ゑド・アラカルト
【お品書き】
悩み嘆く物書きの物語
《癇癪》
愛する人からの最後の願い
《バニシングエフェクト》
最果てに片想う悲恋譚
《死が分かつ望遠恋慕》
青い夏に起こる青春譚
《G町上のアリア》
・《癇癪》
微睡から覚める。
気づけば机に突っ伏して寝ていたらしい。
夢と現実の境界線にいると、目を開けても、それがなんなのかわからない。まるで自分という存在が故障して世界にバグを与えているようだ。
伏しながらもふと腕の上に伝う気色の悪い感触に気づいて、背骨を起こそうとした。凝りに凝った背筋は溜まった気泡を潰されておぞましい音を立てる。
腕についていた感触は口端から漏れていた汚い唾液が腕を伝っていたようであって、それを脇腹で擦って拭った。
そうして起き上がると、まだぼんやりとした頭の中、今度は自分の退廃さ加減に嫌気が差してきた。それもまた寝起きを悪く無気力にさせていくが、そんなものは日常の一部でしかない。
眼前にはグシャグシャに皺のつけられた原稿用紙がバラけている。
ニヶ月後にある小説の公募に送るための小説。
四百字のマス目には何度も文字が刻まれた痕があるが、結果的には白紙のままだ。
どのように書いても中々に進まない。
我ながら出だしから面白くなく、それを堪えて読み進めても、山場も面白いところもなく、はっきり言ってつまらないのだ。
つまらない。
書き殴っても、書き殴っても、面白くないのではないか? 此れ此れを真似た作品ではないか? という疑念が込み上げて、私を罵ってくる。
未だ出だしすらかけてない自分、焦りと不安だけが文字の代わりに雪のように積もっていった。
もはや気力も湧かずに呆然と、目覚めたばかりの眼がまた眠りにでも誘われそうになる。けれども、先程起きたばかりに眠れることはないだろう。
眼前にある皺まみれの白紙をなんとなく睨みつけているしか無くなった。
そうしてるうちに、どんどんどんどんその真っ新な原稿用紙にバカにされてる気がしてきた。
高々平方のマスがたくさん並べられただけの用紙にどうしてこれほどに私が脳を絞って深謀遠慮しなければならないのだろうか。
腹の中が煮えくり始め、とうとう用紙に掴みかかった。
この野郎!
この野郎!
紙を相手に殴る叩くの暴行を始めた。
けれど、相手はいかんせん紙なものだから、殴る叩くはあんまり効かない。
だから、私は引き裂いてやった。
その後はもう熱病にうなされたように、紙を相手に罵倒して、転がってまで痛めつけた。
怒りのままに四畳半の部屋を縦横無尽に飛び回り、もはや自分でも訳がわからない。
私の怒りはいつほどまで続いただろうか。
かつてないほど動き回った私は大の字になって、長距離を走り切った陸上選手のように疲れ果てていた。反比例して心の怒りは萎んでいき、だんだんと虚しさが込み上げてきた。
柱にぶつけた脛が痛い。
壁を殴った手の甲の骨はきっと折れた。
こんな自傷行為でも死に至ってしまうのではないかと思うほど、私の体は弱かった。思っていたよりも。
…………。
天井のシミが顔に見えてくる。
夏場の湿気た暑さに茹る。
蝉の音がひっきりなしに騒いでる。
ぼーっと、してるとそんなどうでもいいことばかり気づいてしまうのだな。
そして私もそのどうでもいいことの一部へと組み込まれているに違いない。
たかが無名の作家志望の癇癪なんて……
どうしようもない気持ちが溢れた。
今度は泣きそうだ、自分の惨めさと不甲斐なさに、希死念慮の想いが込み上げてくる。
だが、今は体力がない。
地面の上にひっくり返った蝉だって、もっと動くものだろうに、多分瞼くらいしか動かない。
