第四章 欲望の終着駅 その8
この夕焼け空は、数年前、江戸に向かう列車の車窓で見た時と何も変わっていない。
柴崎は空を飛びながら、漫然とそんなことを考えていた。
あの日は、見送り人が誰もいない上京だった。別れを惜しむことすら許されない、それほどまでに柴崎の家は貧乏だったのだ。労働の手を休めれば、それだけ自分達の首を絞めることになるのだ。柴崎が家を出る日でさえ、両親は荒れた田畑を耕しに向かい、幼いきょうだいは奉公に出ていた。
家が貧乏である事を悲しいとも寂しいとも思ったことはない。ただ、家族に楽をさせてやりたかった。連邦軍に入れば決まった額の給金が毎月貰えるという話を聞いて、一も二もなく飛びついた。実家の口減らしにもなって、一石二鳥だった。
今手にしている風呂敷の隙間から覗く黄金色の輝きに視線を映し、その蠱惑的な光に思わず唾を飲んだ。
これだけの富があれば、土地を買える。小作料を払う必要は無くなり、地主として生活が出来るようになる。豊かな暮らしが出来る。
だけど。
突発的に振り返りたくなる誘惑に襲われた。頭を振って何とか退ける。
既に線路からは遠く離れているが、列車から噴き出す煙くらいは見えるかもしれない。だが見たところでどうする。自分は見捨てた、裏切った。後悔したところで、謝罪したところで、どうにかなるわけではない。
もっと早く飛んでくれ、と操縦桿を握る手に力が入る。
実家の農村に辿り着きたい。そこで両親ときょうだいに迎えられたい。嫌なことなどすべて忘れて、家族からの温かい歓待を受けたい。
目指す先である山の麓。農村地帯を視野に収めて、柴崎は飛翔し続ける。
「……うん?」
視界の隅に、気になるものがあった。黒煙である。煙の足元には、横転したトラックがあった。事故だろうか。しかし周辺には衝突物は見当たらない。道の途中にトラックが転がっている。
単なるトラックであれば、柴崎もすぐに無視していた。だがそのトラックに何となく見覚えがあったので気になってしまう。
そうだ、思い出した。雲雀部隊と近衛兵の交流会でカレーの食材を積んできたトラック。そして穂積大佐と共に消えたトラックだ。
ということは、荷台には黄金が載っているということか?
ぞわりと欲望が掻き立てられ、柴崎は横転したトラックを目指した。
近くに着地して、慎重に近づく。
しかし、なぜ事故にあったのだろう。周りにはだだっ広い田園風景が広がり、いくつかの農家の屋敷が建っているくらいなのに。
それとも、黄金を運んでいることが夜盗に見つかり、襲われたのだろうか。しかし穂積大佐は腐っても陸軍将校だ。たかが夜盗如きに敗北するとも考えにくい。
トラックの車体や荷台には奇妙な穴がいくつか空いており、チーズのようだ。少なくとも何かが衝突した跡ではない。では、やはり夜盗に襲われたのだろうか。
恐る恐る穴を覗き込み、荷台の内部を伺う。
「……お、おお」
息を呑んだ。
茜色の光が荷台の中を照らし出し、荷台の中で散逸していた黄金や宝石が眩い光を反射していたのだ。万華鏡のような美しい光景に、思わず見惚れてしまう。
しかし、この事故が夜盗によるものならば、これだけの財宝を見逃すはずがない。ますます疑念は深まる。
柴崎は荷台から運転席に目をやる。フロントガラスは粉々に砕けており、運転席も大きく歪んでいる。穂積大佐のものらしき血痕も残っている。だが、何かにぶつかったような様子はない。穂積大佐がハンドル操作を誤り、トラックを転倒させたのだろうか。しかし穂積大佐の死体は見つからない。仮に誰かが運び出したのだとしても、荷台の財宝が手つかずというのは不自然だ。
「……え? こ、これは……」
運転席には白い軍服の切れ端が残っていた。恐らくは穂積大佐のものだろう。問題はその切れ端の解れた繊維が強い力で引き裂かれたというよりも、何か薬品によって溶かされたような形状をしていることだ。
「……まさか」
思い当たり節がある。トラックに空いた奇妙な穴の縁も、溶解されたような形だ。
強い、酸性を放つ奴ら。奴らならば、財宝が手つかずだったことも頷ける。奴らは人間の富など求めないだろう。
しかし、こんなところにいるはずがない。奴らの巣は、ここから東北の常盤炭鉱だ。奴らは巣から大きく遠征することはない。実際、柴崎らが奴らに襲われたのは横浜駅までだ。それ以降、奴らの姿を見たことはない。
それでも嫌な予感が拭えない。もしかしたら早くここから離れた方が良いかもしれない。
柴崎は蒸気背嚢を噴射し、再び空を飛ぶ。上空から周辺を見渡し、奴らの姿を探した。
「……冗談だろ」
思わず、呟いた。
柴崎のいる場所から数キロは離れている地点。家屋が密集している場所があった。小さな村だ。この辺りの田園を管理している小作の村だろう。その村が黒と黄色に塗り潰されていた。村人の安否は明白である。
黒鉄蜂の群れが、村に滞在していた。
柴崎は距離を置きつつ、目を凝らして黒鉄蜂の群れを観察する。
