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第一章 江戸駅発 その3

 夜空から星の光を取り除いたような漆黒の蒸気機関車が、今まさに息づき始めていた。

 蒸気機関車の火室に放り込まれた燃料が燃え上がり、火室の周囲の缶胴と呼ばれる貯水タンクに溜められた水が熱せられる。沸騰した水は爆発的に蒸発し、煙管を通って蒸気機関車上部にあるコブのような蒸気溜めという区域に溜まっていく。こうして蓄積された蒸気の圧力を使用して、蒸気機関は動作するのである。

 機関車の発車前には途方もない量の蒸気を作る必要があるため、投炭作業を行う機関助士は目まぐるしい忙しさとなる。額から滝のように流れ出る汗を拭く暇もなく、炭水車から真っ赤な固形燃料を次々にスコップで掬い上げては、火室に投げ入れなければならない。

 この赤き固形燃料、『血晶炭ケッショウタン』はその名の通り、凝固した血液のようなドス黒い色合いをしている。しかし石炭よりも遥かに燃焼効率が良いため、見た目の禍々しさとは裏腹に、人類の蒸気文明には無くてはならない存在でもあった。

 少しずつ蓄えられていくエネルギー量を反映するように、蒸気機関車の全身から熱気が立ち上っていた。

 肌に感じる熱と、運転室内に所狭しと取り付けれた無数の圧力計の挙動から、機関士は発車のタイミングを計る。


「発車二分前ッ」


 機関士のその掛け声により、機関助士は火室への投炭作業を止め、火室への入り口である焚口を開く床のペダルから足を剥がした。焚口の円形の窓から覗いていた、真っ赤に燃え上る血晶炭の光景が閉ざされる。

 発車準備は完了である。

 機関士が運転席の足元にある汽笛ペダルを踏み締めると、それに応えるように蒸気機関車がブボォーッという長い汽笛が吹鳴する。それは、まさしく竜の息吹きの如き厳かな呼吸音であり、自らの飛翔を周囲の生きとし生ける者に告げていた。

 その声に導かれて、徳川葵は竜の首元に当たる箇所である客車へと足を踏み入れる。彼女を護衛する任を負った近衛兵らは、既に乗車済みである。

 葵は停車所に立つ父親に向き合い、最後に抱き合う。


「ああ、お父様っ、お父様っ! どうか、どうか、ご無事で……」


 黒鉄蜂が江戸を襲う日はそう遠くない。今、この瞬間にも、江戸の上空に黒雲を作っているかもしれない。そんな江戸に父親が残るということは、葵との今生の別れを意味していた。

 無事を祈願する言葉が無駄になるかもしれないと、葵も理解していた。

 もう二度と会えない父親の顔を、体温を、胸板の形を、五感に刻み付けるように葵は抱き締め続ける。父親もまた、この時ばかりは徳川家の当主という立場も忘れ、娘の小さい身体を惜しむように抱き留めていた。


「ああ、葵っ。可愛い娘よ。……お前こそ、この旅をどうか無事に終えてくれ……。だがゆめゆめ忘れるな。京都に到着したとしても、なお、お前の旅路は続く。むしろ、到着してからがお前の始まりなのだ。江戸を失ったこの国が再び立ち上がるためには、お前の尽力が必要だ」

「はいっ、はいっ、分かっておりますとも」


 父親に問いかけに、葵は涙声で答える。父親の首元に縋りながら、ただ肯定する。

 震える葵の肩に、近衛兵の春嶽の手が無慈悲に置かれ、ゆっくりと、しかし力強く引っ張られていく。


「……葵様、そろそろ汽車が出発いたします。車内に入らなければ危険です」


 春嶽から耳元で忠告を囁かれても、葵の手は父親を放そうとしなかった。

 代わりに、父親が優しく自分の首に回された娘の手を解く。


「……お、お父様……」


 とうとうその時が来たと、葵の目が絶望に見開かれる。視界が涙で塗れ、最期になるかもしれない父親の姿が朧げにしか見えなかった。


「葵、いい加減、しっかりしなさい、お前はこの国を背負う徳川の当主となるのだから」

「お父様。葵は、葵はそのようなものになりたくはありませんっ!」


 葵は愚図る子供のように激しく頭を左右に振り、黒い長髪を荒々しい馬の尾のように跳ねさせる。


「聞きなさい。葵」


 死別への覚悟を決めた徳川家の当主の顔は、彫像のように固く、険しい。

 そして、未だに泣き止まない娘の耳元にそっと口元を寄せて、


「…………この列車に積まれているのは、この国の未来だ……。即ち、……」

「……えっ?」


 葵は、なぜこのタイミングで、と思わずにはいられなかった。

 父親が語った真実は、葵に幼いままでいることを許さず、この汽車から降りることも許さない、残酷な現実であった。もう我儘を言うことはできない。徳川家の当主、大江戸連邦の君主としての責任を葵に課していた。