このまま泥にでも変身して、植物でも体から生えてきそうだ。
空虚な気持ちに植物の根が張るというなら、少しは楽になるだろうか、などとくだらないことを考えついた。
そのままどのくらい見上げていただろうか、眠りはしなかった。ただひたすらにスタンドライトの反射光でかろうじて見える壁や天井を見てはため息をつくのを繰り返していた。
唐突に背中が痒くなったので、背中を掻き、ついでにひっくり返った机を寝そべりながら元に戻した。
少しばかり余力が生まれたので這いずって机の上まで戻り、ペンを取る。
ライトスタンドに巻きつけた新しい原稿用紙を取って、自分に対する罵言雑言を書き連ねた。
馬鹿阿保のような簡単なものから、自分の悪いことを詳らかにしたことまで全てを一心不乱に書いた。
これは欲心が体を動かしているのだろう、或いは心に住み憑く悪魔の仕業だ。
今気づいてる自分の愚かさを罰したいという気持ちが悪魔となって私の体を乗っ取り、その存在証明を遺そうとしているに違いない。
そうして自己嫌悪を動力源に作家の死体は強制的に動き始めた。
自分のことは自分が一番よく知ってる。
他のことなど何も知らないにしろ、自分ほど愚かで、掃き溜めから生まれた蝿よりも罪深い落伍者はいないだろう。
何故かそんな偏屈な自信があって、書き進めた。
思いのほか筆が進むので、酒を煽りながら最後まで書いてやった。
まさか完結するまでかかるとは思わなかった。
枚数にして実に二十枚にも及ぶありとあらゆる戒め的な言葉の数々。
最早憎しみと負け惜しみから生まれた呪物的なものである。
書けてしまった……か。
書き終えて、筆を机の上にしっとりと置いた。
手を膝の上に置いて、しばらく手の脂と黒鉛が擦り付けられた原稿用紙を眺め続けた。
びっしりと文字で埋まった原稿用紙というのは感動的なものであった。なんというか、内容はともかく達成したという事実が私の心に何かしら良いことを吹き込んだ気がする。
うん、と頷いて、余った残り十九枚にも目を通した。
内容はひどい。
こんなものを読んだ人物はあまりに陰惨だ、という表現しか口から出ないだろうと、分かり切ってしまうほどにおぞましい黒一色。
だが、それがどうしても私らしく見えて、初めて自分らしい作品を書けたように思えた。
私はその歪な原稿用紙の束を茶封筒にしまった。
暴れてから何時間か過ぎていたから、夜が明けたようだった。
朝日が登るのが早い夏。
眩しさに目が眩む前にまずはこの茶封筒をどこに送るのかの見当をつけようと思う。
はてさて、悪ノリとはいえそうして○○社に送られたその罵言の塊は後日、『罵詈』という題名で出版され、人間の闇を剥き出しにした類い稀なる作品として熱狂的な読者が多く現れるのはまた別の話。
・《バニシングエフェクト》
「バタフライエフェクト。蝶の羽ばたきのような、ほんの少しの出来事が未来に大きく変わること」
散りそうな声。
蒼銀の声。
「今君が僕とこうして毎回会ってくれていることは僕に毎回そのバタフライエフェクト以上の影響を与えていると思わないかい?」
病室のベットに横たわる彼は青い蝶の書かれた小説本を目の前に、三本足の丸椅子に座って横につく俺にそう言った。
俺は黙して、否定も肯定もしなかった。
胸の内には失意が渦巻いていた。
彼の青白く不健康を象徴する肌は年々と白さを増していく。彼の繋がれている点滴も外れたところは久しく見ていない。
