7 月の竜①
「……月の竜…」
目の前の強大で異質な存在と、何ともやさぐれたようなぼやきが一致せず、テスはひたすら呆然とした。
『おい、そっちの兄ちゃんは大丈夫か?』
頭に響く声に指摘され、彼女は叔父の様子をうかがった。下半身が岩に埋もれた状態が長く続くと危ないのは言われるまでもなかった。
「早く、竜学舎の人に見せないと…」
『ま、とりあえず外に出るか』
出口は落石で塞がっているのにと説明する間もなく、周囲が強烈な光に満たされた。必死で目を庇っていたテスは、不意に光が収まったのを察した。おそるおそる目を開けると、洞窟と外界を隔てていた岩の壁は跡形もなかった。
うめき声に慌てて叔父ヴァイロンに目をやった。彼を生き埋めにしかけた岩もなくなっていた。だが重傷であることに変わりなかった。左半身が無残にも血まみれで彼の姉と同じ輝かしい金髪も今は血で汚れている。
『生きちゃいるが急いだ方がいいな』
テスは同意し、相棒を呼んだ。
「ビーチャ!」
竜笛を吹くと翼竜の鳴き声がした。空中に旋回する影を認め、テスは大きく手を振った。飛行具を装着したプテロは谷底に降り立ったものの、近寄ろうとしない。月の竜を怖がっているのは明らかだった。
「あの子を食べたりしないでよ」
『しねえよ。俺は食いモンにはうるさいんだ』
「ビーチャ、大丈夫だから、こっちに来て」
なおも戸惑う翼竜を前に、テスは途方に暮れた。不意に身体が浮く感触が襲った。竜が巨大な爪ですくい上げるようにして彼女と叔父を前足に乗せたのだ。
『ま、こっちの方が手っ取り早いな。乗り心地は我慢しろ。おい、そこの小さいの、着いてきな』
それだけ言うと、確認もせずに竜は宙に浮かんだ。慌てた翼竜が鬣にしがみつく。
テスは目を瞠った。翼竜にまたがって数えられないほど飛行してきたが、この竜の飛び方はまるで違った。
――何で、羽ばたきもしないし気流に乗ってるわけでもないのに飛んでるの?
『いい質問だ』
竜の声は面白がっているようだった。
『お前らの連れはどこで待機してんだ?』
問われてテスは爪の間から暗くなりかけた山脈を見下ろした。
「この、麓のとこ。そこまで馬車で来たから」
竜にはそれで理解できたらしい。まっすぐに降下し、彼らの帰りを待ちわびていた人たちの姿が見えたと思うとぐいぐいと大きくなっていった。そっと叔父の様子を見たテスは、間に合うことを祈った。
やがて松明の光がちらちらするのが見えてきた。
「あそこ、竜学舎の人達」
『あの連中が来てるなら話は早えな』
竜の口調には嫌な予感を刺激するものがあった。
「どうするつもり?」
『怪我人届けたらちょっとここらを見て回る』
「何を見るのよ」
『酒が飲めそうなとこだよ』
正気を疑うような発言にテスは絶句し、竜は可笑しそうな笑い声を頭に響かせた。
書記官とその姪を送り出した竜学舎の合流地点では、女帝の亡骸を運ぶための馬車がようやく到着していた。馬車に遺体を納め、学員は誰からともなく顔を見合わせた。
「ヴァイロンは無事に役目を果たしただろうか…」
「あの子供と二人きりでは心許ない。せめてもう一人同行していれば」
非難の目を向けられた男は必死で首を振った。
「無理です、あんなものに乗って飛ぶなど」
何度目かの溜め息が終わらないうちに、いきなり馬たちが騒ぎ出した。何事かと周囲を見回す彼らの頭上に大きな影が落ちた。同時に上を向いた学員たちは口と目を限界まで開けたまま固まった。
彼らの目の前に音もなく巨大な竜が降りた。竜は学員達に何かを差し出した。血まみれになった人物――書記官のヴァイロンだった。
「ヴァイロン!」
「何があった!? 今のが月の竜か?」
「早く手当を!」
騒然となった人々は書記官を担架に乗せ、馬車に運んだ。彼らが気づいた時には竜の姿は消えていた。代わりに現れたのはずっと小さな空飛ぶ生き物、翼竜と少女だった。
