序章 雲雀部隊
雲雀は古今東西を問わず、春を告げる鳥として人々に親しまれてきた。朗らかに囀りながら青空に向かって力強く羽ばたくその姿に、誰しも眼と耳を奪われた。この国においは大伴家持や松尾芭蕉などの多くの歌人達によって、春の季語として好まれている。
故に、戦場という名の極寒の真冬に、勝利という春をもたらす彼らが、『雲雀部隊』と呼ばれるようになったのは、至極当然のことと言える。
大江戸連邦陸軍・第一空挺連隊。それが雲雀部隊の正式名称だった。
††
夕焼け空の中で、島津 帯刀は消えゆく雲影を見送りながら、全力を出せば追いつけるだろうか、とふと思う。
無論、夢想に過ぎない。
確かに、帯刀の背負う六二式飛翔用蒸気背嚢(英名・ジェットパック)の残留蒸気が空になるまで噴射すれば、あの雲に追いつけるだろう。
今、帯刀の背中には、蒸気背嚢と呼ばれる円筒形の二本の蒸気ボンベが、肩甲骨に沿うようなハの字の形で装着されている。ボンベはハーネスによって帯刀の身体に括りつけられ、ボンベの底面の噴射孔からは、真っ白な蒸気が間欠泉の如く絶えず噴き出ている。その推進力によって、帯刀の身体は茜色の空の中に浮かぶことが出来ていた。
この蒸気背嚢こそが、翼を持たない人類が蒸気文明の粋を結集して作り上げた、人造の翼である。
しかしこの翼は蒸気の申し子であるが故に、蒸気の制約からは逃れらない。ボンベ内の蒸気の残量が空になれば翼は手折れる。帯刀の身体を空中に押し止めていた推進力は消え失せて、忽ち地面へと叩きつけられる。
「どのようなことがあろうとも、地上へと無事に着陸する分だけの蒸気を残すべし」という空挺部隊の鉄則は、帯刀の頭に深く刷り込まれている。
だが、この鉄の掟を破ってでも、あの雲を追いかけたいという衝動は帯刀の左手に伝わり、その指先を痙攣させていた。
帯刀の左手は、今、左の腰に備え付けられた銀の小箱から突き出た操縦桿を握っている。操縦桿は棒状のグリップとレバーで構成されており、自転車のハンドルを中央で割った片方を小箱の上に備え付けたような形状である。
この操縦桿は、背中の蒸気背嚢の制御装置である。操縦桿は小箱の内部で大小様々な歯車と連動しており、その歯車は小箱の外のワイヤーに直結し、更にワイヤーは蒸気背嚢の各所へと連結され、制御を担当する。
操縦桿を左右に傾けるとワイヤーを通じて動力が伝わり、蒸気背嚢も左右に揺れて蒸気の噴射の方向が変わる。また、自転車のブレーキレバーのような操縦桿のそれを握り込むと、蒸気背嚢の噴射が強まり、加速することが可能となる。
今、帯刀の左手はレバーを僅かな握力で握り、蒸気の噴射の塩梅を保っている。丁度、自身の肉体が重力に負けず、かといって空に向かうこともない。地面と空の狭間に漂うことが出来る絶妙な均整だった。
もしこの左手を、思いっ切り握ることが出来たのなら。蒸気の残量など気にせず、どこまでも飛ぶことが出来たのなら。
この誘惑を、帯刀は辛うじて振り払う。
帯刀の持つ翼は時間制限がある。人間の知恵と手先によって創造された、機械と蒸気仕掛けの翼は、決して万能ではない。
何より、全力を出し切って、あの黒雲の尻尾を掴めたとして、どうするつもりなんだ。
自問し、次は右手に握られた突撃銃に意識を向ける。
銃身が帯刀の右腕程もある、片手で持つには少々大きいこの銃は、夕日を受けて返り血でも浴びたかのような真っ赤に染まっている。この銃の弾倉に一発の弾も残っていないことは、右腕に伝わる重量の軽さからも感じ取れた。
銃弾のない銃を担いで、あの雲に追いついたところで、何をしようというのか。
思わず、鼻を鳴らして自嘲した。
無意味なことは考えるの止そう。
そう自分に言い聞かせて、視線を雲から引き剥がし、眼下に広がる地面へと向けた。同時に、操縦桿のレバーに込めていた握力を少しずつ弱めて蒸気の排出量を絞り、推進力を落とす。その結果、帯刀の身体は地上に向かって緩やかに下降していく。
地表には水戸藩領の北部特有の山岳・丘陵地帯が広がる。大小様々な山と丘陵地帯が幾重にも寄せ合い、その合間に皺のような渓谷が作られている。自然の織り成すその絶景も、この空と同じく茜色に染まっていた。
地上を真っ赤に塗りつぶした染料の正体は、夕日の陽光、ではない。
――人の血、人の臓腑、人の死体の山であった。まさしく屍山血河。撒き散らされた無数の人の血や肉が、木の葉を、野草を、土を、赤く染色したのである。
帯刀は、茜色の地表の内、数少ない土の色が覗ける場所に着陸することを決めた。
操縦桿のレバーを断続的に握っては放すを繰り返し、少しずつ高度を下げ、地上に近づくにつれて強まる死体の腐臭にも堪える。
そして、久方ぶりの大地を踏み締めた。
ズンッと、重力の腕が全身を包むのを感じる。まるで「もう二度と離さない」とでも言うようだ。