こうやって面会に来ても俺は彼を励ますどころか、逆に無力な俺を非力な彼に励まされてすらいた。本末転倒極まれり、弁明の余地もないが、それでも俺は俺と彼のために毎日このサナトリウムまで引きづられるほかなかった。
「沈黙は肯定と受け取るよ。君は何かしたいこと、いいたいことがあるときほど黙りがちで僕としてはその内面を当てるのがとても楽しかったな」
病人は静かに笑って俺の伏目がちな頭を撫でようと手を伸ばした。
ギリギリ届かない彼の細腕に代わって、頭をもたげるように差し出す。
力ない手がぎこちなく俺の髪に触れた。
「最近こんなことを考えるんだ。もし、聖書にでてくる知恵の実がリンゴじゃなくて、バナナだったらどうだったのだろうか、ってね」
「くだらないと笑うかも……いや、君は笑わないで傾聴してくれるね。昼は君が来てくれるから楽しいが、夜にはこの病院は海のように沈む。寝るまでの間はそういうことをしたたかに妄想するほかないんだよ」
聖書にでてくる知恵の実は厳密には諸説あってリンゴではないらしいが、病床から出たことのない病人にとってはリンゴだったんだろう。
よくお見舞いに送られてきていたリンゴ。
もし、バナナだったら、か。
そんなこと考えもしなかった。ずっと彼のことばかりを、心配ばかりでそんな馬鹿げたことを考える暇すらなかった。
ふと、顔を上げて病人の方を見る。
その真剣さは常に一本の針金、或いは煌々と燃ゆる聖火のようであった。
そんな意志のある病人のことを一片でも嘲笑するものは例え自分でも許せなかった。無意識ならばなおのこと。
あぁ、馬鹿げたこと、などとはこの病人を前にしては考えることすら罪悪を呼ぶものだ。
改めて俺は自分の深慮の足りなさに落ち度を感じた。
「そうだね、まずバナナとリンゴじゃ、形状も味も色も生産地も違う。だから多くの影響を及ぼしただろうと思う。もしかしたらニュートンが万有引力を見つける原因がリンゴじゃなくてバナナになったかもしれないでしょ?」
それはあまり関係ない気がする。
本人も、くすりと微笑んでいた。
もし、バナナが知恵の実だったらアフリカ大陸の国々は今の先進国と同じくらいのテクノロジーを手に入れていたのだろうか。本当に知恵が入るわけじゃないにしろ、プラシーボ効果くらいはあったかもしれない。アフリカに聖地ができたり、南半球が世界の基準に成ったりしたのだろうか。
いや、そもそも。
知恵の実を食べる前はアダムもイブも知恵がなかった。ならばバナナを剥いて食べるなどできないのではないだろうか。そしたら必然的に知恵の実なんて食べなかったのかもしれない。
永遠に楽園で神とともに幸せを享受できたかもしれない。
そうだったのなら、眼前にいるこの病人がこのようにやせ細りながら死んでいく病にかかることも、なかったのかもしれない。
馬鹿げたことが、真剣ごとに俺の中でも変わっていく。誰かに幼稚、稚拙ここに目新しく、と言われようともどうせこの世界はここサナトリウムの一室のみ、俺と彼との静謐な円の中にしかあるまい。
そこに比較はない。性差はない。
ある意味で最も競争のない楽園である。
喧々諤々な社会から孤立した俺にとってはこの想像が更に彼との世界を繋げる鍵だろう。
だから、俺は彼について考える。
彼の考えることも考える。
ついぞ一つに纏まるために。
「色々と思案している顔だね。君はもともと想像力豊かな方だから、君の意見を聞きたいな。今じゃないよ? 今日帰ってからまた次に来た時にどういう世界ができるのか、どういう可能性があるのか、君の想い描く物語として聞きたい」
蛇のように鋭い視線。
その眼にゾクリとする。決して殺意でもなければ、敵意でもない。ただそれは帰れという合図。
