表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/34

第一章 江戸駅発 その1

 大正四十四年(西暦一九五五年)、十一月。

 『北部防衛線、瓦解ス』。軍本部の必死の報道管制も空しく、敗戦の一週間後にはこのような見出しが各社新聞紙の一面を飾っていた。真偽入り乱れた噂話が首都・江戸に蔓延し、人々の狂気を駆り立てる。家財道具の一式を荷車や蒸気自動車の荷台に乗せて、西へ逃げ去ろうとする人々が溢れ返り、怒号と悲鳴の嵐が巻き起こっていた。

 狂乱した民衆を抑えるために、方々から警官が集められ鎮圧に乗り出したものの、一連の騒動は収まる様相を見せない。あろうことか逃げ惑う民衆の狂気に扇動された警官が、自らもその一員に加わるなど、木乃伊取りが木乃伊になる事態にまでなっている。

 誰しもが理解しているのだ。黒鉄蜂の脅威の防波堤であった北部防衛線が崩壊した時点で、首都・江戸は終わりである、と。

 百年前の戊辰戦争において、討幕派が江戸の近郊に迫り、戦火が降り注ぐ直前まで迫ったことがあったが、それでもこの江戸は戦火を回避した。そんな安全神話を知る江戸の住民達が、ついに終わりの時が来たと諦めてしまうほど、今の状況は危機的だった。

 民衆のパニックの様相を最も色濃く反映している場所は、江戸の玄関口である江戸駅である。全国から旅客や物資を運搬する蒸気機関車が絶えずやって来ていたこの江戸駅に、今は人の群れが押し寄せている。

 少しでも西へ逃げようとする人々が、京都・大阪方面への汽車に飛び乗ろうとしていた。


「まだ、乗れるだろうがっ! もっと、奥に詰めろっ!」

「入れるわけねえだろっ、さっさと降りろっ、馬鹿っ!」

「おい、屋根だ、屋根に上れっ!」


 客車は既に満員。それでも後から後から人が乗車して来る。乗車済みである客と乗車しようとする者の間で攻防となり、人込みに押し潰され圧死する者すらいた。それでも人の流れは怒涛の如く、留まることを知らない。


「次の汽車を待てっ! 屋根に上るなっ!」


 接客態度などかなぐり捨てた駅員が、客車の屋根に上ろうとする無法者を引き摺り降ろそうとする。駅の構内には警笛と暴言と悲鳴が吹き荒れ、収束する兆しはなかった。各所で流血沙汰が発生し、江戸駅の象徴とも言える赤レンガの壁面が緋色に塗り直されていた。

 一方で、混乱の続く江戸駅から二ブロックほど離れた箇所に、現在の江戸の雰囲気からは想像もつかないほどに静謐な区域があった。周囲を防風林によって覆われ、外部からは内部の様子が伺えない。人の目を憚るように作られたこの区域の内側に、世間から隠匿された汽車の乗降場プラットホームがある。

 北部防衛線の崩壊が報道される前、即ち敗戦の一報が軍部に入ったその直後から、人知れず蒸気機関車と貨車がこの乗降場に運び込まれた。また、軍用トラックが何度も出入りし、大小様々な木箱が貨車の内部に収められていった。これらは全てごく限られた者の間で、密かに行われた。

 機関車一両、その直後に炭水車が一両、それから客車が二両と通信設備が備え付けられた軍用の指揮車が一両、その後には延々と貨車が連結されている。合わせて四十両の大編成である。それは傍から見れば、まるで鉄の竜のようであった。

 今、鉄の竜の傍らに軍服を着た人々が並んでいた。白い詰襟の軍服に身を包んだ軍人達が乗降場の上で列を作っている。そこには、江戸駅の混乱とは正反対に、荘厳な静けさが張り詰められていた。

 しかし、この物々しい雰囲気を乱す人物が、その場にたった一人だけいた。


「嫌ですっ! お父様も、お父様も、ご一緒にっ!」


 紺色に染め上げられた振袖を羽織り、下駄を鳴らしながら涙する十代の少女。振袖の各所に徳川家のみが使用することが許された葵紋が描かれていることから、少女が高貴な出自であることは明白である。その首から下げる金細工が施された涙滴型のペンダントも、少女の上品さを際立たせている。烏の濡れ羽色の長髪は艶やかで、毛髪の一本一本が生糸の如く細く美しい。

 徳川トクガワ アオイは、眼前に立つ父親に、強く縋りついていた。まるで父親の纏う軍服を破こうとするかのように。

 父親、即ち大江戸連邦の国家元首である徳川家の当主は、胸に縋りつく娘の肩を抱き、ゆっくりと引き剥がして視線を合わせる。


「葵、それは出来ない。私はこの国の棟梁だ。神君・家康公が江戸幕府を開かれて三百年もの間、この国の中心であった江戸を、最後まで守り抜く責任が私にはあるのだ」


 父親の柔和な口調で語られた言葉が、葵の幼い頃の思い出を呼び覚ます。

 父親から語られた、この国の歴史を。

 徳川家康が江戸幕府を開闢して以来三百年、徳川家はこの国を守護する責務を負い続けてきた。百年前、討幕派との間に起こった戊辰戦争にて、徳川家は存亡の危機に立たされた。だが公武合体派の尽力により、徳川家は存続することとなった。各藩に自治権が認められ、藩内から選出された議員によって国事を行う連邦制が導入された。徳川家には、議会で制定された憲法の制約を受けることを前提に、統帥権等の主権を保有する立場が約束された。

