楽しそうに語った、その男は
「敵が来たぞぉぉおお!!」
静かな夜、突然大声が上がった。
「はぁっ?!」
「ほんまか?!うわ、いってぇ……」
「この夜中にか?!」
若い男たちが詰め込まれたテントの中は、就寝中に敵襲だと起こされ、混乱する者や頭をぶつける者などでパニックになった。
初めに声を上げた男は、前線で敵兵を見つけると知らせる役割を担っていた。
その男はというと。
「ぐぅ……」
次の日の朝。
「お前なぁ、寝言といえども言っていいことと悪いことがあるだろう。次はないぞ。以後気を付けろ!」
「はいっ」
結局、テントの中に納まらず、近隣のテントにも被害が及び、部隊長から説教を食らうことになった。
もちろん、小隊長からも拳骨をもらっている。
殴られた丸刈りの頭頂部をつるりと撫で、男は朝食を取りに向かった。
「せやから、ちょっと挨拶しただけです」
「なんだと?!前から言っていただろう、このあたりの風習で、独身の女の肩をたたくことは求婚になるんだぞ!もう嫁に出すつもりで、村長がきているんだ!よりによって、村長の娘さんなんだぞ?!」
中国には、そういう風習の土地があるとは聞いていた。
だから、一度やってみることにしたわけだ。
道を行く女性を見つけて、「こんにちは」と肩に手をトン。
それがここまでの騒ぎになるとは。
「はぁ、そうですか」
「ふざけるな!!」
またしても部隊長に呼び出された男は、小隊長とともに部隊長の前に起立していた。
その男を、部隊長は思いっきり殴った。
しかし、小隊長も部隊長も真剣に怒っているというよりは、若干面白がっていながら困っている。
戦時中に、こんな珍事はむしろ心が救われるらしい。
「どうするんだ?向こうは結婚しないと女性の立場が悪くなると言って、一歩も引きそうにないぞ」
「そうですね……まさか、本当にこちらの女性を嫁にもらうわけにもいきませんし」
「さすがに、両親が許しません」
男が口を挟むと、小隊長と部隊長は二人そろって睨み付けてきた。
「お前は黙ってろ!そうだな……中国語を話せる奴がいたな?」
「はい」
「では、交渉の場に連れてきてくれ。もちろんお前も来い!土下座すれば許してもらえるかもしれんからな」
部隊長は、前半は小隊長に、後半は男に向かって言った。
「分かりました」
男は、敬礼してびしりと答えた。
「まったく、返事だけはいっちょ前だな」
部隊長のテントから出ると、男と同じ隊にいる気の合う男たちが遠くから見守っていた。
にやりと笑って見せると、こちらを指さして笑っていた。
実行したのは確かに男だが、叱られるのが男だけというのはなんとも不公平だ。
話し合いの結果、一度結婚したということで一晩同じテントで過ごし、次の日離縁を言い渡すことになった。
求婚されながら結婚しないよりも、一度結婚してから気に入らなかったと言われて離婚した方が立場が保たれるんだそうだ。
不思議だが、文化の差だ。
男は部隊長と小隊長に連れられて、村長に土下座して謝らされ、一晩女性と同じテントで過ごして別れた。
もちろん、きつく言われたので床は別にした。
戦争が終わり、京都の港に到着した。
最後の方は、ほとんどまともに食事もできず、かなりつらい思いをした。
ロシア軍に捕まった隊もあったようだが、そういう意味では男の部隊は運が良かったようだ。
家へ帰るための金が支給され、男は京都の土を踏んだ。
そこには、たくさんの屋台が出ていた。
戦争から帰った男たちを出迎え、腹を満たすための屋台だ。
「いいか、お前たちはまだ体の調子が本調子ではない!間違っても、食い倒れるなよ!突然食いまくったら、本当に倒れるからな!!では、解散!親御さんを安心させてやるんだぞ!」
これで、やっと戦争が終わった。
そして目の前に食べ物があるのに、食べないわけがない。
もちろん男は寝込み、京都で金を使いきった。
仕方がないので、治ってから歩いて大阪を目指した。
両親は、なかなか帰ってこない息子を心配しているだろうか。
いや、彼らは心配などしていないだろう。
跡を継がせるためだけの養子なのだから。
とにかく、帰るには歩くのみ。
水があれば、なんとかなるだろう。
目覚めて見たのは、いつものワンルームのいつもの天井。
カーテンもいつも通りだし、エアコンも効いている。
「あぁ、夢か……」
男の斜め後ろくらいから眺めているような夢だった。
非常にリアルで、空気まで違った気がする。
「じいちゃんの話通りの夢とか、不思議だなぁ」
あの夢は、裕司が子どものころ、何度も祖父に聞いた話だ。
祖父は、太平洋戦争のとき、歩兵として中国大陸へ渡っていたんだとか。
もちろん、苦しい思いもしただろうし、つらいこともあっただろう。
けれど、そういうことはほとんど語らなかった。
ほんの少し聞いた限りでは、敵兵だけを相手にしたわけではないらしい。
しかし、詳しくは分からない。
ただ笑って聞ける話だけを何度も聞かせてくれていた。
それは、子どもの裕司に聞かせたくないからというよりは、思い出したくなかったからだろう。
しかし、なぜこんな夢を見たのだろうか。
そろそろお盆が近づいてきたせいか?