「……お前は?」
「メイネスのテッサリア」
胡散臭そうな目で見られたテスは仏頂面で答えた。塔の人々は素早く視線を交わした。
「ヴァイロンの姪だな」
頷くとテスは矢継ぎ早に尋ねた。
「叔父様は助かるの? あの竜は何なの? 洞窟のオルガンに仕掛けでもあるの? どうして竜の声が頭の中に聞こえるの?」
人々がざわついた。長老格の老人が少女の前に進み出た。
「オルガンを弾いたのはお前か? ヴァイロンではなく?」
テスは再度頷いた。塔の人々は深刻な顔で囁き合った。叔父の様子を確認したいのに無視されて、運び屋の少女は忍耐力を試されている気分だった。
ようやく結論が出たらしく、長老格の男性が少女の前に歩み出た。彼は重々しく言った。
「かなり例外的ではあるが、月の竜の選定は何を置いても優先される。我々はあなたを、竜祀院として迎え入れよう」
「……は?」
頓狂な声がテスの口をついて出た。目の前の男が何を言っているのか理解できない。
「月の竜をこの地に召喚した者は竜祀院と呼ばれ、竜学舎最奥の竜の塔の主となるのだ。タネクの娘、テッサリアよ」
淀みない口調での宣告は、かなり遅れてテスの耳に届いた。それが引き出したのは激烈な怒りだった。
「…勝手なこと言わないで!!」
吼えるような返答に、男たちは眉をひそめた。テスは相棒の翼竜が驚くのも構わずに怒鳴った。
「あたしはイオシフ竜舎のテス。翼竜使いの運び屋! 竜祀院になるなんて聞いてない!!」
「我々はヴァイロンがその任に就けると思っていた。だが、月の竜の言葉を聞き新たな皇帝陛下の即位を言祝ぐのは竜祀院のみなのだ」
叔父の名に多少怯んだものの、テスは負けじと声を張り上げた。
「だから、叔父様が回復するまでそっちで代役立てれば?」
『替えがきかねえんだよ、お嬢』
頭の中に声がした。あの洞窟で聞いた、月の竜の声だ。
「どこ行ってたの、この人たちに何とか言って…」
突然周囲が暗くなった。竜学舎の人々が空を見上げ凍り付く。彼らの頭上に竜が忽然と姿を現していた。文句を言おうとしたテスは、自分の口から自分のものではない声が出てくるのに愕然とした。その目が金色の光を帯びる。
「『崩御した皇帝は誰だ?』」
学員たちが一斉にひざまずいた。
「エストレーリア二世陛下です、先帝イオルゴス三世陛下の皇后であられました」
竜は長大な胴体をくねらせ、空高く駆け上った。暗雲と雷光の中にその姿が消えると、学者たちはほっと息をついた。テスは口元を押さえて立ちすくんだ。身体の震えが抑えられない。
「…何、今の……」
「混乱するのも無理はない。月の竜は竜祀院を通して我々に言葉を与えるのだよ」
落ち着かせようと長老格の男が肩に手を置いたが、少女はそれを振り払い叫んだ。
「嫌よ! 誰か代わって!」
『ンな悪趣味な筋書きじゃ同情するが、呼び出しちまったんだから腹くくれよ』
「あんたのせいよ!!」
頭の中にのんびりした声が響くのに、テスはいきり立った。竜学舎の人々がどうしたものかと持て余し気味な顔を見合わせる。
その場を収めたのは馬車から漏れてくる弱々しい声だった。
「……テス…」
「叔父様!」
重傷を負ったヴァイロンが意識を取り戻したのだ。テスは急いで馬車に駆け寄った。端正だった顔の半分に布を巻かれた書記官は、姪の手を取った。
「…すまない、こうするしか……」
伝わってくる彼の震えが、嫌でも瀕死の女帝と重なった。テスは必死で首を振った。
「早く良くなって。それまでなら……あの竜の言葉を聞く役をしてもいいけど…」
渋々ながらの譲歩にヴァイロンは微笑んだ。しかしその顔はすぐに苦痛に歪んだ。竜学舎の男が彼に水を与えて休ませた。
「無理をするな。月の竜は無事に降りたのだから」
彼と女帝の遺体をどうやって麓まで運ぶのだろうかとテスはぼんやり考えた。そこに聞き慣れた物音がした。翼竜の風切り音だ。ビーチャが嬉しげに鳴いた。