退魔師と竜巫女
妖魔、それは人を害する穢れを持つもの。人々の負の感情を喰らい貪る異形の化け物。
そのものたちにとって日が沈んだ街は格好の餌場だった。それは昔も今も変わらない。何故なら人々はいつもそこにいるのだから――
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
日が沈み街が闇に包まれる午後10時、街の照明のない真っ暗闇の路地裏を一人の少女が走っていた。
学校帰りなのか制服姿の少女だが、その制服はまるで危険な薬品を被ったかのようにボロボロに爛れている。
「はぁ……はぁ……! 」
少女は、息を切らしながらも足を止めることなく前の見えない路地裏を全力で走っていた。当然、そんなことをしていれば壁にぶつかることもあるし、路地裏に置かれたものに当たることもあった。壁に接触し腕を擦りむき、ゴミ箱に躓き足を擦りむき血を流しても少女は、歩みを止めることなく闇雲に走っていた。そんな少女の顔には、恐怖、困惑、焦燥といった感情が浮かび上がっていた。
「一体なんなのよぉあの化け物は……! 」
そう、彼女は追われていた。
人にではない。人非ざるものにである。
そのものは、一言でいえば蛇のようなものだった。しかし、普通の蛇と違うのはその大きさだ。10メートル近くある人を丸呑みできるほどの大蛇であった。そして、大蛇の体は醜く爛れ、禍々しい気配を発していた。その蛇が這いずった跡は黒く爛れ、口元からこぼれた涎はコンクリートの地面を溶かしていた。
『フヒヒッ、クヒヒッ、もっと逃げろぉ、逃げろ逃げろぉ』
逃げる少女の背中に不気味な息遣いと共に投げかけられる。
その蛇、妖魔は遊んでいた。自らの糧となる少女の恐怖を、負の感情を煽るためにわざと追いつかない速さで少女の後ろを追いかけていた。
しかし、そんな追いかけっこも終わりを迎える。
路地裏を逃げ回っていた少女はついに行き止まりの道へと逃げ込んでしまった。
「えっ、うそ!? 嘘でしょ!? 行き止まり!? 」
真っ暗であるがゆえに前と左右の壁を手探りで触り他に道がないことに少女が気づいた時には、唯一の出口を蛇の妖魔が陣取った時だった。
『あれれぇ、追いかけっこはもうお終いなのかなぁ? それじゃあ食事の時間だよねぇ………! 』
「……っ! 」
蛇の妖魔はズリズリと地面を這いずりゆっくりと少女の前まで近づくと口を大きく上げた。そこから漂う醜悪な臭いに少女は思わず顔を背けた。
『いただきまぁーす』
その言葉と共に蛇の妖魔は少女に食らいつこうとした。
「嫌っ! 」
丸呑みにしようと食らいついてきた蛇の妖魔に少女は拒絶の言葉と共に反射的に行動に出た。そう、蛇の妖魔の顎を思いっきり蹴り上げたのだ。
『ギャッ!? 』
少女からの思わぬ反撃に蛇の妖魔から苦痛の声が漏れ、痛みで巨大な体を捩らせて悶絶する。
『な、な何故ただの人間の娘が我に触れれるのだぁあああ!? 』
蛇の妖魔は動揺の声を上げる。それほど蛇の妖魔からするとこの反撃は予想外であった。
そして、この少女の反撃が時間稼ぎとなった。
「そこまでだ」
その声にと共に呪符が飛んできて悶え苦しむ蛇の妖魔の体に張り付いた。
『っ!? 退魔師か! 』
「燃えろ」
呪符が飛んできた方に蛇の妖魔が首を巡らせた瞬間、蛇の妖魔は呪符から噴き出した蒼い炎に包まれた。
『ギャァアアアアアアアア!? 』
その蒼い炎は一瞬のうちに蛇の妖魔を包み込む大火と化したが、不思議と他のものに燃え移ることはなかった。あまりのことに呆然とする少女をよそに火達磨と化した蛇の妖魔はのたうち回り、そしてしばらくすると静かになった。
「し、死んだの……? 」
「いや、逃げられた。やはり先に結界を張るべきだったな」
蒼い炎が消えた時、そこには蛇の妖魔の姿はなかった。代わりに少女の前に現れた青年の言葉を信じるならばあの状況で逃げたようだった。
蛇の妖魔の代わりに現れた自分を助けてくれただろう青年を少女は呆然と見る。月の光に映し出された青年は、黒いTシャツに黒いズボンといった出で立ちで、異様なのはその腰に差した刀らしき武器と手に持つ呪符であった。
「ふむ……」
青年は、少女のもとに近づいてくると少女の姿をジロジロと見た後、徐に少女の腕を掴みボロボロの裾をめくり上げた。
「ふむ? 穢れを受けたようなのに体にそれらしき跡はない。それに先ほどのあれは……」
「嫌っ、離して! 」
少女の傷一つない腕を掴んだままブツブツと独り言を呟く青年に最初は呆気にとられていた少女だったが我に返ると青年の手を振り払った。手を振り払われた青年は、少女からの抵抗に驚いたのか目を見開いて硬直する。
「い、いい一体何なのよっ。あんたも! さっきの化け物も! 」
体を精一杯縮こまらせて両目からポロポロと涙を零す少女は、未だに動揺していた。無理もない。先ほどまでこの世のものではない人にとってすれば恐怖そのものである妖魔となんの心構えもなしに対峙し、そして追われていたのだ。喋れる元気があるだけ少女は図太い精神をしているといえる。