円を仕切るのは彼だ、ここは彼が神として扱われる場所。結局俺がここに入園できているわけでは無い。その招待なくして俺に信仰の扉は開かれない。
合図の裏には危険信号だ。けれども、俺に彼はその病態の進行を見せたくないかのように突き放す。病人の病人らしいところを俺に知られたくない。
例え俺に打ち明けたとしても俺がただ困惑し、慌てふためいて、潮にさらわれる蟹のようにひっくり返るだけだと彼は知っているのだろう。
俺は彼の手を握った。
俺は孤独を癒やそうと愛した。
「また、会いに来るから」
「……約束だよ」
彼は呪いの言葉を吐くようにそう言った。
約束だ。
だが、彼は次に会うよりも先に死んだ。
あの直後に容態が悪化し、そのまま帰らぬ人となったらしい。
訃報を聞いたのは彼に言われて書いた「物語」の始まりを彼に精査してもらおうとサナトリウムへ足を運んだ時であった。
「残念ですが、先日そこの病床の方は緊急手術中にお亡くなりになられて……遺品も既にご遺族の方が持って帰られてしまいました」
頭の中にあった未来が一気に瓦解した気がした。
だが、それでも、なんとなく予想はしていたのかもしれない。
看護師から吐き出された訃報は淡白に感じられた。もっと喉奥に突き刺さり、拷問に近い痛みを覚えるものだと思ったが、聞いた程度では何も実感しなかった。
実感はなくとも、勘の鈍い脳に比べて、身体の表面は脂汗がブワッと出ていた。
「あ……」
病床を目の前にする。
欠けた空間。
そこにあるはずの姿がないだけで、人はとてつもない恐怖と絶望をこうも叩き込まれるのか。
脊髄に連なる骨々が螺旋に回転しながら抜け落ちるように、ベッドの縁に脱力して座り込むしかなかった。
窓から昼の青。
「君に見せたかった物語が日の目を見ても、君の眼に見られないのなら、どこにも届かない」
斜めに掛けたカバンの中から原稿の束を持ち上げる。
立ち上がり、窓を開くと人知れず鼻腔を蝕んでいた薬品の匂いが過ぎ去っていく。
死臭なき死の静寂が鳥のさえずりによって掻き消されてく。
病苦との戦跡も入り込んできた新鮮な空気によって浄化される。
さぁ、後はその価値ない紙の羽を風に乗せて散らすだけだ。
妖精はそうやって耳うつ。
俺は涙を流して、少し前に出て彼の顔を上空に見えるまだらの雲の中に想起した。
「それは僕のものだ。例え作者とて僕の物語を窓から投げ捨てるなんて許さないよ」
懐かしき幻想が現実を悪戯に告げる妖精を喰らって、耳の中に這いずってくる。
眼を舐ってくる。
振り返れば、死の楔が投錨されたように寝そべり、胸の上で手を死人のように組んだ彼がいた。
五体満足、点滴の針に貫かれていない蜘蛛の巣ですら支えられそうなほど軽そうな彼。
或いはいるように見えたのか。
「君との約束を守るために、死んでも死にきれなかった。とでも言おうかな」
「嘘だ……君は、もう」
ガラス細工にハンマーを振りかざすような言葉が寸出るところで閉ざされる。
微睡みの雲、気の迷いの須臾、明滅する星座、それらに匹敵する朧気を自分の言葉で手折るなどできるわけがなかった。
塩気に染みる心が熱く濡れる。
サナトリウムから過ぎ去ったはずの病魔の匂いが甘く立ち込めたよう。
彼の顔は昨日見た時と同じように穏やかであった。
「嘘かもしれない、一時の君の狂気かもしれない。けれど、どのみち僕は君を心から思ってることに変わらないよ。それは君の世界でも、僕の世界でも」
祈り手を崩して彼はいつの間にか僕の書いた『物語』をその手に宿していた。
