第四章 欲望の終着駅 その7
黄金を奪われて伽藍洞になった貨車に、春嶽を始めとする近衛兵と葵、そして雲雀部隊の面々が代わりの荷物のように積み込まれる。いや、両手首を縄で縛られ、自由を奪われた彼らはまさに荷物そのものだった。
「呵々、黄金と入れ違いに別の財宝が入っておるわ。これはこれで壮観じゃのぉ、眼福眼福」
「財宝? 我々が?」
藩兵に突き飛ばされ、貨車の床に投げ出された春嶽は、横臥したまま水野を睨みつける。
「そうじゃよ。徳川家のご令嬢はもちろん、良家の出自が多い近衛兵もこれ以上ない人質じゃ。そして雲雀部隊の諸君は庶民からの人気が絶大だからのぉ、そなたらが儂の味方になってくれれば、人心の多くが儂に集うじゃろうて」
「生憎。俺達はあんたに仕える気は塵ほども持ってないんでな。あんたの片思いだぜ」
春嶽のすぐ近くに転がされた帯刀が、口元を歪めて皮肉を言う。だが水野はそれに気分を害する様子はなく、笑った。
「信頼していた部下に金で裏切られたばかりの男がよく吠えるのぉ。……のぉ、雲雀部隊の諸君、本当にこのような隊長に命を捧げるつもりかね? 儂に忠誠を誓ってくれれば、君らが見た黄金の分け前をくれてやるぞ?」
水野は床に転がった雲雀部隊を嫌らしく見渡す。
無論、雲雀部隊から賛同の声は上がらない。
しかし、断固とした拒否の言葉も上がらないことが、彼らの心の揺れを物語っているようだった。
「まあ、浜松駅に到着するまでの間、列車に揺られている内に考えも変わるかもしれんな。歳を取ると気が長くなるのでな。じっくり考えてくれ、いい返事を期待しておるぞ」
勝者の余裕を見せる水野。その乾いた笑い声が貨車の内部を乱反射した。
「……なぜですか?」
水野の笑い声の残響が響く最中、葵の小さな声が抵抗する。
「うん?」
「このような暴挙、幕府も諸藩も決して許しはしません。国が一つに纏まらなければならない未曽有の事態でありながら、連邦を分断するような愚かな真似を、あなたほどの人物が、なぜしたのですか?」
涙声交じりの問いかけ。
水野は髭のない顎を摩り、しばらく黙考した。
「ふぅむ。黄金を独り占めしたのだから、当然、幕府や諸藩からの糾弾を受けるであろうな。しかしこちらに葵様という人質がある限り、軍事的な強硬手段は取れん。我が浜松藩が江戸に代わって、連邦の首長となってもよいじゃろう。米国や英国は所詮海の向こうの異人じゃ、連邦の頭が変わったことなど大した問題にはせんじゃろうし、葵様が危惧されるような連邦の分断といった事態にはならんじゃろう」
今、水野の白髪頭の中では、どれほど大きな餅の絵が描かれているのだろうか。
「……あなたは、黄金を手に入れ、連邦のトップに立ちたかったのですか? 浜松藩主という十分な富と権力を得て、その歳になるまで長い時を生きているあなたが、まだそのような欲望に執着しているのですか?」
それは、春嶽も同じ気持ちだった。
驚愕と呆れにも似た感情が渦巻き、この老人の底知れなさに背筋が凍る。
「呵々、良いことを教えてやろう、若人らよ。人の欲望に終着駅は無いのじゃ。老いれば人は無欲と思ったかね? それは違う、老いさらばえる程に渇望の速度は増していき、自分でも止められなくなる。老人が無欲に見えるのは、そのように見せかけているだけ。実際には権力や富を奪う機会を虎視眈々と狙っておるのじゃ」
好々爺のような面貌の老人が、今、この瞬間だけは悪鬼の笑みへと変わった。皺に隠れていた双眸がくわっと見開き、乾燥してひび割れた唇が開かれ、涎に満ちた口内が露わになった。唾液に濡れた不揃いな歯を覗かせながら、閻魔の如き高笑いを発している。
春嶽の身体を怖気が包んだ。老人の笑いで、周りの世界が地獄道に変貌してしまったような錯覚を覚えてしまう。
「諸君らも歳を重ねれば、いずれ儂の言葉を心から理解する時が来るじゃろう。……まあ、これから歳を重ねることが出来れば、の話じゃがな」
脅すような言葉を最後に付け足すと、水野は背を向けて貨車を降りた。貨車の扉が重々しい音を立てて閉ざされ、南京錠が掛かる金属音が外が響いて聞こえた。貨車には客車のように窓がないため、外光が完全に失われる。