それとも、昨日の夜、ニュースで終戦記念日が近づいてどうこうと言っていたからか?
疑問は残るが、とにかく仕事のために起きなくてはいけない。
今日もラッシュはしんどいだろうし、できるだけ早めに出たいから、猶予はない。
夜、母から電話があった。
『このところ暑いけど、バテてへん?ちゃんと水分取りや』
「分かってる。大丈夫、職場はクーラーきっちり効いてるし」
『そやったらええけど。それから、今年は帰ってくるん?』
そちらが本題なんだと思うが、ついでのように母が聞いた。
「どうしよかな……。一応、5連休にはなってるから、帰れると思うけど。まだ決めてへんわ」
『そうなん?決めたら教えてや。部屋掃除しとかなあかんし、食材も買いに行かなあかん』
「分かった。決めたらメールするわ」
『頼むで、できるだけはよ決めてや』
「はいはい」
母は、今朝見た夢の祖父の娘だ。
関西の傾向なのか、かなりせっかちで、お盆休みの予定を決めろと言われた。
とはいえ、そろそろ予約しておかないと、新幹線もいっぱいになってしまうだろう。
じゃり。
足元が砂利になっていて、履き慣れない草履で歩くのが大変だ。
「ほら、気ぃつけや。じいちゃんの手ぇ持っとき」
「うん!」
5歳くらいの自分に似た男の子が、紋付き袴を着ている。
いや、あれは子どもの自分だろう。
七五三らしく、同じように着飾った子どもたちと親らしき人たちも見受けられる。
この風景は、近くの神社だ。
そして自分の手を引くのは、昨日見た男がそのまま年を取ったような……祖父だ。
記憶にある祖父より、少し若い。
髪もまだかろうじてある。
しゃれたツイードのスーツを着て、ループタイも着けていた。
ループタイの飾りは、木で作られた小さな能面だ。
それを見ていると、視線が変わった。
さっきまでは2人を斜め上から眺めていたのに、突然子どもの自分の目線になった。
見上げると、じいちゃんがいる。
当時は、あの能面のループタイが怖かった。
笑っているのか怒っているのか分からなかったし、首元に顔だけついているなんて不気味だった。
どうしてそんなものを使うのかと聞くと、祖父は能を知らんのか?と驚いていた。
現代の子どもがそんなことを知る機会なんてほぼない。
そんな自分に、祖父は『ワシは能の謡をやってるから、これを着けれるんやで』と自慢した。
当時の自分には残念ながらそのすごさが分からなかったが、どうやら自慢するほどのことらしい、とは理解した。
そして、やっぱり怖かったので遠巻きにしていた気がする。
しかし今の中身は大人の自分だ。
「おじいちゃん、それかっこいいね!」
「かっこええやろう」
「いいなぁ」
「やらんぞ、ワシの生きてるうちはな」
「えぇ~」
うらやましがる俺に、祖父は嬉しそうに答えた。
っていうか、くれへんのか!
