くらげはもうじき世界に溶ける ひとはそのうち世界に混じる
半液不可視化症――十代前半から後半の男女に多く発症する。発症原因は未だ特定されておらず、成長期により生じた変化が、何らかの影響を与えているのではないかと考えられている。
発症すると指先や足先など体の末端から、徐々に体がゼリーのように透明化する。進行速度は個人差が大きく、また緩急も激しい。最終的に液状化して死亡する。
治療法は未だ見つかっていない。
* * *
「くらげは死んだらどうなると思う?」と、腕を光に透かしながら問うてくるから
「うみがめにでも食べられる」と、答えた。
すると意地悪を気取ったような顔をして
――水に溶けて、消える。
と、指先で光を歪ませながら言う。
* * *
七月二十二日
蝉がうるさく鳴いている。中庭から、グラウンドから、とめどなくなく流れてくる音の洪水。あまりにもその量が多いから、音一つ一つを認識することはできない。塊となってこの空間に存在している。
「暑いね」
「うん、暑い」
クーラーのきいた教室から出ると、もわっとした空気に包まれた。廊下の窓が開いているせいで、さっきよりも蝉の鳴き声が鋭い。
「暑いと言いながら長袖のセーラー服」
袖をぴんぴん、と引っ張る。
「お母さんがうるさいの。それに、そっちだって」
お返しとばかりにぴんぴん、と引っ張られた。
「色白は七難隠すから」
「七難どころじゃ無いでしょうに」
「それはそっちも同じでしょ」
「酷いことを言う」
「どっちが」
ぽぉんぽぉんと皮肉の応酬。終業式が終って放課後になったのに、吹き抜けた開放感のある校舎は人の波が引かない。生徒の声が広がって、漂って、いつの間にか消えて行く。皮肉の投げ合いはその中に混ざっては、すぐに何処かへ流された。
「夏休みどうしようか」
ほんのり薄暗かった校舎から出ると、光の束が目に突き刺さる。目の奥がびりりと震えた気がした。
「そうねぇ」
眩しかったのだろう。赤子が泣き出す瞬間のように顔を歪め、返答にもさっきの軽やかさがない。そこから二人でとろとろ歩いて、校門を過ぎたあたりで、軽い球を投げ上げるようにさくりと口を開いた。
――お祭り。
投げ上げるような響きなのに、眩しくて前を向けないからその声は、暑いアスファルトに吸い込まれた。
――うん。行こう。
そこからまた、とろとろと歩く。側溝は蓋を踏みつけられては、抗議するかのように重い音を鳴らした。互いに口を利かずに歩くから、この人はバターみたいに溶けたんじゃなかろうか、と暑さで茹った頭で考えていると
「浴衣」
下から覗くように、見上げるように、視線がすいっと泳いできた。
「着て来てね。私も着て行くから」
何だかゼリーのような、つついたらふるんと震えてしまいそうな眼球に、ひたと見つめられる。体の奥が、揺すられたように冷たくなった。太腿と、うなじを伝う汗も冷たい。
「……うん」
学校から離れるにしたがって、蝉の声は少しずつ薄まっていく。コンクリートで固められた道には、彼らが止まる木はない。だから、ちょっとでも枝ぶりのいい木が生えている家の庭からは、音の塊が飛び出してくる。
空には、入道雲が風に輪郭を崩されながらやる気なさそうに浮かんでいた。
七月二十八日
「長期休みは嬉しいけど、宿題の量、割に合わないと思うの」
ダイニングテーブルに頬をぺたりと付けて、ほうぅと長く息を吐きながら言う。シャーペンを持ったままの腕が、だらりと垂れた。こぉうこぉうとクーラーの効いたリビングに、生け垣の辺りから蝉の鳴き声と、何処かの家の風鈴の音がりぃんりんと忍び込んでくる。
「でもやらなきゃ」
「学生の本分、でしょ」
そう言いながらも、一向に体勢を変える気配がない。睫毛の間から見え隠れする目はすぅと細められ、どこか遠くを見ていた。むき出しの腕が、明かりを反射して細かく光っている。人目のない室内のため、今日は二人とも半袖だった。
「ねえ」
語りかけながらも、彼女はやはり遠くを見たままで
「宿題やる意味、あるの?」
けれどこの言葉だけ、いつかのように、覗くような、見上げるような視線を絡ませて問うてくる。
「……意味はなくてもやる気はある」
その目に寒気を感じたのは内緒だ。
「そう」
――ご立派ねぇ
言って、唇の端をちょいと持ち上げた。それのついでに、引っ付いた頬を引き剥がし、垂れた腕を引き揚げる。そうしてまた、かりかりと削るような音で宿題を片づけ始めた。あの目はもう、下を向いている。
