泥濘の魔女
エルリンデは、落鳥樹の森の終点が視認できる位置にまで近づいてきた。遠くからは月光に照らされた草丈の長い林が見える。落鳥樹の森の外周を覆う正常な森林が見えてきたのだ。
外に近づいてもまだ、殺戮狼の気配が近づいてくるのを感じる。捕食者特有の粘つくように執着する、嫌な感覚だ。これまでの戦闘でマーキングされたようだ。血を浴びない戦い方を心がけた筈なのだが、どうしてか狼からは逃げられないらしい。
「もうすぐ着くよ」
『ああ、既に準備は終わっている。いつでも良いさ』
クラリスが待つのは落鳥樹の森を抜けた先の正常な森のさらに先、戦い易い平野だ。
落鳥樹の森を抜けたエルリンデは、すぐそこの林へと飛び込む。クラリスが待っているであろう場所へと一直線だ。数瞬置いて、背後から林を揺らす音がする。狼たちも後ろをついてく来ているようだ。ガサガサと林に突入してくる音はかなりの数で、恐らくは落鳥樹の森に居たほぼ全ての殺戮狼がエルリンデを追ってきているのだろう。
狼たちより一足早く、エルリンデは森を抜け平野に出る。
エルリンデが見た平野は一面が水に沈んでいた。水は泥で濁り、水底は見えない。足を踏み入れれば泥濘に足を掬われるか、あるいは底無しの沼に沈み身動きが取れなくなりそうだ。どちらになるかは判断付かない。
その泥濘の更に先に小さな人影が立っている。クラリスだ。彼女は森から出てきたエルリンデを見つけると、魔術を使い泥を固めて土製の道を作る。
『こっちに来い!急げ!』
「__っ!」
後方から走ってきた狼の嚙みつきを大きな跳躍で躱し、そのまま泥沼の上にできた一本道に着地する。追いついた狼も道まで跳ぶが、着地点に先回りしたエルリンデの剣閃が狼を沼に叩き落す。
続々と沼の外周に別の狼が到着してくる。こちらを睨み様子を窺っているようだ。
『道を消すぞ!早く来い!』
「分かった!」
エルリンデがクラリスのいる中央に走る。狼らはエルリンデが逃げるための隙を晒したのを見るやいなや跳躍し、沼を避けてエルリンデを追おうとする。
五頭の狼が空中に飛んだその時、エルリンデが通った後の道が沼に沈み消えていく。それと共に、空中に居る狼に向かって泥濘の底から五つの大きな泥塊が飛んだ。狼と同じ数の泥塊は一つずつそれぞれ狼に向かう。大した速度ではない泥塊はしかし、空中で回避行動を取れない狼に命中する。
泥沼に撃ち落された狼は藻掻き脱出しようとするが、身体に張り付いた泥塊が妨害する。大質量をもつ泥塊はゆっくりと、藻掻く狼の頭部へ移動していく。窒息を狙うつもりだろう。終に上半身と頭部を覆った泥塊は固まり、下半身が泥に沈んだ狼は完全に沼に拘束された。五頭の狼は藻掻くことすら許されず沼に沈んでいく。
エルリンデは百メートルほどの距離を走り、クラリスの待つ中央の島に到着する。
土道を全て消し終えたクラリスは、長杖の石突を足元の土から抜きながらエルリンデに問いかける。
「ふぅ、一先ずここは安全だ。怪我はないか?」
「うん、大丈夫。……狼はまだこっちを狙ってるみたい」
「ああ、彼奴ら諦めが悪いらしい」
狼たちはぐるぐると沼の外周を警戒しながら回っている者や、沼から少し離れた位置で伏せこちらを窺っている者がいる。いずれもエルリンデを諦めてはいないようだ。
ふぅ、と安堵か疲れか息をついたエルリンデは、クラリスと相談を始める。
「何か案はある?ここで我慢比べする?」
「………いや、ここで彼奴らを一掃しておくべきだな。どうせ明日以降の探索でかち合うことになる」
「確かに」
ここで狼達が諦めたとしても、あれの住処は落鳥樹の森_エルリンデが探索している森だ。ここで狼たちを見逃しても、今回の二の舞になるだけだろう。そうであれば、ここで討伐しておく方がいくらか合理的だ。幸いなことに、二人はどちらも金級冒険者だ。為すに十分な力はある。
◆◇◆
『準備はいいか?』
「うん、いけるよ」
クラリスの作戦を聞いた後、それぞれが役目を果たすため行動を開始する。
沼の中心から一本の道が伸びる。『泥濘の魔女』クラリスの魔術だ。
彼女は泥を利用した魔術を得意とする金級の魔女である。泥という特殊な媒体を用いる彼女の戦い方は、絢爛華麗な魔術師からはしばしば嘲笑される。泥という言葉の通り、戦い方が泥臭いのだ。一方、現場を重んじる冒険者達からは好まれる。華やかさに欠ける彼女の魔術はしかし、どれも機能的で力強く信頼できる魔術だ。
魔術とは、魔力と呼ばれる超常の力を扱う魔法体系において、最も普及している術だ。人間の体内で生成される魔力を用い、詠唱や魔法陣によって特定の現象を引き起こせる。火・風・水・土の主四属性を代表に様々な派生属性が産まれており、その多様さは魔法の中でも群を抜いている。
クラリスが扱う泥魔術は、水と土属性の魔術を応用したオリジナル魔術だ。学院出身の彼女は、水と土の二属性を極め、両者の利点を組み合わせた新たな魔術を開発したのだ。
伸び続ける道の上をエルリンデが歩く。右手には白磁の長剣、左手には奇形の双剣の一振り_もう一振りは森で狼に刺さったままだ_を逆手に構える。左右に別々の剣を持つ変則的な構えだが、彼女にとっては何時ものことだ。多数の狼との戦闘に備えて手数を優先した構えだ。
土の道が沼の外周と繋がる。外周に散らばっていた狼達は繋がった場所に集合しつつあるが、道を進もうとする気配はない。中央と外周の丁度中間に仁王立ちするエルリンデを睨みつけている。先程の戦闘から学習して泥沼を警戒しているのだろう。狼はエルリンデの行動を見てから動く腹積もりらしい。
獲物に対して狂気じみた執着を見せる殺戮狼であるが、彼らは決して知能が低いわけではない。野生の勘を以てして状況判断を行い、必ず群れで狩りをする。彼らが冒険者達にとって脅威であるのは、その知性によるものも大きい。
『エル、正面は任せたぞ』
「うん、他は任せたよ」
準備を整える時間さえあれば、エルリンデは鬼神と化す。金級冒険者とは、その道を極めし者達。エルリンデは剣士として、クラリスは魔術師として高位の実力を有している。殺戮狼の群れであろうと、二人の歩みを止めるのは叶わないのだ。
「__我が魂の断片__焦熱の____
泥濘の魔女:金級探索者クラリスの異名。女性魔術師は有名になると、『○○の魔女』という異名を与えられることが多い。異名には、泥魔術を独自に開発し金級にまで上り詰めたクラリスへの敬意が含まれている。
魔術:体内で生成した魔力を用い、超常現象を引き起こす技。最も普及している魔法である。魔法には魔術の他にも、錬金術や精霊術などが知られている。魔術の基礎は火・風・水・土の主四属性である。魔力量は生まれに左右されるため、魔術には素質が要る。
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