 この事実を知ってしまっては、葵もこれ以上、児戯を続けることはできなかった。

 振袖の長い裾で涙を拭って、父親に向き直る。


「お父様っ」


 最後に、父親の雄姿を明確に捉えることが出来た。立派な姿であった。

 言葉を掛けようと口を開いた瞬間、春嶽によって客車の扉が閉ざされた。同時に、長い汽笛が再び鳴り響き、父親の声も、自分の声も伝わらない大音量が辺りを支配する。

 唯一、父親の存在を感じ取れるのは、客車の扉の丸窓から覗く、厳しくも優しい顔だけだった。だがその存在すら、蒸気機関車の出発により奪われる。

 ガクンッと客車全体が揺れ、機関車に牽引されて行く。それにより、窓に切り取られた父親の姿もまた、進行方向とは逆に向かって流れ去っていく。


「お父様っ、お父様ぁっ!」


 慌てて扉の窓に額を擦り付け、父親の姿を目で追った。だがその時には既に乗降場を抜けており、父親は人形のように小さくなっていた。そして、あっという間に豆粒大となり、点となり、見えなくなった。


「おとう、様」


 またもや、視界が歪む。だが今度は、涙を堪えた。

 これから徳川家の当主としての重圧が押し寄せるのだから、こんなことでへこたれてはならないと自分を叱責する。

 拳を固く握り、視界の外の消えた父親を思いながら、心に誓う。


††


 発車を告げる汽笛の音が聞こえたため、雲雀部隊は最後尾の二両の貨車の分乗した。貨車は進行方向から見て左右の側面が横開きできる作りになっていたため、過ぎ行く江戸の景色を楽もうと開けっ放しにした。

 当然、風が貨車の室内に流れ込むことになるが、彼らは空挺部隊であり、風に当たることには慣れっこだった。それよりも窓一つない監獄のような貨車に閉じ込められる方が辛かった。

 動き出した貨車の中で、弾薬の入った木箱に背中を預けて座った帯刀は、外の光景をぼんやり眺めていた。


「……あれ?」


 扉の四角い額縁に切り取られた光景に、ふと、興味を惹くものが映った。無論、それは一瞬のこと。景色は川の上流のような速度で流れ去ってしまったため、もしかしたら、という推測を超えるものではなかった。


「どうしたんですか? 隊長?」


 向かい側に座る日向が、首を傾げて帯刀に問う。


「……いや。……まさか、な」


 帯刀は立ち上がって貨車の外に頭を突き出すと、今しがた汽車が通り過ぎた乗降場を見つめる。だがあっという間に小さくなってしまったため、確認はできない。


「あ、危ないですよ、隊長っ」


 日向の注意と共に腕を引っ張られたため、頭を引っ込める。


「あー、ほらっ、髪がボサボサになっちゃったじゃないですか……」


 風で乱れた帯刀の髪を、鼻歌を歌う日向が楽しそうに手櫛で整え始める。

 帯刀は、勝手に髪を弄る日向を制止することも忘れ、今見た光景について考えていた。

 流れる景色の中に、とある人物がいたような気がしたのだ。白い軍服を着た男性。もしかしたら、あれは徳川家当主だったのだろうか。確か、娘の徳川葵を見送りに、乗降場を訪れていた。ならば、乗降場に立つ徳川家当主の姿が見えたとしてもおかしくはない。

 だが、帯刀の動体視力が捕らえた当主の姿は、その場で立ち尽くしていたのではなく、腰を直角に曲げてお辞儀をしている様子だった。それは、まるで娘を託すと言うように、帯刀達に向かって頭を下げているようだ。

 しかし、帯刀を始めとする雲雀部隊は平民出身である。この国の主であり、統帥権を持つ事実上の軍のトップである徳川家当主ともあろう方が、まさかそんなことをするはずがない。

 軍本部に対する不信感という色眼鏡もあり、そう結論付けた。

 自分の見た光景がまさか真実であったと、帯刀には知る由もなかった。

 その代わりに、帯刀は視界に別の現実を捕らえていた。

 江戸の北の空から、ゆっくりと近づいて来る暗雲。青い空を侵食し、犯していく黒き入道雲。透明な水に黒のインクを一滴垂らしたように、愚直なまでに大きく広がる。その勢いは留まることを知らず、後数刻も経たぬ内に江戸の地を舐め尽くすだろう。

 この列車に追いつくまでに、まだ時間が掛かるはずだ。まさにギリギリのタイミングで江戸から脱出できたと言える。

 そう安堵した時、空に広がる黒雲の先端の一部が千切れ、明らかに走行中のこの列車を狙って、上空を追走し始める。

 黒鉄蜂の群れが、江戸から逃走する列車を追って来ていた。


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