侍女ハンナと婚約者
階段を上がると、オルゴ様が踊り場で待っていました。アクイラ様はもういません。オルゴ様は割と無表情です。黙って私の手を取って、歩き出しました。オルゴ様のまとう空気で緊張して、私も喋れません。手を繋ぐのも、まだ3回目なので恥ずかしいです。
支度をする手伝い、がお別れをする時間の建前。オルゴ様は自室に私を招きました。オルゴ様とアクイラ様の自室は侍女による掃除禁止。身の回りのことは自分でする、というのが名目ですが、ラスは密偵行為への警戒だろうと言っています。
煌国と大蛇の国は、停戦協定は結んでいても、和平条約は締結に至っていないとか、なんとか。ラスは賢いので、あれこれ私に教えてくれます。でも、この国は連合国な上に他国との外交問題まで出てくるので、こんがらがって覚えきれません。自分には関係ないと、興味が薄かったですし。これからは、もっと頭に叩き込もうと思います。
部屋の鍵をオルゴ様とアクイラ様はわざわざ自分達で用意したそうです。一方、フィズ様は開放的。掃除洗濯、全て任されています。秘密の書類があるとするのなら、アクイラ様とオルゴ様が管理しているのかもしれません。
鍵を開けて部屋に入るなり、オルゴ様は私の両手を取って、ジッと私を見つめました。開かずの部屋を観察したいという好奇心があれど、オルゴ様の目から視線を離せません。
「このような娘、直ぐに良き婿を迎えてしまう」
へ? 突然どうしました? オルゴ様が私に近寄ってきます。熱い眼差しに羞恥心が刺激されて、私は後退しました。誤解は困るので、オルゴ様の手をギュッと握ります。熱い、手が熱いです。今夜は特に冷えて、冬の訪れを感じるのに今の私はとても熱くなっています。自分の手の甲がとても赤い。この赤面症みたいな、直ぐに赤くなる体質は治って欲しいです。でも、ずっと治りません。多分、困ったことに今後も治らないでしょう。
「とにかく、先に妻にしておかないと奪われてしまう」
クスクスと笑い出したオルゴ様。三日月型になる、この優しい目はとても好きです。
「あの……。それは確かフィズ様の……」
「左様。あれで尊敬出来る所の多い方だ。俺も権力を振りかざして妻を娶る。残念だが、何処にも逃げられんぞ」
少し鋭い視線に射竦められます。オルゴ様の右手が私の手を離し、代わりに頬に当てられました。
「権力? もう婚約話は進んでいますし……逃げる予定なんてありませんし……むしろ逃亡なんて御免です……。残念ではなく嬉しいです……。あの、急にこんなの恥ずかしいです……」
オルゴ様は単に冗談を言おうと思っただけなのでしょう。しかし、ラスのような機知に富んだ会話は私には無理です。なので、素直に思ったことを口にしました。本当に恥ずかしい。
私はそろそろとオルゴ様を見上げました。オルゴ様、私から左手を離して、口を掌で覆っています。視線は斜め下、床の方です。
「こういうことは俺にも難しい。悩ましい表情で見られるのも中々辛い……。まあ、こう、いちいち可愛く反応してくれると安心する。未だに夢かと思っていてな」
照れ笑いを浮かべて、オルゴ様は私の額にキスをしました。ですから、ここは娘にするキスの場所です。私はキスされたおでこを揃えた指でなぞりました。不満なので、顔がぶすくれます。2人きりですし、オルゴ様はこの率直な表情を可愛いと思ってくれるみたいなので我慢しません。
「夢ではありません。それか夢だと思い込んだという嘘で、こう、その……。主を尊敬しているなら真似をすると良いと思います」
自分で口にして、私は恥ずかしさで俯きました。今のは「フィズ様夢事件」のことです。オルゴ様が知っていたら、フィズ様がコーディアル様にしたようにして欲しいな、というおねだり。キョトンとしているので、オルゴ様は何も知らなそうです。残念。
「夢だと思い込んだという嘘?」
これは、話すか迷いますが、伝えることにします。遠回しの方が恥ずかしさが減る気がします。
「はい」
私はコーディアル様から聞いた話を簡単にオルゴ様にしました。オルゴ様は話を聞きながら、私をソファに座らせました。オルゴ様は私の背後に移動しました。多分、お着替え。ソファの後ろに箪笥がありましたし、背後でゴソゴソ聞こえるので、そうです。
支度が終わったらすぐ出発してしまうのですよね……。手伝い不要というのも悲しいです。私は中々役に立てると思うのですが、用無しみたいです。
私はソファに腰掛けて、前を向いたままフィズ様とコーディアル様の話をしました。先月、熱を出したフィズ様を看病したコーディアル様。というより、もう熱は下がっているのにコーディアル様に世話をされたかったフィズ様という方が正しいです。それはもう愛を囁き、甘えたらしいです。コーディアル様の様子があまりにもおかしいので、ラスとエミリーと3人で詰め寄って聞き出しました。