「ふむ……」
しかし、そんな少女の精神状況なんて知ったこっちゃないとばかりに青年は、少女へと再び歩み寄った。そして、きゃんきゃんと威嚇する少女の頬をむんずと掴んだ。
「だから、近づかないでって……ふにぃ!? 」
青年は、しばらく少女の頬を興味深そうにこねくり回して遊んだ。
「面白い。実に特異な力だ」
やっと少女の頬から手を放した青年は、そう言い放った。
「もうなんなのよぉ……」
その呟きは妖魔に追いかけられ青年に頬をこねくり回され傷心中の少女の耳には届かなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
それから少女は、神薙柊弥と名乗った青年に無理やり連れられて青年の家にいた。いや、正確には屋敷だろうか。庭付きの立派なお屋敷に少女は連れ込まれていた。そして、そこでボロボロになった制服を着替えさせられて今は柊弥から借りたダボダボのTシャツを着ていた。大きすぎてワンピースのようになっていた。
「お前、名前はなんだ」
「竜崎桜……」
「竜崎か……お前の両親や祖父母が退魔師をやっていた。もしくは特異な力を持っていたという話は聞いたことがあるか」
「あるわけないでしょ……。父さんはサラリーマンだし、母さんはただの主婦だし、お爺ちゃんたちだってただの田舎の農家よ」
「なるほど……血縁とは関係しない先天性の力か」
またブツブツと独り言を呟き始める柊弥をよそに竜崎桜と名乗った少女は、部屋の様子に目をむけた。
その有様は、みすぼらしいという言葉が正しかった。
桜は、それが気になってしかたがなかった。
部屋の片隅に置かれたゴミ袋の山が気になるし、畳に積もった抜け毛や埃が気になるし、なにより机に塔を立てている空のカップラーメンが気になっていた。もしかしてこの青年、毎日カップラーメンで済ませてるのか?などと桜は考えていた。
桜は、綺麗好きなところがあった。
しかし、所詮はここは命の恩人とはいえ全くの赤の他人であり、自分の頬で遊んでくれた失礼な相手である。代わりに家事をするという思いよりもさっさとこんな家から出たいという思いの方が強かった。
「ねぇ、もう気が済んだ? 助けてくれたことには感謝してるし、服を貸してくられ助かったけどもう夜も遅いし、家に帰りたいんだけど」
「ん? しばらくはここで暮らしたほうがいいぞ」
「え? なんで? 」
「妖魔は、一度狙った獲物は生きている限り何度も執拗に狙ってくる。奴がまだ生きている以上、またいつ襲われるかわからない。俺もいつも間に合うわけではない。守って欲しければ奴を倒すまではここで暮らしてくれ。何、部屋なら腐るほどあるぞ。ちょっと汚いが」
「帰ります」
桜の決断は、早かった。すぐに立ち上がると自分のカバンを引っ掴んで柊弥の制止を聞かずに屋敷から飛び出して行ってしまった。
「あー……まぁ、あの力なら死ぬことはないか」
飛び出していった桜を柊弥が追っていくことはなかった。
それから一時間後の深夜1時、柊弥の家の立派な門が叩かれた。
「開けて! お願い開けて! 」
門を叩くのはやはり桜であった。頻りに後ろを気にしながら桜は早く開けと門を何度も叩いた。
「なんだ。やっぱり帰ってきたのか。大方、また襲われたんだろ? 」
一分ほどして門へと来た柊弥は、開いた門から転がり込むように入ってきた桜をそら見たことかという目で見ていた。
「食べられるかと思った……」
「そうか。よく逃げられたな」
「……引っ叩いたら怯んだから逃げたわ」
桜が恨めしそうな目でそう言うと柊弥は、「妖魔を素手で叩いたのか。そりゃ傑作だ」と面白そうに笑った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
結局、桜は柊弥の屋敷にしばらく厄介になることになった。
幸いにも時期は夏休みで、補習はあるが出席を推奨されてはいるものの体調を崩してしまったと連絡してしまえば休んでも問題はなかった。
屋敷に住むことになって桜が最初にやったのは、屋敷の掃除であった。
不本意ながらでも住むことになったからには、こんなに汚いのは桜には許容できなかった。
まず初めにと自分に割り当てられた部屋の掃除を桜がしていると、柊弥が桜の様子を見に顔を出してきた。
「随分と大掛かりな掃除をしているのか。綺麗好きだな」
「あ ん た が! ズボラすぎるのよぉー! 」
誰だって部屋の惨状を見れば掃除をしようと思う。それを今まで放っている柊弥がズボラすぎるだけなのである。桜は思わず柊弥に対して激高した。それを柊弥は煩わしそうに耳を塞いでスルーする。
「しかし、その格好のままだと服が汚れるだろ。確か昔ここで働いてた家政婦の服がどこかにあったな。それを着てしたほうがいいんじゃないか」
