035. 魔術師の超受難
ネルハイム・ナムスは、街では旧家とされるナムス家の長子として生まれた。
ハルサキムが都市として発展したのは、今から約二百年前からである。それ以前から存在する家柄は、街の中心部に住む名家として扱われていた。
しかし、実践魔術師を生業としたナムス家は、財を成すこともなく、街の要職にも就いていない。
コネクションを生かし、ギルドの専属となったネルハイムは、豪商ユレイカル家の護衛任務を引き受け、そこでローゼと知り合った。
ローゼの両親にとって、彼は単なるボディーガードであり、娘と縁談が進んでいるとは露も知らない。
「ギルドの職員には、彼らが恋仲であるのは周知の事実です。ご両親への挨拶も、我々がけしかけました」
ネルハイムの登場を待つ間、ヤースが二人の馴れ初めを説明した。
「呼び出してくれたんだよな?」
「ええ、使いを遣りましたので、もうすぐここへ来るでしょう」
蒼一たちは施設長室に隠れ、ターゲットの到着に備える。
第一の仕掛人は、虫も殺せなさそうなお嬢様だ。
ギルドの中に入ってきたネルハイムは、婚約者の顔を見つけ、嬉しそうに声を掛けた。
「ローゼ! 君も来てたのか」
「馴れ馴れしい。ユレイカル様とお呼びなさい」
「えっ?」
氷の眼差しに貫かれ、彼は硬直する。
「どうしたんだ、ローゼ? 昨日は婚約を伝えるのが楽しみだって……」
「頭光を浴びて錯乱してました。気の迷いです」
なぜ一晩で彼女が豹変したのか、ネルハイムには理解できない。
「今夜、君の家に行くのに――」
「ええっ、毛も無いのに! 嫌がらせはやめて、ネ」
「ネ?」
「ルハイムは毛髪と共に消えました。長い夢から、やっと覚めたのよ。では、これで、ネ」
クルリと踵を返し、ローゼはギルドから退出する。
呆然と立ちすくむ彼に、ヤースが追撃した。
「ユレイカル家とは友好関係を維持したい。君との契約は、一旦白紙にさせてくれたまえ」
「し、施設長……」
絶句するネルハイムを、ヤースは犬にするように手で追い払う。
魔術師は目をさ迷わせ、トボトボと街へ出て行った。
彼の背が小さくなったのを確かめ、建物の陰に隠れていたローゼが戻ってくる。
「勇者様っ、どうでしょう? 見ましたか、あの消沈した顔!」
「あ、ああ、あれでいいよ。君はまだ婚約者なんだよね?」
「もちろんです! ネルハイムのあんな姿は、心が痛みますわ、ふふ」
今、笑ったよね? そう問いかけて、蒼一は言葉を呑み込む。
作戦自体は、上々の滑り出しだ。苦手と感じたローゼも、案外、自分とウマが合いそうな気がした。
この後、ネルハイムを尾行するのに、この婚約者も参加したいと言う。
職員の衣装と着替えてもらい、蒼一たちと合わせ、四人で魔術師の後を追った。
婚約を解消され、クビを言い渡された彼の足取りは重く、周囲に気を配る余裕も無い。
尾行の難易度は、これ以上ないくらい簡単なものだった。
◇
ギルドを出たネルハイムは、下を向いて街路を北に歩いて行く。
蒼一とローゼ、雪とメイリの二班に分かれ、仕掛人たちは少し離れて彼を追跡した。
「あいつは、家に帰ろうとしているのか?」
「違いますね。こっちはネルハイムの好きな公園のある方向です」
ナムス家の所在は街の中央西、北には小さな池のある公園があるらしい。
「公園ねえ。落ち込んでるのを鳩にアピールか」
この世界の公園に鳩はいない。
いるのは山鳥ワゾールの変種で、白い羽毛の家畜化した小型ワゾールだった。餌を求めて人に舞いたかる習性は、地球の鳩と似たようなものだ。
「おそらく、屋台で厚ハムを買って食べる気でしょう。昼はいつもそう」
「厚ハム?」
厚切りのハムを固焼きパンに挟んだものは、彼らも昼食にしたことがある。魔術師のお気に入りだと、ローゼは言う。
