31 竜学舎⑤
朝のうちにベニゼロス城を出発したテスは、エオス山脈で竜を探してから竜学舎のある外輪山の中へと戻った。空から見る塔は湖の中島に長い影を作っていた。陽が既に傾いているのを知り、テスは翼竜の背で溜め息をついた。
「あーあ、結局こんな時間か」
一応予告どおりに翌日帰還したことになるのだが、あのうるさそうな学舎長が見逃してくれるとは思えなかった。プテロと一緒に降りたら、また寄ってたかって説教されるのかと思うと気が重い。それでもテスは相棒に降下を命じた。
「逃げたなんて、絶対思われたくないし」
覚悟を決めて着地したのだが、意外にも学舎の庭に出てきたのはセルギオス一人だった。
「約束どおり戻ってきたからね」
やや喧嘩腰なテスの言葉にも、老人は動じなかった。
「アーケイディウス殿下が風ツバメで伝言を寄越してこられた」
あの少年が気を遣ってくれたのだろうかと一瞬驚いたものの、周囲の者がしてくれた可能性の方が高いとテスは考え直した。
「陛下に嫌味…じゃない、叱られた。竜学舎で学びもしないで逃げ出すのかって」
翼竜使いの少女の言葉を、学舎長は真剣に聞いていた。テスは話を続けた。
「竜祀院の仕事は納得できない。だから教えて。ここのこと全部」
「それは、最古の文献を探さねばなるまい」
「あんなに研究してる人がいるんだから、一人や二人くらい詳しい人がいるんでしょ?」
「…指導役を選んでおく」
快諾でなくても、彼から譲歩を引き出せたのは小さな進歩だ。テスは内心で拳を握った。
竜の塔に戻る時、彼女はベニゼロス城のことを思い出した。
「陛下のとこにバシル先生って人がいて、学舎長と同じ大学で学んだって言ってた。友達だったの?」
セルギオスの痩せた長身が、ほんの少しよろめいたように見えた。彼はすぐに平常心を取り戻し何も答えず史書の塔に入っていった。
ビーチャの装具を外してやり、身体を丁寧に拭って異常がないことを確認してテスは竜の塔に入った。目立たないように裏口から中に行くと、食堂の方から何やら賑やかな言い合いが聞こえてきた。
「だから、子供過ぎるのよ。今度の竜祀院は」
「運び屋気分が抜けなくて自覚無しよね」
「大丈夫なの? 今度の月の竜は風変わりだってみんな言ってるし」
竜の塔に勤める少女達のようだ。話題の主であるテスは、どうやってここから部屋に行くか悩むことになった。
「でも、悪い子じゃないのよ」
おっとりとした口調でディミトラが弁護してくれた。それに勢いづいたようにコーリが同僚をたしなめた。
「元々、竜を降ろす場所に案内するだけのはずが、ヴァイロン様が大けがをされて代理を務めたのよ、何も知らなくて当たり前じゃない」
「そうよ、あのヴァイロン様の姪御様だって言うから、どんな美少女かと期待してたのに!」
「あんな男の子みたいな目つきの悪いやせっぽちだなんて…」
彼女たちの落胆は妙な方向にそれていった。
――久しぶりかな、こういうの。
母親も妹もあんなに美しいのに。ちっとも母親に似ていない。
メイネスの館で初めて会う人たちの反応は、ほぼ落胆だった。あまりに同じ事を囁かれ続けて、すっかり慣れてしまったほどだ。
――ま、聞き流して早いとこ上に……。
加熱する言い合いに紛れてこっそりと上に向かおうとしたところに、別の声が加わった。
「何ですか、聞き苦しい口論などして」
彼女たちを監督する助師、メライナの声だった。ようやく静まった少女達から隠れるようにして、テスは昇降機に潜り込んだ。
部屋に戻るとすぐに窓を開け、テスは竜笛で相棒のプテロを呼んだ。二日連続で長距離飛行をしたビーチャはすぐに飛んできて、窓の側の寝場所で翼を畳んだ。
「お疲れ様。おかげでここの周囲の地形は頭に入ったから」
首や背をゆっくりと撫でてやり、テスは翼竜の筋肉をほぐした。魚肉を丸めた餌と水をやり、プテロが目を閉じて休むまで少女は側を離れなかった。
メライナが食事を運んで来た時、テスはここでの衣服に着替えていた。
「ご無事に帰還されて安心しましたわ」
「ビーチャは利口なプテロだから、一度飛んだ飛行経路は忘れないの」
年配の婦人は微笑んだ。柔らかな表情の中に、ふと懐かしげなものが混ざる。前にも見た顔だとテスは気づいた。
「何か?」
メライナがにこやかに問うと、少女は慌てて室内を見回した。そして、寝台の側に飾られた肖像画を指さした。
「あの人、竜祀院の服着てるけど女帝陛下の代の人?」
驚いたように目を瞠り、メライナは静かに頷いた。
「エストレーリア様の即位のために月から竜を呼んだお方です。女帝陛下の治世をこの竜学舎から支え、強い信頼を勝ち得ていらした」
皇帝の信頼、と思った途端に陰気な顔で嫌味を連発する少年のことが浮かんだ。
「同じこと期待されても困るけど」
「次期皇帝陛下とは同じ年頃でしょう」
「初対面で石ぶつけられたし」
さすがの助師も、それにはどう答えていいか分からない様子で辞去した。
テスは少年皇帝のことを思い出した。最初はいけ好かないガキとしか思わなかった。彼が安穏とした境遇ではなかったことが分かってくると多少同情心が湧いたものの、あの可愛げのない態度に触れるたびに怒りをこらえるのが大変だった。
煌宮から出て帝都を遠く離れたベニゼロス城で、初めて年相応の彼を見た気がする。好きな実験をして急いで作らせた飛行服を得意げに着てみせる子供のような。
――子供なんだけど。
自分より二歳下で背もテスの方が高い。そんな子供が帝国という巨大すぎる物を背負い、玉座を賭けて戦おうとしている。最悪だった初対面はともかく、アーケイディウスの即位を祝う竜を呼び出す手助けをしたのは自分だ。それに、女帝の最期に立ち会ったこともある。彼女の手の感触がテスの手にまだ残っている。
彼はあの城で本に埋もれているのだろうか。そう考えながらテスは塔の窓から薄暮の景色を眺めた。




