19 煌宮⑦
心配そうな一同を見回し、新帝アーケイディウスは皮肉な口調で言った。
「どうせ、宮廷の噂好きどもはあれを叔母上を標的にした暗殺未遂と思っているのだろう」
老将軍は頷きながらも慎重論を唱えた。
「不本意ながら、そのような憶測が流れているのは事実です。しかし、こちらがいくら新事実を出したとしても、今度は捏造を疑われかねません。煌宮警備隊が調査に当たっており、中には私と懇意の者もおりますので上流まで範囲を広げることを提案しておきます」
アーケイディウスは緩慢な仕草で首肯した。大きな眼鏡の奥の瞳は暗く沈んだままだった。その左小指が震えるのを見たテスは、立ち上がろうとする彼に手を差し伸べた。
「休んだ方が……」
しかし、その手は意外なほどの強さではねのけられた。少年皇帝は憎しみに近い声で吐き捨てた。
「お前に何が分かる、いつでも逃げられるくせに」
彼が侍従に連れられて寝室に戻るのを、テスは呆然と見送った。
「気にせぬことだ、竜祀院殿」
彼女の肩に手を置き、ディグニスが慰めた。そして困惑する若い竜騎兵に言い渡した。
「部屋まで送って差し上げろ、テオ、ファノ」
二人を引き連れるようにして煌宮の長い廊下を歩くと、すれ違う貴婦人たちからの熱い視線にテスは気づいた。二人共に長身の好青年であるし、陸軍の花と呼ばれる騎兵の制服は人目を引く。明らかな秋波に対する叔父と甥の反応は対照的だった。テオドシウスは愛嬌のある笑顔で彼女らに会釈し、スタファノスは周囲を木石同然に無視を通した。
テス自身は小姓の姿のせいか素通りですんでいたため、その落差を興味深く観察できた。
居室の前に来ると、出迎えたモナが竜騎兵達に唖然とした。テスは彼らに礼を言った。
「ありがとう、……えっと、テオとファノ、でいい?」
竜騎兵達は苦笑めいた顔をした。
「親父殿はいつまでたっても子供扱いなんだ」
テオがぼやくと、運び屋の少女は首を振った。
「呼びやすくて助かる。あたしもテスでいいから。竜祀院なんて呼ばれると落ち着かない」
彼らは頷き、ディグニスの元に戻っていった。部屋に入るなり、興奮状態のモナが質問攻めにした。
「あの方たち、将軍の身内の竜騎兵様ですよね? いつ親しくなられたんですか?」
「さっき。随分人気がある人みたいだけど」
「当然ですよ、将軍の副官で美形で、前にこの腕輪を落とした時も拾ってくださって。一言でもお話しできたら宮殿じゅうに羨ましがられると姉も言ってて…」
「…そうなんだ」
見た目と中身が逆のような二人に関する話を、その後テスはたっぷりと聞かされる羽目になった。
フィランテア宮殿西北。水上離宮では、広い寝室に据えられた豪華な天蓋付き寝台で一人の貴婦人が横になっていた。離宮の女主人、ソフィアである。
寝室に控えている侍女たちから宮廷の様子を聞き、彼女は至極ご満悦だった。
「誰もがソフィア様に同情しておりますわ」
「あんな恐ろしい目に遇われたのですもの」
「それに、タダイオス隊長の勇敢さもあちこちで称えられてました」
「…でも、一体誰が……」
犯人追及に関しては、彼女たちはさすがに声を潜めた。その様子からして、甥は苦しい立場に置かれているのだと容易に察せられた。ソフィアは朱唇に笑みを浮かべると侍女に茶器を片付けるよう言い渡した。そして、退出する彼女たちの中の一人を呼び止めた。
「リナ、ここへ」
侍女はおどおどと寝台に近寄った。彼女の女主人は言いつけた。
「おまえの妹に指令したわ。分かっているわね?」
恐ろしいほど美しい微笑みに、リナは震えながら頭を下げた。
夜が更け、女帝の喪の儀も最後の日が近づいてくる。煌宮内を行き来するのは使用人ばかりになった頃、南東翼で声を潜める一組がいた。
「ねえ、本当にやるの?」
「今頃何言ってる。命令に逆らう気か」
若い女は慌てて首を振った。
「でも、こんな事までしなくても、脅かすだけでも充分でしょ。上手くいかなかったって言えばきっと許してもらえ……」
