第四章 欲望の終着駅 その13
初めて操縦桿のレバーをこれほど強く握った。
その時、蒸気背嚢が爆発するような勢いで蒸気を噴射したため、驚いてしまった。しかし、父さんが作った機械だから、きっと俺の思いに応えてくれると信じていた。
背中の翼に身を預けると、女王蜂との彼我の距離を瞬時に詰めて肉薄した。女王蜂の懐に文字通り飛び込むと、右腕を広げてその腹部に喰らい付いた。鋼鉄の如き体表が恐ろしく強固で、強かに打ち付けた右肩が鈍く痛む。
これは、鎖骨辺りにひびが入ったかもしれない。今更、そんな些末なことを気にしても仕方ないか。
ギギイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ。
帯刀が自ら弾丸となって女王蜂の腹部に衝突したが、その捨て身の体当たりを受けても女王蜂は嘲笑うかのように金切り声を奏でている。
だが、まだ、これからだ。
右手首に巻いた残圧計を見る限り、蒸気の残量はまだある。帯刀は更に操縦桿を握り込んで、蒸気の翼を激しく羽ばたかせた。帯刀の期待に応えるように、蒸気背嚢が大きく震えて蒸気を絞り出す。背中に感じる蒸気背嚢の震動は、まるで父が背を押してくれるようだった。
そして、ついに、蒸気の推力が女王蜂に伸し掛かる重力に打ち勝った。女王蜂の六本脚が列車の屋根から剥がれていき、その巨体が空へと持ち上がる。
だが、まだ蒸気背嚢の力はこんなものではないはずだ。
まだまだ、そんなものか。お前も父さんの子供、俺の弟ならもっと出力が出せるだろう?
蒸気背嚢が熱い。蒸気背嚢の熱は今までに感じたことがないほどに熱かった。一挙に蒸気を解放したことによる噴射孔の摩擦熱によるものだろうか。理屈の上ではそうなのだろうが、帯刀には蒸気背嚢も感情を高ぶらせているように感じられた。
蒸気解放の推力は重力の楔から帯刀と女王蜂を解放させる。両者はみるみる列車を離れていき、鋭角の斜線を描くような軌跡を刻む。その速度はやがて列車を追い越し、機関車の先を行く空を飛翔していた。
これは、地上に舞い戻るための蒸気の残量を考慮しない、特攻。
この選択を、帯刀は後悔していない。
女王蜂を出来る限り、列車から突き放す。
ひたすら、空へと挺進。昔、夢見たように空を飛んでいる。
幼い帯刀がふと呟いた空想を、父さんが蒸気背嚢によって実現してくれた。だが、兵器に使われ、結果的に多くの若者の命を奪っている現状を、快くは思っていないだろう。
父さんが望んだ、誰もが空を飛べる平和な時代にするために。戦うためじゃなく、ただ純粋に空を飛ぶことを楽しめる時代とするために。自分がその礎になれるなら、それも悪くない。
どうせなら、このままどこまでも飛んで行きたい。空の向こうへと。青空へと目指し、甲高い鳴き声で春の訪れを告げる雲雀のように。
しかし、それは叶わない夢だ。
ついに、蒸気背嚢の鼓動が途絶え、熱も失われた。それはつまり、蒸気が底を尽きたことを意味する。
瞬時に推進力が失われ、逃れようのない重力の手が伸びる。
帯刀と女王蜂は、地面に吸い寄せられていく。女王蜂は必死に片方の翅を動かしているが、その動きは安定せず、木の葉のように大き揺れ動きながら地面に叩きつけられた。巻き上がった土煙が一瞬だけその姿を隠した。
煙が晴れると女王蜂の姿が白日に晒される。重力の激しい抱擁により落下したが、でもまだ息はある。唯一の翅も地面との衝突で歪み、鋼鉄の如き装甲も一部が欠落しているものの、六脚で立ち上がるだけの力は残っていた。
女王蜂は激怒するように左右に顎をかみ合わせ、カチカチと音を鳴らす。未だ尽きぬその生命力は、まさしく怪物である。
しかし、そんな女王蜂の威嚇の音すら掻き消すほどの、途方もない咆哮が轟く。
ブォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ。
女王蜂のすぐ傍で息吹きを放ったのは、鉄の竜。
そう、女王蜂が落下したのは、列車が辿る線路の真上であった。
帯刀の予想通り。女王蜂の落下地点も予測して、今まで飛んでいたのだ。
機関車から巻き起こる、蒸気背嚢とは比べものにならないほど激しい排煙。それは竜が吐き出す炎のように地表に広がり、女王蜂も絡め取られている。
竜のアギトが、女王蜂に迫っていた。
ギギイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ。
迫り来る鋼鉄の竜に気付いた女王蜂は逃げ出そうするが、歪んだ片方の翅をどれだけ動かしたところで自重を浮上させることは出来なかった。重力の鎖で縛にされたまま、処刑台に立つ囚人の如く刑の執行を待つしかない。
ブォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ。
鉄の竜は大地を踏み鳴らしながら線路を駆け抜けて、その進行上にあった女王蜂を当然のように噛み砕いた。噛み合わない歯車を無理矢理組み合わせたような、金属類が切削されるような轟音が、鉄の竜の咀嚼音となる。
車輪の下で女王蜂が粉々に踏み締められ、その体液を撒き散らしていく。
こうして、ようやく女王蜂は沈黙する。しばらくすれば、竜の尾から排泄されたようにその残骸が姿を現すだろう。機関車とその後から続く四十両の貨車の質量に押し潰されれば、原形など留めていないだろう。それが女王蜂であったかどうかも分からないかもしれない。
だが、これで女王蜂は潰えた。
…………さて、どうして俺が女王蜂の最期を見下ろしているのだろう。蒸気背嚢はとうに尽きており、操縦桿をどれだけ握り締めたところで推進力は得られないのに。
呆然とそんな疑問を抱いた時、その回答が背後からあった。
「……ご無事ですか、隊長」
その声は、日向のものだった。
機関車の運転席に座る葵の傍にいた日向が、空中に投げ出される帯刀の姿を見つけて、すぐに蒸気背嚢を噴射させて飛んで来てくれたようだ。
帯刀の腰に細い腕が巻き付き、その身体を力強く支えていた。首を回すと、すぐ近くに日向の顔がある。間近でよくよく見ると高貴な顔立ちをしており、それが名家の出自の証であることがよく分かった。
「……ああ、お陰様でご無事だ」
流石に、冗談を言うほどの気力はなかった。
そのまま日向に支えながら空を泳ぎ、ゆっくりと機関車の元に下ろされる。もはや立ち上がる力もなく、狭い機関車内をせかせかと動き回る葵を見上げるように、その場に座り込んだ。機関車の床は燃焼された血晶炭の出す赤い煤に塗れていたが、汚れなど気にしている場合では無かった。
「お、お帰りなさいませ、帯刀様。……あの、本当ならばきちんと労って差し上げたいのですが、今は、それどころではないのですっ。あ、もうすぐ浜松駅に到着いたしますので、しばらくお待ちください」
葵は運転席に備えられたボイラーの気圧計や水量計を確認したり、焚口を覗き込むことに忙しいようで、帯刀に一瞥もくれようとしない。
だが、ちょこまかと忙しそうに動き回る葵が、これまでに見たことがないほどに楽しそうなので、帯刀が文句を言うはずもなかった。
「……ええ、気にしないでください。葵様は葵様の仕事があるでしょうから」
帯刀は泥のように崩れ落ちそうになる身体に喝を入れ、壁を支えに立ち上がる。
そして、運転席の窓から空を見上げた。
美しい茜色、いやもうすぐ夜空に切り替わろうとしている。西の空は赤く、東の空は紺色に染まり始めていた。そして、二色の中間は群青色。しかし、色彩の移り変わりを堪能している場合ではない。