「え、家政婦なんていたの? 」
「随分と昔の話だがな。今じゃここには俺一人しか住んでない。……あ、お前もいたか」
「道理でこの惨状なわけね……」
柊弥一人しか住んでないと聞き、納得する桜。まだ半日の付き合いだが、屋敷の様子を見ていればどれくらいズボラな性格なのかは理解できていた。
「そうね。確かに汚れちゃうし、サイズが合うなら借りようかな」
少し埃で煤けたような服を見て桜はそう答えた。今後屋敷を掃除するならそちらの方が都合がよかった。
「わかった。じゃあ当たりはついてるからちょっと取ってくる」
柊弥はそう言うと、服を取りに出て行った。
「おーピッタリじゃないか」
「ちょっと、何なのよこれ! スカートの丈短くない!? 」
しばらくして柊弥が持ってきた家政婦の服を着た桜は自分の姿を鏡で見て絶叫した。
服が和装メイド服であることは、まだいい。そんな服を着た人がいてもおかしくないくらいにはこの屋敷は立派で、和風の様式だ。
しかしだ。しかしである。スカートの丈が学校の制服よりも短くやけにフリフリのフリルがついているのが桜には許容できなかった。
「楓さん、可愛い服が好きだったからな」
桜が真っ赤になってプルプルと震えてるのをよそに柊弥はその服を着ていた家政婦として働いていた人のことを思い返していた。
桜はブツブツと文句を言っていたが、それ以外にサイズの合う服がなくフリフリのフリルがついた和装メイド服を着て掃除をすることになった。柊弥は気づいたらいつの間にかいなくなっていた。
「全くどうしてこんなことになったのよ……」
悪態を尽く桜。しかし、手は動かしていた。
綺麗好き故に掃除も手馴れているのか、長年屋敷に溜め込まれた汚れに桜は屈することなくその日一日で屋敷の四分の一に当たる普段使用している部屋の掃除をすべて終わらせてしまった。
「……随分と片付いたな。広くなった気がする。それに綺麗だ」
夕方、居間に現れた柊弥はゴミが片付けられ、畳の上の埃や汚れを掃き清められた部屋を見てそう呟いた。
あまりの変わりように狐に包まれたような表情をしている。
「あ、あんたどこに行ってたのよ。声をかけても返事がなかったし、もうご飯出来たわよ」
「ご飯? まさか夕食まで作ったのか」
巨木を切り出した立派な木製の机の上に並べられた桜手製の夕食に気づき、柊弥はまたもや驚く。机に置かれている食器はここ数年棚にしまいっ放しだったものなのだが、今回の掃除で桜が綺麗に洗って再び食卓の上に置かれていた。
「そりゃ作るわよ。カップラーメンなんて私はあまり好きじゃないのよ。ほらっ、ご飯が冷めるからさっさと座って! 」
桜にせっつかれて胡坐をかいて座った柊弥は、食卓の上に並べられた料理に表情は変わらず目だけを輝かせた。
今日の夕食は、キス、南瓜、アスパラガス、茄子、紫蘇、茗荷の天ぷら、里芋と鶏の煮物、きゅうりの酢の物に、味噌汁、白米となんとも豪勢な献立だった。
「……食材はどうしたんだ? 」
「近くに商店街があったからそこで買ってきたのよ。昼間なら暗がりにでもいかないと出ないというのを信じてね。あとでかかった費用は請求するわね。あ、でも紫蘇と茗荷はそこの庭でとったのよ。誰かが昔育てたのか生えてたからね。ネギとかもあったのよ」
桜の返答に柊弥は「そうか」と短く返すと自分の箸を手に取った。
「いただきます」
柊弥がまず最初に手をつけたのは、キスの天ぷらだった。添えつけられた塩をつけ青年はそれを口に運んだ。噛むと衣がサクッと音を立てた。キスの白身は口の中でホロホロと崩れ落ち、口の中で塩と衣から滲み出た油が混ざり合い塩味のある甘味が口一杯に広がる。その甘味が淡白なキスに味をつけ更に旨味を引き出した。
次に柊弥が手をつけたのはアスパラガスの天ぷらだった。噛むと衣がこれまたサクッと音を立て、シャクリと中のアスパラガスから水分が出た。衣は柔らかくサックリと揚げられていて中のアスパラガスは瑞々しくジューシーだった。程よい固さの触感に柊弥はすぐに食べ終える。
次に南瓜に手をつけ、その身の中央はホクホクと柔らかくも皮の固さが残る独特の触感と南瓜の甘さを堪能すると、柊弥は何も考えずに茗荷を口に運んで、茗荷のスゥーとした清涼感に驚き顔を顰めた。
「あっ、もしかして茗荷苦手だった? 」
「いや、そうじゃない。天ぷらで食べたことがなかったから驚いただけだ。しかし、この天ぷらは美味いな。特にこの白身魚の天ぷらはおいしい」
「ふふっ、どうも。それはキスの天ぷらよ。魚屋のおばちゃんがサービスでくれたのよ」
「そうなのか」
柊弥は相槌を打ちつつ、再びキスの天ぷらを堪能し、その後紫蘇の天ぷらを食べる。茗荷ほどでもないが癖があり好みがわかれるものだが、柊弥の口にはあったようで食べきった。
天ぷらの次に柊弥が手をつけたのはキュウリの酢の物だった。キュウリをシラスとワカメと一緒に摘まむと口に運んだ。程よい酢の香りと柔らかな酸味が舌を刺激する。塩もみしたキュウリはしんなりとしているがまだ歯ごたえがあり、噛むとシャキシャキと音を立てた。
