第四章 欲望の終着駅 その10
貨車の外の様子は見えずとも、戦闘が始まったことは帯刀だけではなく、その場にいる全員が分かった。
頼りないライフル銃の発砲音が続いた後に、耳を塞ぎたくなるほどの断末魔の大合唱が聞こえれば、嫌というほど外の状況が想像できた。ある意味、凄惨な光景を葵に見せなくて済んで良かったというべきか。
「クッ、やはり、開かないか」
と、春嶽が溜息を吐き捨てる。
外側から南京錠を掛けられた貨車の扉を何度も蹴りつけて、打ち破ろうとしていた。だが扉は貝のように固く口を閉ざしたままである。
「無駄なことは辞めた方がいいですよ、一ツ橋少佐。こういう時は無闇に体力を使わない方が賢明です」
帯刀は両脚を投げ出して座りながら、姿の見えない春嶽に向かって助言する。
「……君はどうして、そんなに落ち着いていられるんだ?」
「まあ、それなりに修羅場を潜り抜けてきましたから。それに、黒鉄蜂の接近を報告してくれたのがあの柴崎なら、きっと大丈夫ですよ」
隊長である帯刀と雲雀部隊を裏切った柴崎を帯刀は未だに信頼していた。
まるでその信頼に答えるように、扉のすぐ外からライフル銃の発砲が響き、キンッと金属の弾ける音が続いた。そして、貨車の扉が乱暴な音を立てて左右に割れた。
横開きになった扉から夕日の明かりが怒涛の如く雪崩れ込み、貨車の内部にいた帯刀達の視界を真っ赤に染め上げた。誰もが目を瞑り、扉から顔を背ける。
明順応した頃合いで、帯刀は瞼をこじ開けてもう一度扉を睨む。
そこには夕日の燐光を背負った柴崎が、蒸気の翼を翻して浮かんでいた。胸元には、雲雀部隊の証である笛が眩しく光り、右手には南京錠を破壊するために使用した突撃銃が握られている。銃身に乾いていない血痕が付着しているところを見ると、藩兵が使用している最中に黒鉄蜂に襲われたのだろう。
一瞬、帯刀と柴崎の視線が交わったが、柴崎が先に逸らす。
秒の間に、帯刀の脳裏には柴崎に言い放ちたい言葉が次々と湧いて出てくる。それは叱責であり、感謝であり、様々な感情が混ぜ合わさり、もはや帯刀自身も何が言いたいのか分からない。だが、今は感情をぶつけている猶予はなかった。
「……状況は?」
だから、隊長と副官という関係性だった時と同じ言葉をかけた。
戸惑ったような表情の柴崎だったが、すぐに副官だった頃の顔に戻る。柴崎は蒸気を噴射させて上昇し、一旦、貨車の扉の前から姿を消す。再び、降りて来た時には、その手に二挺の突撃銃と二台の蒸気背嚢を抱えていた。
「……雲雀部隊の装備を鹵獲していた藩兵が黒鉄蜂に対抗するために使用したようですが、使いこなせずに列車の上で死んでいました。その死体から剥ぎ取った装備です。取りあえずはこれを使ってください。……それから、これはおまけです」
柴崎は腰のベルトに挟んでいた軍刀を取り出して鞘から抜き、剣先で春嶽を手首を拘束していた縄を斬った。自由になった春嶽の両手に軍刀を手渡す。
「これも藩兵の一人が所持していました。武器として使うというよりも、美術品として持ち帰るつもりだったんでしょう」
「…………感謝する」
春嶽にも柴崎に対して言いたいことは山ほどあっただろうが、溢れる感情を呑み込んで簡潔に礼を述べた。
「私の刀だ。こんな偶然もあるものだ」
そう言って春嶽は帯刀の後ろに回ると、手首を縛っていた縄を切り落とす。その後は葵、日向と次々に拘束を外していく。
自由になった帯刀は、柴崎から蒸気背嚢と突撃銃を受け取り、即座に装備する。これらの装備にも血が付着していたが、蒸気背嚢の重さや突撃銃のグリップは身体によく馴染む。
「…………黒鉄蜂の数は確認できたところでおよそ百匹。かなり気が立っており、人間を見つけると執拗に攻撃しています。もしかしたら機関車で燃やされている血晶炭が、ある種の興奮剤、フェロモンのようなものを発していて、黒鉄蜂を誘引しているのかもしれません。これはあくまで推測ですが……」
「そもそも、なぜこんなところに黒鉄蜂の群れが飛んでいるの?」
と、自由になった手首を摩りながら日向が疑問を呈す。
「……これも推測ですが、あの黒鉄蜂は分蜂をしているんじゃないかと。女王蜂が今までいた巣を新しい女王蜂に譲り、自身は別の場所で巣作りを始める習性です。実際、女王蜂らしき巨大な黒鉄蜂の姿もありました。それが理由で攻撃性が高まっているのかもしれません」
