第四章 欲望の終着駅 その9
貨車の内部で日向の啜り泣きが反響する。
帯刀が自身の知っている全てを語り終えると、堪え切れなくなった日向が嗚咽を漏らしながら泣き出したのだった。それは父の無念を想ってのことだったのか、父を信じ切れなかった自分を情けなく思ったのか。
その理由は推して図るしかない。だが帯刀は、この出会いを決して無意味にはしないと強く決意した。
「す、すいません、た、隊長。ありがとうございました。で、でも、まさか、お父さんと一緒に逮捕された島津良樹が、隊長のお父さんだったなんて……」
鼻を啜りながら日向が謝る。
「……悪かった。俺の親父はいつだって向こう見ずな人で、息子から見ても子供のような人だった。きっと上層部の不正を発見して居ても立ってもいられずに、お前の親父さんを巻き込んだんだろう。馬鹿な人だった」
蒸気工学に夢中で、家庭をあまり顧みない父親だった。自分の発明にばかり興味が集中し、いつも新しい可能性を模索していた。息子である帯刀との会話も、着想を得るための討議の場と考えていた節がある。
だから、上層部による軍費横領を知った時、子供のような正義感でそれを告発しようとしたに違いない。結局は巨悪に対抗し切れず、身を亡ぼすことになってしまったが。
愚かな父だった。だが、嫌いになれない自分もいた。
自宅の縁側に腰かけながら、父子で語り合った日々。帯刀の空想を父が本気で実現しようと考察していた、あの平和な頃。懐かしい思い出だ。
「あ、謝らないでください。私の、お、お父さんも、悪いことを見過ごせない人でしたから、隊長のお父さんに感謝こそすれ、恨んではいないはずです。私も、隊長のお父さんは、立派な人だったと思います」
暗がりで語られる日向の言葉は、帯刀を気遣ったものに過ぎない。そうと分かっていても、帯刀は父親を許されたように感じて、安堵する気持ちを抑えられなかった。
「…………ああ、ありがとう」
少しだけ心の荷物が軽くなる。
暗闇に父の顔を思い描きながら、一人偲んだ。
「……お二人のお父様は本当に素晴らしい方です。真に国を憂いた愛国者。その名誉は、必ず回復されるべきです」
と、葵の力強い声がした。
「徳川家のご当主様にそんな風に言っていただけただけで、俺は満足ですよ」
「いえ、私の言葉だけは足りません。この窮地を絶対に脱して、真実を究明いたします」
「……葵様。その心意気は結構ですが、この状況を打破するには至難でしょう。それよりも水野の軍門に下った振りをして、再起を図る方が得策かと」
春嶽の怜悧な声が、熱くなった葵の心を冷ますように響く。
春嶽の意見は一理ある。
さて、どうしたものかと帯刀が考え込んだ時、懐かしい音が鼓膜を叩いた。雲雀の鳴き声にも似た、甲高い笛の音。雲雀部隊が空戦中に仲間同士の意思疎通を図るために使用する、ホイッスルの音色である。
ピーッ、ピーッ。
空耳、幻聴の類では決してない。
この長音と短音の組み合わせは、間違いなかった。
「こ、これって……、柴崎?」
帯刀、日向、その他の隊員達、その場にいる雲雀部隊全員が柴崎の囀る声を聞き、驚く。
「……雲雀部隊の笛の音か? 何と言っている?」
春嶽の問いを受けて、帯刀は柴崎がこの音の羅列を送った意図を考える。
合図となる音階を知るのは雲雀部隊だけだ。今、貨車に捕まっていない雲雀部隊は柴崎一人だけであることを考えると、この笛の発生源は柴崎ということになるはず。
なぜ、蒸気背嚢で帰郷した柴崎がわざわざ戻ってきて、このようなメッセージを送って来たのか。
「…………敵機発見の合図だ。どうやら黒鉄蜂を見つけたらしい」
「馬鹿なっ! ここは浜松藩だ。彼らの巣は遥か東北、常盤炭鉱にあるはずだ。どうしてこんなところに黒鉄蜂がいる?」
「そんなもん知るか。柴崎がそう言っているだけだ」
「ならば虚言か? 水野の命令で嘘の情報を流し、我々を混乱させようとしているとか?」
そう考えるのが一番自然だろう。だが意味のある行為だとは思えない。
「分からない。…………だが、もし真実だとしたら。……俺達にとって今まで以上の危機であると同時に、最大の好機だ」
††
「ほう、あ奴、何をするつもりじゃ」
通信車の車窓から列車の外を覗き込んだ水野は、接近して来る人影を夕焼け空に見つけた。
「何か、水野様に伝えようとしているのでしょうか? しかし速度が足りないのせいで追いつけないようですな。機関士に連絡して列車の速度を落としましょうか?」
と、水野の護衛を務める藩兵が機関車に繋がる電話機に手を掛けつつ問いかける。だが水野は硬い表情で首を横に振った。