——私の願望が次々叶うのだから、これは夢だコーディアル。現実ならこんなに近くに居てくれない
フィズ様はそう言って、それはもう色々とコーディアル様に甘い言葉を告げたみたいです。しどろもどろ、少しだけ教えてくれたコーディアル様。それで、ラスがフィズ様をおだてて「良い夢を見ました?」などと探り入れて、さらに面白おかしい変人皇子の話を仕入れ——コホン。おほほほほほ。私達は領主夫婦の仲睦まじさを再確認致しました。素敵な皇子様の甘美な台詞に、胸をときめかせています。その日から、2人は手紙をやり取りしているので、それも羨ましいことです。
オルゴ様、私の前に戻ってきました。大蛇の国の貴族服ではなく、煌国の正装。前合わせの白いスカートのような服。金刺繍をあしらった赤くて太いベルトを巻いています。その下には深赤のズボンに黒い革靴。黒いコートのような裾の長い上着。紐やらあれこれついていて、とても私には支度を手伝えるような服ではありません。
大蛇の国では決して見ない形の服。髪を全部上げて、額を露わにしているので、いつもよりキリリとしてより大人っぽいです。好みの顔ではないなど、贅沢な思考はゴミ箱に捨てないとなりません。これは……格好良いです。この姿のオルゴ様を見るのは初めてこの城に来た時以来。初対面、体格が良くて背も高く、おまけに表情も険しかったので怖かったのを思い出しました。なので、今の姿の印象が薄かったみたいです。
これは惚れ惚れしてしまいます。掌返し。あと、好きになった欲目でしょう。
「堅苦しい格好は、似合わないし好まないのだが仕方ない。煌服は目立つので、ハフルパフ公爵本家に出入りすると、あれこれ勝手に噂が立つだろう。まあ、気を引くのに丁度良い服だ」
フィズ様を愉快だと笑うと思ったら複雑そうな表情で自分の髪を撫でたオルゴ様。もしかしたら、話を聞いて私に甘々になってくれないかとも期待しました。全然、そんな雰囲気にはなってません。むしろ、逆になってしまったよう。好きな人——しかも両想いの相手——なのに口説くって難しいのですね……。大事な仕事の前に、何を言っていると呆れられたのかもしれません。
「フィズ様は思い込みが激しいから、本当に夢だと思っているだろう」
話は聞いていた、という意味でしょうか。オルゴ様は淡々と告げました。
「そうなのですか? なら、夢ではないですよと教えるべきですね。お2人の思い出になりますもの」
上手く笑えなくて、私は苦笑いしました。オルゴ様は無表情です。自分では愉快な話だと思ったのですが、笑わせるとは難しい。オルゴ様は大きなため息を吐いてしまいました。やはり、話題選びを間違えたようです。即座にローズ様対策について判断したコーディアル様や、あの場で色々と察したラスのようになりたい。社交場を颯爽と渡り歩くラスを見習う姿勢を強化しないと。社交場を怖い、嫌だと言っていてはいけません。
情けないやら、悲しいやら。無理矢理笑おうにも顔が歪むのが自分でも分かります。オルゴ様、またため息。
「ははっ、そんなに似合わないか。まあ、自分でもそう思う。あと、思いついたことを口にするのは良いが、相手がどう思うかはもう少し考えてくれ」
ぽんぽん、とオルゴ様が私の頭を撫でました。私は素直に謝りました。似合わないか? 何故、そう思ったのでしょう。似合っているので、オルゴ様の謙遜を否定しようと思います。でもちょっと泣きそうなので、顔があげられません。どう思うは考えました。失敗しただけです。もう一回謝りましょう。
「大切な仕事の前にくだらない話をしてすみませんでした。そちらの服は大変お似合いですので、謙遜しなくて良いです。大蛇の国では、あまり謙遜は好まれませんですし……」
「くだらない話? ハンナ?」
オルゴ様が私の隣に腰掛けて、私の手を取りました。顔を覗き込まれたので、頑張って笑います。鍛錬不足で眉根が寄りました。
「あー、いや、ハンナ。お互い解釈が違ったようだ。その、俺はてっきり……自覚も無しに……その、俺にフィズ様のような態度をと頼んだのかと……。今は、ほら、なあ。2人で部屋にいるので気をつけようと思っていて……」
オルゴ様が私の頬をそっと撫でました。照れ笑いに中々の熱視線。呆れられてないと分かってホッとしました。私の意図は上手く伝わっていたようです。私は小さく首を横に振りました。
「じ、じ、自覚はしていまして……し、しばらく離れるので甘えたいなあと……」
途端に口を口で塞がれました。キスをされて、キスをされて、キスにキス⁈ ま、待ってください! な、なが、長いっ! ちょ、ちょっと多くて長いです! ちっ、窒息してしまいます! 心臓が破裂するかもしれません! そ、そこは口ではありません! 顔を背けた所にまでキスをするなんて……知っていますけど、こんなのいきなりだと恥ずかしいです!
