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第三章 迷走する黄金列車 その5

 自分を鳥籠の中の鳥のようだと感じたのは、いつの頃からか。

 恐らく物心ついた頃から、何となく感じていたはずだ。自由に出歩くことを許されず、同い年の子供のように学校に通うこと無く、自室で家庭教師から学ぶばかりの日々。庭先で毬をついて遊ぶか、たまに開かれる華族の宴に置物として出席することぐらいしか許されなかった。

 徳川家という檻に閉じ込められ、綺麗な声で鳴くことだけを周りから求められる、そんな哀れな小鳥だった。春嶽が持っていた、金細工で翼が描かれたペンダントを、らしくもなく好んだのは鳥と自分を重ね合わせていたからだ。

 そんな葵の心を僅かに慰めたのは、書物だった。一人でいる時間はいくらでもあったため、ひたすら本を読むことに費やした。

 中でも興味を持ったのは、蒸気工学に関する専門書だった。ただ鳥籠の中にいる内は、血のように真っ赤であるという血晶炭や、工場の煙突から勢いよく噴き出す蒸気の光景は想像する他なかった。

 ある日、父親が国内最大級の炭鉱である常盤炭鉱の視察に向かうという話を聞き、ぜひ自分も同行するとわがままを言った。蒸気文明を支える血晶炭の採掘場は、一度この目で見てみたいと常々思っていた。

 再三の主張が叶い、父親と共に炭鉱の視察が許された。

 地面に穿たれた大穴はまるで黄泉の国に通じているような不気味さがあり、そこから次々とトロッコで運びされる血晶炭は地球の血液にも思えた。時折、トロッコの中には砂塵に塗れた炭鉱夫の姿もある。

 そんな炭鉱の様子はまさに圧巻の一言で、自分がいかに世界を知らないのか、まるで馬鹿にされているようにも感じたものだ。

 炭鉱の傍では血晶炭を運搬するための蒸気機関車も行き来しており、吹き上げる蒸気が青空の一画を漂白していた。


「……ここから関東圏の工場まで血晶炭が運ばれ、紡績機などの様々な機械を動かす燃料となっているのです……」


 炭鉱の責任者が緊張しながら説明しているのが聞こえたが、その内容は葵にとって既知のものばかりであった。より専門的な話を期待していた葵にとって退屈極まりない。

 蒸気技術の行きつく先、もっと未来のお話は無いのかしら。

 そんなことを考えながら炭鉱を見渡していた。


「それでは、次はこちらへどうぞ。ここには蒸気機関の模型がありまして……」


 責任者がそう言って先導し、炭鉱から離れた場所に案内をしていく。

 ……今が好機かしら。もっと間近で炭鉱が見たいのに、このままではいつまで経っても近づけないわ。

 当時は黒鉄蜂の存在が知られていない。炭鉱に近づくことが危険などと考えることも無かった。

 葵はその小さな身体を活かして、団体行動からこっそりと抜け出した。

 偶然、線路の脇に捨て置かれたトロッコを見つけると、その陰に身を隠した。トロッコの底には稲妻のような亀裂が入っていた。運搬作業中に壊れ、そのまま廃棄されたのだろう。もはや血晶炭を運ぶには役立たないが、覗き穴としては活用できそうだった。


「……おや、葵の姿が見えないが?」


 父から発せられたその言葉を皮切りにして、葵を呼ぶ声があちこちで上がった。そうして父親と炭鉱の管理者達が葵捜索のためその場から立ち去ったことを確認し、トロッコの陰から飛び出した。

