第四章 欲望の終着駅 その5
死線を潜り抜けて来たことで培われた直感のようなものだろう。目に見えざる触覚が殺意を鋭敏に感じ取った刹那、反射的に動いていた。
自身の傍らに立っていた白い軍服を着た青年が走り出したことで、予兆は確信に変わり、遠慮せずに腰の操縦桿を握ることが出来た。
一気に、背中の蒸気背嚢を解放。周囲に白い蒸気が波紋のように広がり、帯刀の身体に推進力を与えた。爆発的な初速で地面を滑りつつ葵に肉薄し、折れてしまいそうなほどに細い腰を右腕で抱きかかえる。と、同時に上昇。逃げ道を空に求めた。
寸毫遅れて銃声が轟く。恐らく銃弾は、先程まで葵のいた空間を貫いていただろう。まさしく間一髪であった。
「……はへ?」
帯刀の腕の中で、葵が素っ頓狂な声を上げていた。その表情は、とても人前に出すことは憚られるほど間の抜けた顔をしている。
まあ、走っていたらいつの間にか空に飛び上がっていたのだから、無理もないが。
葵を宥めている余裕はないので、帯刀は無視して地面を見下ろす。
そこでは春嶽が藩兵の一人を無力化していた。だが水野を挟んだ反対側にもう一人ライフル銃を構えている藩兵がいた。その銃口からは硝煙が、白い吐息のように立ち上っている。
「……水野殿、これはどういう了見か?」
軍刀を正眼に構えながら春嶽が問い質している。
水野は惚けた表情をして、ペシリと額を叩いた。まるでくだらない悪戯がバレて咎められた時のように気軽な仕草だった。
「あいや、これはやられたわい。葵様一人ならともかく、流石に一ツ橋家の坊ちゃんや、歴戦の勇士の雲雀部隊を騙し切ることはできませなんだ。ここで葵様を人質に取れれば、儂の勝利は揺るぎなかったものを」
水野はこの期に及んで言い訳をするような愚を冒さない。だが諦観する様子もなかった。まだ、自分が勝利できると考えているようだ。
既に近衛兵は抜刀し、雲雀部隊も各々武器を構えて、困惑を表情に乗せながらも各々の隊長と足並みを揃えて戦闘態勢に入っている。藩兵側も水野を取り囲んで自ら盾になりつつ、ライフル銃を近衛兵と雲雀部隊に突きつけていた。誰かの一声で、あるいは一発の銃声で戦闘が勃発する。そんな危険領域に入っていた。
「水野殿、今一度問う。その首が胴を離れる前に、この狼藉の訳を述べよ」
多数の銃口が向けられていながら、春嶽は表情一つ変えずに、軍刀の柄を握り締めていた。
「……これは異なこと。訳とな? 富を欲することに理由などあるのか? 蜂が花蜜を集めるのと同じく、人間も本能のままに富を求めるものであろう」
「やはり、穂積大佐と通じていたのか?」
それならば全てに納得がいく。なぜ穂積大佐が黄金を盗むなどという行為に走ったのか。
国の財産に手を付けた重罪人、当然ながら憲兵が血眼になって追い続けるだろう。逃げ切れるわけがない。穂積大佐だってそれくらい分かっていたはず。
だが、後ろ盾となる共犯者がいたとすれば、話は別だ。
水野は肯定するように呵々大笑する。
「話を持ち掛けてきたのはあ奴よ。浜松駅への到着の遅れを知らせる電報と共に、この儲け話を寄越してきおった。江戸を失い、この国の混迷が目に見えておるのじゃ。儂も自分を守る手立てが欲しかったところでな。ま、恨まんでくれ」
水野は悪びれる様子もなく、右手を高々と挙げて再び合図を出す。同じ国の者同士で殺し合うことに、何の躊躇も感じていない。水野から下された指示により、藩兵達が一斉にライフル銃の引き金に指を掛けた。
発砲される、その前に。
帯刀は首から下げていた笛を咥え、思いっ切り息を吹き込んだ。唇で挟んだ金属製の笛の震動を感じながら、甲高い鳴き声を空に響かせる。
ピーッ。ピーッ。
連続する長音は、雲雀部隊内において戦闘開始と発進の合図である。この音列を耳にしただけで、隊員達は反射的に蒸気背嚢を噴射させる。
爆風のように膨らんで弾けた蒸気は、濃霧となって戦場を呑み込む。上空を飛ぶ帯刀には届かないが、地表にいる者達の視界は完全に殺された。遅れて銃声がしたものの、視界を奪われた中での発砲だ。命中するはずもない。
地上を覆った濃霧を貫いて、雲雀部隊が帯刀の傍へと飛び上がって整列する。
「隊長っ、これからどうしましょう?」
と、日向が突撃銃を地上に向けつつ指示を仰いだ。
「無論、浜松藩の鎮圧。水野家当主の身柄確保だ。ただ、近衛兵への誤射には気を付けろ。俺達はあくまで援護で、鎮圧は近衛兵に任せる。ちなみに、俺はこのお荷物を抱えてしばらく空を逃げ回らなきゃならん」
右の腕で抱えた葵の軽い身体を持ち上げつつ言う。片腕が塞がっているため、とても銃など扱える状況ではなかった。
「了解しました。隊長は安全なところまで逃げてください。近衛兵の掩護は自分達が引き受けます」
副官の柴崎がそう言うのだから後は任せることにしよう。
「な、なりませんっ! お、同じ、国の者同士で、殺し合うなど……そんな、そんなことは」
目まぐるしく変わっていく状況にようやく思考が追いついたのか、帯刀の腕の中で葵が苦悶の表情を浮かべて叫ぶ。
残念ながら、葵を慰めたり叱責したりする余裕はなかった。
蒸気の目くらましは既に解かれ、藩兵達がライフル銃でこちらを狙っていたのだ。多数の銃声が爆竹の音のように鳴り響き、帯刀達のすぐ傍を弾丸が横切った。これには葵もたまらず悲鳴を上げる。
「悪いっ、後は頼んだっ」
帯刀は最後に部下にそれだけを言い残し、蒸気背嚢の噴射を強めてライフル銃の届かない高高度まで飛翔する。葵の悲鳴が更に甲高く大きくなったがそんなものは気にしていられない。万が一にも銃弾が蒸気背嚢を貫いたら、地上へ真っ逆さまである。
葵様はこっちで保護しました。地上戦は近衛兵の領分でしょう? 頼みましたよ、一ツ橋少佐。
帯刀はどんどん小さくなる戦場を見下ろしながら、既に姿を捉えることのできない青年に向かって声なき声援を送った。




