第四章 欲望の終着駅 その11
貨車の屋根の上に立った春嶽は屈みながら下に腕を伸ばして、貨車の内部にいる葵の手を取って引っ張り上げる。羽のように軽い葵の身体がふわっと浮き上がり、片腕を屋根に掛けてよじ登った。これで貨車に捕らえられていた全員が列車の上に揃う。近衛兵の白い軍服と雲雀部隊の赤茶けた軍服のコントラストは、上空からさぞ美しく見えるだろう。
屋根には黒鉄蜂の食べ残しである藩兵の血溜まりと、蒸気背嚢や突撃銃、ライフル銃、軍刀が散らばっていた。最期まで戦う覚悟を見せた者達の忘れ形見だろうか、あるいは敵前逃亡のために投げ捨てたのだろうか。
雲雀部隊は屋根に散乱していた突撃銃や蒸気背嚢を拾い上げて、各々装備する。近衛兵もライフル銃や軍刀を携える。
「これより、近衛兵、雲雀部隊の合同で作戦に当たる。葵様を命を懸けてお守りし、機関車までお連れするっ」
二色の軍服は二つに分かれる。赤茶色は空に、白色は竜の背を駆け抜ける。
蒸気背嚢を装備した雲雀部隊は列車の周囲を旋回しつつ、葵と近衛兵に接近してきた黒鉄蜂を突撃銃で撃ち落としていく。
頭上で叫ぶ突撃銃の咆哮に、葵が小動物のようにビクリッと肩を震わせた。葵がこれほど間近に銃声を聞くのは初めてのことだ。鼓膜と突き破らんとする銃声の爆音は慣れない者にとっては、弾丸をその身に浴びたような衝撃のはずだ。
「……葵様、どうか、しばし我慢ください。今、我らに黒鉄蜂に対抗する手段はなく、日向の銃撃だけが頼りなのです」
春嶽は葵の手を引きつつ機関車に向かって走る。
「だ、大丈夫ですっ、春嶽っ、分かっております。少し驚いてしまっただけで」
そう強がっているものの、柴崎の死を目の当たりにした直後に、戦場に足を踏み入れたという実感が葵の足を鈍らせている。
元気づけるには何をしたらよいのか。あの男なら冗談の一つでも言うのだろうが、私には到底できない。せめて世間話でもして気を紛らせるしかないか。
「葵様のお耳を騒音で汚すことになり、申し訳ございません。あの者にもう少し射撃の腕があれば、余計な銃声を奏でることもなかったのでしょうが。……どうにも昔から杜撰で、繊細な作業が出来ない性格なのです。よくぞ、雲雀部隊に入隊できたと私としては驚くばかりで」
「聞こえてるよっ、春嶽君っ」
葵の注意を逸らすために世間話を始めたところ、日向が怒声と共に上空から舞い降りた。列車の背を駆ける春嶽達と並走するように飛翔し始める。
「君も本当に相変わらずだね。頭が固くて、融通が利かなくて……。あ、でも泣き虫は改善したかな? 昔はよくチャンバラごっこで私に負けて半ベソかいていたよね」
「それは君の記憶違いだ。私は負けてないし、泣いてない」
「ははーん、強がりなところは変わってないね。昔は私の方が背が高かったし、剣術の腕も上だったもんね。それがいつの間にか、近衛兵になって、偉そうに指示を出す身分なんだから驚いちゃうよ。……あと、私から奪ったペンダントを葵様に贈るってどういう頭してるの?」
それを言われると、春嶽はぐうの音も出ない。
「え、…・…そ、それは、どういう。これは、……日向様の物、なのですか?」
目を丸くした葵が胸元で揺れていた涙滴型のペンダントを掴み、表面に金細工で描かれた翼の模様を見つめる。
「ええ。私財拠出令によって、そこの男が私の首から引き千切った逸品です。まさか、葵様に贈答しているとは私も思いも寄りませんでした」
「ほ、本当なのですか、春嶽。な、ならば、これはお返しいたしますっ」
「いいえ、構いません。軍に染まり切った私が今更貰ったところで似合いませんから。葵様のような高貴な方に身に付けてもらった方が、ペンダントも喜ぶでしょう」
「い、いけませんっ、絶対にお返しします」
頑なな葵に、日向が根負けして苦笑した。
「分かりました。……この戦闘を生き抜いたら、お返しいただきます。……まあ、謝罪は後でそこにいる男にたっぷり聞かせてもらいましょう」
「……ああ、悪かった。……」
「お、珍しく素直、そうそう、いつもそうしていれば可愛げがあるのにね」
「…………ふふっ」
春嶽と日向のやり取りを呆気に取られたように眺めていた葵が、口元を手で押さえつつ小さく笑う。久しぶりに見せた、柔らかい微笑みだった。
「春嶽が、そのような、年頃の男の子らしい表情をするのを始めて見ました。良いですね、幼馴染というのは。昔を自分を知っている相手がいると恥ずかしさもあるでしょうが、昔の自分を思い出させてくれる相手は希少でしょう? ふふ」
葵の含みのある笑いには、春嶽達への憧憬が込められているようだった。
徳川家の中で暮らして来た葵には、年頃の友人を自由に作ることが許されていなかったはずだ。幼馴染や十年来の知己といった関係性への憧れがあるのだろう。
そう考えると、傍らに飛んでいる口やかましい幼馴染が、少しだけ有難く思えてくる。
国家の手足となるという思想が構築される前、ただの子供として毎日を駆け回っていた頃の自分は、確かに泣き虫だったかもしれない。すっかり忘れていた幼い頃の記憶が、日向と話している内に脳の奥深くから浮上して来る。
