第二章 緋色の黄金 その5
夕焼けに溶けて見えなくなっていく黒雲を眺め、春嶽は肩の緊張を解く。
列車の速度を上げたことが功を奏し、黒鉄蜂の領空から抜け出せたようだ。空は雲一つのない茜色の空に戻り、東の空には優し気な星明りまでも灯り始めている。
「ははっ、どうだ、見ろっ。蜂どもを置き去りにしてやったぞっ」
通信車の丸窓から外の様子を伺っていた穂積大佐が、勝ち誇ったよう笑って空を指差す。
黒鉄蜂は列車を追うことを諦めたのか、背を向けて北東の空へと飛び去っていく。江戸の街に向かうつもりなのか、あるいは常盤の巣に戻るつもりなのか。どちらにせよ、列車が襲われる心配は無くなった。
「……しかし、雲雀部隊に事前の連絡を入れずに、いきなり列車の速度を上げたのは本当によろしかったのでしょうか? 乗り遅れた方々がいらっしゃらなければよいのですか……」
快哉の声を上げる穂積大佐とは異なり、葵の表情は未だ薄暗い。窓ガラスに額を擦りあてながら、空の中に雲雀部隊の姿を探している。
しかし黒鉄蜂の群れすら見えなくなっている状況で、僅か数名の雲雀部隊の人影など視認できるはずもなかった。
「……葵様、何を仰います。元はと言えば雲雀部隊が蜂どもを迎撃できなかったことが原因。あのままでは葵様の御身に危険が迫っていたから、速度を上げざるを得なかったのです。乗り遅れたとしても雲雀部隊の自業自得でしょう」
穂積大佐は自身の英断でこの危機的状況を乗り切ったと力説したいようだ。雲雀部隊への気遣いは欠片も見受けられない。
穂積大佐の言うことにも一理ある、と同じ軍人である春嶽は考える。
雲雀部隊にも同情の余地はあるものの、任務を達成できないのであればそれ相応の報いを受けることになるのは致し方あるまい。それは雲雀部隊のあの若き隊長も理解しているだろう。
出撃の許可を求めて架電してきた帯刀の声が耳元に蘇る。歴戦の強者らしい落ち着いた声色だったが、此度の戦果は惨憺たるものだ。その報告は一体どのような内容となるのか、少し気になっているところだが、通信車の電話機に未だ入電はなかった。
「……おや?」
窓の外を眺め続けていた葵が声を発する。
「いかがいたましたか? 雲雀部隊が見えましたか?」
春嶽は葵の傍に寄り、同じ窓から空を見つめた。しかし雲雀部隊どころか、黒鉄蜂の群れすら見えなかった。
「いえ、違うのです。景色の流れが穏やかになっているので、列車が速度を緩めたのかと思いまして……」
葵の言葉通り、先程まで激流のように流れていた窓の景色が次第に緩慢になっている。外の景色は江戸の近郊の街並みから京浜工業地帯へと移り変わっており、立ち並ぶ横須賀工廠の煙突から蒸気がモクモクと噴き出しているのがはっきりと見えた。
「黒鉄蜂の空域から逃れたので速度を落としているのでしょう。まだ旅程は始まったばかりで血晶炭をあまり使うわけにはいきませんからな」
軽い口調で穂積大佐が返答するが、列車の速度はみるみる遅くなっていく。通信車内にかかる慣性も弱まっていた。
そして、キキーッという耳を劈く金属音が機関車の悲鳴のように鳴り響くと、完全に停止した。当然、近くには駅もなく、線路の途中で停車している格好だった。
「な、なんだ、いきなり停車しよって……。機関士は何をしているっ!」
穂積大佐が不満げに鼻を鳴らすと、壁に取り付けられた黒電話をひったくる。乱暴にダイヤルを回して、機関車の運転室へと連絡を始めた。
額に青筋を浮かべながら受話器を耳に密着させて返答を待っていた穂積大佐だったが、一向に相手が電話口に出ないのか、やがてガンッと受話器を叩きつける、
「どういうことだっ、なぜ電話に出ないっ!」
「なにか、不測の事態が機関車で起こっているのかもしれません。ここで待機しているより、直接見に行く方が賢明でしょう」
春嶽はそう言って穂積大佐を宥めると、共に通信車を降りた。自分も行きたいと言い出す葵を他の近衛兵に押し付けて、停車した列車の脇を速足で進む。鋼鉄の竜の頭部に異変が起こったとなれば、葵の京都行はもちろんのこと、積み荷の運搬に大きな支障となる。作戦の遂行のためにも、機関車の無事を祈らずにはいられない。
列車の先頭、機関車からは蒸気が激しく吹き出していた。だがこれだけで異変が起こったとは断定できない。
春嶽は機関車の運転室に乗り込む。
「どうかしましたか? なぜ、機関車を止めたのですか?」
