氷の魔女は退職したい
嫌な予感は大抵当たる。それが優秀な魔女ともなれば尚更だ。
ジラは、仕事机の上を素早く片付けた。最後に羽ペンのささったインク壺を持ち上げたところで、ノックも無しに部屋のドアがバタンと開いた。
同時にジラがたった今片づけた机の上におびただしい量の魔導書と書類が積み上げられた。
古びた本から巻き上がる埃が落ち着くと紙の山の向こうに見慣れた上司エルが現れた。
「やあ、ジラ。今日も綺麗だね」
「お世辞は結構です。ご用件を。簡潔に」
インク壺を本棚に置いたジラは、腰まで長く伸びた銀髪を一つに括りながら、同じく銀色に輝く目でエルを見据えた。
「お世辞じゃないよ。古来氷の魔女は美人と相場が決まっているからね」
――凍らせてやろうか。
ヘラヘラと笑うエルは赤い髪に赤い瞳。ジラよりも余程整った顔立ちをした上司は、炎の魔導師と呼ばれ、若手の魔法使いの中では、他の追随を許さない実力者だ。同時に他の追随を許さない変人でもある。
「ご用件を」
ジラがにこりともしないでそう繰り返すと、エルは肩をすくめて、本題に入った。
「ウィファが暴走した。収束させて修復してほしい」
――またか。
ジラは心の中だけでため息をついた。
「今度はどのような魔法を試したのですか」
「水でできた球を空中に浮かせて、その中に魚を入れて運ぶ。海や川から遠いところでも魚が楽しめる」
ウィファは、水属性の魔法を操る魔女だ。空色のふわふわした髪に濃い青の瞳。見る者全てを、いや、主に男性を虜にするその容姿はまさに魔女と言える。
そして突拍子もないことを思いついては、思いついたままに魔法を発動し――。
ジラは無言で続きを促した。エルは、苦笑いをしながら続けた。
「水溜まりや噴水、とにかく何か水の上を通過するたびに球が大きくなる。今じゃ、ここ魔法省の前庭くらいの大きさだ」
ジラをこれまで以上の嫌な予感が襲ったのと、どこかからバリン! と言う何かが激しく破れた音がしたのはほぼ同時だった。ジラは銀髪をはためかせて窓に飛びつく。魔法省の前庭が大きな水の塊に覆われて、魔法省正面玄関横の大きな飾り窓が水圧で割れていた。そしてこの水の塊は、さらに巨大化しながら魔法省の建物にめり込もうとしていた。
「――っ! 術式は!?」
「このメモがそうっぽい。対抗魔法が載っていそうなのがこっちの魔導書」
ジラはメモに飛びついた。どうしたらいい? このままでは建物が崩壊する。止めるには全体を凍らせて。いや。それでは中の生き物が死んでしまう。なら。
ジラは窓辺にもう一度向かうと巨大な水の球に向かって手をかざす。ピシッという音がして水の球が凍った。その勢いで前庭側のドアが完全に壊れたがやむを得まい。水は凍らすと僅かに膨らむのだ。
「ふーん。表面だけ凍らせたか。これなら中の魚は無事だな」
エルが顎を撫でながら感心したように言う。
「玄関破損は私の責任ではないと進言してくれますね」
「もちろんだ」
ジラは、ウィファが術式を書いたと思われるメモを読み、魔導書を引いた。
色々と試行錯誤した結果、日が暮れる頃には水を小さな氷の器に分けることに成功した。
「さあ、ウィファ。これをそれぞれの場所に戻してちょうだい」
ジラがそう言うと、ウィファは青い目を潤ませた。
「でももう暗くなるのに。明日ではダメですか?」
「明日まで私にこの氷の器たちを維持しろと?」
ウィファの目からは既に涙が溢れそうだ。ずいぶん安い涙だ。これではガラス玉くらいの価値しかない。
しかし、可憐なウィファが打ち震える姿に、男性の多い同僚たちは心打たれたようだ。
「そんなに厳しいことを言わなくてもいいじゃないか」
「明日必ずと約束しているんだ。一晩くらいいいじゃないか」
その一晩をジラは眠れずに過ごすのだが、そこには思い至らないらしい。しかし、ここで反論しても悪者にされるのはジラだ。
「お前たち、ジラに冷た過ぎないか。ここまで事態を収めてくれたのは誰のおかげだ?」
その声に空気が一瞬で凍った。にっこりと笑顔で現れたのはエルだ。
笑顔なのに怖い。氷の魔女も真っ青だ。
「ウィファ。最初の水の球の水はどこから取った?」
「え。あの、南の湖です。綺麗な魚がたくさんいて皆さんに見ていただけたらと思ったんです」
