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第三章 迷走する黄金列車 その7

 春嶽は一人、歩いていた。周りを見渡せば、白い詰襟の軍服を着た近衛兵と赤茶けた迷彩柄の軍服を着た雲雀部隊が入り混じって談笑をしている。まるで両者が今までの蟠りを忘れたように。この光景が見れたことで、葵の企画した交流会は成功したと言える。

 帯刀の告発を聞いた後、春嶽は逃げ出すようにその場を立ち去った。帯刀と葵が打ち解け合って、春嶽がついていけないほど高度な蒸気工学についての談話を始めたためである。

 だが、もっと別の理由もある。

 帯刀の語った井伊家横領事件の真相が、未だに春嶽の心をかき乱していた。所詮、証拠のない話だ、そのまま一笑に付すこともできる。だが虚言と決めつけられないという思いが、春嶽を惑わし続けている。

 井伊家に踏み込んだあの時、私以外の近衛兵は一体何をしていたのだろう。私財拠出令に則り、井伊家の家財や財産を差し押さえていたのだろうか。それとも、帯刀が言うように、軍の上層部が横領した証拠を探っていたのだろうか。そして、私はそのことに気付かず、無実の幼馴染を恫喝していたのだろうか。

 確かに、書類らしきものを庭で焼き払っている近衛兵もいた。当時は気にも留めなかったが、もしかしたら上層部の密命を受けて証拠の隠滅を図っていたのか。

 既に過去のことだ。今更、後悔したところで何も変わりはしない。今まで通り、国家の頭のように考えることなく、国家の手足に徹してればいい。そう、そのはずなのに。

 気付けば、雲雀部隊の日向を探していた。

 彼女が井伊家の日向であるならば、当時のことを何か知っているかもしれない。そもそもそのことを確かめるために、この交流会を開催したのだ。

 丁度、見覚えのある背中を見つけた。髪型こそ異なるが、かつての幼馴染に似た後姿。


「……松平、日向、二等兵」


 呼びかけると、日向が振り返った。その口には、スプーンを咥えている。どうやらカレーを食している途中だったようだ。

 日向の浅黒い喉がゴクリと鳴り、咀嚼中だったカレーを慌てて嚥下した。


「…………、ひ、一ツ橋、少佐。……何か、御用でしょうか」

「いや、何か、というほどでもないが……。食事の方はどうだろうか?」

「は、はい。とても、美味しく、頂いています……」


 ギクシャクとした会話。

 日向の反応は見ると、まさかと思う。近衛兵の隊長を前にして、ただ緊張しているだけなのか、あるいは。


「……そうか、それは、良かった。君達、雲雀部隊は我が国防の要だ。今回の作戦だけではなく、これからも活躍してもらわねば。存分に精を付けてくれ」

「は、はい、十分に頂いております。このカレーは具材が豊富な上にとても美味で、特にこの牛肉などは頬が落ちる程でありますっ」


 日向がスプーンに乗った角切りの牛肉を見せつつ言った。

「戦時中で物資が不足している中で、このような質の良い牛肉を手に入れられたのは幸運だった。私も久しぶりに牛肉を食したが、やはり美味いものだ。最後に食べてから、五年ぶりにはなるか。君もそうだろう?」

「そ、そうですね。本当に久しぶりで……」


 答えを言い淀む日向。

 もし彼女が庶民の出自だったならば、例え平時であっても牛肉を食す機会は少なかったはずだ。だが井伊家の娘だったとしたら、私財拠出令で財産を奪われる前はそれなりに豪勢な食事をしている。その舌もさぞ、肥えているだろう。


