第1章〜愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ〜⑤
コンコン――――――。
二階にある一室のドアがノックされる。
「武志くん、クラスのお友達が来てくれたわよ。あなたとお話ししたいって言ってるから、ここを開けてくれない?」
「友達? 誰だよ!?」
室内からは、鋭い声が返ってきた。なかば予想どおりの反応に、オレは、緑川の母親に、
(ここは、自分たちに任せてください)
と、ジェスチャーを送る。
すると、中年女性は、オレと紅野に何度も頭を下げ、リビングのある階下に降りて行った。
緑川の母の姿が見えなくなったことを確認したあと、オレは、あらためて、緑川武志の部屋のドアをノックする。
「緑川! 新学期から、A組のクラス委員をしている黒田だ。今日は、同じクラス委員の紅野と一緒に来させてもらった。良かったら、ちょっと、話せないか?」
オレ自身の最大限のさわやかな声色で語りかけたのだが……。
ボンッ!
と、ドアに軽い衝撃が発生し、室内からは、
「うるさい! 僕は、お前らに用なんか無い!」
という声が返ってきた。どうやら、なにかをドアに投げつけたようだ。
「緑川くん……せっかく同じクラスになったんだし、少しでも、お話しできないかな?」
今度は、紅野がドアの向こうの男子に語りかけたのだが……。
「話すことなんか、ナニもない! クラス委員になったからなんだって言うんだ!? だいたい、なんだよ! 男女揃ってやってきて! 僕に対するあてつけか?」
「いや、なにか誤解をしているかも知れないが……オレたちは、クラス委員として、緑川の家に来させてもらっただけだ」
「嘘つけ! どうせ、ここに来るまで二人でイチャイチャしたかっただけなんだろう! このヤ◯チン野郎!」
申し開きをしようにも、どうにも、取りつくシマが無い。ただ、引きこもり生徒の典型的な反応に苦笑しそうになるオレをよそに、クラス委員のパートナーが、憤りをあらわにした。
「緑川くん! いまのは、ちょっと、酷いと思うよ! 黒田くんに謝って!」
紅野アザミの鋭い声が廊下に響きわたる。さすがは、クラス委員の風格と言うか、こういうシチュエーションは、小学生のとき以来、ついぞ記憶にないな、と感慨深い思い出にひたってしまう。
ただ、紅野の言葉は、男子の神経を逆なでしてしまったようで、部屋の中からは大きな声が返ってきただけだった。
「うるさい! どうせ、女子は僕を馬鹿にしに来ただけなんだろう? 早く帰れ!」
その言葉に、オレと紅野は互いに顔を見合わせる。肩をすくめたオレは、
「どうやら、今日はここまでだな」
と、苦笑する。一方の紅野は、悲しそうな、あるいは悔しそうな、複雑な表情をしていた。
今日のところは、これ以上の話し合いは難しいと判断したオレは、
「邪魔したな、緑川。また来るから」
と言って、紅野にアイコンタクトを送って、不登校生の部屋の前から退散することにした。
緑川の母親に、明日も来訪させてもらうことを告げて、玄関から外に出る。屋外から緑川武志の引きこもる部屋を見上げると、その外には広いバルコニーが備え付けられていることが確認できた。
不登校生の自宅を離れたところで、祝川沿いの生活道路を自転車を押しながら、クラス委員のパートナーに語りかける。
「思っていたとおり、一日で解決するのは無理だったな」
軽い口調で言うと、紅野は、寂しげな表情で、
「うん、そうだね……自分のチカラの無さを感じるよ」
と肩を落とす。
「まあ、最初から上手く行くことはないさ。ただ、さっきの会話だけでも、少しわかったことはある」
「そう? どんなこと」
「ひとつは、緑川の母ちゃんは、本気であいつのことを心配していること。もう、ひとつは、オレが緑川に『ヤリチン野郎』と思われていること。そして、最後は、オレと紅野がイチャイチャしていると思われてるってことだな」
冗談めかして、そう言うと、隣を歩く優等生は、顔を赤らめてうつむく。
(しまった! ヤリチンなんて、下品な言葉は彼女の前で口にするべきじゃなかった……)
焦ったオレは、
「あっ、スマン! つい、品のない言葉を……」
と、すぐに謝ったのだが、女子生徒の反応は、オレの考えたものとは異なっていた。
「黒田くん……私たちって……仲が良さそうに見えるのかな? どう思う?」
「えっ!? あ〜、どうなんだろう? 男女一緒に来たのが、緑川を刺激してしまった、とか? でも、紅野は、緑川本人にも、あいつの母ちゃんにも絶妙なタイミングで話しかけてくれたからな〜。アレには助けられたよ」
想定外の質問に、しどろもどろになりながらも、そう答えると、
「む〜、そういうことじゃないんだけど……」
と、彼女はなぜか、不満げな口調でそっぽを向く。
「いや、でも、本当に助かったんだよ。紅野も、イヤな想いをしただろうけど……オレが言われたことに対して、反論してくれようとしたよな? 今日は、一緒に来てくれて、ありがとう」
自転車を押しながら、そう言って頭を下げると、笑顔に戻った彼女は、ふるふると首を横に振り、
「私のことは別に良いの。それより、黒田くんが悪く言われるのが許せなくて……」
と、健気なことを言ってくれる。
そんな彼女の言葉を聞き、あぁ、本当に良い子だな――――――と心から思う。
自分は、紅野アザミのこんな優しい部分に惹かれたのだ……と、あらためて感じると同時に、彼女に対する罪悪感が、また少し大きくなってしまった。