侍女ハンナと流星群の夜 2
少し肌寒い風が吹き抜けました。何分か経ったのに、何も起こりません。私はまた目を開きました。やはり、目の前にオルゴ様の顔がありました。オルゴ様の目は、やはりずっと見ていたいと思える、キラキラした光を放っています。
少し目を丸めたオルゴ様が、軽くのけ反りました。
「ハンナ、何をそんなに意固地になっている。好いた男と添い遂げたいという当たり前の気持ちがあるんだから、そうしなさいという話だ。今の君の立場や家族はそれを許してくれる。俺も力になれる。なのに俺との政略結婚を進めてどうなるっていうんだ。君が自分を大事にして幸せになることを色んな人が望んでいる」
そんな乙女の憧れなどゴミ箱にポイしました。養父母の立場、大好きなコーディアル様の今後。私はそれを考えないで、生きていきたくありません。そんな自分、好きではありません。
どうなる? それは書類にまとめました。オルゴ様、全く読んでいないようです。生身でアピールとは、書類に書いたことを直接話せということだったみたいです。しかし、チラリとも目を通していないなんて、オルゴ様は本当に私を伴侶に選ぶのは嫌みたいです。これは説得するのに骨が折れます。
「父や母の優しさは分かっています。コーディアル様を悲しませたくないです。だからオルゴ様です。オルゴ様なら目的の条件を満たしている上に、私を大事にしてくれる方なので幸せになれます。多分、コーディアル様並みに幸せにしてもらえます。更には父や母、コーディアル様まで幸福となる。だからオルゴ様は私にとって最善の相手です」
私はオルゴ様を見据えました。目を丸めて、瞬きをしないで私を見ています。何に驚いているのでしょう?
「オルゴ様。私はその代わりに、誰に対するよりも真心込めて接すると約束します。誠心誠意尽くします。他の方は全く思いつきません。なので断られると私はとても困ります。男の人は怖いですけど、オルゴ様だと大丈夫みたいなので、そういう面でも他にはいないと思います」
オルゴ様、茫然としていています。嫌そうでないのは安心、安堵です。でも私、変なことを言ったでしょうか?
「あのー……。オルゴ様?」
「へっ? ああ。ああ、ハンナ。そうかハンナ……。それなら今度、食事にでも行くか?」
食事にでも行くか。私は首を傾げました。何故食事? これは、検討してくれるということでしょうか? それと食事は何か関係があるのでしょうか。
「食事? ああ、お義父様を含めて話し合いをする食事会ですね。そうですか! 私の事を考えてくれるのですね! 食べたいものがあれば作ります。オルゴ様が好きなのはチーズ、ハム、グラタン、ビールですね。でも野菜も食べて下さい。ピクルスは……オルゴ様は酸っぱいものが苦手ですし……生野菜もそんなに……。温野菜のサラダなら大丈夫でしたよね?」
料理を運ぶのも仕事の範囲なので、バッチリ覚えています。でも、私はコーディアル様が「かぼちゃ好き」なのは長年見抜けていませんでした。フィズ様のコーディアル様好きは本物ですね。
「いや、あのハンナ。そういう意味ではない。城下街のレストランに2人でと……。それにしても、俺の好みをよくそんなに知っているな……ああ、野菜は食べるようにする……」
歯切れの悪いオルゴ様。主食派なので野菜を進んで食べないですからね。子供じゃないのだから、バランス良く健康的な食事を心掛けて欲しいものです。多忙なのだから気をつけてもらわないと。
2人でレストラン? そういえば、以前ラスにオルゴ様は私を誘っていたと聞きました。
「いつも見てますから当然です。それにしてもオルゴ様。分からないので教えて欲しいです。それなら、とはどういう事ですか? 以前も誘ってくれていましたよね。私、少々察し下手なのでその時は気がつかなかったのですが……。オルゴ様も私を縁談相手として考えていたんですよね? 嫌だと却下したり、考えると言ったり……」
あっ、と気がついたら私の眉根が寄りました。オルゴ様から離れます。
「ドラマチックに口説いてみたり、断固拒否したりは煌国流ですか? 確かに私は大混乱で途方に暮れて、なんか、こう、いつも理由を考えています。以前なんてオルゴ様のことを思い出したりしなかったのに……。縁談話に乗り気なら回りくどい真似は止めてください。心臓に悪いです」
行儀が悪いですが、私は膝の上に肘を置いて、手の上に顔を乗せました。少し見上げると、満天の星空に流れ落ちる星々。
幻想的で素敵な夜。だからこんなにも胸が温かくて苦しいのでしょう。息をするのが大変です。
「あー、ハンナ? その、なんだ? 断固拒否? そんなことはしていない。煌国流とは紅葉草子の読み過ぎだ。あれは古い時代の書で、誇張されて華やかにもなっている。のんびり食事でもしながら、こういう風に話をして何を考えているのか聞こうという誘いな訳だが……」
私は背筋を伸ばして、オルゴ様の顔を覗き込みました。星や揺らぎのように、オルゴ様の瞳もゆらゆらして見えます。
「ずっと嫌そうな顔でしたよ。今も……。毎日会いに行くのだから、話はどこででも出来ます。それとも毎日レストランに? 公爵令嬢ですが、家はいざという時のために質素倹約に励んでいますし、コーディアル様への支援でも財を減らしてきています。そんな贅沢出来ません。財政事情は書類に書きましたよ。その気があるなら読んで下さい。オルゴ様の為に仕事も増やしたので暇もありません」
あんぐりと口を開いたオルゴ様。何故、こう、私が話すたびに驚くのでしょうか? 私は書類を読んでいないことを非難したいので、オルゴ様を軽く睨んでおきました。
「俺の為に仕事を増やした?」
ああ、この件のことでビックリしたのですね。
「フィズ様を見習う事にしたのです。騎士宿舎の掃除に騎士達の繕い物。オルゴ様が教師をしている学校や剣術教室も掃除。バース様、アデル様、アクイラ様の身の回りの世話。私、関係各所にまで気を配れます。誠意を込めてアピールするなら、フィズ様が大変良い見本です」
いきなり、オルゴ様が咳き込みました。結構激しくて、辛そうなので背中をさすります。しばらくするとオルゴ様の咳はおさまりました。オルゴ様、軽く体を丸めて、両手で顔を覆って深いため息。
「これは想定していなかった……。そうか……それで泣いたのか……。心臓に悪いのは俺の方だハンナ」
どういう意味でしょうか?