口の中の酸味を消すために次に柊弥が手をつけたのは味噌汁だった。具は、シンプルにワカメと豆腐で、刻み葱が上に振りかけられていた。まずは縁に口をつけてズズッと汁を飲む。カップラーメンと比べれば薄い味付けだが、口の中で優しく広がるその味はしっかりと感じられる。
柊弥は味噌汁を持ったまま再び天ぷらへと手を伸ばして、茗荷を齧り味わった後に味噌汁で口の中をリセットして、酢の物を摘まむ。
「ちょっと、煮物もちゃんと食べてよね」
里芋と鶏の煮物に一向に手をつける様子のない柊弥に桜が痺れを切らして催促すると、柊弥は思い出したように天ぷらに向かっていた箸を煮物へと向けた。
煮物は、里芋と鶏もも肉以外にも人参と蒟蒻とオクラが具として入っていた。出汁は昆布出汁に醤油と砂糖に加えたもので、時間をかけて煮込まれた里芋や鶏もも肉の表面は茶色く色づけられ、逆に最後に入られたオクラは、青々とした様子で出汁の中に浸かっていた。
「煮物でオクラか? 」
茶色くなった煮物の具の中で、異彩を放つ青々としたオクラを箸でつまみ上げた柊弥は不思議そうにつぶやく。
「え、煮物にオクラって普通いれない? 」
「少なくとも俺の家では入ってたことがない」
「そうなんだ。でも結構おいしいのよ」
「……確かにそのようだな」
オクラを齧った柊弥は、口の中でしばらく味わった後桜の主張を認める。確かにまだシャキシャキとした食感を残すオクラは、噛んでいるうちに粘り気を出し口の中で僅かに染み込んでいた出汁と混ざり合って舌にはっきりと味を感じさせた。ネバネバとした食感が嫌いではない柊弥は、その食感も含めておいしいと感じた。
煮物にオクラも悪くないという新しい発見をした柊弥は、そのまま煮物に目をつけて味がよく染みた里芋や鶏肉をパクパクと食べては白米を口の中に運んであっという間に平らげて、そのまま他の料理もすべて綺麗に食べ終えた。
「ご馳走様でした……久しぶりにまともな料理を食べた気がする」
「お粗末様でした。あんたもたまには料理作りなさいよ。折角立派なキッチンがあるのに、あのキッチンが埃を被ってるなんて世間の主婦に喧嘩売ってるわよ」
「時間が勿体ない。それにキッチンは母さんや楓さんが拘ってたんだ。俺があそこを使ったことはない」
「ホントに宝の持ち腐れね……」
柊弥が食べ終えた食器類を運びながら桜は大きなため息をついた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
食事を終えた後、桜は柊弥に「風呂に入って身を清めてこい」と言われて、屋敷の地下にある温泉に入っていた。一時間ほどして桜は、風呂から出てきた。湯上りの桜はいつもはポニーテイルにしていた髪を下して、柊弥から渡された白装束を身に着けていた。
「ふぅ、いい湯だったぁ」
一時間の長風呂をしてお風呂を堪能した桜の機嫌はよく、鼻歌が漏れていた。
「まさか天然温泉のお風呂があるなんてね。あいつもそうと教えてくれればあの汚風呂を必死こいて洗う必要もなかったのに……」
柊弥の住む屋敷には今桜が入った天然温泉の風呂以外に一階に一般的なお風呂があったのだ。
しかし、これまたまともに掃除をしていないらしく風呂の中以外は、水垢や黒カビがびっしりと生えて完全に汚風呂と化していたのだ。それを必死にこんな環境の風呂で入りたくない一心で特に綺麗にしたというのに空振りをしてしまったのだ。無駄ではないが、空しく感じた。
と、そこまで考えて桜は、あるひっかかりを覚えた。
「ん? 待ってよ。あいつ、あんな素敵な温泉がありながら、昨日あたしにあんな汚い風呂の方に入らせたのか!! 」
そうなのだ。桜は、妖魔に襲われ柊弥の屋敷に転がり込むことになった時に一度汚風呂の方を使用しているのだ。背に腹は代えられないと断腸の思いでお風呂に入ったのだ。
「あいつぅ……! 」
上機嫌だった桜の機嫌は、あっという間に急下降し、怒りが急上昇した。
「理由も説明せずにあたしにこんな服着せてくるし! 何が退魔師よ! 問い質して納得できなきゃ一発引っ叩いてやる! 」
今まで堪りに溜まった柊弥に対する不満を一気に噴出した桜は、ぐっと右手を握りしめて咆えた。
そして、ドスドスと荒い足取りで青年に予め言われていた部屋に向かい、桜はその部屋にたどり着くと障子をスパーンと勢いよく開けた。
「さぁキリキリ吐きなさいよ! 」
そう言って桜が、豪快に入った部屋は畳の上に白い布が敷かれ、その上に六芒星が描かれ、その星の端には皿に盛られた塩が鎮座し、その六芒星を囲うように四方に柱を立てて注連縄で囲んでいた。
中央には白装束に身を包んだ柊弥が目を閉じ静かに座していた。
「あ……う……」
その部屋の雰囲気に当てられた桜の怒りは急速に引いていき、二の句が継げれず黙り込んでしまった。
「……やっと来たか」