……そうだ、剣術を真剣に習おうと思ったのは、女の子にチャンバラごっこで負けてばかりでかっこ悪いと痛感したからだ。最初の思いは、ただそれだけ。国を守ろうとか、一ツ橋家の使命だからとか、全く関係なかった。女の子の幼馴染に負けたくない、そんなつまらない自尊心が全ての始まり。
私財拠出令によって井伊家に踏み込んだあの日、軍刀で幼馴染を恫喝したあの日からずっと張り詰めていた何かが、今、少しだけ緩んだような気がする。
春嶽は呼吸を整えてから、決意を新たにするように軍刀の柄を深く握り直す。
「…………日向、君が無事で良かった」
機関車を真っ直ぐに睨みながら早口で礼を言う。
だがその言葉は、日向が放った突撃銃の発砲音で掻き消されてしまった。接近していた一匹の黒鉄蜂が穴だらけになって墜落していく。
「あ、え、ごめん? 何か言った?」
日向が硝煙の昇る突撃銃を構えながら、キョトンとした顔で春嶽を見つめている。
「……二度目はないっ」と春嶽は乱暴に返答する。
だが、春嶽の傍らを走っていた葵には聞かれていたようで、「ふふっ」と再び笑われてしまった。葵の足取りは先程とは打って変わって滑らかになっており、これだけでも日向と会話をした意味はあったのだろう。
「ねえねえ、春嶽、耳、真っ赤だよ? 何て言ったの?」
「……ちょっと黙ってろ。機関車は目の前だ」
春嶽の言葉通り、煙突から入道雲の如き蒸気を噴き出している機関車が近くに見えた。彼我の距離は丁度、車両二両分。通信車と炭水車を超えた先にある。
春嶽が先陣を切って、車両の連結部分の間隙を飛び越えて、通信車の屋根に着地する。飛び乗ったその瞬間、屋根に不自然な大穴が空いていることに気付いた。
悪い予感が背筋を走り、後ろに控えていた葵達を手で制す。こちらに来るなという意図が伝わり、葵達は今まさに飛び乗ろうとしてた足を一斉に止めた。
ギギギイイイイイッと金属の悲鳴のような金切り音が届き、屋根の穴から黒鉄蜂の頭部が飛び出す。胴体が突っかかっているためか、屋根から見えるのは頭部だけだ。
黒鉄蜂の左右に開いた顎には夥しい量の返り血と肉片がこびりついており、血のような複眼はすぐ間近にいる春嶽を物欲しそうに捉えていた。通信車内にいた誰かを食し終えたばかりというのに、まだ腹が満たされないらしい。
黒鉄蜂が身を捩らせると、通信車の屋根がミシリッと音を立てて歪む。そのまま強引に穴を通り抜けた黒鉄蜂は、狭い通信車から解放されたことを喜ぶように透明の翅を広げた。
その巨体に、春嶽は思わず目を奪われた。列車の周囲を飛び交う黒鉄蜂に比べると遥かに巨大である。
これが、女王蜂であることはすぐに分かった。しかも目的地である機関車に立ち塞がるように浮かんでいる。
春嶽は空に帯刀を姿を探した。この女王を討ち取るには帯刀の力が不可欠である。
しかし雲雀部隊の多くは、上空から迫る黒鉄蜂を迎撃することに手間取っているようだ。黒鉄蜂も女王蜂を守ろうと、一斉に集って来ている。
帯刀の助力を待つ余裕はない。
春嶽は腹を括る。
「日向、私がこいつを引き付けるっ。隙を見つけて、葵様を抱えて機関車まで向かえっ」
そう言い放ち、日向からの返答を待たずして女王蜂に向かって駆け出す。
決して闇雲な一刀ではない。黒鉄蜂と言えども生物であり、生体構造学的に弱点となる場所は存在する。特に比較的軟体である関節部分や翅、複眼は軍刀でも十分に切断ができる。
屋根を蹴って跳躍。女王蜂の頭部を飛び越え背面に回り、左の翅の付け根に軍刀を放った。
ギンッという金属がぶつかり合う音、そして火花が散った。軍刀は翅を切り抜けられず、翅の付け根の半分ほど斬り込んだ地点で停止していた。
何という強固な体表だろうか。驚嘆する他ない。
せめて、あと一太刀浴びせることが出来れば。
女王陛下の機嫌を損ねてしまったか、女王蜂は再び翅を擦り合わせてギギギイイイイイッと金切り声を発して春嶽を威嚇した。そして微細に震動させた翅で気流を下方に叩きつけると浮き上がり、背中に張り付いた春嶽を振り落とそうと旋回行動を取り始める。
春嶽は急いで女王蜂の翅の付け根を掴み、背中にしがみ付いた。
女王蜂は右に左に揺れて、偶に反転し、その場で一回転を繰り返すなど、自由奔放に空を駆け抜ける。重力や慣性力の方向を示す矢印があったならば、春嶽の身体からウニの棘のように四方八方へと伸びていただろう。
春嶽は三半規管を手に取って転がされているような感覚に陥り、胃から内容物が込み上がって来るのを必死に抑える。
天と地が頻繁に入れ替わる視界で、どうにか列車を捉える。そこには日向と共に機関車の運転席に辿り着いた葵が映っており、一先ず目的は達成できたことに安堵した。
しかし、この女王を撃ち滅ぼす算段は立たない。いや、今の自分では決して倒すことは出来ない。口惜しいが如何なる名刀でもこの女王は殺せない。出来るとすれば、彼だけだ。
春嶽は、帯刀の無事と帰還を待ち望まずにはいられなかった。




