終章 雲雀の呼び声 その1
浜松駅のプラットフォームでは武装した藩兵が隊列を組んで待ち構えており、物々しい雰囲気で葵達を出迎えた。
しかし結論から言って、葵が危惧した事態とはならなかった。
列車の屋根に散乱していた、黒鉄蜂と水野の護衛の死骸を見た瞬間に、藩兵の間に動揺が走った。更には徳川家の令嬢である葵が、あろうことか客車ではなく機関車から降り、赤い煤と汗に塗れた泥臭い姿で現れたことが、藩兵を混乱に至らしめた。
果たして彼らは、水野から列車の積み荷について聞かされていたのか。あるいは詳細は何も知らされず、徳川家の後継ぎが乗る列車の補給が終わるまで警護をしろ、という建前の命令を受けていただけなのか。
列車が駅の構内に入って来る直前まで略奪を企てていたが、機関車から現れた葵の姿に何かを感じ入ったのかもしれない。連邦という国の新たな可能性を、葵に感じたのかもしれない。
全ては憶測に過ぎず、何も分からない。ただ事実として、藩兵は修羅場を潜り抜けて来た葵達に対して、軍人の鑑とも言うべき規律と礼儀を持って歓待した。
積み荷の略奪どころか、その中身について問うこともせず、迅速に補給作業を行った。別れ際には引き留めることもなく、藩兵全員が一糸乱れのない見事な敬礼で見送ったのである。
こうして浜松駅を無事に出発した列車は、何事もなく翌日の早朝に京都駅に到着した。まるで穂積大佐による略奪、水野の襲撃、黒鉄蜂との戦闘など、これまでの出来事が全て無かったかのような、拍子抜けするほどに呆気ない旅の終わりであった。
しかし感慨を抱くことも、全員で成功を祝うことは出来なかった。葵と春嶽を始めとする近衛兵は、京都駅のプラットホームに足を踏み入れた瞬間、彼らの到着を一日千秋の思いで待ち望んでいた幕府の重臣達に取り囲まれてしまう。
彼らの纏う高級な着物やスーツには染み一つなく、今が戦時であることを忘れるほどに美しかった。脂ぎった顔とふくよかな体格を保っているところを見ると、なぜこの国が物資不足であるのか疑問を誰もが感じざるを得なかった。
「おお、葵様、よくぞご無事で。ああ、せっかくのお召し物が台無しですな。しかし命あっての物種でしょうか。途中で黒鉄蜂に襲われたと聞いた時は肝を潰しましたぞ」
「一ツ橋家のご子息もご顕在か。いやはや、流石、名家の御生まれですな。黒鉄蜂と相対しても、見事に葵様をお守りくださったその功績。全国民を代表して御礼申し上げますぞ」
「さて、葵様、これからの大江戸連邦には葵様のお力が不可欠でございます。お疲れのところ誠に恐縮でございますが、これより今後の対応について打ち合わせでも」
「おう、ならば、私の別荘などは如何でございましょう?」
「いえいえ、私の方で雅な料亭を抑えておりますから、そこで食事でもしながら……」
蜜に集まる蜂のように葵に群がり、好き勝手なことを述べ始める重臣達の魂胆は明らかである。新たな当主となった葵に取り入るために必死なのだ。
「ま、待ってください、ま、まずは、雲雀部隊の皆様に、御礼を……」
葵と近衛兵は雲雀部隊から引き離されるように連れ出される。葵は取り囲む人群れから抜け出そうともがきながら、蚊帳の外に置かれている帯刀達の方へと向かおうとしていた。
だが周囲は、それを許さない。
「雲雀部隊? ああ、彼らには我らから労いの言葉を賜りましょう。ご安心ください、葵様」
「ち、違います。私自身の口から、彼らに御礼と、出来るならば恩賞も……」
「はは、まだまだ葵様が勉強不足ですな。何もそのようなことなさらずとも良いのです」
「……どうか、お待ちください。我々近衛兵も雲雀部隊には恩義があります。彼らの忠誠には報いるためにも、正式に感謝を伝えさせてください」
春嶽が葵の肩を持つと、重臣達は露骨に嫌そうな表情を浮かべる。
「春嶽君までそのような我儘を言うとは……、君はもっと弁えていると思っていたが。老婆心から忠告するが、雲雀部隊のような出自の低い者に甘い顔を見せない方がよいぞ」
「そうそう、彼らは月々の給金に見合った働きをしたまで。葵様からのお言葉も、恩賞も必要はございません。まあ、我らの方から心付けでもを渡しておきましょう」
彼らと雲雀部隊の身分の違いは、両者を隔てる人々の壁の厚さが物語っていた。
人々の隙間から僅かに見える、互いの顔。
葵は必死になって帯刀を追おうとするが重臣達の壁に阻まれる。必死に右手を伸ばしても空を掴むばかりである。一方、帯刀は全てを悟った表情で立ち尽くし、少し寂しげに微笑む。
怒涛の如き人の群れに葵達が押し流されて行く。葵達の姿と共に、構内にいた者は跡形もなく消えていた。残った雲雀部隊を迎えるものも、労うものも誰も残ってはいなかった。
