9 月の竜③
山岳地帯を出発し、馬車と護衛隊は途中で宿営しながら街道を進んだ。
初め、テスは竜学舎に連れて行かれるのだと思っていた。だが、街道の景色を見ると段々自信がなくなってきた。
「この街道はどこに続いてるの?」
馬車が止まり、騎兵達が野営の準備に取りかかる中、テスはディグニスに尋ねた。運び屋になってからは道を進むという移動がほとんどないせいもあって、見当が付けづらい。老将軍は明快に答えた。
「オウレンシアだ」
「…帝都? 竜学舎じゃなくて?」
「まず、新帝陛下に拝謁してもらう。月の竜が陛下の即位を支持するのか確認しなければ戴冠式の準備に移れないからな」
何やら想像したより面倒なことになっているようだ。テスは考え込んだ。スープを入れたカップを手渡し、将軍は詫びた。
「野営続きですまないが、帝都まで我慢してくれ」
「平気、運び屋だもの。野宿は慣れてるし、ここは森林地帯ほど寒くないから」
テスは夜空を見上げた。銀月が半分より膨らんでいる。街道に沿って流れる川でビーチャが魚を捕まえた鳴き声がした。
「少し運動させなきゃ。太って筋肉が落ちちゃったら、藁も運べなくなるし」
呟いた後で、運び屋の少女は将軍に尋ねた。
「帝都に翼竜が魚を捕れそうな川か湖はある?」
ディグニスは苦笑を浮かべた。
「フィランテア宮殿の敷地は広大だ。庭園に森も狩り場もある。まあ、他の者を驚かさないよう、夜に取らせる方が良かろう」
テスは頷いた。町の人ほど翼竜を無駄に怖がることが多いのは経験済みだ。
馬車で休みながら、彼女はこれからのことを漠然と考えた。戴冠式が済めば竜学舎に移るのだろうか。その頃には叔父は少しは回復しているだろうか。いつかイオシフ竜舎に戻れるのだろうか。
冷たい不安が忍び寄ろうとした時、寄り添うように囁く声がした。
『先のことなんて出たとこ勝負だ、今はゆっくり休めよ』
それが月の竜だと悟る前に、運び屋の少女は眠りに落ちていた。
野営を繰り返すうちに、旅の景色は少しずつ変わっていった。
もう冬の準備に入っている森林地帯では夏にしか見られない花が街道沿いを華やかに彩り、たまに出会う人々の服装は軽快なものになっている。
相棒の背に乗って、テスは将軍との合流地点を目指していた。ビーチャに飛行訓練が必要なのと、より速く帝都に到着できるという互いの利益が合致した結果だ。
「あそこ、あの突き出た岩があるとこに降りて」
竜笛と手綱で合図すると、プテロは高度を落としながら滑空した。少し遅れて到着した将軍たちは彼女に手を振った。
「やはり翼竜は速いな」
「空なら目的地まで最短距離で行けるから」
飛行具を外してビーチャを休ませてやると、自分の馬を世話する竜騎兵達が笑顔で声をかけてきた。馬と翼竜の違いはあれど、動物を相棒とする彼らとはかなり打ち解けた話が出来るようになっていた。
「こっちも馬車が軽い分速度を上げたんだが」
「最初は暴れないかと心配したが、馬にも慣れてて驚いたよ」
「荷物の受け渡しをする着場には馬も来るから馴致で訓練するの」
馬達も翼竜を見慣れたせいか、ビーチャが彼らの周りをとことこと歩いても気にすることなく草を食べている。暑そうに皮の上着を脱ぐテスに、将軍が言った。
「新帝陛下に拝謁前に、宮廷服を用意させよう。さすがに仕事着では不敬に当たるからな」
テスは顔をしかめた。ディグニスは意外そうに訊いた。
「その年頃なら宮殿に憧れそうなものだが」
「場違いなのは分かってるから」
「なに、上等な服を着て立派な馬車に乗っていれば誰でもそれらしく見える」
「綺麗なドレスなんて似合った事ないし」
そもそも運び屋になったきっかけが、ドレスが似合わないとからかわれて喧嘩をして叱られたことだったとテスは思い出した。
――着たくもない物は着なくてすむと思ったのにな……。
憮然とする少女を見て、将軍はつい笑っていた。短い髪と未成熟な体つきのせいか、彼女は少年で通せそうだ。
「むしろその方が安全かもしれんな」
小さな呟きにテスが振り向いた時、既に老将軍は部下達の元へと向かっていた。
「あの人、何考えてんだろ」
独り言に呼応した声が頭に届いた。
『よく聞けよ、お嬢。こっから先、帝都の宮殿じゃ簡単に人を信じるな』
――セレニウス?
竜の声はいつものからかう口調がなく、真剣な警告を送っていた。
『権力の頂点に近い者ほど裏表がある。好意や笑顔は真に受けねえこった』
少女の動揺を感じたのか、竜の声が少し柔らかくなった。
『ま、初っぱなから大物に喧嘩を売るような真似しなけりゃ、即位の鍵を握る奴に迂闊に危害は加えねえだろ』
――こっちはあんたみたいに簡単に逃げられないんだから、適当なこと言わないでよ。
テスの口答えに竜は笑った。
『その調子だ。無闇にビクビクしてると、自分の影にも気絶することになるぞ』
相変わらずの無責任ぶりだが、それでもあの竜がどこかにいてこちらを見守っていると思うと、少しは気分が軽くなるように思えた。
やがて街道は道幅が広がり、これまでとは比べものにならないほど多くの人々が行き交うようになった。その先には大きな建物が森のように密集する景色がある。
ザハリアス帝国の帝都オウレンシアに到着したのだ。
さすがに翼竜を乗せては目立ちすぎるため、テスはビーチャに上空で着いてくるように命じた。宮殿の庭園に潜伏させて、夜になれば竜笛の合図で宿舎に呼び寄せるつもりだった。
日は傾き夕刻が近い。そのためか、街の通りは買い物をする人で溢れていた。豪華に飾り付けた店が並ぶ表通りをテスは興味津々で眺めた。行き交う人々は服も靴も軽やかで、色彩に溢れている。
馬車を護衛していた竜騎兵は目立たぬよう最小限の人数に減っていた。質素な馬車は街を抜け、広々とした公園らしき場所に出た。大きな門に衛兵が詰めている。通行証を見せて竜騎兵は馬車を通させた。
――宮殿ってまだ先なのかな。
幾分退屈混じりに考えていると、からかうような声がした。セレニウスだ。
『お前はとっくに宮殿の中だよ、お嬢。ここが宮殿主庭園。ほら、あれがフィランテア宮殿、通称〈煌宮〉だ』
なぜそう呼ばれるのかは竜に聞くまでもなかった。眼前に近づく赤大理石の巨大な宮殿は、夕日を浴びて燃えるような彩りを帯びていた。無数の窓ガラスが夕暮れの赤を映し、壮麗な宮殿は炎をまとったような異様な美しさだった。
――……すごい。
呆然と見とれるばかりだったテスは、馬車が建物に近づくにつれ煌宮の大きさも桁外れだと分かった。中央に大きな丸屋根のある建物がそびえ、そこからどこまでも両翼が伸びている。
――端から端まで歩くくらいなら、ビーチャに乗って飛んだ方が早そう。
『確かにな。ただし、この中じゃ迂闊に歩くととんでもねえモンに出くわしたりするぜ』
――あんた以上にとんでもない生き物なんているの?
竜はその言葉に爆笑し、うるさいと怒られるまでやめなかった。