小説だからよかったのであって
「ワトくん!」
「はっ!?」
「ほら、急いでくれよ、よく見て、これを!」
「えっ、い、嫌です!」
「ああもうっ、いいかい、ワンドは黒、こう倒れて、周囲の血が奥向きに流れている。朝の塔名物の傾きのせいだな。はっきり見える足跡はないが、窓枠に血痕がある。大事なことだ、よく覚えて。仕事だ!!!」
「は、はいっ」
仕事ならちゃんとしなければ。
私はいやいやながら死体とその周囲を確認し、復唱した。
「ワンドは黒……」
死体の手の甲にあるワンドは黒くなっている。持ち主からの魔力供給を受けられていないときの色だ。眠っているときでさえ主人の魔力を循環させるワンドが、動いていない。魔力が流れていない。
すなわち、彼女は死んでいる。
これは死体だ。
「んっぐ」
そこに死体があるという現実に吐き気がしたが、私は口をおさえてこらえた。
彼女は顔まで血まみれで、うつむきがちに床に頬をつけている。そのそばに放り出されたような腕、ワンドのある甲がよく見えてよかった。ワンドで死を確認できなければ、彼女に触れて確認と救命を行わなければならなかった。
体を少し丸めるような姿勢は、ただ眠っているだけのようだ。毒々しいほどの赤が、そして黒くなったワンドがそれを否定している。
できるだけ死体を直視しないようにしながら、私は言われた状況を確認した。朝の塔が傾いているせいで、この部屋の床も傾き、血は窓のある壁に向かって流れている。
「倒れて……血が、広がって、奥向きに流れている。足跡は、ない、血は窓枠に……」
「他には?」
「他……あっ」
私は血の海の中にそれを見つけた。手のひら程度のサイズだが、存在感を持つきらめきを放っている。
「ナイフがあります!」
「よし、ちゃんと見えてるじゃないか。そう、ナイフは置いていったらしい。鑑識がくればそこから何かわかるだろうから、触るなよ」
「触りません!」
「ともかく確認はした。忘れるなよ」
「あ、ちょ……っ」
止める間もない、シャルロはぴしゃりと血を踏みつけて窓に近づいた。私に確認させたのはつまり、現場を保存どころか破壊するつもりだったかららしい。
「うん? 見てくれワトくん、外壁に血がついている」
「え……」
窓から顔をだしてシャルロが言う。
そんなことを言われても、血の海を踏みつけて近づくなんて絶対に嫌だ。
「あの、私は管理塔に伝えて来るので」
「なんだと? そんなものそこの生徒に任せればいいだろう! 君、わかっているのか? 君がいなければ僕の行動を保証するやつはいない。何もかもめちゃくちゃだ」
「は、はあ」
「人間一人の言うことなど誰にも信じられない。信じられてたまるものか。君は僕を犯人にしたいのか!」
いきなりキレだした狂人は怖い。
いよいよ私は逃げたい。なんとか逃げたい。
「いえ、そんなことはなく。ですがほら、生徒たちも見ているわけですし」
「ぶっ、あはは! 生徒に保証される教師がいるかよ。逆だ、逆。まったく君は愉快なやつだな!」
「……えー、生徒であっても目撃証言は採用されるはずですよ」
機嫌よくなられても、それはそれで気持ちが悪い。意味がわからない。
だがこの男がいなければ、犯人が捕まえられないかもしれない。今も窓から出た犯人は……待て、塔の中をうろついているということに?
ナイフがここに落ちていたのは幸いだったが、手ぶらだとしても相手は必死だ。人生がかかっている。平和に生きたい私など、どうとでもされてしまいそうだ。
(この部屋を出たくない……だが、血の中にも行きたくない!)
「おーい、誰かひとり、いや、ふたりで管理塔に行って、偉い先生に事件を伝えてきてくれ。それから四年生全員が部屋にいるかを確認するように」
「えっ、あ……」
「じゃあ、私が」
「僕も行く」
シャルロに言われ、生徒たちは戸惑ったように互いを見ていたが、四人のうち二人が部屋を出ていった。チェッジとカームだけが残って、青い顔で遺体の方を見ている。
特にカームは目をうるませ、絶望的な表情だ。メイリーではなく、ナミルのほうが本命だったのだろうか?
(ああ、扉が開いたままだ)
生徒たちが出ていった扉が、九十度に開いた位置で止まっている。朝の塔自体が傾いていて、どの部屋もそれぞれ違う方向に傾いている。この部屋はきれいな奥向きの傾斜のようだ。
(原作でシャルロがトリックに気づいたのは、この扉を見たからだ。傾きのせいでこうなるはずの扉が、入ってきたときにしっかり開いていたのを思い出したからだ。後ろで犯人がドアノブを掴んでいたのだと、見抜いた)
だがこの現実では、扉の裏に潜むトリックは使われていない。
私は不安になった。原作通りでなくても、ちゃんとシャルロは犯人を、メイリーを捕まえることができるのだろうか?
「ワトくん!」
「……外はどんな様子ですか?」
呼びつけになんとか拒否したく、こちらから質問してみた。シャルロは窓から外に身を乗り出しながら、叫ぶように答えてくる。
「血のあとは窓のそばについているだけだ。いくつか出っ張りを掴んだ様子には見えるが……逃げ道に転々と残っていたら、なんて愛らしいと思ったのに!」
「はあ。でも、そこから逃げたことは間違いないのでは?」
「わからないが、どうも……む、実際やってみるべきか?」
「危ないですよ、魔法も使えないのに」
「そこだ、魔法も使えないのに、ここから逃げるなんてできると思うか? いくら身軽でも、恐ろしさを感じるはずだ」
「でもそこしか逃げ場は……ないですよね」
私は慌ててベッドの下を見た。
よかった、誰もいない。ということは間違いなく、あの開いた窓から逃げたのだ。