先ほどの桜の怒声を無視して、柊弥は部屋の前で固まる桜に声をかける。
「今からお前の奇妙な力について調べる。知りたいなら俺の前に座れ」
「………」
柊弥から既に妖魔の危険性と自分のもつ力について桜は話を聞いていた。
桜は何も言わずただコクリと神妙に頷いて恐る恐るといった足取りで柊弥と向かいあう形で六芒星の中央に座った。
六芒星の中心には、砂が盛られた三方があった。その横には白い壺が置かれていた。中には透明な液体が入っていた。
柊弥は、正座で座った桜の全身を見て問題がないかを確かめると「それでは、儀式を始める」と言った。
得体の知れない怪しげな印象が拭えない桜は、緊張からごくりと唾を飲み込んだ。
「桜、胸を揉ませてくれ」
ばしーん! と柊弥の頬に強烈なビンタが炸裂した。
「何故叩く」
「あんたがおかしなことを言うからでしょうがっ!! 」
頬を抑えた柊弥からの抗議に桜は顔を真っ赤にさせて叫んだ。
「おかしいでしょ!? この場で! この状況で! なんで私が胸を揉ませなきゃなんないの! 」
「儀式で必要なことだからだ」
「エッチ! 変態! 」
何を当たり前のことを、とばかりに言う柊弥に桜は立ち上がって後退る。
「しかし、これをしなければ儀式を行えない」
「そんなスケベな儀式こっちから願い下げよ! 」
一番心臓に近い胸に触れることで魂をより鮮明に把握するのだと柊弥は桜に説明したが、桜は聞く耳を持たず、しばしの口論の後、おでことおでこを突き合わせることで桜が妥協した。
「……変なことしたら今度は殴るからね」
「しない」
威嚇してくる桜を適当にあしらいながら柊弥は、桜のおでこと自分のおでこを当てた。
おでこが触れ合ったまま青年がブツブツと祈祷を始めてしばらくすると締め切った部屋に風が生じる。
その風は、初めは微かに肌で感じるほどの微風だったが、次第に強くなり注連縄の紙垂れを揺らし始める。
部屋の四方に置かれた蝋燭の火が風で揺らぎ、終いには強くなった風によって吹き消される。
暗くなった部屋の中で畳に敷かれた白い布が青白く発光し、墨で描かれた六芒星が段々と輝きを増す。
六芒星の中心に描かれた目が赤く色づき、その上に置かれた三方に盛られた砂が蠢きひとりでに形作り始める。
風がより強さを増し六芒星の六つの端に盛られた塩を吹き散らし舞い上げる。
塩を取り込んだ風は、全体的に白く色づき、光に反射してキラキラと光る。
柊弥と桜が座す中央は、円を描くように吹く風のちょうど風の目となっていて無風に近い状態だが、それでも砂は蠢き、三方の上で細長い蛇のような姿を取り始める。そして足が生え、髭が生え、表面に鱗のようなものが浮かび上がり始める。
口が裂け、牙が生え、目が浮かび上がった時、その砂像は首をもたげて柊弥の方へと顔を向けた。
その瞬間、白い壺から神酒が立ち昇り、砂像にかかった。それを皮切れに風の流れが変化し、中心に流れ込むように風が流れ込んだ。塩を大量に含んだ風は、まるで意識があるかのように砂像を覆い隠した。
風が段々と弱まり収まった時には、砂像は表面を塩で覆われ塩の像と化していた。
「……これで儀式は終わりだ」
十分間近く、おでことおでこを突き合わせたまま祈りを捧げていた柊弥は、そう言うと桜から離れた。
「やはりか……」
三方の上に出来た像を見て、柊弥は眉間に皺を寄せる。像は、東洋龍の姿を形作っていた。
「そ、それで、どうだったのよ……」
十分間、柊弥とおでこをくつっけて鼻が当たるほどに密着していた桜は、首まで真っ赤にさせてドギマギしながらも平気な様子を見せようとして思いっきり噛んでいた。
「桜の魂には龍が宿っている。妖魔を襲われて無事だったのはそれが原因だ」
「え、それって……」
「桜は、妖魔の穢れを寄せ付けないし、強く拒絶すればするほどその意思は衝撃となって相手に与える。蛇の妖魔が桜に蹴られたり叩かれたりして悶絶してたのは多分その力が原因だ。妖魔というのは本来痛みに鈍くて打たれ強いからな」
「……じゃあ私は妖魔に襲われても大丈夫ってこと? 」
不気味な化け物に狙われているという不安を抱いていた桜にとってそれは、縋りつきたくなる希望だった。
「いや、そうでもない。妖魔が発する穢れを無効化できても、妖魔がお前の負の感情を糧にすることはできるし、妖魔がお前に触れることはできる。俺が助けた時にも何度か妖魔に攻撃されてたんだろ? 」
「あ……」
柊弥に指摘されて桜は、妖魔に襲われた時のことを思い出した。確かに逃げている時に何度か妖魔の体と接触することがあった。その時は、妖魔が遊んでいたから大事に至らなかったが、妖魔に害する意思があれば、怪我を負っていたかもしれなかった。
自分が無事だったのは本当に運がよかったのかもしれない。
そう考えた桜は、妖魔に襲われた時のことを思い出したこともあって血の気が引き、顔色が悪くなった。
「まぁ、素人が妖魔から身を守る上で考えれば十分な力だ。あとは退魔師の俺に任せとけ」