夢の中でくらい、くれてもいいのに。
そんな会話はした記憶もないが、なんとなく懐かしい感じがした。
ピピピピピ
いつもの目覚まし時計が夢を終わらせた。
「ふぁ……そうだな、帰るか」
何度も夢を見たからか、実家に帰ろうと思った。
通勤途中で、母にメールした。
すると、母からすぐに返事がきた。
『ちょうど3回目のお盆やからね!帰ってくれると助かるわ』
そういえばそうだったか。
じいちゃんが亡くなってから、もう3年以上経つんだ。
半纏を着てこたつに入り、何かを顔の前にかかげる祖父。
オレンジの何かを左手に乗せ、右手にはピンセットが握られている。
確か、こんな風景をいつかの正月に見た気がする。
「おじいちゃん、それなに?」
「ん?これか?ほれ、ミカンやがな」
机の上には、剥かれたミカンの皮が転がっていた。
「え?それミカン??」
小学生くらいの俺が、不思議そうに近づいた。
真オレンジの潰れた球体は、どう見てもミカンには見えない。
「筋は嫌いやねん。せやから、全部きれいに取ったった」
「うわぁ、おじいちゃんすごいなぁ」
「すごいやろう」
後で聞くと、祖父は糖尿病を患っており、糖質制限されていたんだとか。
それで、大好きなミカンもたくさんは食べることができず。
少しでも時間を稼ぐために、筋をきれいに取っていたらしい。
今度は、同じ部屋だが季節は夏らしい。
扇風機が回っている。
同じ机に向かい、クルクルと紙縒りをつくる祖父を、子どもの俺が凝視していた。
全然難しそうに見えないそれが遊びに思えたらしく、やりたい!と言い出した。
祖父は、面白そうに短冊状に切った紙を手渡した。
「やってみぃ、簡単やで」
祖父が作る紙縒りは、クルクルクル。
対して、子どもの自分が作る紙縒りは、クルク……ぐしゃり。
「難しいで!!全然できひん。おじいちゃんすごいなぁ」
「すごいやろう」
そういえば、あのループタイの飾りはどこにいったんだろうか。
亡くなって少ししてから行った形見分けのときには、出てこなかったように思う。
俺は、祖父が自慢していたものの一つ、能で使っていた扇のうち綺麗なものと、べっ甲で作ったというカフスボタンとネクタイピンのセットをもらった。
たまに、仕事で気合いを入れるときには、祖父のカフスボタンを使う。
あの能面ループタイは出てこなかったから、きっと祖父がどこかに大事にしまい込んで、忘れられているのだろう。
「いてっ」
考えながら駅まで歩いていたら、どこかから石が飛んできたらしく、クールビズの半袖から出る腕に当たった。
ちょうど車が通ったから、きっとあれが跳ねた小石だな。
その日は、何故か机の角にぶつかったり、手に持った書類が滑り落ちてバラバラになったり、小さいことだが散々だった。
こんな週末は、お気に入りの映画を見ながらワインを空けるに限る。
久しぶりに夢も見ずに眠れたが、なんとなく眠った後で誰かに頭をはたかれたような気がした。
「ええか、お前にだけ教えたるから、よぅ覚えときや」
「うん、分かった!」
多分、まだ小学生にもなっていない子どもの俺に、気持ち若い祖父が告げた。
いつもの居間だか、家にほかの人の気配がない。
前の夢では、なんとなく誰かがほかの部屋にいる雰囲気だったから、少し違う空気だ。
「この箪笥や」
連れて来られたのは、普段は入らない仏間。
いつの間にか、また子どもの俺の目線になっている。
ここは、なんとなく線香臭くて、子どもの俺は嫌厭していた部屋だ。
そこに、桐で作られたらしい古い箪笥が置いてあった。
確か、結婚するときに、祖父が張り切って新調したものだったはずだ。
祖母の嫁入り道具とは、また別に。
その箪笥は、ほとんどが引き出しだったが、一番上には引き出し2段分くらいの引き戸があった。
祖父は、その引き戸を開けた
「この中にな、さらに開き戸があるんや。そこを開けてやな」
「おじいちゃん、全然見えへんで」
俺の背が小さすぎて、箪笥のまん中くらいまでしかない。
「あぁ、しゃあないなぁ。……よいせ」
祖父はそう言って、子どもの俺を後ろから抱き上げた。
ついぞされたことのない行為だったが、目線が高くなったので引き戸の中がよく見えた。
外側の黒っぽい桐とは違い、中は地の白い木目だった。
そして、開かれた開き戸の下には、さらに小さい引き出しも2段ある。
細かい作りだな。
祖父は、俺にも見えるよう片腕で抱えたまま、引き戸の中に逆の腕を伸ばした。
「ここや。開き戸の奥。見えるか?」
「うん、穴開いてる。虫に食われたん?」
「虫が食うかいな、桐やで?これは、わざと開けとるんや」
「ふぅん」
そして、祖父はいつの間にか鉛筆を手に持ち、穴に突っ込んだ。
小さいな穴だから、鉛筆は削った先が途中までしか入っていない。
「こうするとやな」
すぽ。
開き戸の床板が、浮いた。
今は、その中は暗くて見えない。
「すごい!秘密の箪笥?!」