かりかり かりかり
りぃん りぃん りん
こぉう こぉう こぉう
じーい じーい じぃい
音が混ざって、溶けて、空気に馴染んだ頃、何となしに顔を上げてみれば、こっちの手元を眺めているのを見つけた。
「何?」
すると視線がゆるゆる泳いできて、ちょっと歪んだ唇で、
「ペンが、踊ってるみたいだな、と思って」
と言う。
あぁ、確かに。
「自分でもそう思う」
ペンを持ってくるくると、空間をかき回してみた。
カーテンの隙間から入ってくる光が、透明から赤に変わった頃、テーブルの上に広がっているのは宿題ではなく西瓜だった。二人して箸を使い、ちまちまと種を掘り出していく。種が皿に落ちる度、かりん、と涼しい音が鳴った。彼女の腕を薄桃色の汁が、ビニールの上を滑るように伝っていく。私の腕に伝う汁は、透明な明かりを赤に変えてテーブルにその色を映した。
「ねぇ」
「何?」
口の中でしゃくりと果肉が潰れた。甘い汁が広がる。
「死んだら……」
そこで彼女は言葉を切って、頭をゆらぁりと傾けた。それに合わせて、薄桃色の雫がうまいこと腕に螺旋を描く。
「棺桶に何を入れてほしい?」
「……何も」
「そう」
――私も、よ。
また、どこか遠くを見るように睫毛をそっと伏せた。
八月七日
火薬の、何だかむずがゆいようなにおいがすると、ぱしゅっという軽い音と共に火の粉が散った。それは地面の凹凸に嵌って、ほんの数秒光を放っては消えていく。
「私ね、昔」
ビニールのようにつやめく腕に、火の粉の緑を浮かべながら呟いた。
「花火の火の粉を集めて、瓶に入れたら素敵だろうと思っていたの」
今朝、いきなり電話が来て、花火をやろうと誘われた。蝉もまだ目覚めていない、草に露の乗っている、静かな朝だった。
「小さな頃って、そんな突拍子もないこと考えなかった?」
緑の火の粉が段々と小さくなり、最後に一片、暗闇に落ちて消えてしまった。彼女はそれをバケツに放り込み、二本目の花火に火をつけた。今度は紫の光が飛び散る。私の火の粉は、まだ消えない。
「……花火の蝋燭が溶けて、草陰で光ってた。透明で、丸くって、何だか奇麗だったから触ろうとしたの。そしたら熱くて指先火傷した、ってことならある」
そう言うと、彼女はくすくすと笑った。笑う度に紫の光が揺れる。
腕の向こう側に、歪んだ紫が透けた。
八月十五日
からんころん からんころん
通り全体に、下駄の音が生き物のように広がっている。日が沈み、西の方に僅かな赤を残すだけとなっても、暑さは地表にしがみつき離れようとしない。そんな中に祭り特有の、わくわくした活気のようなものが溶け込んでいた。目の前を子供たちが、金魚帯を揺らしながら人混みを泳いでいく。
「何見てたの?」
いつの間にか横に立っていて、問うてくる。
「許容範囲内の遅刻」
「ごめんね」
胸元で手が合わせられる。そこから伸びる腕が、提灯の明かりを反射してビニールのように光った。
「帯、どれにしようか迷っちゃって」
深い藍色に大輪の朝顔が咲く浴衣には、染み込んでくるほど鮮やかな、黄色の帯が締められていた。
「そっちは、随分とモダンな柄ね」
頭をゆらりとさせながら、生地をすっと撫でられる。
「あぁ」
柄に目を落とす。白地に南国の蝶が、極彩色の羽を広げているのは確かに古典柄とは言えない。
「手袋と」
黒い、レースの手袋を嵌めた両手を広げる。
「この靴に」
足元の、華奢なデザインの靴を指さす。
「合わせたかったから」
「大変ハイカラなご様子で」
からかうように目が細められた。
「手袋と靴のために、わざわざ夏着物引っ張り出してくるだなんて、洒落者」
蝶の輪郭をなぞっていた手がするすると伸びて、半襟を撫でた。目の下で、皮膚に反射した光が泳ぐ。時折指先が首筋にあたるものだから、その度にびくりとさせられる。しばらくそのままにさせていると、
「行こっか」
そう言うと彼女は手を引っ込め、人混みの方へ身体を向けた。
「うん」
特に目的があるでもなく、流れに沿って動いて行く。べったりと重い風が、提灯の明かりをくゆらせる。通りの空気が熱気に揺らいで、行き交う人もいつもと違う雰囲気。鮮やかな色に包まれているからまるで、熱帯魚の水槽にでも迷い込んだんじゃなかろうか、のぼせた頭はそんなことを考え始める。