 生まれて初めて自分の手で掴んだ自由を噛み締めながら、葵は軽やかなステップで炭鉱に近づいていく。

 炭鉱の穴は、近づく度にその口を大きく広げ、まるで黒い湖のようでもあった。

 背筋にぞくぞくするような恐怖と興奮が奔る。


「おや、珍しいお客様だ」


 聞き慣れない声に、葵の足がピタリと止まった。

 振り返ると、大人の男が立っていた。炭鉱夫と同じツナギ服を着ているが、汚れがほとんどないところを見ると作業の監督か、あるいは葵のような炭鉱の見学者か。


「こんにちは。この辺りはトロッコも通るし、坑道もあるから危ないよ」

「……」


 父親や付き人もいない中で見知らぬ相手と出会うのは葵にとって初めての経験だった。どう返答すればよいのか分からない。


「……まあ、でも、大江戸連邦の未来を担う若人が炭鉱に興味を持ってくれるのは嬉しいね」


 と、男はにっこりと笑う。

 まさか目の前にいる人物が、比喩ではなく未来のこの国を背負って立つ人物そのものであるなどと、この男、島津良樹も知るはずがなかった。


「……炭鉱、というよりも、血晶炭や蒸気技術に興味があります」


 葵がそう言い返すと、良樹の顔が益々輝いた。


「それは、本当に嬉しいなぁ。この国の蒸気技術はまだまだ発展途上だし、君のように理解のある若者がいてくれると助かるよ。……あ、申し遅れたけど、僕は島津良樹、一応蒸気工学者の端くれで、この炭鉱場の技術顧問でもあるんだ。もし蒸気に関して聞きたいことがあれば、何でも答えてあげるよ」

「…………島津、良樹。『英国の蒸気文明の萌芽』を書いた人?」


 男の名前に覚えがあった。

 最近読破した専門書の著者がそんな名前だったような。

 良樹の目が驚きで丸くなった。


「へぇ、その歳で僕の本を読んでくれたの? それは凄いなぁ。君、一体何者?」


 まさか自分が誰何される時が訪れるとは思ってもいなかった。これまで出会う人は、誰もが葵の出自を知り話かけてきた。

 しかし名乗ってしまったら、父親の元へ連れ戻されてしまうかもしれない。

 しばし葛藤していると、遠くから「葵ぃっ、どこだあっ!」と父親の呼び声が響く。


「……葵? ……ああ、そうか、そう言えば徳川様が娘を連れて視察に来られると聞いていたけど、まさか、君が……」


 合点がいったような顔で葵を見つめた良樹は、右手を上げて呼び声に応えようとする。

 咄嗟に、葵は良樹の足元に縋りつく。


「……まだ、駄目」

「……あ、葵様?……」

「また、鳥籠に戻るのは嫌。……もうちょっと、もうちょっとだけ……」


 葵の真意に良樹が気付いたかどうかは分からない。だが良樹は一人納得したように頷くと、持ち上げかけた右腕を下ろす。


「…………うん、それじゃあ、少しだけ僕とお話しようか。何か、質問はない?」


 そう言って笑った良樹は、腰を落として葵と視線を合わせる。


「……あの、蒸気技術は、これからどのように発展していくのでしょう……」


 それから葵は様々な質問や意見をぶつけてみた。

 日頃考えていたこと、ふと思いついた蒸気工学の可能性のこと、取り留めなく吐き出した。良樹はそんな他愛のない質問の一つ一つに、決してはぐらかしたり誤魔化したりせずに答えていく。葵の素人考えの意見を、技術的あるいは金銭的な観点からキッパリと否定することすらあった。だがそれは葵を一人の人間として尊重してくれているようで、例えどんな回答であったとしても不満を感じることなく素直に受け取ることが出来た。

 この時間が延々に続けばいいのに。

 そう思ったものの、言葉はやがて尽きていく。湯水のごとく沸いて出ると思っていた質問や意見は段々無くなっていき、思いつくこともなくなっていった。会話の終わりは、葵にとって自由の終わりを意味する。

 終わらないで。


「……えっと、それから……」


 だが言葉を失う。聞くことが無くなってしまった。

 どうしよう、この時間が終わってしまう。折角の自由が。鳥籠に閉じ込められてしまう。徳川家という牢獄が待っている。この青空を飛ぶことを許されない、囚人の小鳥に逆戻りだ。そんなのは嫌、自由が欲しい。普通の人と同じように、空を、飛び回りたい。