閑静が戻った京都駅のプラットホーム。賑やかであった分、閑散とした空気が余計に身に染みる。労いの言葉など無くとも、耳に痛いほど響き渡る沈黙が万雷の拍手の代わりである。
帯刀は小さく息を吐き、部下達を振り返った。
「……お疲れ様、皆」
部下から返って来た表情は、どれも疲労に満ちていたが間違えなく微笑みであった。果たした貢献の重さは、誰よりも自分自身が知っている。どれほどの黄金や宝飾品、万言を積まれたところで意味など無い。
肩を並べる戦友と、想いを共有できればそれで良いのだ。
そうして、彼らは互いに健闘を称え合った。
††
翌週、徳川家当主の代替わりが世間に公表され、ラジオ放送を通じて葵の挨拶の肉声が全国に流れた。これで正式に徳川葵が徳川家当主となり、幕府の首長となった。
帯刀はラジオから発せられた葵の肉声を京都府内の陸軍兵舎の中で聞き、葵がさぞ緊張しながらマイクの前に立っているだろうと想像すると無性に可笑しくなって、笑いを堪えていた。
京都駅で葵を待ち構えていた幕府の重臣達は、まだ十代の小娘に取り入って、あることないことを吹き込み、権勢を思いのままにしようと画策していたのであろうが、葵は大人しい神輿にはならなかった。
葵が当主となってから最初に始めたことは、公金による貧困者、特に此度の黒鉄蜂の襲撃によって私財の多くを失った江戸の元住民の救済策の立案であった。当面の生活援助と仮住宅の提供、税率の引き下げ、また再就職先の斡旋などが主だった方策である。無論、これらの施策を行う原資は、江戸より命懸けで運んで来たあの財宝である。
これには多くの重臣から反対意見があったということは、帯刀の耳にも届いていた。
江戸という首都を失った今、連邦が金を掛けるべき箇所が他にあるのではないか、という意見が挙がったようである。特に軍部からの突き上げは激しく、速やかに軍備拡張を行って一日でも早く黒鉄蜂を根絶やしにすべきという強硬論が主張されていたらしい。
それでも葵は徳川家当主としての地位と、江戸から京都までの長い旅路を共にした近衛兵の名前を利用し、反対意見をねじ伏せたようだ。
近衛兵は幕臣を多く輩出した名家の出身であり、彼らの実家は政治にも強い権限を持つ。近衛兵が家を巻き込んでまで葵の味方に回れば、葵の反対勢力も強く言い出すことはできない。
『まずは国家の土台である万民の生活が安定してこそ、復興が成し遂げられます。私は黒鉄蜂の恐ろしさを身を持って知りました。そして北部防衛線の教訓からも、兵站を最も重視すべきであると考えます。そのためには何よりも国内の経済の安定が最優先です』
ある日、葵が報道関係者に対してそう語ったという記事が、新聞の一面を飾っていた。
「まさか、あの世間知らずのお姫様が、こんなご立派なことを言うなんてねえ」
新聞を広げて読んでいた帯刀の背後から、日向が少し嬉しそうな表情を覗かせた。
「……ああ、全くだ」
帯刀の近くに鏡はなかったが、もし覗き込んでいたら日向と同じ顔をしていただろう。
葵が推し進めた救貧施策は、大衆からは諸手を上げて歓迎された。国全体の経済が混迷しており、庶民の暮らしが脅かされている中、葵が差し出した手は人々からは仏の御手のように見えることだろう。
「ちなみに、こっちのは俺達にも関わることだぞ」
帯刀は新聞を一枚捲って別の記事を日向に見せる。
そこには『井伊家軍費横領事件の再調査』という見出しがあった。細々とした文字で、葵が自ら横領事件の再調査の陣頭指揮を執ると宣言したことが書かれている。
「……これを読むと、井伊家から差し押さえたペンダントの中に、横領事件の真相を示す裏帳簿が隠されてたってことらしいんだが、……これってもしかして」
記事を食い入るように見つめている日向に、帯刀は問う。
「は、はい。葵様からペンダントを返して頂いた時に……。私、すっかり忘れてたんですが、あれってロケットになってて開閉ができるんです。葵様から受け取った時に、偶然何か細工に指が当たって開いて、中からポロッと折り畳まれた紙切れが出てきました」
まさかあの激戦の後にそんな大発見があったとは、帯刀も思っていなかった。
「江戸の荒廃で多くの書類は紛失してしまっただろうから、本当の意味で真相が明らかになる日が来るのか分からんが、少なくとも俺達の父親の名誉は回復されたわけだ。……感謝する」
「いいえ。……私も、これで、ようやく父の無念を果たせたような気がします」
そう答えた日向は涙滴型のペンダントを右手に握りながら、その眼に涙を浮かべていた。




