校正者、キレる
私は、フリーランスの校正者をしている。
校正プロダクションやいくつかの出版社と契約はしているが、仕事の保証があるわけではないので、つねに仕事の質には気を遣っている。もちろん、締め切りに遅れるなどということはない。日数的に多少厳しいことを言われても、頑張って受けるようにしている。
ただ、時にはちょっとキレてしまいそうになることもある。
ある日、作業の終わったゲラ(校正紙)を持って校正プロダクションの事務所へ行った。ふと横を見ると、少し前に私が初校を担当したゲラの再校が届いていた。計280ページ。そこそこの量だ。これは調べ物も多く、初校は手がかかった。編集者からの依頼文にある再校の締め切りは……明後日。え? あさって?
「あの、これって……どうするんですか?」おそるおそる社長に聞いてみた。
「ああ、やっぱり、小山さんにお願いするしかないよねえ」
いやいや、聞いてませんけど。でも、どうやら出版社から来たものが手つかずで放置されていたのではなく(まれにそういうこともある)、急ぎの依頼だったようだ。「では、時間内にできるだけのことをやって、明後日のPDF返しでいいですね」「うん、そうだね」赤字を入れたゲラそのものを先方に持っていくよりも終わったものをスキャンしてPDFで送るほうが早いので、納期の短いものはこのようにしている。
このページ数でこの日数はさすがに……思うところはあるが、仕方ない。ふつふつと沸いてくるものを抑え、何とか締め切りには間に合わせた。大丈夫、まだキレてない。
しかし、Xデーはほどなくしてやってきた。
私が毎年同じ時期に担当していた本に、「業界地図」というのがあった。いろいろな業界の勢力図やつながりなどを細かく扱った本で、当時の流行でもあった。
これは、非常にやっかいな仕事だった。とにかく掲載されている会社名が多い。見開き右側が本文、左側が図になっていて、1ページに十数社、多いときは二十数社載っていることもある。会社名というのは知らぬ間に変わることもあるので、掲載されているすべての会社名を検索し、必ず公式ホームページにあたる。英語表記や、カタカナの幼促音も要注意だ(有名なところでは「キヤノン」「キユーピー」など)。
これに関しては、それなりの時間もいただいて、ちゃんと納期に間に合わせることができた。そしてその数日後、若い女性編集者から連絡がきた。
「先日の業界地図の、索引の校正をお願いしたいのですが」
この本の担当はいつもベテランの男性編集者だった。彼女はどうやら彼についている新人の編集者らしい。
索引というのは、本の最後のほうにある、参照ページをまとめてある部分だ。参照ページに本当にその項目があるか、一つひとつあたっていく。非常に時間がかかり、根気のいる仕事だ。この「業界地図」の索引は毎年15ページほどあり、私が担当する仕事の中でも断トツに気が重い(余談だが、「ダントツ」ではなく「断トツ」と書くのは、「断然トップ」の略だからだそうだ)。
「ありがとうございます。それで、締め切りは?」すると彼女は明るい声で言った。
「これからPDFでお送りするので、2時間後くらいにお戻しいただけますか?」
――は?
この本の索引は非常に字も細かいので、1ページに1時間はかかる。15ページあれば15時間。どんなに頑張っても、納品はあさってが最短だ。
「あの、索引の校正って、どんな作業かご存じですか?」
ちょっと強めに言ってみた。というか、ちょっとキレた。絶対に、彼女は索引の校正をわかっていない。これが、どれだけ、たいへんな仕事なのか。
「1ページに1時間はかかるので、2時間で終わらせるのは無理です。納期について、ご検討いただけますか」すると彼女は慌てたように「すみません。確認して、またご連絡します」と電話を切った。
結局、納期は2日後ということになり、ぎりぎりで終わらせることができた。
納品時にはいなかったので、彼女と顔を合わせることはなかった。その後も会っていない。新人さんなんだし、あんなふうに言わなくてもよかったかな、とちょっと後悔していた。
数年後、別の出版社から仕事の依頼が来たとき、編集担当者に彼女の名前があった。
「これって、以前あそこの出版社にいた女性ですか?」社長に聞くと、そうだと言う。別の出版社に転職して、編集者を続けているらしい。ちょっとほっとした。
後にも先にも、編集担当者にキレたのはあれ1回だけだ。今後もないことを願う。