「これはチャンスです。好物を攻撃すれば、ネルハイムの精神力はズタボロですよ」
「そうなんだ……」
どうにも楽しそうに見えるローゼに、勇者も若干、引き気味だ。
蒼一は通りの向かいにいる雪たちに尾行を任せ、厚ハムの屋台へ先回りすることにした。
一本筋を変え、勇者と婚約者のチームは公園に急ぐ。
「しかし、好物を攻撃って、どうすんだよ」
「簡単ですわ。まず屋台の主人に頼んで――」
ローゼの立てた作戦通りに、屋台で坊主頭へ売る商品の工作を依頼する。
二人はネルハイムが座るベンチに見当を付け、監視できる茂みに身を隠した。
数分後、婚約者の予言に従い、魔術師は厚ハムを購入してベンチへ力無く座り込む。
「すげえな。全部、ローゼの言った通りだ」
「彼のことなら、何でも分かります」
屋台のオヤジは、ハムを普段より厚くサービスして、魔術師にほんの僅かな喜びを与えた。
だが、挟むパンは逆に通常より小さく、持ちにくいことこの上ない。
難儀しながらも、袋からハム部分を出し、ネルハイムは大きく口を開けた。
「ああっ、せっかく持ちにくくしたのに!」
「任せとけ、木枯らしっ!」
突風が昼の公園ベンチを襲い、魔術師は思わず目を閉じる。
再び彼が手元を見た時、そこには固く焼かれたパンだけが残されていた。
地面にベッチャリと落ちる、通常品の倍はあろうかという厚いハム。公園を縄張りにする白ワゾールたちが、そのご褒美を見逃すはずはない。
一斉に舞い降りた数十の鳥が、ネルハイムの大好物を脚とクチバシで取り合った。
「ああ、ああぁーっ!」
この日、婚約者と、職と、厚ハムを失った男の哀しき呻吟が、長閑な公園に染み渡る。
ベンチからずり落ちたネルハイムは膝立ちし、鳥に囲まれながら、パンを齧った。
抑え切れなくなった涙が、パンを塩辛く味付けする。
「大したもんだな。厚ハムの威力」
「私の時より悲壮感があるのは、後で説教ですわ」
いつの間にか合流した雪とメイリも、茂った葉の間からネルハイムを眺めていた。
「また蒼一さんは容赦無いですねえ」
「馬鹿言え、今回はローゼの仕業だ」
これで何事も無く終わったら、単なるイケメン虐めだが、幸いなのかどうなのか、黒いガス状物質が池の上から漂って来る。
「来たぞ、悪霊だ!」
黒い霧は男の体に吸い込まれ、泣き呻く声はピタリと止まった。
ネルハイムに向かって走り出した蒼一は、街路から近付く別の黒霊を発見する。
「おうおう、大した吸引力だ」
勇者が到着した時には、池から一体、街路から二体、計三体のファズマが魔術師に取り憑いていた。
屋外の公園は、人通りも少なく、蒼一の攻撃には好都合だ。
「今度は逃がさねえ。浄化っ!」
目を剥き立ち上がったネルハイムを、白い光が包み込む。
勇者は更に聖なる光を連続発動した。
「浄化っ、浄化っ!」
体から飛び出そうとした悪霊へ、フラッシュのように光が浴びせられる。
「ぎぃぃあーっ!」
断末魔が三回、公園に響いた。
黒い影は小さな塵となって飛び散り、一瞬の魔光の煌めきを残し消え失せる。
操る者が離れると、ネルハイムはグニャリと膝を折って地面に倒れた。
「浄化できりゃ、大した敵でもねえ」
「お見事デス」
ローゼは昏倒する婚約者の元に跪き、その顔を覗く。
「彼は大丈夫でしょうか?」
「心配すんな。しばらく言うことも坊主臭くなるだけだ」
悪霊相手だと、雪とメイリの出番は少ない。遅れてやって来た二人は、蒼一に首尾を尋ねた。
「上手く行った?」
「おう、三匹始末したぞ」
「もう、他にはいないんですかね」
悪霊がこれで全部という確証はなく、まだ作戦は続けなければいけない。
「ヤースに荷馬車を出してもらおう。ネルハイムを荷台に載せて、街を回る」
「私も荷台に乗ります!」
ローゼは同行し、婚約者を支えるつもりだ。
この街全域に亘る悪霊掃討戦は、午後、日が暮れるまで行われた。