「僕の世界の終焉には君しかいなかった。けれど、君の世界の通過地点に僕は居る。さぁ、小説家今日はどんな話を聞かせてくれるの?」
蛇のような眼が俺を見据える。
その眼は俺の罪悪感に漬け込むように、溶けた水のように心の奥に染みてくる。
手にした原稿がひらりひらりと舞う。この物語は本当の意味で献上されたのだろうか、それともこの幻想すら自ずから満足しようと慰めに耽るがごとき死者への冒涜なのか。
あぁ、寝そべる彼の髪に指を繰れば、その透き通るような指通りに魅了される。
彼の一瞥すら向けないその集中した眼に恋い焦がれる。
俺は小説家。
彼は患者。
その関係性は死してなお、現実を侵食してまで崩れない。
「さぁ、紡いで。君の物語を」
あぁ読み上げよう。
君のために。
・《死が分かつ望遠恋慕》
私は空を見る者。
私は星を知る者。
私は虚空に想う者。
名を天体望遠鏡――これは枠組みの名ですか。
では別名をアルクAⅢ――これも製品名にしかすぎませんね。
なら、私はただの望遠鏡。呼び名など必要ないのかもしれません。
今はもう空だけを見上げる身ですから。
それも正しくはない。
今も昔も、ゴシュジンが私を愛用したその時も、私はずっと空の果てにある宇宙だけを見ていたです。今に限ったことではないのですよ。
私は見ていたのです。ずっとずーっと。彼の方だけを。
私の宇宙さん。
彼方にて星々を纏う黒き麗人。
私の愛する彼だけを。
昔話をしましょう。
私が初めて宇宙を見上げた時はどこかの草原にゴシュジンのお父様が私を開封した時でした。
私はどうやら誕生日プレゼントというものだったらしくゴシュジンには痛く気に入られていました。
今のように思い出す過去も、感情もなかった私には振り返る記録としてしかそのことを覚えていませんが、ぼんやりと今もゴシュジンのことはお慕い申し上げています。
しばらくゴシュジンの興奮した笑い声が草原に響き、それをお父様が柔和に見守られていました。
それからワクワク、ドキドキ、ソワソワのご対面ですよ。
ゴシュジンは私を通して宇宙を覗き込まれました。私も同じくして黒き天幕に『目を凝らし』ました。
ゴシュジンの滑らかな温もりが私の胴をギュッと掴まれて、もう片方はレンズの方へ。
思わず上ずった音が出そうでしたよ。錆びてもいないのに喘ぐわけには行かないのでその時はグッと堪えて立っていました。
情欲に塗れた天体望遠鏡でしたね。最低、と宇宙さんに罵られてしまうかも……
けれど本当に。あの時のなんと素晴らしきことか。あの一瞬で生涯私は心をこの視線のように宇宙に奪われてしまったのです。
体に捻じ込まれた幾つものパーツと曇りなきレンズが砕けたかと思いました。
それほどに彼との邂逅は私にとって衝撃的で、初恋のようだったのです。
誰にも伝わるはずないその運命をゴシュジンの感嘆だけが賛美してくださいました。
まるで天使が私達、観測者と観測対象の理に適った恋慕を祝福するように。
私はそれから定期的に空を見上げることになりました。
決まって時間帯は夜。ゴシュジンの手元を離れてから初めて『朝』という時間帯を知ったので『夜』という時間帯さえも私は知らなかったのですが。
ともかく暗い上方を見ればそこには彼がいることだけを知りました。
ベランダで、公園で、草原で、海辺で――あぁでも曇りの日には雲が私たちの逢瀬を邪魔して、叶わなかったです。いつも気ままに動き彼の傍に出たり、消えたりする彼を私はきっと羨みながら、殺意を抱いていましたね。
私だけの彼。
それをあんな美しくも光もしないモヤに隠されては消去したいと思うのは普通ではありませんか?
