6 飛び込みの仕事④
地図を見せてヴァイロンは続けた。
「この印のある場所に行けるかい?」
羊皮紙に書かれた地図を覗き込み、テスは質問した。
「今いる場所はこの記号のとこ?」
「そうだ。更に奥地になるが」
地図上では曲がりくねった山道を延々と進まなければならないが、直線距離はプテロの単独飛行範囲内だ。
「ビーチャを休ませないと。それに明るくならないと無理」
「夜明けと同時に出発する。何人乗れる?」
周囲を見回し、テスは翼竜の最大積載量を計算した。
「叔父様と、あの人くらいかな。他の人は無理。重そうだから」
竜学舎の書記官は苦笑気味に頷いた。他の者たちは女帝の遺骸を中心にあれこれと話し合っている。帝国の未来に関わることらしいと想像は付くが、テスには現実感に乏しかった。それより具体的な疑問の方が浮かんでくる。
「最初から運び屋に依頼すればよかったのに」
小さな呟きを聞きつけ、少女の叔父は酷く苦い顔をした。
「私達もそう提案した。それでも計画の漏洩を恐れて単独行動に走ってしまわれたよ。あれほど思慮深かったお方が」
大事そうに地図を上着に収める彼を見て、テスはその場所に何があるのだろうと考えた。女帝が命に代えても決行するほどだ。帝国の運命を左右するものがあるのかもしれない。答えの出ない疑問を抱えながらテスは翼竜の世話をし、その傍らで仮眠を取った。
彼らのいる山岳地帯の別の山中で野営をする部隊がいた。
「間に合わなかったか……」
白髪の老人が、風ツバメからの知らせを受けて天を仰いだ。
「将軍、まさか……」
「最悪の事態だ。夜が明け次第出発、竜学舎の者達と合流する」
硬い表情で彼の周囲の者が頷いた。竜の紋章を着けた人々は慌ただしく命令を伝えた。
夜明け前の薄闇の中で、テスとヴァイロンを乗せたビーチャは飛び立った。結局、翼竜で運べそうな竜学舎の学員は子供に命を預けることに怖じ気づき同行を拒否した。侮辱された気分でテスは翼竜を学舎の者達の頭上で旋回させ、地図が示す目的地へと飛行した。
東の空がゆっくりと暖色に変わり、金色の光が山嶺の縁を染め始めた。テスの好きな光景だが、今は鑑賞する余裕などなかった。若いプテロは数時間の休憩で体力を復活させ、力強く飛翔している。
彼女の背後で鞍にしがみつく叔父が肩を叩いて合図した。彼が指さす方を見下ろすと、地図に描かれた特徴のある渓谷が見えた。テスは竜笛で降下の合図を送った。谷付近の気流は複雑で不規則だった。とりあえず安全な着地を第一に考え、テスは渓谷に降りて行けそうな細い崖道へとビーチャを誘導した。プテロは指示通りに降り立ち、乗客を降ろした。
「ありがと、あとは自力で行くからここで待ってて」
大丈夫かと言いたげに首を伸ばしてくる翼竜に携帯の餌をやり、テスは山道用の装具を背負うと叔父について歩き始めた。下るだけの崖道は予想より困難だった。朝靄で視界が悪い上に油断するといつ足元が崩れるか分からないせいだ。二人は用心深く降りていった。
その時、谷底に向かう二人の頭上にある崖の上に人影が行き来した。だが、足元に注意を集中するテスとヴァイロンには崖上の変化に気を配る余裕はなかった。
ようやく谷底に辿り着いた時、太陽は結構高い位置まで昇っていた。
「ここに何が?」
テスの問いにヴァイロンは簡潔に答えた。
「祈祷所だ」
思わず運び屋の少女は周囲を見渡した。渓谷には切り立った崖しかなく、建造物らしきものなど影もない。大昔の遺跡のように石の舞台でもあるのだろうか。戸惑う彼女と対照的に、竜学舎の書記官は崖を調べていた。
「テス、どこかに金属の扉が隠されてないか探してくれ」
言われて運び屋の少女も不自然な箇所がないか観察して歩いた。日が尚も高くなった頃、何かが岩肌に光るのに気づいた。そこに駆け寄り、荷掛用の布で擦ると金属板が現れた。
「ここ、板がある。扉じゃないけど」
ヴァイロンは報告を聞くなり急いで板を子細に観察した。ある箇所を押すと板は蓋のように開き、中に別の金属板が隠されていた。彼はそれを斜めになぞった。
同時に渓谷が振動した。慌てて崖から離れた叔父と姪は、崖が引き戸のように開くのに目を瞠った。人ひとりが入れるほどの幅で崖は静止した。テスとヴァイロンは内側から空気が噴き出すのがやんでから松明を差し込み、火が消えないのを確認して中をうかがった。