「もし、本当に分蜂だとしたら、少なくとも女王蜂だけでも撃ち落とさないと、どこかに巣を構えられて繁殖する恐れがある」
そしてその巣の中でまた新たな女王が生まれれば、再び分蜂が行われる。次々と増えていく黒鉄蜂の巣、駆除が追い付くはずがない。
ゾッとしない話だ。
「はい。比較的安全と思われていた西日本にも、黒鉄蜂の被害が広がるかもしれません」
「そ、そのようなことになれば、連邦は、大江戸連邦は……。もう、二度と、立ち上がることなどできません。例え徳川家の威光が残っていようと、国家の財源となる財宝が残っていたとしても、この国に、未来はありません」
葵が絶望に顔を引きつらせる。もはや涙など枯れ果てているのだろう。葵がどれだけ瞼を震わせようとも、涙滴は流れなかった。
「……ならば、作戦は決まったな。……この機会に、女王蜂を殺す」
「……一点、不安な点があります」
と、柴崎が汗顔を袖口で拭いながら具申する。
「この列車は速度を上げています。恐らく、黒鉄蜂を振り払うつもりなのでしょう。残念ながら血晶炭の残量が無く、そこまでの速度とはなっていませんが。……不思議なのは、速度を緩める気配が全くないことです」
「まさか、運転席に機関士がいないってこと?」と日向が言うと、柴崎の不安をその場にいる全員が共有し、背筋を凍らせた。
「……黒鉄蜂に襲われたか、あるいは恐ろしくなって列車から飛び出したか。もし機関士がいないなら、このまま暴走した状態で運行することになる。途中のカーブで脱線するかもしれないし、浜松駅に突っ込むことになるかもしれない。どうにかして速度を緩めないと」
帯刀はそう呟いて、考案した作戦の修正を図る。
だが、機関車の運転ができる人間はここにはいない。帯刀達雲雀部隊も、蒸気機関に関する基礎的な知識はあれど、機関車の操作などできない。仮に運転席に辿り着いたとしても、機関車の速度を落とすことができるものか。
しばらく沈黙が続く。皆、帯刀と同じことを考えているのだろう。
だがそれを打ち破るように、小さな手が高々と挙げられた。
「私、機関車に行きます」
葵であった。
春嶽が即答する。
「無茶です、葵様。大体、葵様に機関車の運転など」
「確かに実際にしたことはありませんが、これでも蒸気工学の専門書は数多く読破しており、英国や米国の専門書を原語で読めるくらいには知識があります。機関車についても理論は完璧に理解しているつもりです。この場にいる方で運転できる可能性があるのは、私だけです」
かつてない自信に満ち溢れた言葉だった。
蒸気工学の知識量については、帯刀も認めるところではある。しかし春嶽の不安も十分に理解できる。葵はこの国の要である。仮に女王蜂を倒せたとしても、こちらが国の主柱を失っては意味がない。
「仮にそうだとしても、そのような危険な真似は……」
「春嶽、もはや安全な場所などこの列車のどこにもありません。ならば、私だって覚悟を決めます。何もできない、徳川家の娘でいたくはありません」
ふと、葵の手元を見ると、固く握られた拳が微かに震えていた。怖くないはずがない。父親と江戸を滅ぼした黒鉄蜂が飛び回る危険地帯に身を晒して、機関車まで辿り着かなければならないのだから。
それでも、葵は顔を上げている。その横顔に茜色の光が差した。
「……私が頼りないせいで穂積大佐や水野殿をあのような行動に走らせてしまったのならば、私だって戦わなければなりません。……こんなところでめげているようでは、これから先、この国を背負って立つことなど、到底できはしないでしょう」
後光のように葵の背に差し込む夕日の陽光が、葵の小さな身体を輝かせていた。茜色の日の光が、まるで葵の背に翼を生やすように光っている。
どんな説得も受け付けそうにない。そんな顔をしていた。説得にかける時間も惜しい。
「……分かりました。全員で葵様を護衛しつつ、列車先頭の機関車まで案内する。その後に女王蜂を見つけ出し、撃ち落とす。それでいいですか?」
帯刀はこれまで出た案を手早く纏めて、作戦を立案する。
一瞬、春嶽の表情が苦悩に歪む。葵を戦場に出させることに躊躇いがあるようだ。近衛兵の立場として、当然、それは受け入れがたいものだろう。
「……その作戦、了承した」
だが、春嶽は呑み込んだ。
恐らくは己の矜持を押し殺してまで。耐えがたい葛藤があったことは、春嶽の額を伝う脂汗からも分かる。