「古い箪笥にはよくあるカラクリやで。ここに、じいちゃんは大事なもんをしまっとくんや」
「大事なもん?何入れるの?」
「今は教えたれへん。じいちゃんが亡うなってから、開けたらええ」
「教えてくれてもええやんか」
「あかんあかん。後のお楽しみや」
祖父は、俺を下ろして楽しそうに言った。
あの箪笥は、確かまだ同じ場所に置いてあったはずだ。
祖母は病気や怪我はあるものの元気に存命で、デイサービス先がやっている書道教室にハマっているらしい。
だから、家には祖父のものがかなりそのまま置いてある。
夢だから信頼できないけれど、来週帰ったら、箪笥を見てみようか。
「あらまぁ、裕司くん久しぶりやねぇ」
母の姉、伯母が大きな声で言った。
そういえば、祖父母の家での集まりに来るのは、祖父の葬式以来だ。
「ご無沙汰してます」
「嫌やわ、ちょっとなまってるで」
「えぇ?そんなことないと思うけど」
「言葉の端々が、東京弁になってるわ。やっぱり向こうで働くとうつるんやねぇ」
「自分では全然気づかへんで」
「そんなもんやで。ちょくちょく帰れば、そのたんびに戻るんやろうけど」
祖母は、気持ち小さくなっていた。
この間も、背骨の圧迫骨折の跡が見つかったらしいが、本人はケロリとしている。
「おばあちゃん、仏間にあるおじいちゃんの箪笥見てもええ?」
「あぁ、あの箪笥なぁ。おじいさんがえらい自慢してはったわ。ええよ、なんやったら持って帰り」
「いやいや、持って帰るのは無理やわ。大きすぎるし、置く場所もあらへん」
そうか、と祖母は言い、美味しそうにお土産の洋菓子を一口食べた。
仏間に入ると、お盆の飾りがされていた。
やっぱり線香の香りがただよっている。
「これか……」
今の目線なら、箪笥の上まで十分見える。
一番上の引き戸を開け、さらに開き戸を開ける。
中には何かが入った箱がいくつかあったが、それをどけた。
すると、夢の通り穴があった。
もしかすると、夢ではなくて本当にあったことなんだろうか。
記憶はまったくない。
爪では無理だったので、木の箸を持ってきて使った。
かぱり、と開いた中にあったものは。
「おばあちゃん、これ……」
右手には少し厚みのある縦長の封筒、左手には小さな箱が2つ。
「どないしたん?」
夢で見たとは言えないので、祖父に言われたことを思い出した、と説明した。
封筒には、一万円札が一束入っていた。
箱には、祖父のループタイがしまわれていた。
祖父の宝物は、お金とループタイだったのか?
もう一つの箱もループタイの飾りで、こちらは石で作られたらしい般若の面だ。
お金が出てきたので、ちょっとした騒ぎになった。
しかし、そもそも百万円程度を分けても少しずつにしかならない。
祖父母には、男の子が1人と女の子が4人いたので、半分の50万を祖母、残りを子どもで分けたら10万円ずつになる。
もらえれば嬉しい額だが、伯母や叔父たちは遠慮した。
「おばあちゃんの生活費にしたらええやろ。また怪我するかも知らへんし」
叔父の一言で、そうすることに決まった。
ループタイは、誰も欲しいと言わなかったので。
「ありがとう。これ、どこいったんかなと思っててん」
俺が貰うことにした。
生きている間はダメだと言っていたから、きっと今ならいいだろう。
「どこに着けていくの?わりと場所選ぶで」
「外に行かへん日とかやったら、涼しいしちょうどええわ」
「そう?まぁ、しまい込まれるよりはその方がじいちゃんも喜ぶやろ」
『ほんまにええやつやねんで。ワシの大事な宝もんやからな、大切に使えよ』
「え?」
「うん?どうかした?」
「いや、……なんでもない」
『能面は駄賃や。もうちょっとであの箪笥捨てられるとこやったからな。金がもったいない』
「……!!」
やはり、祖父の声がする。
周りを見渡しても、母しかいないが、確かに聞こえた。
祖母のためとは言わず、もったいないとは祖父らしい言葉だ。
『まったく、全然帰ろうとせえへんから焦ったわ。お盆が近づいたらちょっとは動けたけどな。ほな、ワシはそろそろ行こかな』
「おじいちゃん、やっぱり地獄やの?」
戦争とはいえ、人の命を奪った自分は地獄に行くはずや、と祖父は生前楽しそうに語っていた。
『それは……ないしょや。後の楽しみにしとき』
楽しそうに祖父の声が答えた。
そういえば、祖父はそうやって揶揄うのが好きだった。
「楽しいならいいけど」
『ははは、せやな』
そして、祖父の声は聞こえなくなった。
「おじいちゃんねぇ。落語みたいに地獄観光でもしてるやろね」
「やっぱり、そうかな」
母が俺の独り言に答えた。
そういえば、怪しい独り言になっていたが、母には気にならなかったようだ。
今でも不思議だが、なぜ俺が祖父にメッセンジャーとして選ばれたのだろう。
たまたま?
ちょうど思い出していたから?
それとも、俺が祖父のいる場所に近づいているから?
次のお盆にも、祖父の声は聞けるだろうか。