機関車の運転室には運転のために必要な機器やバルブ類が所狭しと詰まっている。そのため機関士と機関助士の二名が辛うじて動き回れるほどの空間しかない。また、蒸気を作るボイラーが目の前にあるため熱気が凄まじく、血晶炭の燃え滓である赤い煤が火の粉のように舞い散っていた。
機関士、機関助士の二名は物憂げな顔で、機関車前方のボイラーに繋がる焚口を覗き込んでいる。
「ん? ああ、ちょっとボイラーの調子が気になってね。あれだけのスピードを出したもんだから心配で……」
機関士が不揃いな無精髭を撫でつつ返答した。
どうやら一時点検のために機関車を停車させたらしい。故障では無かったことに春嶽が安堵していると、その脇を押し退けた穂積大佐が運転室に入るなり一喝する。
「我々の許可も無く、勝手に停車させるとは何事だっ! 貴様ら、この作戦の指揮官が誰か分かっているのかっ!」
「……しかしね、大佐、本来この機関車には、たった一機でこんな四十両編成の列車を動かせるほどのスペックはないんですよ。それを無理矢理動かして、しかもさっきみたいな無茶苦茶な走りをさせたら、ボイラーにヒビが入ってしまうかもしれませんぜ。黒鉄蜂も去ったみたいですし、休憩と点検のためにすぐにでも停車させる必要があったんですわ。大体、三十両も貨車を繋げて一体、何を運んでるんですかい?」
青筋を立てて怒り狂う穂積大佐に対して、機関士の中年男性の返事は穏やかだった。
機関士と機関助士は軍属ではあるが特別な技能資格を持つため、単なる兵卒とは異なる運用をされてきた。軍人としての教練を全く受けていないこともあり、軍内の上下関係にも疎い。近衛兵の大佐を前にしても物怖じすることがないのは、そうした理由のためである。
そして機関士がいなければこの鉄の竜を動かすことすらできないため、穂積大佐も彼らに対して高圧的な態度を取り続けることはできなかった。
穂積大佐は口ごもりつつも、何とか威厳を保とうとしながら答える。
「……積み荷について、貴様が知る必要はあるまい。……貴様の言い分は分かった。今回の件は不問としよう。確かに、機関車に無理をさせて故障されては厄介だ。……それで、点検はいつまでかかる?」
「本当ならボイラーの火を落として、管胴内の煙突の様子まで見たいところなんですが、流石にそんな余裕は無いでしょうし……。在姿状態でボイラーと弁装置、炭水車、連結箇所の点検といったところでしょうな。……まあ、どれだけ急いだとしても、半日は必要かと」
機関士の回答に、再び穂積大佐の額に青筋が浮き上がる。
「は、半日だと? こんな場所で一夜を明かすことになるぞっ!」
空は既に夕焼けから夜空へと移り変わっている。今から半日となれば、朝日が顔を覗かせるだろう。予定されていた旅程の四分の一にも満たないというのに、ここで半日もの時間を浪費するのは穂積大佐でなくても避けたい事態である。
「大佐ぁ、仕方ねえでしょう。ちゃんと点検もせずに、列車を無理に走行させて故障でもしたら一大事だ。あんたに交換する部品を用意できますかい?」
機関士の呆れ口調の返答に、穂積大佐はぐうの音も出ず黙りこくった。穂積大佐にとって遥か目下の機関士の提案を採用することに葛藤があるだろう。だが、技術的な事柄において機関士の助言を聞き入れないわけにはいかず、苦虫をかみ潰した表情で頷く。
「……分かった。ここで点検を行う。……だが明日の夜明けには出発をする。それまでには絶対に点検を終え、万全な状態としておけっ。これは命令だっ!」
機関士は未だ不満そうな目をしていたが、流石にこれ以上陸軍将校に歯向かうわけにはいかないと悟ったのか、「へぇい」と返事を返して再び焚口に視線を戻した。
後のことは機関士に任せ、春嶽と穂積大佐は運転室から降りる。
「何ということだ。まだ出発したばかりだと言うのに……」
「……これも天命です。今は、待つほかありません」
「……うむ。……しかし、このような事態になった以上、この列車を作戦の要にすることは考え直さないといかんな。いつ何時、機関車が走行不能になるか分からん」
穂積大佐が傍らに聳え立つ鋼鉄の竜を訝し気に見上げる。
「と、言いますと?」
言葉の真意を掴めず、春嶽は問い返した。
「……一ツ橋少佐。この近辺で集められるだけのトラックを用意してもらえないか? 軍用ではなくとも構わん。とにかく積み荷を乗せられるならば何でもよい」
「列車は使わない、ということでしょうか?」
「万が一のためだ。積み荷の一部をトラックに移し替えられる準備をしておくのだ。仮に道半ばで列車が破損し動かなくなることがあっても、一部の積み荷と葵様だけでも京都にお運びする用意だけはしておかねば」
