2 転機②
館の裏手、厩舎から離れた崖に近い場所に例の声の発生源はあった。そこには意外な生き物たちが繋がれていた。
人が乗れる大きさだが馬や山羊ではない。尖った嘴と大きな丸い目、そして何より特徴的な皮膜の翼を持つ者。
「…翼竜」
運び屋イオシフ親方の翼竜だとテスは見当を付けた。翼をたたみ崖に並ぶ彼らは何かに動揺しているのか、落ち着きを欠いていた。
その中の一番小さな一頭が、やみくもにもがくのが見えた。首に絡んだ革紐が呼吸を妨げ、苦しさに暴れるほど締め付ける悪循環に陥っている。少女は素早く行動した。
厩舎の柱に刺してあった小ぶりのナイフを抜き取ると、用心深く翼竜の群れに近づく。
「大丈夫、おとなしくして。すぐ助けてあげるから」
小声で囁きかけ、小柄な翼竜を捕まえると首と革紐の隙間にどうにかナイフを差し込んだ。そして皮膚を傷つけないよう用心しながら、手早く革紐を切り取ることに成功した。
けほけほと咳込んだあと、まだ幼い翼竜は少女を見上げ、感謝するように鳴いた。同族たちも安堵の声を上げ、彼らの合唱にテスは微笑んだ。
「よかった」
嘴で足をつつき甘える翼竜を撫でてやり、散々な出来事を忘れていられたのもつかの間だった。突然背後から突き飛ばされ、テスはつんのめって地面に転がった。
「何やってんだ、うちのプテロだぞ!」
振り向くと同年代の少年が彼女を睨み付けていた。テスは憤然と立ち上がった。
「あんたのなら、ちゃんと気をつけたら? 死なせるとこだったでしょ!」
少年の胸ぐらを掴んで怒鳴り返すと、彼は負けじとテスの手首を掴んだ。
「デタラメ言うな!」
「嘘なんか言ってない!」
あわや殴り合いに発展しかねない二人を、緊張感のない声が制止した。
「どうした、キリル。うちの連中に何かあったか?」
「父さん、こいつがビーチャを勝手に放したんだ!」
「そうしなきゃ縊れ死んでたから!」
言い返すと同時に厳しい声が少女を凍り付かせた。
「テッサリア!!」
運び屋の親方の背後から姿を現したメイネスの頭領が、娘に歩み寄るなり容赦なく頬を殴りつけた。
「お前は、まだ騒ぎを起こし足りないのか? どうして普通に出来ない!」
避ける間もなく殴られ、テスはよろめいた。少女を支えてやり、イオシフ親方が頭領を宥めた。
「まあまあ、事情を聞きましょうや」
彼は子供二人と翼竜を交互に見て、紐を外されたプテロに声をかけた。
「ビーチャ、ちょっと見せてみな」
その首にランプをかざし、革紐の跡を見ると親方の表情が変わった。
「キリル、これ見ろ」
少年は怪訝そうに従ったが、首の締め跡に気付くなり愕然とした顔になった。父親は息子を戒めた。
「若い奴はうろつかねえように短めに繋げって教えたろうが。この嬢ちゃんが間に合わなかったらどうなってたことやら」
ばつが悪そうな顔で、キリルはテスに向き合った。
「その……ごめん、勘違いして。ビーチャを助けてくれたんだ」
「そうよ、苦しいって鳴いてたから」
すり寄ってくる小柄な翼竜をテスは再度撫でてやった。彼女のドレスは泥だらけな上に片方の袖が破れてしまっている。ひどい有様を見て親方が息子の頭をはたいた。
「まだ謝ることがあるだろうが。女の子の一張羅を台無しにしといて」
「ほんと、ごめん、ついカッとなって……」
「いいの、どうせ似合わないんだし」
焦るキリルの謝罪をテスはあっさりと受け流した。まだ疑わしげな頭領に、イオシフは朗らかに説明した。
「嬢ちゃんはうちの奴を助けてくれただけだ、怒らないでやってくれ」
そしてすっかり少女になついている翼竜を予備の革紐で繋ぎ、群に戻した。興味深そうに眺めるテスに話しかける。