「そうであろう。この度調達した牛肉は近江牛だ。甘い油が口の中で溶けて大変美味だった」

「いえ、これだけ煮込んでも筋線維が解けず、しっかりと歯ごたえが残っているのですから、この肉は飛騨牛ではありませんか?」


 スプーンに乗せたまま牛肉を観察しながら、日向が首を傾げている。

 見事、正解である。そしてうまく餌に食い付いてくれた。


「……ほう、随分と牛肉の種類に詳しいのだな。肉の種類を言い当てるなど、華族出身の美食家のようではないか」


 春嶽が指摘すると、日向の顔が「しまった」という表情に染まる。


「あ、いえ、それは、偶然、食べたことがあって……」

「近江牛と飛騨牛の味を違いが分かる程、食した経験がある、と? ほう、それは興味深い。君は一体、どこの出身かね」


 日向の汗顔を見下ろし、春嶽は容赦なく追い詰めていく。

 もはや確定だ。

 目の前の少女は間違いなく、かつての幼馴染、井伊日向だ。


「ぐ、ぐ……」


 日向は言い返すことも出来ず、顔を背けることで最後の抵抗を見せている。だがもう遅い。多少風体や顔つきが変わろうとも、春嶽の確信が崩れることはない。


「……やっぱり、君は、……井伊、日向……」

「わ、わたしっ、ちょっと厠へ失礼させてもらいますっ」


 日向は残っていたカレーを口の中に放り込み、空の皿を春嶽に押し付けると、粉塵を巻き上げるほどの勢いでその場から逃走する。その素早さは背中に蒸気背嚢でも背負っていたかのようである。

 厠に向かった女性を追いかけるわけにはいかず、春嶽はしばらくその場に立ち尽くした。

 まさか、本当に井伊日向だったとは。あの変わりようには驚いたが、元気そうに生きていたことに安堵する。いや、自分にそんな資格はない。彼女を追い詰めたのは他でもない、自分自身ではないか。

 今後、彼女とどう接していくべきなのか。

 いや、悩む必要はないか。どちらにせよ、彼女と自分の道は既に別たれている。今では近衛兵と雲雀部隊。今回の作戦では一時的な共闘関係にあるが、それだけだ。京都に葵と列車の積み荷を運び終えれば、もう二度と出会うことはない。

 余計なことは考えるな。そうだ。忘れろ。国家の「手足」に準じろ。

 自己暗示をかけるように言葉を繰り返す。

 日向から渡された空の皿に視線を落とす。ふと、穂積大佐のことを思い出した。そういえばまだ夕食を取られていないはず。

 何かを忘れたい時は別の作業に没頭している方がよい。

 そう考えた春嶽は新しい器にカレーを乗せ、穂積大佐が籠っている通信車に向かう。交流会の喧噪が薄れていき、周囲の閑静さが乱れた心を落ち着かせてくれる。


「一ツ橋です。穂積大佐、食事をお持ちしました」


 春嶽が通信車に乗り込むと、無線機の前に座り込んでいた穂積大佐がこちらを向く。その手にメモ用紙が握られているところを見ると、無線機から電報を受信していたようだ。そのメモ用紙が風に煽られたように揺れている。いや、正確には紙を握っている穂積大佐の手が震えているのだ。

「…………少佐か」と呟いた穂積大佐。

 様々な感情に入り乱れたような、濁った色合いの双眸。

 嫌な予感が春嶽の背筋を流れた。


「どこからの電報でしょうか?」

「……横浜海軍基地からの連絡だ。江戸の防衛のために派遣していた兵が帰還したため、江戸の現況が分かったそうだ」

「……江戸は、どうなりましたか?」


 その答えを聞くのが、怖い。

 しばし、穂積大佐は口籠ったものの、貼り付いた上下の唇をゆっくりと剥がして、告げる。


「黒鉄蜂の大軍により、江戸の街は壊滅。死者、行方不明者は二十万人以上。江戸防衛のために残されていた連邦軍も全滅。敷設されていた鉄塔のほとんどが倒壊、そのせいで連邦全体の通信網にも影響が出ている。道路や線路にも破損が見られ、首都機能は完全に停止した。そして、……徳川家当主様の戦死が確認された」


 分かっていた。

 徳川家当主が江戸に残ると発言した時点で、このような結末になることは目に見えていた。黒鉄蜂に対抗できる唯一の戦力である雲雀部隊を葵の護衛に回したことは、江戸を見捨てるのと同じことだった。だが予想していたとは言え、首都の喪失を現実のものとして知らされると、背筋の寒気を抑えることはできなかった。

 大江戸連邦はその名の通り、江戸を頂点とし、全国の諸藩を統率する構造となっている。その頂きである江戸を失った今、大江戸連邦が今までと同じような秩序を保てるのか、不安を抱かずにはいられない。