「わかった。じゃあ木の魔法と土の魔法で器を作り直し、全て水を入れ替えろ。風の魔法でその器を元の位置まで飛ばせ。器を維持するなら明日でもいい。ジラは昼間からこの対応をし続けてるんだ。解決策が見つかった今、交代するのが筋だろう」
エルがテキパキと指示を出すと同僚の顔色が変わった。
「え。これ全てですか」
「何も一人でやれと言っているわけじゃない。維持だってたった一晩じゃないか」
同僚はここに至って、ウィファ可愛さからの失言に気づいたようだ。気まずそうな顔になった。
「じゃあジラはここまでだ。魔力の消費も激しいだろうし、部屋で休むと良い」
ジラは頭を下げて部屋に戻った。
「で。なぜあなたがここに? 休ませていただけるはずでは」
ジラは、優雅に応接セットに座ってお茶を啜る人物を睨め付けた。
当の本人は涼しい顔だ。
「いやあ。今日も大活躍だったな、ジラ。本当にジラがいてくれて助かるよ。僕の炎魔法では、水の暴走を止めるのは難しいからね。水にはやはり氷だな」
さあ、座ってジラも食べなさいと皿いっぱいの菓子をすすめる。
ジラは無言で座った。反論するのも面倒だ。正直、もうクタクタだし。
「先程は庇っていただいてありがとうございました」
ジラが礼を言うと、エルは目を見開いた。
「いやあ。何だか照れるな。そんなふうに素直に言われると」
顔を赤くして、首筋をかいている。
なるほど。こういうのに弱いのか。
「いえ。いつも感謝しております。私を見出してくださったのはあなたですし、ここでの居場所を作ってくださったのはウィファの暴走とあなたの丸投げだと思っています」
ジラの言葉に、エルはははっと乾いた笑いをこぼした。
「何だか褒められてるのか貶されているのかわからないな」
ジラは黙ってお茶を啜った。
照れ隠しに冷たい言い方をした。ここ最近はことさら冷たい言い方をしてしまうが、今の自分があるのはエルのおかげなのは本当だ。
20年前、片田舎の氷の魔法使いの一家に、桁違いに大きな魔力を持った女の子が生まれた。ジラだ。一家は村の外れに庵を立てて、薬草を作ったり、氷を売ったりして生活していた。一家揃ってそんなに魔力が強くない。母と祖母が作る薬草はそれでもまだ魔女っぽい感じではあったが、父などはほぼ氷屋だった。氷を作るよりそれを運ぶ肉体労働の方が主だったくらいだ。
商品の評判は良く、生活に困ったりはしなかったが、王都にある魔法使いの総元締めとも言える魔法省になんか縁もゆかりもない家だった。
そこに生まれたジラは、こおりをつくるよ! と言っては湖全体を凍らせ、熱冷ましを作ったよと言って見せてきたのは村人全員が低体温で死んでしまいそうな効果がありすぎの熱冷ましもどきの山だった。そして、幼いジラが泣き出すと、その涙は最上級のダイヤモンドになった。
魔法使いの涙は結晶化する。氷の魔法使いは、ダイヤの涙を流す者が多い。だから氷の魔女はあまり泣かないように育てられる。しかし、そんな氷の魔女の中でもジラの涙は格別に上等だった。
一家は恐れた。
誰かがこの力に目をつけたら。家族はジラを愛していた。自分たちにはジラを守る力がない。
そんな時だった。魔法省の調査隊が辺境の調査の帰りにジラの住む街に立ち寄った。
父は、悲壮な決意を滲ませた顔で調査隊に会いに行った。ジラを魔法省に入れてほしいと言いに行ったのだ。力の強い魔法使いである娘を守るには、魔法使いの総本山である魔法省が一番良い。しかし、それは当時10歳になったばかりのジラが、家族と別れないといけないことを意味していた。
父の依頼にやってきたのが、当時新米魔術師だったエルだ。
当時15歳だったエルは、ジラが今までに会ったどんな人とも違っていた。赤い髪に赤い瞳、自分以外に魔力の強い魔法使いに会ったことのなかったジラは圧倒された。美しい見た目も相まって、光り輝いているように見えたのだ。
それは、エルも同じだったようだ。まさかこんな田舎町にこんなに力の強い魔女がいるとは思わなかったのだろう。ぽかんとした顔をして、ジラをしばらく眺めた。
先に気を取り直したのはエルだった。
「やあ。小さな魔女さん。僕の名前はエル。君の名前は?」
「……ジラ」