 こうして大江戸連邦という近代国家の中で、徳川の時代は継続することになった。

 それ故に、徳川家の双肩には三百年分の歴史と責任が課せられているのだ、と葵は常々聞かされていた。


「……でも、……でもぉ……」


 聞き分けのない子供のように否定する葵。

 徳川家当主は娘の泣き腫らした顔を眺め、愛おしそうに苦笑する。だがすぐに表情を引き締めて、近くに立つ軍服姿の男達に向き直った。


「こんな頼りのない娘だが、どうか、守ってやってほしい。この娘は今はこんな調子ではあるが、私なんかよりもずっと賢く、物をよく知っている。それに何より、性根の優しい子だ。きっとこの国を支える傑物へと成長するはずだ」


 整列する軍人達の先頭に立つ恰幅の良い中年の男性が、一歩前に力強く進み出る。


「お任せください。我ら近衛、天地神明に誓って、葵様をお守りいたします」


 徳川家の直隷の部隊である近衛兵、その部隊長を務める穂積ホヅミ大佐は岩盤のような胸板を張る。

 穂積大佐の返事に、安堵するように頷いた徳川家当主は、その視線を隣に滑らせ、一人の青年の前で止めた。


「君は……。一ツ橋、……一ツヒトツバシ 春嶽シュンガク君だね。そうか、君もいてくれるのか。なら、娘を安心して預けられるよ」


 一ツ橋 春嶽は整列する軍人の中でも一際背丈が高く、背筋に鉄骨が入っているかのように姿勢のいい少年だった。額の中央で分けられた前髪の下で、刀の如く鋭い眼光を放っている。士官学校を卒業したばかりの十八歳という若さでありながら、その貫禄は隣の穂積大佐にも引けを取らない。

 一ツ橋家は徳川家の分家であり、その源流を同一とする。現在でもその付き合いは続いており、春嶽は徳川家当主と顔見知りであり、幼い頃は葵の遊び相手を務めていたこともある。

 春嶽は靴音も鳴らさずに、静かに一歩進み出る。


「はい。私の、近衛兵として葵様の護衛を任されたことは、光栄と感激に至りでございます。この命、投げうってでも葵様をお守りする所存でございます」

「……うん、ありがとう。君達のような優秀な大江戸連邦軍人に守ってもらえるのだから、娘に万が一などあるはずもないな。とても心強いよ。どうか、君も気を付けて……」


 そういって涙が混じる目を擦った徳川家当主だったが、ふと何か思い出したように辺りを見渡す。誰かを探しているかのように、白い軍服の列に向かって視線を走らせていた。


「そうだっ。確か、今回の任務にはあの雲雀部隊も参加しているのだったね。彼らにも挨拶をしたいのだが、一体、どこにいるのだろう?」


 雲雀部隊、その単語を聞いて、今まで嗚咽を上げて泣いていた葵が、ピクリと肩を揺らして反応する。顔を覆い隠してた振袖を下ろし、真っ赤に充血した目を露わにした。


「……え? 雲雀部隊が、いらっしゃるのですか?」

「ふふっ、そうだぞ、葵。お前の憧れであった雲雀部隊がこの列車に同乗して、お前を守ってくれるのだ。これで、父がいない心細さも少しは晴れるであろう?」


 まるで欲しがっていた玩具を前にした子供のような反応を見せる娘に、徳川家当主は微笑む。


「確かにこの任務に雲雀部隊も参加しております。列車の最後尾が彼らの乗車する車両となっており、黒鉄蜂と会敵した際には彼らが死力を尽くして我らを守ってくれるでしょう」と穂積大佐が語る。

「うむ、今、彼らは列車の後方にいるというわけか、ならば会いにゆかねば……」


 そう言って爪先を列車の後ろに向け、今まさに歩き出そうとする徳川家当主を、穂積大佐が慌てて止める。


「お、お待ちください。雲雀部隊は我ら近衛兵とは異なり、一般庶民の出自で、卑しい身分の者達です。ご当主御自らがわざわざ挨拶などする必要はございません。そのお気持ちだけで十分でしょう」

「……しかし、娘の護衛を頼むのだ。身分や当主云々は関係ない。娘の父親として頭を下げるのが礼儀というものだろう……」

「……そのお心掛けはご立派でございます。ですが、そもそもこのような事態を招いた北部防衛線の敗戦、その原因は雲雀部隊にあります。勝利という春を告げる雲雀部隊などと呼ばれて思い上がったために敵の力量を見誤り、その結果、地上戦力を守り切れず、黒鉄蜂の餌食としてしまったのです。ご当主が叱責するならばともかく、頭を下げるなど……」


 穂積大佐は脂ぎった汗を額から流しつつ、徳川家当主をその場に押し止めようとする。


「敗戦の責務が彼らにあるとすれば、今回の任務は彼らにとって汚名返上の機会となろう。彼らを叱咤激励し、奮起させることこそ、私のような人の上に立つものの仕事ではないのか?」

「ですが、ご当主御自らが前に立てば、雲雀部隊の面々も驚き、重圧に押し潰されてしまうやもしれません。ただでさえ、敗戦の責任で慚愧の念に堪えかねているというのに。……どうか、このまま彼らを見守ることが最上であるとご理解ください」

「…………うむ……、ならば仕方あるまい」


 穂積大佐の説得に、徳川家当主は渋々その足を止める。

 何とかその場に止まった徳川家当主に気付かれないよう、穂積大佐が小さくため息を吐く。その吐息には、雲雀部隊を慮るような気色は微塵も感じられない。


「さあ、そろそろ汽車が出発いたします、葵様はご準備のほどを……」


 穂積大佐は出立を急かすように、葵が乗車することになっている客車の扉を開く。

 同時に、右手を高く上げて蒸気機関車に向かって合図をする。間もなく出発する、という指示である。それを受けて機関士と副機関士が、蒸気機関に火を入れた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