「くらげは、自分の力では泳がないの」
隣の朝顔が口を開いた。
「水の流れに沿って、ただ流されるだけ」
彼女の口から空気の球が滑り出て、空へ昇っていったらどれだけ素敵だろう。
「私たちは」
視線が、すぃと泳いでくる。その目を見たら、また何時ぞやのように体の奥が冷たくなるのだと分かる。けれどどうしても、惹きつけられる。
――違うよ。
人混みの中、溢れかえる音の流れに、その声は掻き消されることなく耳に留まった。
視線をそらすことはできない。
やはり、身体の奥がぞわりと冷たくなった。
八月二十日
ぷるるる ぷるる ぷるるる
うん、私。
お医者さんがね、今週中だろうって。
そういう訳だから、二学期からは一人で学校に行ってね。
あと、ついでに宿題も持って行って。
じゃあ、頼んだ。
* * *
――くらげは、死んだら世界に溶ける。
透明な腕を光に透かして、太腿でシーツの柄を屈折させながら、何だか悟ったような顔をして彼女はそう言う。それを聞いたら、悔しいような、悲しいような、怒ったような心持がして、でも妙に落ち着いた声色で
――くらげは、世界に溶ける。人は、世界に混じる。
そんな言葉が滑り落ちた。
そしたら彼女は、ちょっと驚いた顔をして、それからすぐ、意地悪を気取ったような顔で笑う。
ビニールみたいに光を反射させる私の腕に、つぅと指の伝う感触がした。
* * *
八月三十一日
今日から二学期が始まる。学校の鞄を持たず、手ぶらで出て行こうとする私に、お母さんは咎めの声をかけるのではなく、せめてお茶くらい持っていきなさい、と水筒を渡した。
通りには、学校へ向かう生徒の影が、まばらにゆらゆらと動いている。その影とは逆方向に進み、汗だくになったところでようやく目的地に着いた。
今日は、彼女の葬式だ。
葬儀に参列しているのは彼女の両親と、私だけ。他には誰もいない。葬儀場の一角の、小さな部屋に僧侶のお経がこだまし、気付いたら出棺だった。
その中には、誰の形もない。
かわりに、祭りの日に見た蝶の着物が、人が着ているような形に広げられている。
その胸元に、綺麗な瓶が置かれていた。その中で、水として揺れているのが彼女だ。
棺は、三人で運べるほど軽かった。
昔読んだ小説に、自分が愛して殺した男について行くため、生きながら棺に入り込み、一緒に焼かれた女の話があった。火を目にすると、火傷をおった時のことよりも、何故かその話ばかり頭に浮かんでくる。
ごうぅ
扉の向こうで火の音が微かに聞こえる。空っぽの棺を焼く音だ。
火葬の間、一人で廊下の椅子に腰かけていた。彼女の両親と一緒にいるのは、耐えられそうにない。
セーラー服の、袖口の釦をはずし捲り上げる。すると、ビニールのように薄く、つやつやとした火傷跡が葉脈のように、腕いっぱいに広がった。光を反射して、脈打っている。
――長袖暑い。
――うん、暑い。
――でも跡が見えちゃうから。
――腕が見えないから。
――半袖にはなれないね。
――ね。
――最近足も消えてきた。
――透明だね。
――透明だよ。
――けど、触った感触はあるよ。
――……くすぐったい。
火葬はあっという間に終わった。台を引き出すと、その上には細かな灰と、溶けて変形した硝子があった。砕けてしまったせいかそれは、幾つかの欠片となって光っている。
骨壺にわずかな灰を収めた。釦をしっかり留めた制服の袖に、灰が白く着く。手の間をするすると流れていくそれは、気持ちよかった。誰も口を利かず、灰が落ちていく音だけが、さらさらと続いていく。
硝子を収める時になって、私はふと思いついて言った。
――これ、いただけません?
きらりと光る破片を、手の中で転がす。
彼らは、驚いた時の彼女そっくりに目を開き、数秒の後、どうぞ、と目を伏せた。
欠片はまだ、温かかった。
家路についた時には、一日は半分終わっていた。それでも一向に柔らかくならない日差しの下、手の中の硝子をぎゅぅと握りしめる。足元から伸びた影も、同じように手を握った。
もう学校が終わったのだろう。生徒の影が束になって、私とは逆方向に進んで行く。その合間を、熱帯魚にでもなった気持ちで進んで行く。
明日の通学路は一人。
蝉の声が地面を覆っている中、空では大きな入道雲が、風に輪郭を崩されてやる気なさそうに浮かんでいた。
――くらげは、世界に溶ける。人は、世界に混じる。
彼女は世界に溶けた。