1 転機①
ファロス歴八八八年 収穫月・下旬一曜日
陽気な音楽と笑い声が、外にまで漏れ聞こえた。
ザハリアス帝国北方を占めるメイネス大森林地帯。そこで林業・狩猟を生業とする森人の頭領タネクの館は婚礼の来客で溢れていた。実用本位の大きな建物がこの日ばかりは色とりどりの花で飾られ、見違えるような華やかさに包まれている。
誰もが頭領の再婚を喜び祝い、彼が新たな家庭を築きメイネスをより豊かにすることを願っていた。ただ一人、外階段に座り込んでふてくされている少女を除いて。
今年で十二歳になるテッサリア――愛称テスは不機嫌の絶頂にあり、祝宴の賑わいも素通りするばかりだった。せっかくのドレスはあちこち破れ汚してしまったし、ぶたれた頬はずきずきするし、いいことなど何一つない。
もつれた灰色の髪が俯いた顔に落ちかかってくる。テスは鬱陶しそうにに跳ねのけると深々と溜め息をついた。
「何でこうなるかな……」
少女らしからぬぼやきが続く。顔を上げれば、降るような星々の中で銀月と小月が輝いていた。二つの月が同時に満月となる吉日を選んで、彼女の父の婚礼は行われたのだ。
「お祝いするつもりだったのに…」
口をついて出た言葉は苦かった。同じ年頃の悪童どもにドレスが似合わないとからかわれ、自覚があったせいで取っ組み合いの大喧嘩に発展してしまい、あげくにこの有様だ。
父親には祝宴を台無しにする気かと叩かれ追い出され、兄テリクには僻むのもいい加減にしろと罵られた。何より腹が立つのは、テス自身は父の再婚を祝福する気持ちは十分あったのに、信じてもらえないことだ。
母マグデイレが病で他界してから五年になる。この館とメイネスの森人たちには新しい女主人が必要だ。テスは必死で幼い妹アナの世話をし、出来る限り家の切り盛りを手伝ったつもりだ。
しかし周囲の評価は低かった。特に父親などは、少しでも失敗しようものなら何もするなと叱りつけるのが常だった。
婚礼の準備も自分なりに働こうとしたのに何をやっても邪魔だと追い払われ続け、本番当日はお祝いを両親に言う前に叩き出されてしまうていたらくだった。
継母となるカシアはふくよかでおおらか、周囲の空気を明るくする女性だ。森人の頭領の伴侶にふさわしいだろう。
「仲良くするつもりだったんだけど」
一歩目からつまづいてしまったことに頭が痛くなりそうだ。テスは膝を抱えた。
その動きにスカートがさらさらと音を立てた。明るい小花模様の布地を少女はつまみあげた。亡き母の形見を仕立て直した美しいドレスなのだが、彼女には絶望的に似合っていない。母親が着た時は見とれるほどだったのに。
むっと顔をしかめて外階段に続くドアのガラスを見る。ぼんやり映るのはどんなに押さえても広がってしまう灰色のもつれ毛と、普通にしていても睨んでるようだと言われる灰色の大きな目。同じく大きな口元は少し歪んでいる。
世の中の綺麗な物は自分に似合わないように出来ているのだ。十二年の人生で悟ってしまったテスは捨て鉢に呟いた。
「ま、いっか。アナが大きくなってから着ればいいんだし」
誰もが母親に生き写しと口を揃えるほど、妹は愛らしい。やがてマグデイレがそうだったようにメイネス一の美人と謳われるようになるだろう。
そう思うと、急にドレスの状態が気になった。少女は立ち上がると破れた袖や脇のほつれを確認し、繕えるだろうかと考えた。何とかなりそうだと分かると急に空腹感が襲ってきた。
「あとで台所で残り物を…」
これほど大勢の客をもてなすため、館の厨房には祝宴用の大量の食材を仕入れてある。
「お客さんが行き来してるどさくさに紛れ込むか、みんなが寝静まった後にこっそり行くか……」
どうやって忍び込むかを計画するうち、テスは異変に気付いた。彼女の周辺で妙な声がする。
「? どこ?」
館の裏手からのようだった。伐採した木材を曳く重種馬とも、来客が乗ってきた軽種馬や大山羊とも違う声だ。何か逼迫した苦しげなものを感じ、テスは裏手へと急いだ。
館の中では賑わいが続いていた。タネクは木樵や猟師だけでなく、毛皮業者や材木運搬に携わる者など森林に密着した人々を広く招待した。そのため宴は豪勢であっても堅苦しさとは無縁で、来客は婚礼を祝うと共に旧交を温めることもできた。
大広間の壁にはひとりの女性の肖像画が飾られていた。ザハリアス帝国女帝エストレーリア二世。威厳と気品に満ちた表情も、今夜は宴を祝福しているようだ。
新妻と一緒に客人たちに挨拶していた頭領は、一人の小柄な男性に目を止めた。
「イオシフ親方。よく来てくれた」
「あんたの祝いの席だ。どっからだって飛んでくるさ」
ゴブレットを手に笑うのは翼竜使いの運び屋、帝国北部を主に飛行範囲とする竜舎の主だった。彼は隣に立つ少年の頭を手荒にかき回すと紹介した。
「今日はうちの坊主もお邪魔してるよ。ほら、キリル、挨拶しろ」
「おめでとうございます、タネク頭領」
ややぶっきらぼうな口調で少年は祝いの言葉を述べた。タネクは目を細めた。
「跡継ぎの修行中かな」
「なに、まだまだ殻付きで。あんたとこみたいに仕事を任せられるのは何年先になるやら」
頭領夫妻の背後に控える長身の青年は、運び屋の親方に笑いかけられて嬉しそうに会釈した。その側には金髪の幼い女の子がいた。
「やあ、下の嬢ちゃんだね。大層な別嬪さんだ」
彼女がタネクの前妻に生き写しなことは、親方は口にしなかった。代わりに周囲を見渡して不思議そうに尋ねる。
「そういや、上の嬢ちゃんは? さっぱり見かけないが」
途端に頭領は渋面になった。
「あの子は騒ぎを起こしたんで反省させてる。まったく、誰に似たのか頑固でひねくれ者で手を焼かせてばかりで……」
「子供なんて、親の手を焼かせるために生まれてくるもんだよ」
ニヤニヤしながら親方は息子に顔を向けたが、キリルは窓の外に気を取られていた。
「どうした?」
「プテロが騒いでる。喧嘩でもなさそうだけど……、俺、見てくる」
少年は足早に祝宴の広間から出て行った。父親はしばらく考えた末に頭領に詫びながら息子の後を追った。タネクが気遣わしげにそれを見送る。
彼らを横目に、披露宴の主役であるカシアが義理の子供達に尋ねた。
「テリク、アナスタ、テッサリアはどこにいるの?」
「さっきまで、すぐそこでむくれてたけど」
テリクが首を巡らしても、妹の灰色の頭は見あたらなかった。小さな当惑はやがて宴の熱気に掻き消されていった。