「そう。きれいな名前だね。僕と一緒に来たい?」
そう言って、笑ったエルの手をジラは取ったのだ。
本当は、エルと会うまで、家族と離れるなんて嫌だった。だが、自分が家族に迷惑をかけていることも、家族が自分のためを思って頼み込んでくれたのもわかっていた。
そして現れたエルは、何故だか信じられる人だと思ったのだ。
出発の前の夜、母はジラの手を握ってこう言った。
「人前では絶対に泣いてはダメよ。一人の時もなるべく泣いてはダメ。辛くても頑張りなさい。あなたの居場所はきっとあるわ」
そう言う母の目からは涙があふれていた。ジラが最後に泣いたのもこの時だ。二人の涙がキラキラ光って落ちた。
魔法省にきたジラは、魔術師見習いとして働くことになったが、最初の仕事はエルの身の回りの世話だった。エルは優秀だが、生活能力が皆無でジラがやってきた時、エルの部屋はまさにゴミ屋敷だった。
ジラは、綺麗な部屋が好きだ。エルの隣の部屋を与えられたジラは、連れてきてくれたお礼にとエルの部屋の掃除を手伝った。実家では一通り家事をしていたから、エルの部屋はあっという間に整理され、埃も駆逐された。
魔法省のお偉方は感動した。
「あの部屋を片付けられるなんて、天才か!」
当時のエルとそしてジラの上司になった魔術師はそう言って打ち震えていた。大袈裟なと思ったが、どうも魔術師というものは、掃除が苦手らしい。魔力が強ければ強いほどその傾向は顕著で、魔法省に入れるくらい魔力が高いのに綺麗好きなジラは異例中の異例らしかった。まあ他の魔導師は嫌々ながら掃除はするのでエルの部屋のようにはなっていなかったが。
ということでおじさま方から絶大な支持を得たジラだったが、氷の魔女として元来無表情に生まれた上に、生来の人見知りが重なって、若い魔法使いには全くなじめなかった。幼いジラはまじめに修行に励んだが、空いている時間はエルの部屋の片づけに費やした。エルはどんなに部屋をいじられても嫌な顔をせずにジラの好きにさせた。
「きれいにしてくれたお礼だよ」
と言って、おいしいお茶とお菓子までくれた。餌付けされたわけではなかったが、ジラはエルにだけなついた。
ジラが15になった時、一人前の魔女として独り立ちした。時期を同じくして、エルも上級魔術師になり、ジラの上司となった。上級魔術師には身の回りの世話をする従者がつく。年頃になったジラがエルの部屋に入り浸るのも問題だと思われたのだろう。ジラは、エルの世話係を卒業した。
途端にジラには居場所がなくなった。その頃からはっきり自覚した、自分のエルへの想いを持て余していたのもある。幸いにして、一人前の魔女になることができた。魔法省出身の魔女なら、どこかの街に庵を開けば、自分ひとりくらい生きていける。ジラは、魔法省を退職しようと思った。
そんな時だった。ウィファがやってきた。
水の魔女であるウィファは、可憐な見た目とは裏腹にかなりの問題児だった。魔法を暴走させては、大事故寸前にする。エルは、ジラにその後始末を命じた。ウィファをたしなめることはあっても本当の意味で止めることなく甘やかしているエルを見て、何も思わなかったわけではない。
でも普段の仕事に加えて、ウィファの後始末をする日々はなかなかに大変で、おかげで魔法省を辞める時機を逸してしまった。
「ウィファの暴走を食い止められるのはジラしかいないね」
エルにそう言われることに喜びを感じていなかったと言えばうそになる。再びジラは魔法省で自分の役割を得た。
巨大水球による魔法省正面玄関破壊事件からひと月ほど。再びウィファが暴走した。
「今度は何です?」
やってきたエルにジラは聞いた。
「見てくれたらわかるさ」
エルはジラを魔法省の一室に案内した。
そこでは、水でできた蛇が暴れまわり、部屋の中のものをなぎ倒していた。今日も今日とて、蛇を作ったウィファの姿はない。
「ジラ、なんとかできるかい?」
ジラは、蛇たちに向かって氷魔法を放った。蛇はみな一瞬で凍った。
しかし、誤算だったのは蛇の勢いが止まらなかったことだ。水なら良かったが、なまじ凍らせてしまったため走れる刃と化した蛇が部屋中を縦横無尽に飛び回る。バリンバチンと部屋中のものを壊していく。
