第四章 欲望の終着駅 その7
「は、放してください、わ、私は戻らないと……」
「冷静になってください葵様。こんなところで放したら悲惨なことになりますから」
戦場がジオラマのように小さく見える程の上空で、帯刀は葵を宥めていた。
放せと葵は言うものの、その両腕は帯刀の首にしっかりと抱き付いている。葵は時折、恐る恐る地面を見下ろしては、帯刀を抱き締める両腕に込める力を強めていた。
「とにかく、今は戻れません。雲雀部隊の隊員と近衛兵が藩兵らを無力化するまで待ちましょう。ここが一番安全な場所ですから」
「わ、分かっています。ですが……。なぜ、同じ国の者同士で戦わなければならないのですか? しかも水野殿は古くから幕府に仕えて来た忠臣で、私とも面識がありました。それなのに……。私が、未熟だからですか? 父上が亡くなり、私に代替わりすることが不安なのですか? 穂積大佐も、水野殿も……」
涙で潤んだ瞳を向けられて、帯刀は言葉に詰まる。鼻先が接触しそうなほどに密着したこの距離では、葵の頬を伝う涙滴が嫌でも視野に入った。
身分の違う自分が、一体どんな言葉を紡げば慰めることができるのだろうか。
黄金が人を狂わせるのだろうか。いや、それだけではない。仮に江戸が無事であれば、徳川家の当主が存命であれば、穂積大佐も水野もこのような暴挙には及ばなかったのではないか。その可能性は決して否定できない。
晴れ晴れとした青空に浮かびながら、飛翔する二人の心には曇天が広がっていた。
帯刀は葵の目を見つめ返すことが出来ず、視線を地面に逃した。春嶽らは藩兵を鎮圧したのではないかと期待して。もし戦闘が終息していればさっさと着陸して、葵から解放されることができるのに。
すると、こちらに近づいて来る人影があることに気付く。背中から蒸気を激しく噴射し、凄まじい速度で上昇する隊員。戦闘が終わったことを知らせに来た、とは考えにくい。ならば敗戦が濃厚であることを伝えるためだろうか。
しかし、近づく人物が柴崎であること、その柴崎の表情を知ったこと、そして柴崎から少し遅れて雲雀部隊の隊員が全速力で追いかけていることで、帯刀は別の可能性に思い至る。
「葵様、どうか、振り落とされないよう、しっかりお掴まりください」
言葉の意味を葵が問い返す前に、帯刀は矢のようにその場から飛び去った。蒸気を排出して得られた推進力、そして位置エネルギーを合わせて一気に柴崎から距離を置く。
葵を抱えている状況では突撃銃は使えない。しかも人間二人分の重量を支えているため、蒸気の消費量は通常の二倍。速度にも滞空時間にも制限が掛かる。更に、相手があの柴崎だ。こちらの手の内も知っているとなると、どこまで逃げられるかどうか。
当然、柴崎も対応してきた。こちらの逃走先を読み、身軽さを生かして先回りして来る。突撃銃を使用して来ないのは、柴崎の最後の良心だろうか。
銃を撃ち合わないドッグファイト。
このまま何とか逃げ続けていれば、いずれ援軍が現れるだろうか。
だがそんな希望的観測が実現する前に、帯刀の眼前に柴崎が立ち塞がる。完全に先回りされた。速度も旋回性能も劣る帯刀が勝てる道理はなかったが、それでも相手が柴崎で無ければもう少し善戦できたと悔やまれる。
柴崎の突撃銃が突き付けられ、その銃口が帯刀に額にコツンと硬い接吻をした。
「もう、抵抗しないでください、隊長。どうか、このまま大人しく。俺に、引き金を引かせてないでください。あなたを、殺したくない」
まるで自分の方こそ銃を突き付けられているかのような、そんな悲壮感に溢れた表情の柴崎が、震える声で懇願する。
††
鉄の竜が開腹される。
積み上げられた木箱の中に詰まった金の延べ棒の山、あるいはシルクに包まれて保管されていた宝石類の数々。莫大な財宝を見つけた水野や藩兵達の感極まった溜息が、外に立たされている帯刀達の耳にも届く。
雲雀部隊も、近衛兵も、柴崎に葵を人質に取られたことで敗北した。
そのまま武装解除され、雲雀部隊は銃と翼を、近衛兵は魂とも言える軍刀を奪われる。周りをライフル銃を構えた藩兵に囲われ、逃げ出すことは不可能だった。ただ、略奪者が貨車を漁っている様を指をくわえて眺めていることしかできない。
藩兵達が次々と貨車に入り込んで財宝を運び出しているが、時折黄金や宝石を自分の懐にも忍ばせていた。こうした行為を見つけた水野は叱責するどころか、「今日まで儂によく仕えてくれた、この貨車の中にあるものは諸君らのものだ」と大盤振る舞いを見せた。そのため、藩兵達は恥も外聞もなく貨車の内部を荒らし回っており、もはや夜盗の集団と判別がつかなくなっている。