印象派の絵画のような空を隅から隅まで見回した。どこかに敵影はないか。迫り来る蜂の姿はないのか。目を皿のようにして、空を浚った。
「……隊長、もう蜂の姿はありません。我々は生き延びたんです」
空を偵察飛行していた日向が戻り、背筋を伸ばしながら帯刀に報告をした。
これで、今度こそ全てが終わったのだ。
列車は少しずつ速度を落としている。窓を流れる背景が穏やかになっている。正面には、帯刀達を迎え入れようと次第に近付き、大きくなる浜松駅の姿があった。
「しかし、このまま浜松駅に到着して、良いのでしょうか。もし、また、襲撃されるようなことがあったら……」
運転席でハンドルに手を掛けブレーキ圧力を込めようとしていた葵が、ポツリと不安げに呟いた。その脳裏には水野の姿と貨車の内部に収められた黄金の魔力を思い描いているようだ。
浜松駅に水野の息の掛かった者が、黄金を略奪しようと待ち受けているかもしれない。そうした者がいなかったとしても、積み荷が財宝であることを知れば略奪者に転向する恐れがある。
だが、黒鉄蜂の来襲のため血晶炭の残りはない。ここで補給をしなければ、一歩たりとも進むことは出来ない。
掛けるべき言葉に悩む帯刀。
「……葵様、どうか、ご自分の国民を信じてください。水野は知恵者でしたが、それ故に自分の経験や頭脳を過信し、他人に心を許さなかった。財宝の件を側近以外の者に漏らしていたとは考えにくいです」
正直なところ、この推測が当たっているのか自信はない。
「ええ、そうですね。……仮に罠があったとしても、もう停車せざるを得ないですわね」
「……ただ一つ、言えることは、財宝の件を知っていたとしても、水野を失った浜松の藩兵が略奪に走るかどうか、それは葵様次第でしょう。どちらにも転ぶ可能性があります」
「……そ、それは、どういう意味でしょう?」
不安げに揺れる双眸で、縋るように帯刀を見つめる。
藩兵の行動が自分に委ねられていると聞けば、焦りもするだろう。
「……藩主であり、略奪を企てた諜報人の水野が死んだ以上、藩兵達がその遺志に素直に従うかどうか分かりません。徳川家の後継ぎであるあなたの姿を目の当たりにした時、仮に彼らが未来への展望を抱けず、これからの連邦に不安を覚えたのならば、財宝を奪うことを考える可能性はあります」
「……では、人の上に立つ資質のない私を見たら、またもや略奪が繰り返されるやも……」
葵の顔面から血の気が引き、空の群青色のような蒼白となる。
そんな葵の不安を、帯刀は笑い飛ばした。
「……そうでしょうか? 葵様、ご自分の姿をよく見てください。汗水を垂らし、煤に塗れ、仲間の血を浴び、着物の袂を背中で結んだ姿、機関車を自ら運転する君主の姿に、何の感嘆も抱かない兵士がいるとお思いですか?」
そう、どう見ても箱入りのお姫様ではない。最前線で兵士と行動を共にする指導者こそ、民百姓が最も焦がれ、忠誠心を抱くものではないか。
「……で、ですが、私は……」
「葵様、自分自身を信じてください。あなたはこれから数々の困難に立たされるでしょう。中にはあなたの未熟さを非難する者もいるでしょう。……ですが、あなたに共感し、あなたの背に付き従う者は必ずいるはずです。……一ツ橋少佐も、そして不詳この私も」
「……帯刀、様、……心より、……お礼、申し上げます……」
葵が着物の袖口で目元をそっと拭う。
そう、まだ、彼女の、そして自分達との戦いも終わってはいない。困難はこの先にいくつも考えられる。江戸を失った大江戸連邦の改革に、軍備の再編成、そしてその先に控える江戸の奪還。この大空を黒鉄蜂から取り戻すための戦いは、道半ばだ。
終着駅まで、まだまだ遠い。




