39 幽閉の城⑥
霧月 上旬一曜日。
ザハリアス帝国東部国境地帯。
東方辺境候オレスト配下の国境守備隊は、朝から濃霧が発生する中で警戒に当たっていた。
「これじゃ、何も見えないな」
「それは向こうも同じだろ」
帝国東部国境はかつて騎馬民族との激戦地だった。戦場に銃と大砲が導入されて以来は本格的な侵攻はなかったが、蛮族の動向は常に把握するのが彼らの任務だ。
「あいつらは部族ごとの揉め事ばかりだろ」
「百や二百なんかでここを突破できるわけないし」
笑い合う守備隊の一人が、前方を指さした。
「何だ? 妙な影があそこに」
単遠鏡を持つ者がそれぞれに霧の向こうを索敵した。
「影なんか……、おいっ!」
守備兵が叫んだ。彼らの前に霧から抜け出したものが現れた。鎌首をもたげた見上げるような大蛇。
赤い目が守備隊を睨め付け、翼竜に似た翼が小刻みに震えた。次の瞬間、守備隊は吹き飛ばされた。
「奇襲だ!」
「隊長に連絡を!」
「助けてくれ!!」
怒号と悲鳴が混乱を加速させた。応援部隊に翼ある蛇が顔を向け、大きく翼を打ち振る。守備兵が宙に舞い上がり、搬送されてきた大砲は横倒しになり火薬が飛び散った。
「待て、撃つな!」
静止の声は恐慌状態の兵士に届かなかった。乱射する銃から火花が発生し、火薬に引火する。守備隊は爆風と炎の中に消えた。
平原の向こうからも、炎と煙は見て取れた。
「ははっ、竜の奴、本当にやりやがった!」
東方の小柄な戦馬に跨がった若い男が爆笑した。雪オオカミの頭部がその肩で揺れる。
「これで他の部族も信じるだろ、族長に竜が降りてきたって」
彼の隣の男が興奮状態で言った。雪オオカミの毛皮の男は当然だと言いたげに頷いた。
「これで部族をまとめて帝国とやらに殴り込みをかましてやれる。竜の言ったとおり、伝説の部族連合の復活だ! このイグニ族のサザクが奴らを踏み潰してやる!!」
血と炎の惨状を遠くに眺めながら、男の哄笑は続いた。彼の目は金色の光を放っていた。
ふと馬上で空を見上げた少年に、並んで騎乗していた若い竜騎兵が声をかけた。
「陛下?」
鳥が数羽飛んでいるだけの空から顔を戻し、アーケイディウスは首を振った。
「何でもない」
ベニゼロス城を囲む城壁に沿って、二人は馬を歩かせいてた。そこに、別の竜騎兵が馬を走らせてきた。
「ファノ、陛下の運動はこれくらいでいいだろう」
スタファノスの三ヶ月違いの叔父、テオドシウスだった。黙っていれば教授か聖職者と言われる彼は、謹厳な印象とは裏腹な軽薄な笑顔で報告した。
「煌宮はすっかり水上離宮に中心が移ったもんで親父殿が苛々してたぞ。あのご婦人は南方の貴族と急接近して噂が広まってる。毎日珍しい贈り物持ってやってくるとか」
「…叔父上、その情報は」
「勿論、煌宮の侍女と衣装係と教育係からで」
別世界の生き物でも見るような甥の視線に、テオは不満そうだった。彼らに予想外の意見を述べたのは次期皇帝だった。
「どうせなら、水上離宮の女官から情報を得ればいいのに」
「あー、あそこは例の方が恐怖政治をしているから、とにかく警戒心が強くて」
「叔母上らしいな」
アーケイディウスは納得した。そして、気にかかっていたことを尋ねた。
「皇太子宮の火事の時、竜祀院付きの侍女が焼け死んでいたな。姉が水上離宮の侍女だと聞いた」
「そっちも探ってはみました、陛下」
テオは声を落として答えた。
「国葬以来、例の侍女は姿を見せていません。妹の埋葬のために実家に戻ったとか」
「叔母上の周囲は母方の出身地方の者で固められていたな」
餓死者が出るような飢饉の中で小麦を買い占め暴利を得た豪商がソフィアの母親の実家だ。後の暴動で祖父は暴徒に殺され、その地方の流行り歌に最期の様子が伝えられている。
「恨みを買っていたとは言え、まだ地盤での影響力は大きいようだな」
ファノが言うと、若い叔父も同意した。
「利害関係で結託した連中は、自分の利益が守られる内は共闘するからな」
「ディグニスも不思議がっていたな。没落してもおかしくない商家が叔母上の浪費を賄えるのかと」
少年は考え込み、怪訝そうに顔を上げた。
「外で馬が騒がしい」
二人の竜騎兵は視線を交わすと、すぐさま警戒態勢に入った。
「何事だ?」
スタファノスが警備兵に尋ねた。城の兵は困惑していた。
「銃兵隊です!」
テオドシウスがアーケイディウスの側につき、剣の柄に手を掛けた。
拍車の音を響かせて現れた黒い装備の銃兵が仰々しく膝を突いた。
「ご無礼を、皇太子殿下」
「タダイオス将軍の配下か」
「大隊長カリニコスと申します。このたびお騒がせしたのは重大な急報のため」
「急報だと?
疑わしげにスタファノスが言った。カリニコスは彼らを見上げ、重々しく告げた。
「月の竜への疑惑ありと東方国境守備隊から申し出がありました」
その内容は三人を絶句させた。
「銃兵隊?」
突然の来訪者は山脈を越えた竜学舎までも出向いていた。
学舎長セルギオスは前触れすらない無礼さに怒り心頭だった。その場にいたバシルはすっと公舎を離れ、竜の塔へと走った。
「先生?」
小太りの元教授が大汗をかきながらやってきたのにテスは驚いた。
「テス、銃兵隊が来た。嫌な予感がするよ」
彼の言葉に庭からの学舎長の怒鳴り声が重なった。
「本気で言っているのか? 月の竜に疑惑など、わが竜学舎への言われない侮辱だぞ!」
「学舎長殿、帝国の東方国境守備隊が何者かの攻撃を受けて壊滅状態になり、生存者が竜の襲撃を受けたと証言しているのですぞ」
学員たちは騒然となった。青ざめていたテスは、バシルに肩を叩かれて我に返った。
「竜に疑惑があれば、共犯にされるのは竜祀院だよ」
少女は頷いた。すぐさま自室に上がり、竜祀院の服を脱ぎ捨てる。チェストから着慣れた飛行服と最低限の着替えなどを詰めた運び屋の鞄を持ち、塔の窓から竜笛を馴らした。
外で魚を捕っていたビーチャが飛んできた。素早く革具を装着し、テスは翼竜に乗った。
「行くよ、ビーチャ。あのバカ竜を探し出して本当のこと聞き出さなきゃ」
翼竜は翼を広げ、塔の窓から滑空した。
学舎長が学員たちと一緒になって銃兵隊に猛抗議する中、バシルは空を見上げた。小さくなっていく翼竜に元教授はそっと手を振った。