えや注意は、時と共に失伝していく。そして人々の中で忘れた頃、神様が大急ぎで対処する。この世界はその繰り返しだ。秩序と安寧は、女神の胃を犠牲にして護られている。

 ともあれ一仕事終えた。国の王族自ら異変を察知して来てくれたのだ。あとは人間達に任せても大丈夫だろう。



「はあ、疲れた……天界おうちに帰ろう」



 仕事終わりの事務員みたいな顔と声で、光と戦争の女神は、帰路に着く。目的地は、遥か彼方の天界だ。今は一休みしたい。神様だって休憩くらいとりたいのだ。

 空をふよふよ飛びながら、光の女神はその姿を消していく。位相を越えて、別次元へ。天界と言う名のマイホームへ帰っていった。





 これはそんな話。

 世界を見守る、あるいは見定める、神様達の物語。





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