柊弥は顔色の悪くなった桜を胸に抱き寄せて、安心させるようにポンポンと桜の背中を叩いた。
「……うん」
今まで不安を押し殺してきた桜は、その安心感から青年の背中に腕を回してギュッと抱きつき、胸に顔を埋めた。
瞑った瞼から一筋の涙が零れ落ちた。
しばらくして、桜は柊弥の胸の中で声を上げて泣いた。柊弥は、やれやれといった様子で桜が泣き止むまで背中を優しくなで続けた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ぅん……ふぅ、んん? あれ、ここは……? 」
泣き疲れていつの間にか眠ってしまった桜が再び目を覚ました時、桜は自室の布団の中にいた。
寝ぼけ眼で、手探りで照明器具の紐を探ると引っ張って明かりをつける。
目を刺す明るさに目を細めてコシコシと目元を擦りながら桜は、自分の格好を確かめる。寝ている間に着崩れていたが、儀式を行った時の白装束のままだった。
「あ、そっか。わたしあのまま寝ちゃったのか……」
その時のことを思い出した桜は、「あーどうしよう……」と頭を抱えて蹲った。
柊弥に抱き着いた時のことを思い出して羞恥心が沸き上がってきたのか、桜の顔はどんどんと赤く染まっていく。
「あぁ、死にたい……恥ずかしい……あんな奴の前で泣くなんてぇ~! 」
枕に顔を埋めて桜は悶絶する。
「………でも、あいつの胸堅かったなぁ」
柊弥は、一見ひょろりとした細身の痩せた様子だったが、着痩せするタイプなのだろう。抱き着いてみると柊弥の胸板は筋肉がついていて、腕も見た目より筋肉質でがっしりとしていた。
そのことを思い出し、桜は恥ずかしいやら興奮するやらで意味もなく布団の上でゴロゴロと転げまわる。
「今度どういう顔であいつに会えばいいんだろ」
顔がトマトのように火照り切った桜は、柊弥の顔を頭に思い浮かべながら途方に暮れる。
桜が柊弥に対して抱く感情は、複雑であった。桜自身もその感情を持て余すようになってきていた。
「トイレいこ……」
しばらくして気持ちが落ち着いてきた桜は、むくりと布団から起き上がり、着崩れた白装束を着直して部屋を出た。
時間は深夜の二時で、明かりのついていない廊下は真っ暗であった。
屋敷はシンと寝静まっている。
「何にも見えないわね……」
暗い廊下を桜は手探りで歩きながら最寄りのトイレを目指す。
三分ほどかかって目的のトイレへと辿り着くと桜は、いそいそと中に入り用を済ませる。
トイレを出てすぐの手洗い場で手を洗った桜は、濡れた手を拭きながら喉乾いたなーと考え、すぐに自室に戻らず台所に足を運んだ。まだ知らない場所の多い屋敷ではあるが、掃除をしたことである程度はわかるようになっていた。
台所に向かう途中で、庭に接するガラス戸がある廊下にきた桜は、ガラス戸から漏れる月明りの光に混じってチカチカと時折赤や青の色とりどりの光が廊下の床に映し出されていた。
「? テレビ? 」
その光を見た桜は最初そう思ったが、庭にテレビがあるわけもなく、不思議に思った桜はガラス戸に近づき、外の庭の様子を見た。
桜の目に映ったのは、蛇の妖魔と柊弥の姿だった。
「え? 」
予想もしていない事態に思考停止に陥る桜を他所に庭での攻防戦は激しさを増す。
柊弥は、蛇の妖魔に呪符を放り炎を生み出す。蛇の妖魔は、全身に炎が回る前に庭の池に飛び込み炎を鎮火させる。本来水で消える炎ではないが、妖魔が妖気を水に混ぜ込んだことで炎に干渉し鎮火した。
蛇の妖魔は、妖気を含み穢れた水となった池の水に干渉し、鉄砲水となって柊弥を襲う。柊弥は、後ろに大きく飛び退りながら呪符を眼前に突き出す。呪符の効力によって柊弥の前に障壁が生まれ、穢れた水から柊弥を守る。
地面に着地した柊弥は、そのまま池の外周を沿うように走り出す。蛇の妖魔の操る水は、不自然に曲がり柊弥を追い、池から追加の鉄砲水が柊弥を襲う。柊弥は、効力が切れて破れた呪符の代わりに新たな呪符を懐から取り出し障壁を張り直し、空いた手で別の呪符を飛ばして、庭木や燈篭に張り付けていく。
グルリと池を一周した柊弥が、迫る邪水の濁流を無視して地面に呪符を叩きつける。
すると、柊弥が張り付けていた呪符との間に光の線が浮かび上がり、池を囲うように六芒星の陣が浮かび上がる。その陣から目が眩むような閃光が起きた。
「きゃっ!? 」
呆然と見ていた桜は、その光を直視してしまい目が眩む。
視界がチカチカとしているのを感じながらも、目を開けて庭の様子を見ると、池の中の蛇の妖魔はぐったりとした様子で倒れ込み、濡れ鼠となった柊弥は最後に見た立ち位置とは反対の場所で抜き身の刀を持って佇んでいた。
「か、勝ったの? 」
桜がそう思っていると、柊弥の体が揺れ、どさりとその場に倒れ伏した。
「と、柊弥! 」
桜は、初めて柊弥の名を叫び、ガラス戸を開けて庭に飛び出した。その時にパリンというガラスが砕けるような音が響いたのだが、桜はその音に気づくことなく裸足で柊弥のもとに駆け寄った。