なるほど、納得のできる回答だ。次善策としては妥当なところである。
しかし、春嶽は一抹の不満が拭い切れない。
果たして、この穂積大佐をどこまで信じることができるか。
今回の任務、運搬に列車を用いているのは、ただ大量の貨物を運搬できる効率性だけが理由ではない。鉄道輸送が可能な領域は、当然線路の上でしかあり得ず、限定的である。その限られた領域での運搬は不便さであると同時に、安全性でもある。自由な移送は不可能なのだ。
しかしトラックとなれば、道なき道を進むこともできる。それはつまり、逃亡することも……。
しばし黙考する春嶽を前にして、穂積大佐が心外と言わんばかりに目を丸くする。
「……一ツ橋少佐、まさか、私が積み荷を乗せたトラックを操って逃亡するなどと、疑っているのではあるまいな?」
図星を突かれ、春嶽は静かに首を横に振った。
「いえ、とんでもありません。どうやったらトラックを調達できるか考えておりました。……それで大佐のご指示通り、準備することといたします」
例え疑念はあろうとも、『頭』の命令に従うことが手足の意義である。
そうやって自分を律した春嶽は、穂積大佐に向かって一礼する。
「うむ、それでよい。流石、名家一ツ橋家の嫡男であるぞっ」
満足そうに顎を撫でる穂積大佐を眺めながら、春嶽は自身の疑念を振り払い、改めて心を殺す。
何を余計な気を回している。とうに考えることは止めているはずだ。幼馴染の家に足を踏み入れ、泣き縋る少女の首からペンダントを徴収したあの日から、手足に徹すると決めていたのだから。
春嶽が自分を叱咤した時、突如、眼前に風が打ち付けた。気紛れな突風ではなく、それより激しい風圧。視認できる白く染まった風の正体は、蒸気に違いない。
春嶽の傍らで慌てふためいている穂積大佐を後ろ手に庇いながら、軍刀を抜刀する。蒸気が視界を隠す中、春嶽は威嚇のために語気を強めて誰何する。
その白き蒸気の翼の持ち主に対して。
「何用だ、雲雀部隊ッ!」
靄のような蒸気が晴れると、島津帯刀が逆立てた前髪を整えもせずに立っていた。その髪の乱れた様から列車の後部から蒸気背嚢を噴射させて、こちらまで飛翔してきたことは明らかだった。その勢いが如何に凄まじかったか、帯刀の足元が物語っている。
帯刀が着地した際の制動で、地面にはシュプールのような二本の溝が掘られ、爪先に土が盛り上がっていた。
「……失敬。一ツ橋少佐。突如、列車が急停車しましたので、ご指示を仰ごうと飛んで参った次第です」
帯刀は悪びれた様子もなく肩をすくめた。
その無礼千万な態度に、春嶽よりも先に穂積大佐が口角泡を飛ばして抗議する。
「貴様っ、陸軍の分際で我ら近衛兵の前に飛び出すなどっ!」
「誠に失礼いたした。……だが、こちらにも聞きたいことがございます。……列車の速度を速めるのであれば、なぜ、事前に一言、ご連絡をいただけなかったのか?」
穂積大佐の怒りに覆い被せるように、帯刀もまた大声で叫ぶ。
「蜂共が葵様のいる通信車に迫っていた。あのままでは危害が及ぶと考え、高度な戦略的判断で速度を速めた、それ以外の理由が必要か? 全く、雲雀部隊も落ちたものだ。あの程度の蜂の群れすら抑え切れんとは……」
「……申し開きもございません。黒鉄蜂の猛攻は凄まじく、我らも十全に対応できていたとは申せません。……ですが、事前に情報を開示して頂ければ、もう少し奮戦でき、無用な犠牲も避けられたと思えてなりません」
帯刀は下唇を噛み締めており、腰の横で固めた拳は微かに震えていた。己の無力さに憤るその姿に、春嶽は一瞬だけかつての自分と重ね合わせてしまう。
近衛兵という身分が持つ責務と本心の相違に苦しみ、そして、幼馴染の泣き顔を目の当たりにした、あの日の自分と。
「情報? 貴様らにそのようなものは必要ない。ただ、命令通りに戦って、散れば良いのだ。そもそも開示すべき情報とは何だっ。そのようなものは何もない」と嘲弄する穂積大佐。
あの日の自分は、心を殺すことで葛藤を消し去った。だが眼前の、雲雀部隊の隊長は、果たしてどんな選択を取るのか。
どこか期待を覚えながら春嶽は帯刀を眺める。
すると、帯刀が俯けていた顔を微かに持ち上げ、春嶽と穂積大佐を睨んだ。
その眼に宿っているのは、あの日の春嶽が自ら葬り去った反抗の精神そのものであった。
「……この列車が運んでいるのは弾薬や食料などではなく、国有の金銀財宝であるという事実です」