暗闇の中に取り残された面々。やがて貨車全体の空間が揺れる。列車が出発したのだ。恐らくは浜松駅に向かって。そこで全ての貨車が開かれ、財宝を根こそぎ奪っていくのだろう。そして、最終的には水野に反発する者達も命すらも。
鋼鉄の鳥籠に閉じ込められた彼らは、しばし闇の中で沈黙する。
「さて、これからどうしようか、一ツ橋少佐」
こんな状況でありながら、闇に木霊する帯刀の声は場違いなほどに明るい。
「どうするか、だと? どうにか出来るのなら、私の方が知りたいっ!」
「落ち着け、少佐。まだ俺達は生きてる。反撃の機会はあるはずだ」
「……反撃だと? そもそもこのような事態になったのは、君の部下が裏切ったからではないかっ! 君が部下を統率していないから……」
理不尽を口にしていると頭の片隅で分かっていながら、帯刀への糾弾が抑えられない。今は内輪もめをしている場合ではないのに。
帯刀は反論して来ない。帯刀の表情を伺うことが出来ない暗闇の中では、彼の心情を図ることも叶わない。図星を突かれたと憤っているのか、部下の離反を悲しんでいるのか。
しかし、春嶽への反発は別の方向から挙がる。
「いい加減にして、春嶽。……すぐに責任の所在を明らかにしようとするところ、昔から変わってないわね」
幼馴染の声だった。視覚が塞がれた中、ただ純粋に声だけを聴くとかつての幼馴染と何一つ変わっていないことがよく分かる。なぜ今まで確信を持てなかったのか、不思議なくらいだ。
「君こそ。見てくれこそ惨めになったものだが、男勝りな性格は相変わらずだな。家名を捨ててまで入隊した軍は、君にとってさぞ居心地の良い場所だっただろう」
「あ、あの、お二人は、顔馴染だったのですか?」
葵の困惑した問いかけが聞こえる。
「……改易された井家家の一人娘で、井伊日向と言います。恐らく、一度くらいは社交界でお会いしたことがあるはずですよ、葵様」
日向が隠していた真名を明らかにすると、雲雀部隊と近衛兵の双方から息を呑む声が漏れた。軍費横領事件に主犯である井伊の家名は上流階級から下々の者に至るまで知っている。その一人娘がこの場にいることは、誰もが驚愕の至りだろう。
「あの、井伊家のことは何と、その、言えばいいのか……」
「井伊家のことで葵様が気にする必要はないでしょう。横領事件を起こした父が処断されるのは当然のことですし、井伊家が取り潰されるのも仕方のない事です。そもそも、処分を直接下されたのは葵様ではないのですから」
「ち、違いますっ! そういうことではなく、……わ、私は、井伊家のご当主はあの事件において無実だったという話を聞いたばかりで、それで、今後、何とかして名誉を回復したいと思っていたところで……」
姿は見えないはずなのに、日向が不機嫌になったことが雰囲気で分かった。
「……そんなものは、根も葉もない噂話です。お気持ちは有難く思いますが、既に判決も下されています。…………全く、誰ですか、そのような戯言を吹き込んだ阿呆な人は……」
心底呆れた口調で日向が言う。
日向も父親の無実を信じたいはずだ。だが井伊家の姓を失ってから数々の苦労を背負ってきたのだろう。周囲から罵詈雑言を受けることも多々あったはずだ。そうした中で、父親を信じる気持ちを失ったとしても仕方がない。
しかし、絶対絶命とも言えるこの状況、あらゆる希望が失われたと思っていたこの事態で、小さな再会があったことは果たして偶然なのだろうか。粉々になった欠片が集まり、再び元の形に戻ろうとしているようだ。
「俺だよ、悪かったな阿呆で」
突如、響き渡った隊長の少し怒ったような声に、日向はさぞ驚いたことだろう。
「やれやれ、日向が井伊家の娘だったとは驚いたよ。たぶん、それなりに高貴な家柄の出身なんだろうとは思ってたけど。灯台下暗しって、こういうことを言うのかね」
鳥籠に閉じ込められたこの状況で起きた、奇跡の出会いに果たして意味はあるのか。
意味はある、そう春嶽は信じたかった。