「いや、このままでよい。彼奴を列車に近付けるな。もし彼奴が速度を速めてこちらに近づいてくるようなら、撃ち落としても構わん」
つい先程、柴崎を実の孫のように褒めていた老人とは思えない、冷酷な命令を下す。水野にとっては命の恩人でもある柴崎に対する理不尽な仕打ちに、藩兵達も驚きと困惑を隠せないようだった。
「……そんな、よろしいのですか? 藩兵に迎え入れたいとまで仰っていましたのに」
「よい。あんなものは世辞に過ぎん。そもそも金で味方を裏切った者を信用できる道理があるわけなかろう。たった一度でも離反を経験した人間は、他人を裏切ることへの耐性が付く。その後は何度だって謀反を企てるものじゃ」
まるで経験談のように語る水野。
この老人が今の権力や財力を手に入れるまでに、一体どれだけ裏切りの経験を積み重ねて来たのか。
「よいな、決して近付けるでないぞ」
水野は藩兵に念押しをする。
主君にここまで言われては藩兵も反論するわけにはいかず、列車を追いかける柴崎の姿に不安を感じないわけではなかったが、下された指示に従うこととした。ライフル銃に弾を込め、柴崎をすぐにでも狙撃できる体制に入る。
これが、水野の命運を決定づけた。
他人を信頼しない事で現在の立場を手に入れ保守してきた老人だったが、そのことが自らの敗北を揺るぎないものとした。それは必定であったかもしれない。
水野も、藩兵も、夕焼け空を飛翔する柴崎の後方から、黒雲が迫っていることに気付かなかった。仮に気付いた者がいたとしても、足の速い雲としか思わず、警戒することはなかったであろう。実戦経験のない藩兵は、まさかあの黒雲が悪名高い恐るべき黒鉄蜂の軍団であると知る由もなかったのだ。
黒鉄蜂の群れは蝟集しながら飛翔し、感情の宿らない赤き複眼で激走する列車を捉えた。
黒鉄蜂の行動原理は人間とは異なり、至極単純である。自らの生存のために食すこと、そして女王蜂に尽くすこと、たった二つだけだ。
黒鉄蜂の栄養源は動物性タンパク質、特に自身と同程度の大きさである人間を好む。花畑に蜂が集うように、人間の群れを見つければ彼らは本能のままに一斉に襲い掛かる。人間の肉で自らの腹を満たす同時に、強酸性の毒液で溶解し、効率的な運搬と保存のために肉団子状に固める。そうしたものが血晶炭であり、女王蜂や蜂の子のための餌として持ち帰られる。
自らに規定された単純な行動原理に従い、黒鉄蜂は発見した列車に接近していく。それは列車の車窓から水野らという新鮮な肉を見つけたためか、あるいは列車の炭水車に積まれた血晶炭に目を付けたのか。あるいはその両方か。
様々な理由から黒鉄蜂は夕焼け空に混じった黒雲となって飛び、その影を列車に落とす。
水野達が黒雲の正体に気付いた時には、既に振り切れないほどに肉薄していた。
「く、黒鉄蜂じゃっ! み、皆の者、応戦せよっ! 戦うのじゃっ!」
水野の悲鳴が通信車に響き渡ると、慌てた藩兵らが飛び出して各々貨車の屋根に登り、空に向かって射撃を放つ。
しかし、雲雀部隊すら撃ち落とすことの出来なかった藩兵に、黒鉄蜂を狙撃するなど不可能であった。ましてや相手は買収も話も通じない怪物、恐怖で震える手で狙いを定めるどころではない。
ギギギイイイイイッ。
金属が擦れ合うような、黒鉄蜂の独特な鳴き声が見る見る近づいて来る。
水野達にとって不運だったのは、長旅を続けていたこの列車が浜松駅で補給をする予定だったために、炭水車には僅かの血晶炭しか残っておらず、黒鉄蜂を振り払うほどの速度が出せなかったことにある。
藩兵の必死の抵抗も空しく、薄い弾幕を潜り抜けた黒鉄蜂の顎や毒針が貨車の屋根を血で染めた。
「ぎゃあああああああ」
「あああああああああああああああああああああああ、いてえぇえええええよおおおお」
「いやだ、こんなとこで、死にたくねえ、死にたくねええええ」
各所で断末魔が散発。ある者は黒鉄蜂に押し倒され、ある者は黒鉄蜂の六脚に拘束されて宙に浮かび、ある者は突進してきた黒鉄蜂の毒針に貫かれる。藩兵の肉体は、まるで割れた水風船のように血液を撒き散らしていた。
だが感情のない黒鉄蜂は手を緩めることなく、淡々と虐殺を続けていく。藩兵の防具をものともせず、顎で頭部を鉄帽ごと噛み砕き、あるいは毒針で貫く。肉の溶ける音と臭いが一瞬だけ立ち込めるが、爆走する列車にあっという間に置き去りにされる。貨車の屋根に飛び散った血痕も、向かい風によって跡も残さずに流れ落ちていた。
「雲雀部隊の装備ならここに揃っておる、さあ、戦うのじゃっ! 雲雀部隊に出来ることが、そなたらに出来んはずがないであろうっ」