◇
ギルドの用意した馬車は、さほど大きな物ではなかったため、雪とメイリには宿で留守番してもらう。
馬車の荷台には椅子を置き、そこにネルハイムを座らせる。その両脇に蒼一とローゼが立って、彼が倒れるのを防いだ。
大きな街を一周するため、余りのんびりとはしていられない。
結構な速さで、三人を乗せた馬車が街路を走る。
「みんな不審な顔をしてるな。手でも振ってやったらどうだ?」
「あっ、はい」
街でも評判のお嬢様と十八代勇者、そして二人に挟まれた白光りする頭。
蒼一とローゼがにこやかに手を振ると、事情は分からずとも、人々も懸命に両腕を振り返した。
浄化中でも、ネルハイムは餌として魅力的らしく、悪霊は次々とおびき寄せられる。
「浄化っ、浄化!」
蒼一が黒い影を追い払う度に、魔術師の頭部が輝いた。
いつしか住民たちは馬車を追って駆け出し、口々に勇者と仲間の偉業を讃える。
「ジョウカッ、ジョウカッ!」
「ネルハイム! ネルハイム!」
魔術師の名は、荷台から蒼一が叫んで教えた。
飴屋のオヤジまで並走し、白い頭を熱心に観察していたのは、新商品のためだろう。
ファズマ十五匹を倒し、馬車が宿に戻った時には、夕闇が一日の終わりを告げていた。
荷台を降りた蒼一へ、一人の男性が近付く。
「あの……勇者様、お待ちしておりました」
「ん、どうした?」
上品な服に身を包む初老の男は、白髪混じりの頭を深々と下げた。
「勇者様には、何とお礼申し上げてよいものか……」
男は街で唯一の孤児院の運営者で、身寄りの無い子を多数預かっていると言う。
中に一人、器量も知能も優秀ながら、奇病のため捨てられた少女がいた。
「本当に良い子なのです。しかし、髪が生えない、それだけの理由で親に見捨てられました」
「それも酷い話だな」
「全くです。人を外見で排除する愚かさ、それを打ち破って下さったのが勇者様です」
「う、うん……」
今回の勇者の教えを忘れぬために、院長は街の入り口に像を立てたいと申し出た。
「幸い、成功した院の卒業者からの寄附も有り、資金に心配はごさいません」
「んー、そういうことなら、今日一日頑張った、こいつにしたらどうだ?」
蒼一は荷台で座ったままのネルハイムを指す。
「夜光石で作ったら、光って灯台代わりにもなるし」
「確かに、この御頭は神々しい……」
そう言えば、街には勇者の日という祭日を作る計画もあると、ヤースの報告にあった。
それもネルハイムを讃えて、皆で頭を剃る日にすればいいんじゃないかな。
いつまでも礼を言い続ける院長を後にし、彼は雪たちが待つ食堂へ向かう。
意識朦朧としたネルハイムは、ロビーで休ませており、ローゼが面倒を見てくれていた。
首を傾げながら入ってきた蒼一を、雪が訝しく見る。
「悪霊退治は失敗ですか?」
「いや、それは上手く行った」
彼は孤児院の院長との会話を、雪たちに話した。
「悪霊を追っ払い、病気の子も喜んだ。今回は善いこといっぱいしましたね」
「そうなんだけど、人助け感が薄いのは何でだろ」
ウーンと悩んだ三人は、やはりネルハイムが復活してないのが原因だろうと結論付けた。
宿に頼んで、厚ハムを用意してもらい、蒼一たちはロビーの様子を窺う。
「どうだ、起きそうか?」
「光が消えましたし、もうすぐかと」
「気つけで起こすのも、可哀相かな」
彼が自然に目覚めるまで、ローゼも待つつもりだった。
蒼一は厚ハムをネルハイムの前に供え、両手を合わせる。
「メイリも、こういう奴を拝むといいぞ」
「うん!」
この日、ハルサキムには、いくつもの新しい風習が生まれた。
地蔵のような石像が街中にいくつも作られ、そこにハムが供えられるようになる。
白地蔵と名付けられたこの像を熱心に広めたのは、街の富豪、ユレイカル家だった。




