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終章 雲雀の呼び声 その2

 季節は巡り、初春。桜吹雪の舞い散る京都駅の前で、久方ぶりに彼らは顔を合わせた。

 京都駅の構内には何本もの軍用列車が停車し、動き出す時を待っている。駅前の広場には陸軍の一個師団が隊列を組んでおり、その中央に特徴的な赤茶色の軍服を着用する雲雀部隊が立っていた。

 ついに迎えた、江戸奪還作戦の日。その出征前壮行式に葵は来賓として登場した。

 広場に設けられた木組みの壇に立つ葵の目線は、帯刀と日向に比べて一段高い。葵の傍には春嶽が控えており、相変わらずの鋭い視線で構内に整列する雲雀部隊を見下ろしていた。それ故に、四人の目線の高さが揃うことはなかった。もうかつてのように、同じ高さで互いに見つめ合い、語り合うことなどできなかった。

 出征の壮行式という場であるため、近衛兵と同じ白い軍服に身を包んだ葵は演台に立ち、雲雀部隊の一人一人の顔を覗き込むように見回す。

 一瞬だけ、帯刀と視線が交わる。葵は微かに微笑みかける。帯刀も口端を軽く吊り上げるだけの笑みを返して来た。

 ああ、やはり、この人は変わっていない。

 それだけのことが、とても嬉しかった。大きくを息を吸って、葵は薄い桜色の唇で死地に向かう若者への呪いの挨拶を行う。

 ついに、この時が来たのである。

 人類が反撃の狼煙を上げる時。黒鉄蜂と雌雄を決す時。江戸を取り戻す時。

 徳川の御旗のもとに団結した連邦軍は、今まさに決戦前夜にいる。

 敗北の辛酸を舐めたあの日とは違う。兵站の確保、黒鉄蜂に対抗できる唯一の装備である蒸気背嚢の改良、そして雲雀部隊の増員と強化。青空を蜂から取り返すために、あらゆる準備を行って、今、この日がある。

 救貧施策により民衆の生活は一先ず安定を迎えており、銃後の憂いはない。

 よって、我が軍は安心して戦地に赴くことが出来るであろう。諸君の健闘に期待する。

 そのような内容を葵は述べ、出征前の挨拶とした。

 割れんばかりの拍手が鳴り響く中、話し終えた葵は降壇する。

 そう、誰もが思っていただろう。


「……ですが、……」


 葵は壇上に立ったまま、言葉を続けた。

 壇の脇で控えていた陸軍将校らがざわついている。事前に渡していた挨拶の文面とは違うのだから当然だ。視界の隅で、春嶽が苦笑を浮かべているのが見えた。

 ごめんなさい、どうか、この我儘を許してください。

 どうしても、この言葉を最後の挨拶として述べておきたいのです。


「……どうか、命を無駄にしないでください。もしご自身の命の危機を感じたのならば、不名誉であっても逃げ出すことも、あなた達の選択肢であることを覚えていてください」


 あろうことか、出征前の軍人の士気を下げるような発言である。こんな言葉を聞かされた一個師団は一様に困惑し顔を見合わせ、陸軍のお偉方も目を丸くし額をぴしゃりと叩いていた。

 葵が帯刀の方を見ると全く驚いた様子はなく、やれやれと言った表情で首を振ってみせた。

 そんな以前と変わらない仕草が、葵を勇気づける。


「……軍人であるからと言って、命を粗末にする必要は無いのです。……いえ、軍人であるからこそ、ご自分の命を大切にして、どこまでも生き足掻いて下さい。……覚えておいてください、皆様一人一人の命は、四十両の貨車一杯に詰まった黄金よりも遥かに価値があるということを。皆様全員が、この国を未来に向かって羽ばたかせる翼であるということを」


 言いたいこと言い切った葵は晴れやかな表情で一礼し、疎らな拍手の中降壇した。


「……ぜ、全員、列車に搭乗っ、急げっ!」


 士気が下がることを危惧した陸軍将校達が、慌てて雲雀部隊に指令を下し追い立てる。

 軍人とは上官の命令には逆らえない生き物であるため、葵の挨拶に困惑を抱きながらも、その脚は乱れることなく駅の構内に向かい、装甲列車に連結された兵員用の貨車に突入していく。

 せめてもう一目と、葵は帯刀の姿を探す。だが見当たらない。似たような背格好で、統一された軍服の群れに紛れ込んでしまったら、見つけ出すことは叶わない。

 もちろん、この場で語り合うことなど許されないと分かっている。例え言葉を交わせずとも彼の姿を、彼の存在を感じたかった。

 葵は心臓の高鳴りを抑えつけるように、胸の前で手を組んだ。

 あの時以来、帯刀のことを考える度に心臓の鼓動が早くなる。

 青空を飛ぶという願望が、水野の裏切りという最悪の状況下で叶ったあの時。藩兵のライフル銃から葵を守るため、帯刀が葵を抱えて空へと逃げたあの時。見る見る遠くなる地表に恐怖していた葵を、帯刀の右腕が強く抱き締めてくれた。年頃の少年の胸に抱かれるなど生まれて初めての経験だった。目まぐるしく変化する事態に混乱していた葵だったが、あの時の帯刀の腕の感触と温かさを今でも覚えている。

 島津帯刀という存在を、意識するようになってしまった。憧憬という感情を超えて。

 きっと気の迷いに過ぎないだろう。危機的状況に陥ったことによる興奮を帯刀への恋心と錯覚しているだけ。恋愛経験も同年代との交友関係もないからこのような考え違いを抱くのだ。

 そう頭では分かっていても、徳川家を継いだことによる心理的圧迫感や責任の重さで窒息しそうになった時、帯刀のことを思い出すとどこか安心してしまうのだ。

 この数か月の間、意見が対立する重臣との論争や様々な施策の調整で疲労していた。つい、帯刀の姿を見たいという少女としての願望を抑え切れなかった。だから、本来であれば出席しなくとも良かったこの壮行会の来賓となったのだ。

 けれども、もう帯刀の姿は駅前にも、構内のどこにもなかった。先程まで一面を埋め尽くしていた軍服の姿は無くなり、全て軍用列車の中に消えていた。

 葵は見送りのために、春嶽と共に乗降場の線路きわに立つ。

 駅員の警笛が鳴り響き、少し遅れて機関車の汽笛がこだました。蒸気の息吹を放った機関車がゆっくりと、しかし力強く車輪を回して進み始める。葵の視界から軍用列車の車両が流れていく。車両の全体には装甲が厚く張られているため、車窓はなかった。窓を覗き込み、帯刀の姿を探すことも出来ない。


「……いずれ、慰問のために、葵様が戦地に赴くこともあるでしょう。その時に、また会えるはずです」


 浮かない葵の表情を察してか、傍らに立つ春嶽がそっと呟いた。


「心遣い感謝いたしますわ、春嶽。……でも、大丈夫です。女々しいままではいられませんもの。……彼の、彼らのように、私も、私の戦場で立派に戦ってみせます」


 決意を新たに、葵は胸を張る。まだやるべきことは山ほどあった。彼らに恥じぬように前を向かなければならない。

 そう思った時、眼前を流れゆく列車の車両から爽やかな音色が鳴り響いた。

 ピィィイイィイッ。


「……あ」


 聞き覚えのあるその鳴き声を、葵は目を閉じて聞き入る。まるで彼に励まされているようだ。

 軍用列車と共にあっという間に構内から立ち去ってしまったが、確かに葵の耳に届いた。


 それは間違いなく、春の訪れが近いことを告げる雲雀のような笛の音だった。


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