精神不安定な彼女のような重力のことを一旦忘れて、帯刀は周囲に目をやる。上空から観察していた時は、人影が動くような様子は見られなかった。地上から探せばあるいは、とも思ったが、視界に広がる光景は容赦のない現実を叩きつけてくる。
帯刀と同じ連邦陸軍の軍服に身を包んだ死体の山が、見事な血の花弁を撒き散らして倒れている。万に一つも命が助かったとは思えない。
あの黒雲が、ほんの一時、地上を撫でただけで、この惨状である。
本来、あの雲から地上部隊を守るのが、帯刀達、空挺部隊の役目であった。それを果たすことが出来なかった責任を、この死体の山が糾弾している。
「島津隊長ッ! ご無事でしたかッ」
頭上から、蒸気の噴出音と共に聞き慣れた女の声が降りかかった。顔を上げずとも分かる。
白い煙を地表に広げながらゆっくりと舞い降りたのは、帯刀と同年代の少女。色素の薄いショートカットの黒髪が夕日を反射して、今は赤茶けた色に染まっている。少女は帯刀と同じく、カーキ色と焦げ茶色の迷彩柄の軍服を纏う。余計な空気抵抗を避けるため、胸ポケットの類は無く、身体に密着するように作られたその戦闘服は、空挺部隊の証である。
浅黒い肌に、凛と吊り上がった美眉と瞳は内面の気の強さと健康的な雰囲気を表出させているが、間違いなく美人に分類される容貌だ。
松平 日向二等兵、帯刀の直属の部下である。
「君も無事だったか……。良かった……」
帯刀は安堵の息を零す。
一見したところ、日向の衣服に傷の類は見当たらない。
「……はい。私は、何とか……。ですが、この惨状は……」
日向は蒸気背嚢の排出を止め、猫のように音もなく帯刀の傍に着地した。そして辺りを見渡して下唇を噛む。
「…………地上部隊の生き残りが果たしてどれだけいるか。……全く、完敗だな。勝利という春を呼ぶ『雲雀部隊』が聞いて呆れる」
信頼できる部下の一人である日向が傍にいるためか、つい弱音が口を突いて出た。
「……しかし、私達は、全力で戦いましたっ。出来ることを、一所懸命にっ。……武器も弾薬も食料も限られた中でっ……。……死力を尽くして…………。誰が、私達を嗤うことが出来るでしょうかっ」
帯刀の呟きに覆い被さるように、日向が大声で否定する。
「……どれだけ言い訳を重ねようとも敗北は敗北だ。……俺達が敗残兵であることに変わりはない」
「悔しいです、隊長。……今回の大敗は決して私達だけの責任ではないはずです。……後方支援が一切ない中での防衛線。待てども届かない支援物資っ。食料も弾薬も不足する中で、どう戦えと? 上が何を考えているのかっ、私には分かりませんっ!」
怒りと嘆きを混ぜ合わせた叫びを上げて、日向は自分の突撃銃を強く抱き締める。そうしないと突撃銃を放り投げてしまうとでも言わんばかりに。
帯刀も日向と同じ思いである。兵站を甘く見た軍本部のせいで、この戦線が瓦解したことは明白だ。しかしこの敗戦の責任が雲雀部隊に押し付けられることは、火を見るよりも明らかである。軍本部が自らの失態を認めるはずがない。
生きていてもこの先には地獄が待っている。目の前に広がる屍達の後を追うのも、そう遠い未来のことではないのかもしれない。
そんな暗澹たる未来のことばかりが思い浮かぶが、いつまでもこうして立ち尽くしているわけにもいかない。貝のように塞がった唇をこじ開けて、隊長として展望を語る。
「……一先ず、生き残った者達を集めよう。それから、ここから最も近い陸軍基地に向かい、保護を願い、それから本部の指示を仰ぐとしよう」
「……了解……」
初めて見せる、不承不承とした日向の敬礼。内心の不服を隠そうともしない。元々、彼女は現在の幕府や軍部のやり方への不満を抱えており、作戦会議の中で悪態をつくことも多かった。彼女の過去に何があったのかは分からない。少なくとも、普通の人間以上の怒りを抱いていたことは確かである。
それでも日向が自分について来てくれることへの感謝を、帯刀は密かに抱きつつ、もう一度、視線を空に向けた。
あの黒雲はもうほとんど見えなくなっている。だがそれでも、睨まずにはいられなかった。
全てを変えてしまった、元凶たる黒雲。
正確には、雲ではない。
間近で見れば、その正体は自ずと分かるだろう。
黒雲とは、何千匹という蜂の群れである。
しかも蜂一匹一匹の全長は人間を超える程の、巨大蜂である。暗闇の如き漆黒を基調とし、各所に黄色の線が走る体表。そして頭部の大半を占有する二つの複眼だけは異様に赤く、警告灯のように光っている。体液に塗れた顎と、下腹部に抱える毒針は人体など容易く破壊する。
黒鉄蜂と呼称されるこの巨大な蜂は、地上に現出してから僅か数年足らずで、人類の存続を脅かす天敵となった。現在、彼らとの戦線は拡大する一方であり、この戦場こそが大江戸連邦の首都を守護する絶対防衛線のはずであった。しかし、此度の防衛線の黒星により、大江戸連邦は存亡の危機に立たされることが決定付けられた。