37 幽閉の城④
白一色の大理石で作られた祈祷所は、静謐で厳かな空気に満ちていた。祈祷書を前に祈りを読み終えた月の竜の代理人が深々とお辞儀をして朝の祈りが終わる。
「今日の日課、朝の部終わり! 史書の塔に突撃!!」
勇ましく宣言するのは若い竜祀院だった。
「その前に朝食を召し上がっては…」
今や少女の行動にも慣れてきた助師のメライナが、巧みに誘導した。
「コーリやディミトラもいるなら、食堂で一緒に食べたい」
「分かりました。用意させておきます」
竜の塔最上層の自室で着替えると、テスは平装で食堂に降りていった。祈りの塔兼学舎であるここで月の竜の研究と記録収集に携わる者たちは多く、食堂は賑わっていた。
焼きたてのパンの香ばしさに、テスは幸福感を味わった。
「うん、いい匂い。今年の小麦は出来が良かったみたい」
「そうですね、紅スグリや白クリマも豊作だと聞いてます」
「ジャムも美味しいですものねえ」
テスと同年代の少女達、コーリとディミトラも同意見だった。
「地書の塔はあるけど畑はないよね。食料は荷馬車で運んでくるの?」
「ええ、毎週大きな荷馬車が列をなしてます」
「こんな山の中まで大変ですよねえ、人も馬も」
「翼竜なら早く届けられるけど、ここをまかなう量だと食料の仕入れ代と同じくらいの運賃がかかりそう」
「それは無理ですね」
少女達は笑い合った。そして、コーリ達がこっそりと尋ねた。
「皇太子殿下は、どんな方ですか?」
「わざわざ何度もお城に行かれるので、噂になってますよ」
「えー、まだ子供だし、あたしより歳下で背も低くて…」
かなり酷かった初対面を思い起こし、テスはなるべく穏便な表現に翻訳しようとした。
「煌宮で会った時はなかなか信用してもらえなくて、でもベニゼロス城では周りの目を気にしなくていいからのびのびしてるかな」
「お辛いでしょうねえ、お父様もお母様もお亡くなりになった上に、女帝陛下までもが逝去されてしまって」
ディミトラがしみじみと言った。テスは叔父の言葉を思い出し、どうにか少年の誤解を解く術はないだろうかと考えた。
――他人がどうこう言える事じゃないのかな。
こんな時、からかいながらも助言をくれた竜の声がしないのが残念だった。
「…テス?」
黙り込んでしまった彼女に、コーリが不思議そうに声をかけた。
「あ、ごめん。風ツバメはいつ来るかなって考えて」
適当な答えに、覚えのある笑い声がした。
「いやいや、風ツバメより先に来てしまったよ、テス」
振り向くと、小太りな老学者が立っていた。
「バシル先生!」
駆け寄り抱きつく少女に元教授は上機嫌で挨拶した。
「歓迎してくれて嬉しいよ。お勤めはしっかりやってるようだね」
「ま、仕事だし。ちゃんと祈ってれば学舎長にガミガミ言われないし」
相変わらずの言い草に周囲の学員はぎょっとし、身近な者たちはいつものことと笑ってやり過ごしていた。
「先生は、本を選びに?」
「それもあるが、学舎長と話があって」
帝都で学友だったという二人は正反対で、今もテスには彼らの学生生活が想像付かない。
「メライナ、学舎長は時間が空きそう?」
「調べて参ります」
助師が食堂を出て行き、コーリとディミトラが元教授を座らせてお茶を出した。バシルは上機嫌でお茶の香りを楽しみながら喉を潤した。
「おお、すまないね、突然押しかけて」
彼の隣に座り、テスは声を潜めて確かめた。
「陛下は無事なの?」
「大丈夫だよ、テス。彼にはテオとファノも付いているからね」
安堵のため息を漏らし、テスは彼の来訪の理由を考えた。
――学舎長まで巻き込む話なら相当なことだけど、陛下に危険はなさそうだし、何だろ。
史書の塔に行くテスと別れ、バシルは学舎長の住居へと向かった。
「突然押しかけてすまないな」
あまり恐縮したようには見えない旧友に、セルギオスは諦めの境地のようだった。
「また門外不出の秘書を借りに来たのか?」
「まあ、そう言う名目で来たのだがね」
バシルは口調を改めた。
「煌宮に何やら妙な者が行き来しているようなんだ」
「我々は学究の徒。政には関わらぬ」
「君ならそう言うだろうと思ったよ。ただ、私は俗人でね。優秀な教え子を得て充実している所に余計な邪魔をされたくないんだ」
「皇太子殿下のことか。生徒の選別に厳しい男が入れ込んだものだな」
「いやいや、私は誰でも公平に教えるので有名じゃないか」
「期待もしない相手なら、どこまでも公平寛大になれるというものだ」
「手厳しいねえ」
バシルは薄くなった頭頂部を掻いた。
「なら、この可能性はどうかな? 煌宮の高貴なお方は月の竜を疑っている」
「どういう意味だ?」
「単純だよ、あの竜は月から降りたのではなく、邪悪な何かが帝国に災いをもたらすために月の竜を騙って現れた、ということだ」
「馬鹿馬鹿しい」
学舎長は歯牙にも掛けなかった。
「これまで月の竜を呼び出してきた正統な方法によって降りたのだぞ。大体、あれが月の竜でないならどこから来た生き物だ」
「ううん、それも研究したいんだよねえ。興味が尽きないからね、竜というのは」
感慨深げに元教授は首を振った。沈黙が続いた後でセルギオスが言った。
「その高貴なお方は、月の竜もろとも竜学舎を潰すと思うか?」
「必要があればためらわないだろうね」
「…玉座の野望とエストレーリア様の血筋への復讐か」
旧友の呟きに、バシルは淡々と語った。
「大学を辞してから、帝国内外の各地を旅した。若気の至りの結果を正したくてね」
「何をしでかした?」
胡散臭そうな学友に、元教授は屈託なく笑った。
「昔、女帝陛下に進言したんだよ。後顧の憂いを払いたいなら、あなたの夫の残した者全てを抹殺するべきだと」
「……まさか…」
「勿論、陛下は却下され、おとなしく引き下がった結果がこれだ。全く、甘かったよ。あれを教訓にして各地に情報網を作ってきた。今は西方国境方面を中心に『血の粉屋』の財産の流れを追っている。色々と面白いことが分かってきている所だよ」
イオルゴス三世の皇后と寵姫。敗北が死に繋がる権力争いの結果、勝者は女帝となり帝国に君臨し、敗者は処刑に怯えながら幽閉された。今、煌宮はおのおのの血を引く少年と叔母のどちらに与するかで貴族達が右往左往しているという。
「彼らの不穏な動きは、テスが月の竜の声を聞けなくなったことと関連があるような気がしてね」
「竜の塔にあるどの記録にも、そのような事態はなかった。そもそも、月の竜は戴冠式に降臨し即位を祝福するのが常だ。今回のように即位前から降りてきて継承者を支持するなど前代未聞」
「一応、調べているんだね。もし寵姫の娘の敵意がここに向けば、矢面に晒されるのはテスだろうから」
「あの竜祀院は若すぎるが愚かではない」
「そうとも、とても賢い子だよ。おかげで皇太子殿下は、書物では不可能な体験で帝国の実態を感じておられる」
何をやったのだと言いたげに学舎長は元教授を見た。バシルはこぼれんばかりの笑顔で誤魔化した。