通信車の内部には雲雀部隊を捕らえた際に鹵獲した装備が積み上がっていた。突撃銃に、雲雀部隊の象徴である蒸気背嚢もある。水野はそれらを周辺の藩兵に押し付けて、無理矢理に出撃させる。
しかし蒸気背嚢の操作は至難の業である。蒸気の排出量の調整、重心の保ち方、突撃銃の反動を考慮した機動、所作の一つ一つに夥しい訓練が必要である。雛ですら飛び方を覚えるために親鳥から教練を受けなければならない。ましてや自前の翼を持たない人間が、一朝一夕に空を飛ぶことなど出来るはずがなかった。
藩兵は満足に飛ぶことも出来ず、無茶苦茶な軌道を飛び回りながら列車の屋根や地面に落着していく。そして、その隙だらけになったところを黒鉄蜂に襲われて、無意味に死んでいく。
何の抵抗も出来ずに殺されていく仲間を目の当たりにした藩兵の何名かは、一か八かと列車から飛び降り始める。列車の屋根に突撃銃を放り出し、代わりに水野から賜った財宝を胸に抱えながら。
しかし暴走する列車から飛び立って、無事に着地できた者はほとんどいない。運の良い者は全身を激しく地面に打ち付けて即死し、運の悪い者は中途半端に首や脚を折り、全身複雑骨折という死にたくても死ねない状態となった。そしてそこに、黒鉄蜂が襲い掛かる。抵抗も出来ずに生きたまま腸を喰われ、苦しみと怨嗟の声を上げながら死んでいく。
「な、何をしておるっ、戦え、戦わんかっ」
水野が半狂乱になりながら杖を奮って、逃げ出そうとする藩兵を叱り飛ばす。
だがいくら老獪の水野であっても、人間の本能に刻み込まれた欲求、生存欲を操ることは出来ない。藩兵の多くは水野を守るなどという目的を忘れて、続々と列車を降りていく。
水野は、通信車から飛び出して地面を転がる若い藩兵を見て背筋が凍った。
確かに列車に残ったところで助かる見込みは零に等しい。ならば万に一つの可能性を掴み取るために飛び降りるのが最善である。しかしその可能性に懸けられるのは、健康体である若者だけ。この老体では万に一つ、億に一つの可能性もない。
「ひゃ、ひゃひゃ」
だらしなく半開きになった口元から狂ったような笑声と涎が零れ落ちる。
ぽた、ぽた。足元に落ちる涎の水滴。
そこに、天井から別の水滴が落ちてきて、ジュウッと焼けるような音を放った。刺激臭の混ざった煙が立ち上っている。
咄嗟に頭上を見る。
通信車の屋根に車窓のような円形の穴が開いており、青空を映し出していた。その円の縁は溶解した金属液と毒液が混ざり合って、水野の足元に滴り落ちている。
その穴から、一匹の黒鉄蜂の頭部が飛び出した。穴の大きさは黒鉄蜂の体長に比べて小さいが、黒鉄蜂は強引に抜けようと身体を捩じらせている。通信車の天井がミシミシと音を立てていた。
やがて、ずるりと穴を通り抜けた黒鉄蜂が床に落下する。通信車に備え付けられていた机が割れて下敷きとなり、机上の地図も破れる。侵入した黒鉄蜂の身体は列車周りの黒鉄蜂と比較して一回り以上巨大である。それが黒鉄蜂の女王であると、水野に分かるはずもなかった。
「あ、ああ、あああああああああ」
水野は慌てて逃げ出そうとしたが、狭い通信車の中に身を隠す空間も、逃げ場所もなく、隣の車両に移る余裕もなかった。
ギギイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ。
女王蜂は翅を擦り合わせてけたたましい金属音を鳴り響かせる。それは威嚇だったのか、人間には分かりようもない。
「か、金ならやる、いや、な、何でもくれてやる。浜松藩主の地位だろうが、美女だろうが、この国だろうが……。だ、だから」
これまで数々の奇策を編み出し続けてきた水野の思考にもついに限界がきた。
話が通じるはずもない女王蜂に向かって、無駄な交渉を持ちかける。
無論、相手が乗って来るはずもなかった。
女王蜂はその巨体を存分に使った突進を行い、水野の老体に喰らい付く。左右に開かれた女王バチの顎が萎びた水野の腸を食い破り、脂肪の少ない肉を貪った。万力の如き力で肋骨と背骨を噛み砕き、健康的とは言い難い内蔵を口内に放り込み、濃厚な赤色の血液を啜る。
「ガアアッ」
水野は、長かったその生涯に反して、虚しいほどに短い断末魔を残して絶命した。涎や小便を撒き散らして死ぬという惨めな最期を誰にも看取られなかったことは、彼にとって不幸中の幸いであったと言うべきだろうか。
いかに言葉巧みに人心を操った水野であっても、人の言葉も論理も通じない蜂の怪物に対抗する術など無く、無残に散っていった。