そうは思えどこの身は天に昇ることも、浮かぶこともない。
三本の脚をどっしりと大地に突き刺して観測するに留まるのです。
私は嫉妬で雲を射殺すことは叶わなかったけど、その寂しさを宇宙さんへの愛に変えて視線に乗せました。
何者かが彼を無暗に奪うというのなら、私はそれへの憎悪を無尽に膨らませて愛にして注ごうか。
きっとどの星よりも高いケルビンで迸る愛だと自負していたのです。
そうであるから私の愛はきっと宇宙さんが身に着けるどの星よりも明るく輝く、と信じて疑いませんでした。
それから数年が経ち、数十年が経ちました。
ゴシュジンは大きくなったと思えば、小さくなったりと不思議な生き物でした。
ぷるぷるだったのがいつの間にかしわくちゃに。姿が変われど私のすることはやっぱり見上げることなのできっとそんなに大したことではなかったのでしょう。
そうして、ゴシュジンがいなくなってからは私は最初にゴシュジンが私を設置してくださった草原に佇んでいるばかりでした。人は来ず、数千年が経ちました。
数千年もたつと三脚も砂岩が崩れるように儚く壊れて、私はとうとう視線を定位置から逸らしてしまいました。久々に宇宙さん以外のモノを見た気がしました。
崩れ落ちた私の体、見続けるにはもう限界を迎えてそうなひび割れたレンズ。
私はもう寿命を迎えるのでしょう。それでも天使は最後まで私に愛する権利を授けてくださいました。傾き地につくばうようになってしまった体は数千年の間に巻き付いていた植物のおかげで39度の角度を保っていたのです。それは空と大地、地平線の見える絶妙な角度でした。
今まで見たことのなかった宇宙さんの色の移り変わり、明けと宵にのみ存在するあのグラデーションは私が生まれて来てから一度も見たことのない素晴らしい微笑みのような色でした。
私は空を見る者。
私は星を知る者。
私は虚空に想う者。
結局私の恋はきっと三千年の片思いに終わることでしょう。
彼は私のことなど知りはしないことでしょう。
それでも、お慕い申し上げます。
私に光を与えてくれたのはあなただから。
嫌われても、この恋を醜いと言われても。
私は未だ届かぬあなたをお慕いしています。
あぁ、崩れていく。
最後のレンズもあの半円の月のように。
雨。雲の間から空の光。
まるで悪戯に気まぐれに、私を祝福するかのようでした。
私は嫌いだったのにあなたは最後まで気まぐれで、ロマンチストのようですね……
夕暮れの陽光と宵闇の星空の重なる時。
星と太陽の光を振りまく黄金の雨が私の恋心ごと私を流していく。
螺子は折れた。機体は錆びた。レンズは割れた。
足元の茂みにゆっくり人工の体が同化していく。
――彼方の君、最後まで、愛して――います――
ガラガラ……
天にも届かない音は雨に掻き消されて、雲間に奪われる。
・《G町上のアリア》
向日葵に向かって走る無垢な子供のような足音。
炎天下、夏の風を受けた人々は表情には出さないが、その暑さに汗を伝わせながら悶えている。
直射日光に晒されるゆえに、三十メートル程の横断歩道を渡るのだって煩わしく思ってる人は居るはずだ。
しかし、一人だけ確実にそうではなさそうな人物がいた。
まるでロマンス小説の中から出てきたような純白のワンピースに小さな旅行バックを携えた少女はのほほんとその酷暑を楽しんでいる様だった。
正確に言えば、少女という年頃でもないのだが、その彼女は童心を忘れていないように天に登る入道雲に微笑みかけながら、ウキウキ気分でこのG町を徘徊ーー或いは散歩をしていた。
彼女は気まぐれでマイペースな女性だった。
エーゲ海の女神のように美しく、一介の下町をヴェネチアのように魅せるほどカリスマが溢れていた。
周囲の通行人でさえ彼女の魅力には抗えず、思わずチラリと目で追ってしまう。
ただ当人にはそんな自覚は毛ほどもなく、無意識のカリスマから己すらも自分だけの世界に引き込んでしまっていた。
行きかう人達は点滅しだす青色を見ても焦らず、少女もまたペースを崩さずに闊歩していた。だが赤になったとたんに人々は思い出したように、駆け足になって対岸に突進していく。