「これで名実ともに、葵様がこの国の長となったわけだ……」


 眉間を抑えながら穂積大佐が淡々と呟く。


「ええ。葵様を護衛する我々の責務が、これまで以上に重くなりました。この命を投げ売ってでも、必ずや葵様を京都までお連れ致します」


 春嶽はあえて覚悟を口に出すことで、自分に課せられた責任を改めて自覚する。

「……一ツ橋君、君はこの国はこれからどうなると思う? 江戸が無くなった今、葵様が当主として連邦を纏められるだろうか?」


 春嶽を階級名ではなく、君付けをして呼んだ。それは大佐としてではなく、一人の国民として語りかけているようだった。


「遠慮はいらない、君の考えを言ってくれ」


 返答に窮していると、穂積大佐が静かにそう言って促した。

 春嶽は戸惑いつつも、素直に打ち明けることにした。


「……葵様には未熟なところはありますが、分け隔てなく他者に接しようとする優しさがあります。少なくとも、今回の交流会の発案は雲雀部隊の心を捉えたはずです。周りから支えられながら、この国を率いていくことが出来ると、思います」


 それは嘘偽りない春嶽の想いだった。

 穂積大佐が頷く。それは肯定を意味するものか、あるいは意味はなく反射的なものか。


「優しさ、か。確かに、それは認めよう。葵様はお優しい。……平和な世であれば、国を統べる指導者として葵様以上の方はいないだろう。…………しかし、今は戦時だ。時には冷酷な判断を求められることもある。果たして葵様にそれが出来るのか」


 穂積大佐の言葉に偽りや世辞は見当たらない。穂積大佐が葵の優しさを評価していたことは意外であった。今までは葵を窘めたり、不敬に当たるほど冷徹な態度を見せていたのは、決して葵を憎んでのことではなかったようだ。

 今回の作戦中、穂積大佐が葵に冷たく厳しい言葉を浴びせていたのは、葵様に現実を教えるため、あえて憎まれ役を演じていたのではないか。


「生まれる時代を間違えたのかもしれんな、葵様も、君も、私も……」


 遠くを見つめるように目を細める穂積大佐。


「何を弱気なことを。穂積大佐らしくもない。葵様が冷酷な判断を下せないのならば、我ら近衛兵が支えれば良いのです」

「ふ、そうか、そうかな」

「穂積大佐の言葉は決して的を外したものではありません。これからも、冷厳な具申を掛けて頂ければ、葵様も指導者として成長するでしょう」

「……君に、そう言ってもらえると、私も心が晴れるよ」


 穂積大佐は大きくため息を吐き、背筋を伸ばした。軍人としての自分に意識を切り替えたようだ。


「一ツ橋少佐、色々とすまなかった。わざわざ夕食まで。有難く頂くとする。……悪いが、江戸陥落の知らせを葵様と他の近衛兵にも伝えてもらえないか」


 春嶽は無線機が置かれた机の空きスペースにカレーを置き、敬礼を返す。


「了解しました。雲雀部隊には?」

「……構わん。話してやれ」

「はい。それでは、失礼いたします」


 帯刀は半歩下がってから踵を返し、通信車の扉を開ける。

 そのまま外に出ようとした時、穂積大佐の微かな声が耳を撫でた。虫の羽音のような小さな声だったため、思わず聞き逃すところだった。


「……どうか、私を、恨まないでくれ」


 それは、これからも葵に厳しい意見を投げかけることに対して、誰かに許しを乞うているようだった。

 穂積大佐も辛い立場だろう。しかし、臣下には時に主が望まない言葉も囁かなければならないこともある。

 穂積大佐の泣き言を聞こえなかったことにして、春嶽は通信車の外に出る。向かうは交流会の会場だ。江戸の情報を届けなければならない。きっと、この無情な報告に葵は心を痛めるだろう。だがそれでも、今はあなたがこの国の長であると、はっきりと伝える必要がある。

 力強い足取りで春嶽は無慈悲な報告を届けるべく、焚き火で明るく輝いている交流会の場へと向かった。


 春嶽が、穂積大佐の漏らした言葉の真意を知るのは、翌朝になってからのことである。

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