「呵々、幕府がこれほど財を溜め込んでいたとは、儂も知らんかったわい。なるほど、私財拠出令をうまく利用した誰かさん達が、国庫を自分の懐代わりにしていたと見える。しかし、最終的には儂のもの、まさに漁夫の利といったところかのぉ」
涎を垂らして歓喜する水野。
開帳した貨車はたったの一両。その一両の中に、これだけの財宝が眠っていたのだから、長々と続いている竜の胴を全て開いたなら、一体どれだけの富が飛び出してくるのか、想像するだけで眩暈がする。水野が年甲斐もなく垂涎するのも当然である。
貨車から運び出される財宝を満足そうに見渡した水野は、ふと思い出したようにポンッと手を打った。
「おお、そうじゃった、そうじゃった。君には褒美をやらねばならなかったのぉ」
水野は影のように傍らに立っている柴崎に向かって微笑んだ。
そして部下の藩兵に耳打ちをする。指示を受けた藩兵は貨車の木箱から金の延べ棒を運び出して、風呂敷に包んで柴崎に差し出した。
「儂の気持ちじゃ、遠慮なく受け取るがよい。これで君や君のご家族、そして君の子供まで、三代に渡って豊かな暮らしが出来るじゃろうな。賢明な判断じゃったぞ。ご両親もさぞ喜ばれるだろう。儂もそなたのような賢い孫が欲しいものじゃ」
財宝を分け与えるだけではなく、その話術でも柴崎を誉めそやす。人生の先達だけあって、人心掌握術を知り尽くしている。まさしく老獪と呼ぶに値する。
人生経験の差、か。全ては、部下を纏められなかった俺の責任だ。
苦渋に満ちた表情で黄金を受け取る柴崎を眺めながら、帯刀は自責の念に囚われる。
柴崎が悩んでいたことには、薄々気付いていたつもりだった。元々、貧しい家の生まれということは聞いていたし、近衛兵や葵などの華族に対する反発も強かったことも知っている。貧富の格差にも敏感で、月々の給金の大半を実家に仕送りしていたのも分かっていた。
恐らく、積み荷が黄金であると知ってから、途轍もない自制心で欲望に耐え抜いてきたはずだ。そのことを俺は知っていたのに、柴崎ならば大丈夫だろうと決めつけて、支えようとはしなかった。全ては俺の罪。
だからだろうか、柴崎の裏切りを強く憎めず、責められないのは。
「ありが、とうございます」
柴崎は気持ちの入っていない礼を述べる。
「さて、君はこれからどうするかね? このまま故郷に戻りたいのならば、儂の伝手で自動車か汽車で送っていくが?」
「……平気です。この蒸気背嚢さえ、頂ければ。故郷は、このすぐ近くの農村なので」
「何とっ、君は我が浜松の民であったか。これはますます愉快じゃ。儂の膝元の民が、これほどまで賢く、勇気のある若者であったとは……。どうか藩兵に志願してくれんか? それなりの地位を用意してやるぞ、まあ、今しばらくは故郷でゆっくり考えてくれ」
水野が杖から手を放すと、自身の期待を示すように柴崎の双肩を何度も叩く。これも人心を誑かす術なのだろう。
「感謝いたします、水野様。……それでは、私は、これにて」
柴崎はその場から早く逃げたいと言うように顔を背け、水野から一歩距離を取った。
「おお、引き留めて悪かったの。此度の助力、この水野、一生忘れんぞ」
そうして柴崎は突撃銃の代わりに黄金を包んだ風呂敷を抱えて、左手で操縦桿を握る。僅かに力を籠めるだけで、柴崎の身体は空に浮き上がり、故郷を目指して飛翔していくだろう。別れ際、帯刀達の方を一瞬たりとも見ようとはしなかった。
帯刀達を包囲する藩兵の合間から、柴崎の横顔が微かに見えた。苦悶し、苦慮し、苦悩する姿があった。裏切ったくせに、裏切り切れない思いを抱えていることは一目で分かる。どうせならば心まで悪人になり切ればいいのに、そうはできない不器用さが妙に愛おしく感じる。そんなところが気に入って、俺は柴崎を副官にしたのかもしれない。
柴崎とは今生の別れとなるだろう。
そう思うと、急に何の言葉もなく離別することが惜しくなった。
帯刀は一歩だけ、柴崎に歩み寄った。当然、周囲に伸びされていた藩兵達の警戒の糸がピンと張り詰められ、ライフル銃が一斉に向けられた。隣に立つ春嶽や葵、日向達の驚いた視線も全身に刺さるのを感じる。
だが、そんなことよりも、柴崎に別れの挨拶を。
「……家族と達者で暮らせよ」
そんな言葉だけが漏れた。
その時、柴崎の顔が丸められたちり紙のようにくしゃりと崩れ、こちらを向きそうになった。だが寸前のところで首の動きを止めてしまう。結局、最後の最後まで帯刀と目を合わせることはなく、全てを振り払うように背中の蒸気を解放した。
柴崎からの別れの挨拶は、排出された蒸気の風圧だけだった。
「さて、腹が空っぽになってしまって、この鉄の竜もさぞひもじい思いをしておるじゃろう。何か代わりの餌を与えてやらねばなぁ」
柴崎が残したそよ風を名残惜しむ暇も与えられず、水野の仄暗い瞳が帯刀達を絡め取った。