「桜……? 何故お前が……結界を張ってただろ……」
「柊弥! 柊弥! 大丈夫!? 」
全身が濡れた柊弥の体からはシュウシュウと音を立てて煙が立ち昇り、耐性があるのか服はボロボロにはなっていなかったが剥き出しの右腕は赤く爛れて、顔の右半分が爛れていた。
「クソッ、あの力かッ」
心配する桜を他所に柊弥は、桜が屋敷に結界を張っていたにも関わらずここにいることに驚いていたが、桜の中に宿る竜の力で結界を破ってきたことに気づくと怒気を顕にした。
「馬鹿が。なんで出てきた……! 妖魔の目当てはお前なんだぞ! 」
柊弥は顔を怒りで歪める。
「で、でも! それに妖魔はもうあんたが倒したんだから――」
――大丈夫でしょ、と続けようとした桜の背後からあの不気味な笑い声が聞こえてきた。
『フヒッ、クヒヒッ、見ーつけたぁ』
バッと桜が後ろを振り向くと、池から首をもたげた蛇の妖魔がにこちらを見てニヤリと口を歪めていた。
その首元には、一筋の傷がありそこから血が流れ出ていたが桜には蛇の妖魔が弱っているようには見えなかった。
「ヒッ、な、なんで死んだんじゃ……」
『もう逃がさないよぉー!! 』
動揺する桜に蛇の妖魔が襲い掛かった。
「桜! 」
「きゃっ! 」
ドンッ! と背中を強く押されたかと思うと桜は、数メートル近く吹き飛び地面を転がった。
地面を転がった桜の背中から破れた呪符がハラリと落ちる。
「うっ……あっ」
一瞬何が起きたかわからなかった桜だが、自分が背中を押されて地面に倒れたことを把握すると、自分がいた方を見た。
そこには、蛇の妖魔に全身を絡みつかれて拘束された柊弥の姿があった。
「柊弥! 」
その光景で、柊弥が自分を庇ってくれたことに気づいた桜は叫んだ。
『クヒヒッ、なんだなんだぁ、我に食べられたかったのかぁ退魔師ぃ? 』
蛇の妖魔は、柊弥の耳元でそう囁きながら、その巨体で柊弥をジワジワと締め上げる。
バキボキという柊弥の骨が折れる鈍い音が辺りに響く。
「く゛ぅ゛ぅ……ぁぁ゛あ゛あ゛あ゛!! 」
妖魔の発する穢れによる体の浸食と万力のように体を締め上げる激痛に柊弥は口から血反吐を吐いて絶叫する。
「柊弥ぁ! 柊弥ぁああ!! 」
自分を庇ったために苦しむ柊弥の姿に桜は泣き叫ぶ。
その叫びすら負の感情を糧とする妖魔には糧であり甘露であった。
『ヒヒッ、どうだぁ? 痛いかぁ? 苦しいかぁ? もっといい声で鳴いて見せろよぉ! 』
妖魔は柊弥から、そしてそれを見ている桜からより負の感情を引き出すために柊弥の腕に尻尾を巻き付け、あらぬ方向へ折り曲げた。折れた骨が肉を突き破り外へと飛び出る。
「ぐがぁぁあ゛あ゛あ゛!! 」
柊弥の絶叫が庭に木霊する。鮮血が散り、その血飛沫が桜の頬にかかった。
拭おうとして桜はその血に触れた。ぬるりとした水とは違う独特の手触りに桜は、震えだす手を顔の前に出す。指先が赤く染まっていた。鉄臭い血の臭いがした。
ドクンと桜の心臓が強く高鳴った。
「あ、ぁぁあああああああああああああ!! 」
桜は喉が張り裂けんばかりに絶叫し始める。
『クヒヒッ、いい声だぁ、いい悲鳴だぁ……! 』
桜の叫び声を聞き、そこに込められた負の感情を取り込み蛇の妖魔は嬉気に笑う。
『フヒッ、フヒヒッ、フヒヒヒヒィッ! ンアッ? なんだぁあれは? 』
しかし、その笑い声は桜に起きた異変を目にして疑問の声に変わる。
「ぁぁああああ! ぁああああああああああああ!! 」
桜はいまだに喉を張り裂けんばかりに天に向かって絶叫している。しかし、その輪郭があやふやになってきていた。
絶叫する桜は人としての姿を失い、瞬く間に龍へと変じた。
その姿は、あの儀式で出来た砂像と酷似した姿だった。
「ォォオオオオオオ!! 」
絶叫はいつしか咆哮となっていた。
『なぁああああ!? 龍! 娘が龍に! 』
蛇の妖魔の倍はあろうかという巨大な龍の出現に、蛇の妖魔は柊弥を締め付けるのも忘れて動揺を顕わにする。
天に向かって咆哮していた龍は、咆えるのを止め、ジロリと目を向けて蛇の妖魔の方を見た。
「ガァアアアアアアアアアアアアアアア!!! 」
『ヒ、ヒィィ!! 』
龍の咆哮を間近で受けた蛇の妖魔は隔絶とした力の差に怖気づき、柊弥の拘束を解いてこの場から逃げ出そうとする。
しかし、それを見逃すわけがなかった。
龍の尻尾が鞭のように撓り地を這って逃げようとした蛇の妖魔の胴体を捉えた。
『グゲェー!? 』
蛇の妖魔はバッドに当たったボールのように水平にかっ飛び、燈篭にぶつかる。燈篭はぶつかった衝撃で粉々に砕けた。
それでも蛇の妖魔はしぶとく生きていた。痛みに呻きながらも、なんとしてでも逃げ出そうと以前柊弥から逃げたときのように地面の下に潜ろうとする。
「ガアッ!! 」
そこに龍が鋭い一声を放った。それが合図だった。
ピシャァァンッ!