個体の数自体は、決して多くはない。せいぜい百体だろうか。だが常盤炭鉱の巣から三百キロは離れているこの場所に、なぜこれだけの群れが存在しているのか。
「……なっ」
それを見つけた時、柴崎は言葉を失った。
黒鉄蜂の群れの中に、一際巨大な個体がいた。群れの中心に据え置かれた、巨魁。通常の黒鉄蜂は全身が大人の身長ほどだが、その個体は間違いなく小型車両ほどの大きさである。半透明の翅や鉄骨のような六脚はもちろん、毒針までも何かもが通常よりも大きく、群れの中での態度も大きいように思えた。
女王蜂。そんな表現が的確だ。
しかし、だとしたらますます不自然だ。女王蜂ならば巣の中にいるはず。こんな地上にいるはずがない。
柴崎は、黒鉄蜂に関する様々な知識を思い返す。この時ばかりは右手に抱える黄金を忘れ、自分が戦友や隊長を裏切ったことも忘れ、雲雀部隊の知恵袋というかつての役目を全うしていた。
黒鉄蜂には、昆虫の蜂との共通点が多く見られる。生体構造だけではなく、その社会性も同じである。黒鉄蜂への対抗策を、蜂の昆虫学的な見地からアプローチすることも世界各地で行われている。柴崎も、蜂の生態について自主的に学んだことがある。
ふと、故郷の里で見たことのある光景に思い至った。
「……そうか、分蜂か」
蜂の特徴の一つ。分蜂。一つの巣で二匹目の女王蜂が生まれた時、古い女王蜂は一部の働きバチを率いて巣を離れ、そして別の場所で新たな巣を作る。こうして群れを増やしていくのが、蜂の習性である。柴崎の寒村近くの雑木林でも夏の頃合いによく見かけた。
ならば、この黒鉄蜂の群れも、新しい巣作りを始めるため、飛び回っているということか。
しかし黒鉄蜂が飛んでいれば何らかの情報が軍に入っても良いものだが。いや、江戸が陥落したことで通信網にも不具合が出ている。真偽入り混じった様々な情報が乱れ飛んでいることだろう。その上、徳川家当主の戦死という重大なニュースもあり、黒鉄蜂の分蜂に気付いた者が限定され、情報共有がされなかったのかもしれない。
黒鉄蜂の群れをじっと観察していると、羽休めを終えたのか、一斉に翅を動かして飛び立った。羽音が集まると凄まじい重低音となって周囲に響き渡る。黒鉄蜂は一塊の黒雲となって、青空に出航する。
その向かう先は、浜松駅のようだ。
黒鉄蜂の食料は動物性タンパク質、特に彼らにとって手頃な大きさである人肉を好んでいるところがある。そのため人間が密集する都会を目指すことが多い。今回の遠征も、人口密集地である浜松駅周辺を狙うことも当然だ。もしかすると、浜松駅を新たな巣の候補地として決めたのかもしれない。
柴崎はどこかほっとしている自分に気付いた。
少なくとも自分の故郷の農村、実家の近くではないことに安堵したのだ。
そして同時に、今まさに浜松駅に向かおうとしている者達がいることに気付いた。
「……隊長」
葛藤が、柴崎の全身を稲妻のように貫く。
隊長に、あるいは水野に黒鉄蜂の群れが近づいているという情報を知らせるべきだろうか。しかし、もし黒鉄蜂が浜松駅に巣を作ってしまったら、実家がある農村にもいずれ被害が出る。その前に家族を連れて逃げ出さなければならない。今すぐにも実家に帰り、手に入れた黄金を活用してこの地から離れるべきだ。
だが、だが。
戻るべきか、行くべきか。相反する考えが柴崎の身体を引き裂く。
そもそも家族を守るために雲雀部隊を裏切ったのではなかったか。それならば、家族を第一に考えて、さっさと実家に向かうべきだ。
心の声はそう叫んでいる。それでも、それでも。
「……ごめん、もうちょっとだけ、帰りを待っててくれ」
柴崎は操縦桿を操作、蒸気背嚢の噴射孔を故郷のある農村の方向に向けた。即ち、その場から反転し、逃げ出して来たばかりの列車へと戻る。
脳裏をちらつくのは、両親やきょうだいの笑顔。きっとこのまま実家に帰ったとしても、皆の笑顔を正面から見ることは出来ない。胸を張って黄金を持ち帰ることが出来ない。せめて一つくらいは償いをしなければ。少しでも心の荷物を軽くして、実家に帰るために。
そう、だからこれは、隊長達のためじゃない。
最初から最後まで、俺は俺のために、裏切り者らしく自己中心的に行動するんだ。
覚悟を固めて、柴崎は列車の上げる蒸気の煙を追った。
白煙は列車の足跡として空にしっかりと刻まれている。白蛇のような煙と並行するように飛翔するも、なかなか先頭車両までは追いつけない。蒸気背嚢の噴射をもう少し強めれば追いつくことが出来るだろうが、故郷まで戻る分の蒸気を残しておかなければならない。
柴崎の視界が捕らえられるのは、列車の煙と胴体である貨車まで、水野のいる通信車には程遠い。これでは黒鉄蜂の接近を伝えることなど出来ない。
やはり、無理か。
そう諦めて視線を落とした時、自身の首元で振り子のように揺れるそれを発見した。夕日を反射して銀色に輝くそれは、柴崎に吹かれることを望んでいた。黄金とは異なる色合いで煌めいており、今の柴崎の眼には黄金よりも眩しく映った。
雲雀部隊の証、笛である。