彼女は最後まで言うことが出来なかった。男は相手の肋骨の隙間に深々とナイフを突き立て、縋り付くようにして床に崩れる女を引きずった。その腕輪が小さな音を立てる中、男は彼女を適当な小部屋に放り込んだ。そして窓を開け、外に合図した。小さな赤い点が次々とともり、男は満足げに頷いた。
その夜、テスは深夜になっても寝付けないまま寝返りをうった。
眠れる時は短時間で休息を取るのは運び屋にとって基本なのだが、どうにも気分が休まらない。理由は見当がついていた。
――いつでも逃げられる……かあ。
カリカに同じ事を言われて当たり前のようにそうすると答えたことが、小さな棘のように胸の奥をざわつかせた。考えもしなかった事実が頭に浮かぶ。
――あの子は逃げられないんだ。
どれほど危険でも、心細くても、皇帝は自分の帝国を見捨てられない。彼に用意された人生には玉座しかないからだ。
――あたしより年下で、あたしより小さい子なのに。
皮肉で攻撃的な言動は不安の裏返しなのかも知れないと、テスはぼんやりと考えた。
ようやくうとうとした時に、頭の中で竜の声がした。
『起きろ! お嬢!!』
思わず跳ね起き、テスは暗い室内で竜に文句を言った。
――まだ朝じゃないのに…。
だが、それも空気に危険な違和感を覚えるまでだった。
「……焦げ臭い。まさか」
寝台から飛び降りると同時に服を引っ掴み、着込むのもそこそこに外に出た。廊下の窓ガラスの向こうに赤い物がちらちらしている。
――火事!?
テスは駆け出した。
庭園に出たテスは火の方角を探した。炎に照らされた建物は見覚えがあった。
「まさか、皇太子宮?」
常に首に掛けている竜笛をテスは思いきり吹いた。厩舎から翼の音がした。少女は相棒を呼んだ。
「ビーチャ!」
庭園に降りた翼竜にまたがり、テスは上昇を命じた。
「煙に巻き込まれないようにね。火があるところは気流が乱れてるから」
プテロに乗って火災現場を上空から見ると、皇太子宮はかなり火の手が回っているのが分かった。庭園の噴水から引いた水で消火しようとポンプが持ち出されているが、操作に手間取っているようだ。
「逃げ遅れた人は……」
立ちのぼる熱気に顔をしかめながら目を凝らしていると、突然煙を通した光景が鮮明に広がった。
『良く探すんだ、お嬢』
セレニウスの声に、テスは思わず問いかけた。
――これ、あんたが見せてるの?
『動く者はあるか?』
煙で痛む目を必死に凝らすと、バルコニーに白っぽい物があるのが分かった。
――何か…、誰かいる!
テスは翼竜を降下させた。
「ビーチャ、あのバルコニーに近づいて」
熱気が生む上昇気流にプテロは手こずっていたが、どうにか接近することが出来た。
「起きて! 手をこっちに!!」
大声で呼びかけると、こちらを向いてくれた。テスは息を呑んだ。
「陛下!」
咳込みながらバルコニーにうずくまっていたのはアーケイディウスその人だった。
「こっち! 早く!!」
ビーチャは懸命に羽ばたいているが、炎と煙の中では長く持たない。必死で身を乗り出し、テスは少年へと手を伸ばした。よろめきながら、細い手がそれを掴む。
「ビーチャ! 上へ!!」
プテロは全力で上昇した。体が傾くのを必死に堪え、テスは少年を掴んだまま建物から離れようとした。あと少しという時、崩れた天井から炎が吹き出した。少女は目を閉じた。
子供達を襲ったのは意外なものだった。テスは頬に冷たい物が落ちるのを感じた。
「……雨?」
突然の豪雨が煌宮を包んだ。雷を伴う土砂降りは炎の勢いを弱めていく。
「ビーチャ、もう少し頑張って!」
相棒を励まし、どうにかテスは炎から離れた庭園に着地することができた。プテロはよろめき、少女は少年と一緒に芝生に転がった。
「大丈夫? 火傷は?」
咳込むアーケイディウスに、テスは思わず顔を覗き込んだ。煤で黒くなった少年は、徐々に冷静さを取り戻していった。上空で雷鳴が轟いた。分厚い雨雲の向こうで黒い鱗が光るのにテスは気付いた。
「セレニウス……」
竜が雷雲を呼び寄せたのだ。やがて、煌宮の警備兵や竜騎兵が彼らを発見し駆けつけた。