3 飛び込みの仕事①
ファロス歴八九一年 葡萄月 ・下旬二曜日 ザハリアス帝国北部。
皮膜の翼が気流を捉えた。翼竜が頭を下げ、高度を少しずつ落としていく。靄がかかる山林地帯の中、着場の旗が見え隠れした。降着許可を示す青色の旗だ。
「着いたよ。もう少しだからね、ビーチャ」
テスの言葉は口元を覆う襟の中でくぐもった。隣で飛ぶキリルのプテロの高度を横目で測り、自分の翼竜に竜笛で降下旋回の合図をする。
二頭のプテロは今、一つの荷物を共同で運んでいた。一頭では運べない重量の荷を届けるための手法だが、二頭の大きさや翼力、飛行速度が揃うことが前提条件だ。下手をすればバランスを崩したあげくに荷物を落下させて、賠償責任を負ってしまう。
テスとキリルは自分たちの翼竜を完璧近くまで制御し、羽ばたきさえ重なっていた。ほどなくプテロたちは乗り手と荷物と共に無事降着した。
翼竜の背から降りて風防眼鏡と飛行帽を取ると、テスは久しぶりに味わうメイネス森林地帯の空気を吸い込んだ。湿っていても清々しい匂いなのは、まっすぐに伸びた針葉樹に囲まれているせいだろうか。
着場の小屋から監視が出てきた。運び屋の最後の仕事、荷物の受け渡しが待っている。
先にキリルが荷物札を監視役に渡し、運搬袋から取りだした品々を説明した。
「あれが泥炭の袋で、こっちがランプの芯。それに…」
並べられた品物を監視役は見分した。彼は泥炭の袋の一つに目を留めると眉をひそめた。
「こいつは穴が開いてるじゃないか」
「それは袋が古かったんだよ。でもちゃんと繕って」
「いや、これなら中身がこぼれても分からないぞ。荷物が減ってるんじゃ料金は…」
キリルが言い返す前に、監視役の目の前に木札が突きつけられた。
「ちょっとこれを読んでみて」
テスが差し出した泥炭商の札に書かれた文字を彼は読んだ。そこには、袋の修繕をしたが泥炭は基準の量に違いないと送り主からの伝言があった。
「…まあ、それなら問題はないか」
ようやく規定料金を払ってもらえた運び屋たちは、上機嫌でプテロから荷物固定用の革紐を外した。
「やっぱり一筆取っといてよかったでしょ?」
テスが小声で言うと、キリルは苦笑いした。
「森の監視役って細かいんだ」
「この森はすぐに冬が来る。雪に埋もれた小屋で泥炭が足りなくなったら、森番が凍死するよ」
「アウグスの泥炭は質がいい分高いのに。ここの頭領は冬に働く森人を大事にしてんだな」
「…うん、昔からそうだった」
メイネスの森人の頭領である父タネクとは、運び屋になると宣言した日から顔を合わせていない。テスが家を出て驚いたのは、メイネスの外の人々が父を高評価し尊敬する言動にあちこちで触れることだ。
帝国北方大森林地帯は高価な木材と貴重な毛皮を持つ動物という資源に恵まれている。ここは皇帝の直轄領であり、頭領の家系は森林監督官の代行を兼ねてきた。多忙な父は家を空けることが多く、たまに帰れば家族の中で浮いている長女の欠点ばかりが目についてしまうのだろうか。
ふと、テスは最後に見た父親を思い出した。イオシフらと共に家を出る娘に向けた視線。一言も声すらかけないまま背を向ける直前の表情。翼竜を選ぶのかと言った時と同じ、いや更に強い感情がこもっていたような気がした。それが何なのかは分からないままだが。
天に向けて伸びる木々を見上げ、テスは回想に漂っていた。それを引き戻したのはキリルの声だった。
「次の便が来るぞ!」
我に返った運び屋の少女は、新たな到着者のために自分のプテロを移動させた。
「おいで、ビーチャ。よく飛んだね、こっちで休もう」
南の空に現れた影が見る間に大きくなった。別の荷を運んできた翼竜と運び屋たちだ。メイネスが冬を迎える準備に入ると、この着場付近は越冬物資の集積所になる。