「プテロが怖くないんだな」
少女は頷いた。
「最初はびっくりしたけど、よく慣れてておとなしいから。プテロってみんなそうなの?」
「馴致と訓練のおかげさ。野生種は危険だ、特に大型は」
「これは大きい方?」
「プテロは小型の部類だな。南部のテラノはもっと大きいし、南方大陸には最大級の奴がいる。獰猛で運び屋には向かねえのが惜しいとこだが」
成長したプテロたちをテスは見上げた。小型と言っても、子供なら二、三人は余裕で乗せて飛べそうだ。
「この子たちに乗って飛ぶんだ…」
呟く言葉には憧憬が込められていた。イオシフは改めてメイネスの頭領の長女を見た。
「案外翼竜使い向きかもな、嬢ちゃんは」
「運び屋って女でもなれるの?」
思いがけない言葉にテスは驚いた。親方は可笑しそうに頷いた。
「こいつに乗るのは小さくて軽い方がいいんだ。カリカのように竜舎を持ってる姐さんだっているぞ」
「竜舎……」
たくさんの翼竜と共に帝国中を飛び回る。彼らの翼が許す限りに。
頭に浮かんだ光景はテスを駆り立てた。何をやっても怒られるのではなく、自分が必要とされる世界があるかもしれない。その希望に押されるままに声が出た。
「親方!」
真剣そのものの顔でテスはイオシフに詰め寄った。
「運び屋になるにはどうすればいいの?」
「…ま、どこかの竜舎に見習いで入って翼竜の世話から初めて乗り方を覚えるのが一般的だが……」
ちらりとタネクを見て、北の竜舎の主は声を潜めた。
「まさか本気で運び屋になる気じゃ…」
「勿論! お世話になります!」
翼竜使いの運び屋は顔を引きつらせた。その息子は言葉も挟めずに口を開けたままだ。
苛々しながら彼らのやり取りを履いていたタネクが、たまりかねて娘の腕を掴んだ。
「馬鹿なことを言ってないで、ましな服に着替えてお客様に挨拶をするんだ」
テスは父の手をふりほどき、プテロたちの方に後ずさった。
「戻らない。戻ったって父さんに殴られて兄さんに馬鹿にされるだけだし」
「テッサリア!」
「この子の方が父さんよりあたしを必要としてた!」
小さなビーチャを抱きしめるようにしてテスは叫んだ。しばらくの沈黙のあと、タネクは吐き捨てるように言った。
「家族よりそいつを選ぶんだな」
背を向け、メイネスの頭領は振り向きもせずに館に戻っていった。イオシフは頭を振った。
「やれやれ、とんだことになっちまったな」
ようやく声が出せるようになったキリルがテスに念を押した。
「本当にうちに来るって?」
「今すぐにでも。あ、まともに動ける服に着替えないと。それにカシア母さんには謝らなきゃ」
「……オヤジ」
息子につつかれて、翼竜使いの運び屋は何とか頭を切り換えたようだった。
「ま、意外と上手くいくかもしんねえだろ」
「適当なこと言うなよ」
父親の楽観論に息子は冷たい視線を浴びせた。
館に戻ろうとしたテスは、地面に光る物を見つけた。ビーチャを救った時に使ったナイフだった。拾い上げたそれを手にして、彼女はキリルに尋ねた。
「運び屋は髪が長いと邪魔?」
「うーん、飛ぶ時は帽子かぶるし、女の人もみんな短くしてる」
「わかった」
答えると同時に灰色の髪を鷲掴みにし、テスはナイフで一息に切り落とした。キリルが目を剥くのに構わず頭を振る。
「……軽い」
これまでの色々なことが髪と一緒に切り捨てられた気がした。
「こりゃ本気だな」
呟くイオシフに頷き、テスは宣言した。
「あたしは翼竜使いの運び屋になる。プテロと一緒にどこまでも飛んで、もう誰にもあたしを殴らせない」
灰色の束を投げ捨て、少女は別れを告げるために生家へと歩いた。
銀月と小月が揃ってメイネスを照らし、尚も続く祝宴を見守っていた。