そのうちの一匹が真っ直ぐジラに向かって飛びかかってきた。避けられない。ジラは衝撃を予期して固く目を瞑った。
「あぶない!」
その声に目を開けると、一瞬にして蛇たちが霧散していた。炎の力で蒸発した蛇は文字通り霧になって散った。
部屋は、溶けた蛇たちの湯気によってどんどん曇っていく。視界が湯気に塞がれる直前、炎の名残を残した手のひらをこちらに向けたまま、しまったという顔をしたエルと目が合った。
ジラの顔は見えなかっただろう。
視界が開かないうちに部屋に戻ったジラは、部屋に閉じこもった。部屋のドアに厚い氷を張って、外から開かないようにした。
「ジラ! 開けてくれ!」
ドアをたたくエルの声が聞こえたので、自分の周りにも氷を張って、音が聞こえないようにした。
エルなら本気を出せば、ジラの氷くらい一瞬で溶かすことができることは先ほど証明済みだが、そこまではしないようだった。
そして、一人になったジラは少しだけ泣いた。
泣いたのは、子どもの時以来だった。母の言いつけを破ってしまった。でも、10年来の恋が破れたのだから、少しくらい泣いたっていいだろう。
嘘だったのだ。炎の魔法だから水の魔法に弱いというのも。ジラがいなければ、ウィファの暴走を止められないというのも。
それはそうだ。よく考えれば、希代の炎の魔導師にできないことなどそうそうあるはずもない。
ジラが、ウィファの暴走を止めようと、魔導書とにらめっこしたり、髪を振り乱して慌てている姿を見て楽しんでいたのだ。からかわれていただけだった。
それを、役に立てているなんて自惚れて、いい気になって、便利に使われていた。
本当に、馬鹿みたいだ。自分が恥ずかしすぎる。
今がその時だと思った。
――もうここにはいられない。
幸い、失恋のおかげで資金もできた。
ジラはそっと窓側の氷を溶かすと、箒を手に取った。
机の上には、退職届を残した。
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その森には、魔女の庵がある。
つい数か月前、住み着いた魔女が、便利な薬や道具を売ってくれるのだ。
近くの村人は、最初は遠巻きにしていたが、最近ではその商品が評判で、なかなかの売れ行きらしい。
「――見つけた」
その日、魔女が出迎えた客は、少し前までの馴染みの顔だった。
でもずいぶん様子が違っていた。
いつも綺麗に整えられていた赤い髪はボサボサで、赤い無精髭まで生えていた。長旅をしてきた人特有の匂いがして、日に焼けた顔の奥の目の光だけが昔通りだった。
「探したよ。ひどいじゃないか。黙っていなくなるなんて」
「……退職届は置いてきました」
ジラが、魔法省を出たのは、もう三月も前だ。まさか、ずっと探していたというのか。
エルは、黙ってジラの庵を見渡した。きれい好きのジラらしく、きれいに整頓された庵は、明るい光で満ちていた。
「さすがジラだ。もう一人くらい余裕で暮らせそうだな」
「え?」
「僕も今日からここに住もう」
「は?」
固まるジラを横目にエルは部屋の隅にドカッと荷物を置くと、広げ始めた。
「僕は、この辺りを生活スペースにするよ」
「ちょ、ちょっと……」
きれいに整えられたジラの庵の一角はあっという間にごみ溜めのようになった。
「だって、しかたないだろう。ジラがずっと魔法省にいてくれたらよかったのに、出て行っちゃったんだから」
すっと顔を上げたエルの顔は真剣そのもので、ジラは何も言えなかった。
「だから、これからは僕がここに住む。なに、僕だって魔法省で上級魔術師になった経歴がある。この庵の役に立てるよ」
そして、一層真面目な顔で、小さな声でつぶやいた。
――ひとめ惚れなんだ。ずっと一緒にいてくれなくちゃ困る。
ジラの目からダイヤがこぼれた。
エルの目から流れ落ちるのはルビーなのだと知った。
ジラは、ごみ溜めのようなエルのスペースを生活しやすいように整えることにした。
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その森には、魔法使いの庵がある。
いつからか、住み着いた魔女と魔術師が、便利な薬や道具を売ってくれるのだ。
その腕前は評判で、最近では遠くからもお客が来るという。