「…………蒸気で、空を飛べるようになりますか?」

「え?」


 唐突に、願望が口を突いて出た。

 もはや質問ではなく、子供が抱く空想だ。口走った後でとても恥ずかしくなった。国家を代表する技術者にこのような子供じみた願望を投げかけてしまったことが、例え焦燥感によるものだったとしても情けなく思えた。


「あ、あっはははっ」


 やっぱり、笑っている。でも、仕方ない。世間知らずの徳川の娘と嗤われても。それが事実なのだから。


「あはは、ごめんごめん、決して馬鹿にしているわけじゃないんだ。ただ、僕の息子もこの間同じことを言っててね。それが、つい可笑しくて……」

「同じ、ことを?」

「うん、そうなんだよ。飛んでいた雲雀を眺めて、君と全く同じことを呟いたんだ。すごい偶然だ。……そして、僕もその時と同じ言葉を君に返すよ」


 良樹は一瞬だけ言葉を溜めた。そして真面目な表情で答える。


「……蒸気の力は、人が空を飛ぶことすら可能にするのですよ、葵様」

「ほ、本当に? 鳥のように、ですか?」

「はい。理論的には可能なはずです。既に論文はいくつか発表されています。通称ジェットパック、和名では蒸気背嚢とでも呼びましょうか。この装置が普及すれば、人々が自由に空を飛び交うようになるはずです」


 力強い自信に溢れた言葉は、根拠もなく信じさせてくれる。

 いずれ訪れるかもしれない、人が空を飛ぶ世界に思いを馳せる。憧れていた青空を自由に飛び交う、そんな素晴らしい未来を思い描く。


「お父さーん、ここにいたの? もう、僕ずっと迷子になってたよぉっ」

 そこへ、幼い声がやって来た。葵よりも少しだけ年上の少年が、とてとてと小走りに寄ってきた。

「ああ、帯刀か、ごめんごめん、お父さんつい夢中になっちゃって。炭鉱場を案内する約束をすっかり忘れてたよ」


 良樹は今気づいたと両手を打ち、少年の頭を乱暴に撫でている。


「あれ、その子は?」


 少年が、父親の脚に縋りついている葵を見つけた。二人の視線が交差する。


「ふふ、帯刀と同じように空を飛びたいって言った子だよ。良かったね、仲間が出来て」

「げぇっ、あの話、誰にも言うなっつったじゃん!」


 少年が頬を赤らめると良樹のお尻を叩く。「あイタっ」と良樹がおどけて飛び上がったが、その表情はニコニコと楽しそうだ。


「あのっ、島津博士っ、今日は、ありがとうございましたっ、失礼しますっ」


 急いで頭を下げてから逃げるようにその場を後にした。普通の親子、というものを見せつけられているようで、何やら気まずかったのだ。

 徳川の鳥籠の中へ自ら戻るため走り出した葵の背中に、良樹の言葉が優しく降りかかる。


「いつかあなたも、空が飛べる時が来ますよっ、それまでお元気でっ」


 葵の心情を理解しているのか、あるいはしていないのか。どちらか見当がつかないものの、その言葉は葵の心に染み渡り、青空の夢を刻みつけた。

 この時の出会いが、葵が蒸気工学へ更にのめり込む切っ掛けとなった。だがその後、葵に呑気に青空の夢を見させてくれるような時代は訪れなかった。炭鉱場の地下に眠っていた黒鉄蜂が目覚め、世界中で戦争が勃発。黒鉄蜂への対抗策として蒸気背嚢が開発され、それを装備する兵隊が組織され、数々の戦果を挙げたものの、それはきっと島津良樹が望んでいた世界ではなかっただろう。

 島津良樹の夢が叶う時代は、いつになったら訪れるのだろうか。


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