獰猛な魔獣
エルリンデは木に剣で彫った刻印を頼りに、森の外に向かって走る。警戒は最低限に、陽が落ちる前に森からの脱出を急ぐ。
通常の森林では昼と夜で様相が大きく変わる。生物の鳴き声や植物の揺れなどの様々な要因が折り重なり形成される雰囲気の変化は、冒険者の勘を鈍らせる。昼と夜で異なるモンスターが活発化するため、警戒する対象が変わる。何もかもが異なり、危険の質が変わるのだ。それを体験として知っている冒険者は多い。エルリンデもその一人だ。
落鳥樹の森の昼は夜のように暗いが、本格的に夜の暗闇に飲まれた森は更に暗くなるはずだ。伴って森の危険度が上昇する可能性がある。
「……ん?」
エルリンデは先程ゴブリンを三体討伐した地点に近づくと、そこに大きな黒い影がいることに気づく。落鳥樹の傍に近づき、そこから黒い影を覗いた。
一頭の巨大な獣が、ゴブリンの残骸を貪っている。その姿は闇に紛れるためか、毛並みが真っ黒であり、目だけが白く闇に浮かんでいる。口元がゴブリンの血の赤で濡れ、てらてらと輝いている姿は心から恐怖を呼び覚ます。
獣特有の鋭い感覚で、何かを察知したのだろうか。巨獣はエルリンデの隠れている木の方に頭を擡げる。エルリンデはその巨獣と目が合ってしまう。
__まずい
黒い毛並みの巨体に相対し、一瞬の逡巡の後、逃走を開始した。結果から言えば、彼女の判断は誤っていたのだろう。
___ウヲオオオオォォォォォォォォン___
エルリンデは逃走の最中、後方から空気を振るわせる遠吠えを聞いた。一、二、三……最初の遠吠えの後を追うように、森中のあちこちから無数の遠吠えが響く。
「殺戮狼に捕捉された!いまそっちに逃げてる」
『殺戮狼?……おいエル、随分なヘマをしたな』
「煩い。森の外に罠張れる?」
『分かった。数はいくらだ?』
「分からない。ただ、二十は下らなさそう」
『でかい沼を張っとくぞ』
「お願い」
エルリンデよりも僅かに速い速度で後を追う黒い大狼は、種族名を殺戮狼と云う。
特徴的な漆黒の毛並みに白い双瞳が浮かぶその姿は美しく、一部愛好家の間では剥製が高価で売買される程だ。対照的に性格は獰猛そのもので、群れで獲物を囲み時間を掛けて弱らせる。足が速く逃れるのが難しく、度々旅人や農村を襲い虐殺劇を起こす凶悪な獣だ。
森林の頂点捕食者であり大きな体格で必要摂食量が多いため、獲物の多い森の奥深くに生息し滅多に出てこない。しかし、森の奥深くに踏み込む冒険者にとってはよく交戦する厄介なモンスターである。銀級の冒険者であれば十分に対応可能であるが、問題はそのしつこさと数である。
ガァウッ!!
「数が多いっ!……はあっ!」
右側面と背面から、二頭同時の奇襲を受ける。
右側面の狼の攻撃が届く瞬間、態勢を低く取り地面を強く蹴ることで攻撃を躱す。その体勢から身を捩って、振り向きざまに白磁の剣を横顔に叩きつける。刃は立てずに剣の側面で叩くことで、剣が狼の顔に刺さり抜けなくなるのを防ぐ。
グガァア!?
ガゴッと大きな音のする衝撃によって頤が割れる音がした。痛烈な痛みを感じた狼は、そのままの勢いで落鳥樹にぶつかり、もう一頭の後方の狼の進路を妨げる。
エルリンデは直ぐに納刀して走り出す。逃走が第一優先だ。森の至る所からこちらに走ってくる気配を感じるのだ。逃げ切れさえすれば、最高の戦場はクラリスが作ってくれているはずだ。
エルリンデの進行方向、森の出口から新たに一頭の殺戮狼が走ってくる。余計な時間を使うと不利になるこの状況下であるため、自らの脚を止めずに手早く狼を処理する必要がある。
「ふっ……はぁっ!」
彼女が手に取ったのは鞘に納め直した白磁の剣ではなく、背に金具でぶら下げられた奇形の双剣_その一振りだ。左手で抜いたそれを五十メートルは離れた狼に向かって__投擲する。
ギャゥン!
走行状態のエルリンデが力いっぱいに投げた剣は、地面に対して水平に、高速で狼に向かって飛んでいく。飛ぶように走る狼と、飛ぶ剣が互いに急接近する。接触の寸前に細い飛翔物に気づいた狼は回避を試みたがしかし、僅かに首を逸らすことしかできなかった。
狼の脳天を狙った投擲は、狼の左目に突き刺さった。剣は瞳を貫いた勢いをそのままに頭部を貫通し、首を通って体に差し掛かったところで静止した。剣の持つ衝撃はエルリンデの細腕からは想像できないほど凄まじく、狼の死骸は走ってきた方向へ押し戻され転がる。
「急がなきゃ…」
森の出口まではあと少しだが、まだ森中から殺戮狼たちの気配を感じる。血の匂いを辿って直ぐにエルリンデを追ってくるだろう。
エルリンデは狼に刺さった剣を回収するのを諦め、その横を走る。今頃、クラリスが森を出た辺りに待機しているはずだ。
殺戮狼:基本的に森の深部、食料の豊富な場所の頂点捕食者。巨体を維持するため、日に沢山の獲物を捕食する。賢く群れで行動するため、森で活動する探索者たちの関門である。稀に人里に降りてきて村を壊滅させるため、このような物騒な名で呼ばれている。
奇形の双剣:エルリンデが特注で作らせた、途轍もなく重い直剣。双剣と記述しているが、それはエルリンデがいつも二本背負っているだけで、対の形状をしているわけではない。先端に重心を寄せることで投擲に最適化させており、奇妙な形をしている。とても重い珍しい金属を使っており、彼女の投擲は絶大な威力を誇る。実はスペアがあと二本ある。
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