いつの間にか天に出来ていた積乱雲から雷が蛇の妖魔の上に落ちた。
それは、一度だけではなく二度、三度と執拗に蛇の妖魔のみを狙って続けて落ちた。
それは龍の怒りであるかのようだった。
龍によって意図的に呼び起こされた落雷には蛇の妖魔も耐え切れず、雷が収まるとそこに残っていたのは蛇の妖魔の輪郭を残した炭であった。
その炭は、風が吹くとさらさらと砂のように砕けて細かくなり霧散していった。
蛇の妖魔が塵となって消えた後も、グルグルと雷のような鳴き声を上げて警戒していた龍は、柊弥のうめき声を耳にしてハッとした様子で、柊弥の方に首を向けた。
「グルルゥ」
心配そうに龍は柊弥に顔を近づける。
蛇の妖魔から解放された柊弥だったが、容態は最悪であった。
体は穢れに侵されて全身が爛れ、右腕の骨は折れ飛び、肋骨のほとんどが折れて一部が肺に突き刺さっていた。もはや意識は混濁としていて虫の息だった。
「グルルゥ」
龍は、柊弥の顔により顔を近づけると柊弥の口にキスをした。
それと同時に柊弥の体が淡く輝き始め、体から白い煙が立ち昇り、柊弥の体の爛れが嘘のように引いていき、右腕の骨がひとりでに蠢き、体に収まり正しい位置に戻り繋がる。苦しげだった柊弥の呼吸も肋骨が元の位置に戻り肺が元に戻ったことで穏やかになる。
そして、龍もまた淡く輝き始め、輪郭がぼやけ始めて、龍から人へとその姿を変えて、龍が柊弥にキスをする姿から桜が柊弥にキスする姿に変わった。
2人の変化が収まり、体から輝きを失うと桜はそのままドサリと柊弥の上に倒れ込んで意識を失った。そして、柊弥も意識を失ったまま目を覚ますことはなかった。
2人が目を覚ましたのは、それから六時間後の朝九時頃のことだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
目が覚め、庭の惨状と自分に覆いかぶさって眠る桜に困ることになった柊弥は、桜を起こした後に庭に残された蛇の妖魔の成れの果てである塵から蛇の妖魔の死を確認し、桜の無事を確認した。
目が覚めた桜に柊弥は裸にされかねない勢いで無事を確認されたが、妖魔に直接触られ穢れに侵され、骨も折られたというのに柊弥の体には傷一つ残っていなかった。
薄っすらと脳裏に残っている桜が龍に変じたことが関係するのだろうと柊弥は当たりをつけていたが、当人の桜が記憶があるというのに頑として答えなかったので、真相は分からずじまいだった。
桜にとっては幸いなことに首を捻る柊弥の耳に「私のファーストキスがぁ……」と落ち込む桜の嘆きは届くことはなかった。
それから一日後、蛇の妖魔が再度現れるというようなこともなく、龍に変じた桜には別段異常が見られなかったことから桜は晴れて、柊弥の屋敷から出て自分の家に帰ることとなった。
「お世話になりました! 」
荷物を持った桜が、屋敷の前で見送りに来てくれた柊弥に礼を言う。
「おう」
柊弥は、ぶっきらぼうに返して手を振る。
「あんた、折角私が全て掃除したんだからたまには掃除するようにしてよ! あとご飯もちゃんとしたのを食べるのよ! 風呂も毎日入るのよ! 洗濯物も何日も溜めないようにするのよ! それから――」
「お前は、俺の母親かよ」
ズボラな性格の柊弥に対していつまでも続く桜のお小言に柊弥は呆れたように言う。
「そんなに老けてないわよ! それにあんたみたいな不健康な息子なんて嫌よっ! 」
「あーはいはい。わかったわかった」
煩くなりそうなので耳を塞いで柊弥は桜を適当にあしらう。
「あーっもう、とにかく! 元気でねっ! 」
「ああ、じゃあな」
「うん、バイバイ」
そうして桜は、去っていったのだった。
「……寝るか」
桜を見送った柊弥は、退魔師としての夜の仕事のために再び眠りにつくのであった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その日の夜の午後十時に柊弥の家の立派な門が叩かれた。
「開けて! お願い開けて! 」
ドンドン! ドンドン!と何度も叩く音に、これから街の見回りに行こうとしていた柊弥が面倒くさそうにしながら門を開けると、そこにいたのは涙目の桜だった。
「桜? 」
「助けて柊弥! 今度はなんか蜘蛛みたいな奴に追われてるの! 」
「龍になればいいじゃないか」
「なろうと思ったけど、なれなかったの! お願い柊弥、またこの家に匿って!! 」
そしてまた、桜は柊弥の屋敷に厄介になることになったのだった。
補足
・妖魔は、死ぬと塵となる。体があるうちは生きている。
・地下の温泉は、龍脈と水脈がちょうど重なる位置にあり、呪術的な技で疑似的な龍穴を作り、温泉を汲み上げている。禊の場として使われている。
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