気づいたころには訳も分からぬまま少女はその群れの中から置いてきぼりにされた。
中央分離帯に取り残されてしまったのだ。
しかし、彼女にとってそんな出来事は雨上がりの水溜りやガラスに着いた結露程の些細なこと。
たかだか足を止めさせたくらいでは、彼女の好奇心を止めることはできない。
中央分離帯の脇には煉瓦で作られた花壇があり、都会には珍しい向日葵が太陽の方に向いて咲き誇っていた。
都会にも向日葵は咲くものなのね。と、彼女は人知れず向日葵の生命を心の内で讃えた。
彼女が黄色の花弁を一枚一枚見ようと、その彫刻のような艶かしい腕を伸ばそうとしたとき背後から男が声を掛けた。
「アリア、アリア! 勝手に行動しないでくれよ!」
夏バテなのか、熱中症なのかーーそれとも体力不足なのか。彼女の背後で絞るように叱咤する彼はゼーハーゼーハーと犬のように呼吸している。
心配でなくともその様子は向日葵以上に不審で目を引くことだろう。
彼女は向日葵を愛でるのを中断して、顔を優しく彼の方に向ける。
男は彼女ーーアリアと同じくらいの年齢に見える青年で、顔つきはヨーロッパ人を想起させる。
彼女の方もアジア人ではないのだが、彼の方が赤茶髪ということもあって、どちらかというと彼の方が異国からの来訪者という言葉が似合う。
こんなに見っともない姿を晒していなければ、きっと海外モデルのカップルに見えたのかも知れないが、取り残された二人の外国人を側からみると、若女主人と使用人の関係に見えるだろう。
彼女は疲弊した彼に向かってこう言った。
「マルクェスが歩く速度に合わせていては日が暮れてしまうわ」
「……まったく。君のような白い少女の心を惹く何かがこの街にあるとは思えなかったよ」
彼が言うようにこの町は彼女に似つかわしいとは思えなかった。
この町は駅を中心に栄えてはいるのだが、古びた中華やラーメン店が並び、タワービルのテッペンにはカラオケの広告が大大的に掲げられ、高架下の駐輪場には潜むように放浪者が傘を広げて住んでいる。
ギンギラのネオンと人々の往来と退廃を、一つのるつぼで煮込んだようなこの町に無垢な少女は似合うはずがなかった。
けれど、少女はこの街をありのまま楽しんだ。
「あら、マクルェスは私のことを白い少女なんてポエムみたいに言うのね。どこを見てそう思ったのかしら? 腕? 脚? それとも?」
自分のパーツをじっくりと見ながら、彼がどこを見て白いと思ったのか、いじらしく問い詰めるアリア。
自分の発言が中々変態的だということに気づいたマルクェスは夏の暑さに負けないくらい顔を赤くしてまくしたてるように言った。
「ふ、服装に決まってるだろっ! からかわないでくれ!」
「紳士をからかうなんてとんでもないわ。普通の淑女ならしません」
アリアは口元に手を当てて自分のことをあからさまに棚に上げてそう言った。
「あぁ、本当に。普通の淑女ならしないでくれるだろね。でも今の君は淑女の気分じゃないんだろ?」
淑女気分。
気分だけではなく、アリアは本来ヨーロッパ的に言えば貴族の家の人間だ。
それでも彼女のふるまいにはフォーマルな高貴さはない。
あるのは持ち合わせている自然に身に着けた白い女神のような神性的なカリスマだけ。
彼女の一挙手一投足は人を惑わしながらも、波の行く先を見に行くためにある。
「うふふ」
彼女は悪戯娘のように小さく笑う。
マルクェスに対する謝罪が含まれているわけでは無く、単純にマルクェスが自分の言葉の裏を読んでくれたことがうれしかったのだ。
「よく分かったわね。ちょうど昨日キラー・クイーンを聴いたところよ。だからたしかに気分は王女マリーアントワネット。お姫様だわ」
そう言って優雅に一回転して見せる。
彼は呆れた表情で皮肉った。
「お転婆なところはとても似てると思うぜ」
「そう? それならあなたをもっと楽しく振り回してあげるわ!」
またも悪戯に彼の瞳を覗き込むように笑うアリア。
彼女に皮肉など通じるわけもないとマルクェスは思っていても、たまに行ってしまうといつもこんな調子で返されてしまう。それがどうしても気恥ずかしくて、すっぱくてたまらない。