その場にいる皆が互いに視線を交わした。雲雀部隊と近衛兵、平民と華族、出自の垣根を越えて集った運命共同体である。
帯刀は一人一人の顔を見渡した後、最後に柴崎を見つめた。
危険を冒してまで戻って来てくれた戦友に、感謝の意を込めて。柴崎もバツが悪そうに、でも少しで安堵したような表情で、微かに微笑んだ。
「…………これで、肩の荷が、降りました、……ありがとうございます、隊長」
柴崎は絞り出すような声でそう言い終えると、糸が切れた操り人形のように崩れ落ちた。咄嗟に、帯刀が歩み寄り、床に倒れそうになった柴崎の身体を支える。
「お、おい、どうした、柴崎……」
柴崎の身体に触れた瞬間、粘度のある液体が指に絡みついた。生温かく、仄かに鉄臭く、鼻腔を突く刺激臭。今までに何度も何度も嗅ぎ慣れて、でも決して慣れることのない、死臭。
夕日の茜色に紛れて良く見えなかったが、柴崎の背中には取り返しのつかないほどに深い傷跡があった。そこから溢れる血液が赤茶色の軍服を赤く染色している。
……なぜ、気付かなかった。ついさっき、柴崎から受け取った蒸気背嚢と突撃銃に付着していた血痕は、藩兵のものじゃない。柴崎のものだったんだ。
「……はは、隊長達を助けたら、さっさと逃げるつもりだったんですが。黒鉄蜂の群れの中を銃も持ってないのに突っ込むのは無謀でしたね、後ろからグサリですよ。銃の代わりに黄金を選んだ男の、馬鹿な末路と笑ってください」
焦点の合わない瞳を揺らしながら、柴崎が力なく自嘲する。
「……お前は、……こんな怪我で、今までよく耐えたよっ。全く、流石は俺が副官に選んだだけのことはあるよ。……つくづく、俺って、見る目があったんだな」
努めて明るい声を出そうとしたが、どうしようと喉が震える。舌が上手く回らない。数多くの死を目の当たりにしていながら、何て様だろうか。
両腕で支えている柴崎の身体から重量が抜け落ちるのを感じる。血の重さだけではなく、魂の重さまでもが飛び立とうとしていた。
「……いやいや、最初から、隊長は、……俺のこと、信用して、ません、でしたよね。あなたはいつだって、俺と一緒に、飛ぼうとはせず、俺に待機や留守を命じていた」
それは、ずっと言葉にせず、胸中に抱え込んできた疑念だったのだろうか。虫の息でありながら、その言葉はしっかりと帯刀に向けられていた。
「……今回の作戦中だってそう。あなたは、俺に、貨車の歩哨立てとは決して言わなかった。……俺が黄金を盗み出すと、あなたには分かっていたから、……そうです、あなたは何もかもお見通しだった。……俺が裏切ることも、あなたには、全部……」
「違うっ、それは違うっ。お前に、待機ばかり命じていたのは、お前を一番信頼していたからだっ。信頼していない人間に、留守を預けるわけないだろうっ!」
声を荒げて弁明する。
帯刀にしては珍しく、感情を露わにして、取り乱して、焦燥感を表情に出していた。このまま勘違いしたまま逝かせるものかと言うように。
しかし、すでに柴崎の瞳から光は失われ、その聴覚も不確かなようだった。帯刀の言葉に反応することはなく、うわ言のような呟きを残す。
「……父ちゃん、母ちゃん、こゆき、はやと、しゅうと、……今、にいちゃん、帰ったぞ。……これから、家族、揃って、……うまい、……カレー、でも……食おう……」
幻覚の中で、故郷の家に戻っているのだろうか。
柴崎は懐に痙攣する手を伸ばし、身体に括りつけていた風呂敷を摩る。そこには最期まで肌身離さずに持っていた、黄金があった。柴崎の血に塗れながらも、夕日の光にも劣らぬ輝きを放つ黄金の延べ棒。しかし帯刀には、柴崎の命の対価にしてはあまりにも安っぽい光に思えてならなかった。
事切れた柴崎を床に寝かせた帯刀は、静かに顔を上げて春嶽を見る。
既に気持ちは切り替え終えた。戦死した仲間のことを引き摺るような感傷的な精神は持ち合わせていない。帯刀だけでない。雲雀部隊は皆、帯刀と同じように、誰もが覚悟を固めている。死者を悼む余裕はないと、誰もが知っている、
「いつでもいいぞ、一ツ橋少佐」
だから、彼らは春嶽の言葉を待った。
春嶽もまた静かに息を吸い、周囲に集う若き戦士達を見渡す。数奇な運命によってこの場に立つ仲間を死地に送るための言葉を口にする。それは、暫定とは言え指揮官としての春嶽の役目である。
その言葉を、帯刀は待っていた。
「これより、作戦を決行する」
戦うことが柴崎への唯一の弔いであると信じて。