やがて空を切る翼の音が聞こえてきた。荷物を載せた翼竜が滑空し、着場に舞い降りる。プテロの背に乗った運び屋に向けて、テスとキリルは手を振った。
「お疲れ」
「早いな、キリル、テス。俺たちより遅くに出たんだろ」
「二頭組で飛んだから」
「ああ、ビーチャもいいプテロになったな」
若い翼竜を褒められて、テスは誇らしげに胸を張った。
「運び屋の立派な相棒だもん」
キリルは運び屋仲間が翼竜から降ろした荷物に興味津々だった。細長い箱がいくつも重ねられているのを指さす。
「それ、何なんだ?」
「猟銃。新型だってさ。かなり値が張る奴だから慎重に運べって」
丁寧に緩衝材を嚙ませた荷物に少年は首をかしげていた。
「新型って、何が違うんだよ……」
「銃身の内側に溝があるんだって、猟師達が噂してた。」
聞いていたテスが答えた。以前顔なじみの猟師に聞いたことがあるのだ。
「銃身に? 溝なんか彫ったら壊れねえか?」
「どう作ってるのかは分からないけど、命中率が全然違うんだって」
「そっか、だったら高くても買うよな」
キリルが納得顔になった時、翼竜が不意に森の奥の方に首を伸ばした。同じ方向に顔を向けたテスは、覚えのある音がするのに気づいた。
「あれは…」
音源は確かに近づいている。やがて針葉樹の隙間から漆黒の大きな影が現れた。大型の荷役馬だった。胸がいの鈴が一歩ごとに賑やかに鳴り、太く飾り毛のある脚が地面を踏みしめるたびに振動が響く。黒馬は大型の橇を引いていた。御者台に金色の輝きがあるのを見つけ、テスは手を振った。
「アナ!」
馬が止まると同時に金髪の少女が橇から飛び降り、駆けてきた。
「テス!」
半年ぶりに会う姉妹は抱きあって再会を喜んだ。テスが母親代わりだったアナは、三年前に姉が家を出て行く時に大泣きしたものだ。今はすっかり小さな森の娘らしくなっている。実母に生き写しの妹に、テスは眩しげに言った。
「また背が伸びた? みんな元気?」
「変わりないよ。今日は何運んできたの?」
「番小屋用の泥炭」
「あの袋? 凄く重そうなのに」
「キリルのハーリと二頭組で飛んだの」
アナは姉の側で固まっている運び屋の少年に笑いかけた。
「久しぶり、キリル」
「ああ…」
さっさと彼の側を通り過ぎて、金髪の少女は翼竜に近寄った。
「これがビーチャ? もう大人のプテロと見分けつかない」
「もう少しで四歳だから、成長は終わりかも。あとは荷運びで筋肉付けていくって親方が」
相棒の首を撫でてやりながら、テスは言った。イオシフ竜舎に押しかけるようにして働き出して三年。竜舎の掃除や翼竜の世話から始めてようやく運び屋の一員になれた。自分の竜舎を持つという夢を、テスはビーチャと一緒に必ず叶えるつもりだ。
アナが振り向き、期待に満ちた声を出した。
「ね、頼んだ物、持ってきてくれた?」
「勿論」
テスは革の上着の内側に収めていた袋を取り出した。受け取ったアナは中身を見て歓声を上げた。
「綺麗! やっぱり街のお店はいいのがあるのね」
それは繊細なレースと刺繍を施した布だった。
「カシア母さんはどんな具合?」
「順調だって。みんな楽しみにしてるよ。春は賑やかになりそうだって」
姉妹の継母は三年目で初めての子供を授かり、春の出産を待つばかりになっている。新たな兄弟の産着に使う装飾品をテスは頼まれていたのだ。
「女の子ならこのレースを使って、男の子なら月の竜の刺繍を使うの」
皇帝の戴冠を祝福するために月から降りてくると言われる伝説の竜は、幸運と繁栄を象徴する装飾として定番だ。
それから互いの近況を姉妹は報告し合った。