扉の内部は大きな空間になっていた。円形にくり抜かれたそこには壁に沿って金属の棒と塊が巡らされていた。何に使うのか見当もつかない光景の中、ただ一つ見覚えのある物が隅にぽつりと置かれていた。
「オルガン?」
どうしてこんな物がと近寄ろうとした時、外の上空からプテロの鋭い鳴き声がした。ビーチャのそれは明らかな警告だった。間髪置かずに黒い物が光を遮った。
落石だと分かった瞬間に、テスは空洞内に突き飛ばされていた。轟音と土煙がそれに続き、いくつもの小石が彼女の手足に当たった。恐ろしく長く感じられた後、嘘のように渓谷は静まりかえった。咳き込みながらテスは頭を庇っていた腕をどけて周囲を見回した。
入り口は半分以上埋まり、岩石の隙間から差し込む光の筋の中で砂埃がキラキラと舞っていた。呆然としていたテスは、聞こえてきた小さなうめき声で我に返った。岩の塊の中に金髪が見える。
「叔父様!」
叫ぶようにして駆け寄ると竜学舎の書記官は下半身を岩に埋もれさせていた。子供一人で動かせるものではなく、下手に崩したりすれば彼がどうなるか分からない。
「……テス……」
弱々しく掠れた声が彼女を呼んだ。どうにか動く片手でヴァイロンは一枚の紙を渡した。
「……これを、あのオルガンで弾くんだ」
「…今?」
テスは耳を疑った。青ざめた叔父は微かに頷いた。
「……最初に、…ふいごを一度押して、この通りに正確に弾いてくれ……」
彼の目は真剣そのものだった。女帝の最後に見せた表情が重なり、テスは身震いした。
言われるままにオルガンのふいごを動かし蓋を開ける。母親に教わったおかげで弾き方は分かるが、楽譜はテスを困惑させた。
「これ、全然でたらめな曲にしかならない…」
「曲のことは考えるな、ただ譜面通り弾けばいい」
ヴァイロンが姪を励まし、テスは慎重に四段の鍵盤に手を伸ばした。曲そのものは単調で旋律は短かった。それでも一音一音を確認しながらの演奏は拙く、どうにか間違えずに最後に二段目最高音の鍵盤を押さえた時、無意識に安堵の吐息が漏れた。
しばらくは何の変化もなかった。拍子抜けしたテスが椅子から立ち上がりかけると、いきなり周囲の壁が発光した。思わず目を閉じ、何が起きたのかを確認しようと薄目を開く。
光っているのは壁に沿って取り付けられた正体不明の金属だった。光は稲妻のようにのたうち始め、突風がそれに続いた。彼女はヴァイロンの元に駆け寄り、叔父の手を握った。
閃光と風は空洞内に巨大な球体を作り上げ、巻き上げられた砂粒が容赦なく叩きつけられる。少女は掛け布で自分と叔父を庇い、ひたすら耐えた。
異変は突然終息した。そろそろと布を下げて空洞を見たテスは、さっきまで空間のみだった場所に何かがいるのに気づいた。叔父が息を呑むのが分かる。
「……月の竜よ…」
彼の言葉にテスは立ち上がり目をこらした。微かな光の中で巨大な物がうごめいている。
「…これが、月の竜?」
ザハリアス帝国に新帝が立つ時、祝福を与えるために月から降りてくるという伝説の竜。
テスは漠然と大きな翼竜のように思っていたのだが、目の前にいるものはどんな想像ともかけ離れていた。
青光りのする黒い鱗に覆われた胴体はとぐろが巻けるほどに長大で、それに比べて四本の脚は極端に短かった。ただ、滑稽な印象が全くないのは恐ろしげな五本の鉤爪のためだろう。頭部の吻は長く、鋭い牙が並んでいる。両の額からは深紅の枝分かれした角が伸び、金色の鬣が頭頂部から背中まで続いていた。洞窟の薄暗がりの中、縦長の瞳孔を持つ金色の目が炯々と光っている。
その目を見た時、奇妙な感触が少女を襲った。視界がぶれるような妙に細密になるような失調感に似た状態で、頭の中に感慨深そうな男性の声が聞こえた。
『…ここに出たのか……』
「えっ?」
テスは驚いて周囲を見回した。この場にいるのは自分と重傷を負った叔父と、目の前の竜だけだ。竜は空洞内を見回し、やがて崩れた入り口と突っ立っている人物へと顔を向けた。彼女の頭にさっきと同じ声がうんざりした口調で響いた。
『勘弁してくれ、ガキじゃねえかよ』
言葉もなく、運び屋の少女は竜と向き合っていた。
これが、テスと帝国の運命を変える月の竜との最初の出会いだった。