「あの、それはどういう……」
オルゴ様が体を起こして、私に近寄ってきました。大きな手が、私の頬へ伸びてくる。そのまま、ボンヤリとしているとオルゴ様の右手が私の頬を包みました。親指が私のほっぺたを撫でます。くすぐったい。
「君の為だと我慢していたのだが、しなくても良さそう。そういう意味だ」
我慢? 何を? 今の状況だと、私に触ることを我慢? 私が怖がると思って? では何故私に触りたいと? 余程のことがなければ男は女に手を出すもの。昔、良く母が言っていました。そういうこと? オルゴ様はそういう下世話な方々とはちょっと違うと思います。
「ハンナ、俺は……」
手が頬から首へと移動しました。やっぱり、ちっとも怖くないです。不安定そうなサザンカも落ちません。こんなに優しい手は怖く……なんか、慣れていませんか?
「君の……」
フィズ様が「オルゴ様は女誑しではない」と言っていたのは嘘? 舞踏会といい、今夜といい、余裕綽々で私をあしらっています。手つきの慣れている感じ。手慣れた方と結婚して、惚れてしまったら生き地獄なのでこれは困ります。数年の片思いであんなに胸が痛かったのに、死ぬまで続いたら笑って生活出来ません。
あれ? では私はオルゴ様とは幸せになれないのでしょうか? しかし、それはあり得ない。オルゴ様なら大丈夫です。こんなに優しい目をした人は、滅多にいません。
「嫌です。必要以上、私を誘惑しないで下さい。こんなことをしなくても、私は縁談を進めて下さいと頼んでいます。御家存続の為にすることは励みますが……」
それって、つまり、お金の為に働いていた母と同じ生き方? 望んでいたのか、望んでいないのに選択権がなかったのか、母の本意や過去は知りません。あれは良い生き方とは思えません。望んでいなかったなら、あんなの悲劇です。
一気に血の気が引きました。そもそも、自分は嫌なのにオルゴ様へ同じことをしていました。まあ、私には高等スキルがないので無意味でしたが。
「私、だから……だから止めなさいと言ってくれたんですね? 私、阿呆娘です。コーディアル様やターニャ様、いえ、お義父様に頼まれたんですね? もしくは全員ですね? きっとそうでしょう」
私は立ち上がって、オルゴ様に軽く会釈をしました。
「娼婦みたいな真似をするなと、一言教えてくれなかったのはもっと考える力をつけなさいという事ですね? 私に本当の覚悟が無いのを見抜いてくれていて……。子供扱いされてイライラしていましたが、私はかなり子供ですね……。忙しいのに心配と迷惑をかけてしまってすみません」
情けなさすぎて、おまけに惨めなので……これは逃げるしかありません。
「え? あ、いやハンナ? その話は終わったのでは無かったのか? え? いや、なら、ああ……それなら、すまないことをした」
何故か謝ってくれたオルゴ様。謝るのは私です。もう一度謝って、感謝して、オルゴ様に背を向けて小走り。みっともなさすぎるので、早く逃亡しないと。
——何をそんなに意固地になっている。好いた男と添い遂げたいという当たり前の気持ちがあるんだから、そうしなさいという話だ。
その通りです。私は何をこんなに意固地になっているのでしょう?
でも、新しい恋になどまるで興味が湧きません。オルゴ様と縁談が進んだ方が、うんと幸せな未来な気がしてなりません。
途中でポトリ、とサザンカが落下しました。
私は振り返って、戻って、しゃがんで、サザンカを拾い上げました。オルゴ様がくれたコスモスがもう枯れてしまったので、部屋にこのサザンカを飾りたいです。
こんなに簡単に髪から落っこちるのに、オルゴ様が私に触った時、落下しませんでした。それほど優しく、そっと触れてくれたということです。
しかし、かつて誰かと想い合った結果だと思うと凄く嫌になりました。煌国流や女誑しではないというのなら、紅葉のように鮮やかな恋愛があったのでしょう。誠実なオルゴ様像から簡単に想像が出来ます。今、この瞬間まで思い至らなかったのは、やはり阿呆娘だからですね。好いて、好かれた、素敵な恋物語。今、オルゴ様は独り身なので悲恋だったということでしょう。なにもかも、私の知らない世界。
——オルゴ様は政治的な婚姻はお好きではないのでしょう。
その考察をすっかり忘れていました。
私はしゃがみこんだまま、サザンカを見つめ続けました。両掌の上のサザンカは、良く中庭で見ているものとは違って、ルビーより輝く宝石みたい。
人の気配がしたら、ラスでした。隣にはアクイラ様。微妙な距離感で刺々しい雰囲気。
コーディアル様に私が必要だということで、2人と城中へと移動しました。
侍女ハンナは今日も思います。早くくっつけ姫と皇子。今夜はもう少し、自分と向き合いたかったです。