私はオルゴ様の胸を押し返して、ペチペチ叩いて猛抗議しました。
「ど、どこで練習したんですか! も、も、もっと段階……段階を踏んででないとついていけません……。ついていきたいですけど……は、恥ずかしいのでゆっくりで……その……。誰とこんな……」
ピタリ、とオルゴ様の攻撃が終わりました。私の髪、少しぐちゃぐちゃ。私の心境も複雑です。酔っていたいのに、ヤキモチ妬き。アクイラ様の話は本当なのか嘘なのか分かりません。でも、こんなに余裕があって慣れているようなのは……過去は変えられなくてもモヤモヤします!
ただ、全然怖くなかったです。目に手、キスも何もかもが優しいからでしょう。
「い、いや……練習などしたことは……。ああ、そうだな。すまなかった……。つい……。可愛いことばかり言うし、表情もで……つい、な。しばし触れないと思うとどうも……すまなかった……」
そう口にすると、オルゴ様は私のおでこにキスをして立ち上がりました。またおでこ。ですから、ここは娘におやすみなさいとか挨拶をする場所です!
「ひ、額は娘への挨拶の場所です! なので違います……」
「っへ?」
オルゴ様、停止。なので私も固まりました。
「そ、その押したり引いたりは心臓に悪い」
オルゴ様、仏頂面です。それで赤黒いです。照れ笑いの時よりも照れていると、それか恥ずかしいとこういう表情みたいです。先程の無表情みたいなのも、機嫌が悪かった訳ではない。それが分かると、自分の勘違いが愉快に思えました。ふふふっと笑い声が漏れます。さっきのキスのようなのは、まだちょっと無理ですが、これは遠慮なく甘えても良さそうです。抱きしめてもらうとか……。
「オルゴ様! バース様をお連れしました! ゼロース様にはパーズを使いに出しています!」
せっかくオルゴ様に抱きしめてもらおうと思ったのに、お別れの時間が来てしまったようです。お別れの抱擁をビアー様の声に邪魔されました。
「ハンナ、大した物はないので部屋の管理を頼む。その顔を他の者に見せたくないから、部屋から出るのはしばらくしてからにしてくれ」
机に置いてあった鍵を渡されました。オルゴ様が私の頭を撫でようとしたら、ドンドンドンドンという煩いノック音。
「オルゴ様! オルゴ様!」
「オルゴ様! 話を聞きました! このマルクもお供をしたいです!」
「オルゴ様! 今回の本国挨拶における警護隊長に任命してください!」
ビアー様、マルク、そしてまたビアー様の声です。何故か、どんどん声の主が増えていきます。オルゴ様、呆れ顔で部屋から出ていきました。
「喧しい!」
「ブー! ブー!」
オルゴ様の喝と、騎士達のブーイング。ルビーがどうの、サファイヤは手に入れるとか何とか聞こえてきました。私とラス、自分で思っているより人気者? 城勤め、長いですしね。自己認識の改善のために、ターニャ様などに確認しようと思います。オルゴ様を大切にしないとなりません。
お邪魔虫な騎士なんて馬に蹴られろ! 侍女ハンナはいつもは大変尊敬している騎士達に対して今日はそう思いました。まだまだ励み足りないようです。
もうそろそろ完結します。