「……っ。さっさと行きたいところに行こう」
「そうね。はじめての日本ですもの。アニメ! ニンジャ! カワイイ! いろいろあるはずだわ、マルクェスは何が見たいかしら?」
アリアはふん! とかわいらしく鼻を鳴らして意気込む。
アジアの島国の文化の珍しさは彼女の心の深くに錨を降ろしている様だ。
アリアとマルクェスは御忍びで日本に来ている。
親や学校にも教えないで、彼女の気まぐれのままに日本まで旅行しに来てしまった。
マルクェスは言ってしまえばおてんばな彼女のお目付け役だ。
アリアの気まぐれは急に吹く突風のように予測できないし、誰にも止められない。だから、彼はその突風少女の行く末を見守る。
見守るばかりでとうとうヨーロッパから数千キロも離れたアジアの浮島まで流れてしまった。
「君の見たいものに付き合うさ。それにしても、日本はこう、独特だな。アジアは中国なら行ったことあるけど、ムードっていうのか? それが違う。ここは冷えたセロリみたいだ」
冷えたセロリというワードチョイスにピンといてないアリア。
誰だって冷えたセロリが具体的に何を指しての比喩かとは分かりそうにもないが、言った本人はそうは思っておらず、伝わらなかったのを感じて苦虫を噛みつぶしたような表情をしていた。
「あなたこそいつからポエマーになったのかしら? 冷えたセロリねぇ、私はセロリは嫌いよ? でも、日本のことは嫌いじゃないわ。別の野菜にしてくださる?」
「そうだなぁ、うーん」
マルクェスは柄にもなく、馬鹿馬鹿しいことを真剣に悩み始める。
それが自分の感性に関わる問題だからだろうか、それともアリアの口車に乗せられてしまったからだろうか。
兎に角小難しく考える顔をアリアは誰にも止められないのをいいことにじっくりと見つめるのだった。
「……スライスオニオンと、か?」
やがて行き着いたマルクェスの答えは長々と考えただけのことがある答えだった。少なくともマルクェス本人とアリアにとっては。
「あなたって自分では常識的なジェントルマンのつもりなんでしょうけど、小説家みたいだわ」
「悪かったな、考え方が独特で」
不貞腐れるようにそっぽを向いて次の青信号になる瞬間を待とうとするマルクェス。
でも彼女はーーアリアはそうさせてくれなかった。
「でも、好きよ」
唐突に。突然に。
その言葉の意味を、真意を、裏を、答えの出ない謎を受け入れるだけで数秒が立った。これまでいろんなことに振り回されてきたマルクェスでさえ、耐えきれなかった青天の霹靂。
「……へ?」
思考回路はたった三文字に完全にショートさせられてしまった。
脳内の三差路はパニックライトを流して、脳髄も大脳も前頭葉も、ドクロの中の柔らかな部分をとげとげに満たした。
マルクェスは呆然と故障したマシーンのように硬直してしまった。
「? 伝わりにくかったかしら。あなたの考え方私好きなの」
「あ……あぁ、そういう……」
「他にどんなことがあると思ったのかしら? マルクェス?」
ピーチソーダのように顔色を変えて、最早何も言えないというように口籠るマルクェス。
天然なのか、弄ばれたのか、微妙なラインだが、それでもこの思いをあけすけにしたのは自分なものだから弁明することも恥ずかしかった。
「悪かったな……勘違いして」
「勘違い?」
ただ王妃は意地悪そうには微笑まない。
夏の輝き。
エーゲ海の煌めき。
本当に、眩しくてしょうがない。
「なんでもない……僕が勝手に君を好きなだけだ」
言いたくてしょうがなくなってしまったわけじゃない。
彼女に抱いていた想いは愛情よりももっと臆病な気持ちだったはずだった。
ずっとそんな気持ちを秘めたまま、彼女の幸せを願う人でありたかった。
けれど、夏が青く狂わせた。
汗が伝う。
蝉の音が煩い。
もう一度青色に信号が点灯した。
「えぇ、私もよ」
マルクェスは少し目を見開いて、ぎこちなく、けれど繕わない笑顔をアリアに手向けた。
アリアもまた彼に応えるように手を引いた。
入道雲は陽炎を乗せて、炎天を突き抜けていく。
届け。
届け。
いつか最後の夏までも。
この想いよ、貫いて。