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第三章



 第三章 デパートと交差点は、とんでもない戦場になりました



「……大丈夫かな、メルは……」

「大丈夫だってー。気にしすぎだぞサイフはー」

 百崎の呟きに対し、隣を歩くローナが言葉を返した。

 時刻は放課後、午後四時三十分。百崎とローナとリンの三人は、デパートへ向かう道のりを歩いていた。目的は、百崎の生活に必要なものを買うためである。日用品や文房具、下着、衣類、その他雑貨など、買うものは意外とある。

 天使の襲撃のあと、百崎とへーちゃんの協力によって大量の金を得ることができたメルは、すぐにそれを魔力に変えて怪我のの回復を行った。保健室のベッドの上で、魔力再生による光に包まれたメルを見下ろして、ローナは「これは放課後までかかるなー」と言った。首から下が瞬時に再生した経験のある百崎にとっては、何でそんなに時間がかかるのか驚きだった。ローナが言うには、百崎の再生する早さは常人のそれとは比べものにならないほど早いらしく、体内貯金が増えるのと同じ特殊体質だと言われた。

 そして放課後、ローナの予測通り体が完全に治ったメルだったが、再生した体をなじませるのと、失った体力を回復させるために、家で休息させることになった。メルは、「そんなことしなくても平気だって」と言ったが、明らかに平気ではなさそうだったので、三人から激しいお怒りをくらった。しぶしぶメルは休息を取ることを受け入れ、メルはアリスにおんぶされて百崎たちは一旦帰路についた。そしてその道の途中で、自宅方向に行くメルと看病係のアリスの二人組と、デパートに買い物に行く百崎とローナとリンの三人組に別れた。

「……俺のせいで怪我したようなもんだし……。そりゃあ気にもなるって……」

 漠然とした不安が胸の内から消えず、それを一時的に和らげるために百崎はどうしようもなく呟いてしまう。メルがいた時はまだ抑えることができたが、本人がいなくなった途端に不安と罪悪感が増大し、呟きもとい愚痴が止められなくなってしまった。

「不安になる気持ちは分かるけどさー。気にしすぎると体に毒だぞー?」

 ローナが明るい口調で言う。先ほどから意味のない愚痴をこぼす百崎だったが、ローナはその全てに対して気遣う言葉を返していた。言っても仕方のないことをくどくどと聞かされるのは、他人にとって面倒くさかったり嫌になったりしてすぐに無視してしまうものだが、ローナはまったくそんなそぶりを見せる様子はなかった。

 百崎も、ローナのその優しさに少し――いや、かなり心を救われていた。

「考えすぎだって、自分でも分かってるんだけどさ。でもどうしても頭から離れないんだ」

「……それは、才人がまだ人間界の怪我の感覚を持っている証拠だと思う」

 言葉を返したのはローナではなく、二人の三歩後ろを歩くリンだった。

「人間界の怪我の、感覚……?」

 百崎が後ろを振り返りながら言う。リンはこくりと頷いて、

「……人間界は、怪我がすぐには治らないから、怪我をしたあとの不快感が長く続く。だからこそ人間界の人は、怪我に対して敏感な感覚を持っていると思う。才人も、人間界のその敏感な感覚を持っているから、必要以上に自分を責めて追い込んでしまうんだと思う」

 リンの話を聞いて、ローナが口を開いた。

「リンの言う通りかもなー。それにサイフは人のことを放っておけない性格してるし、メルのことが好きだから余計に、なー」

「……ありがとう二人とも。気が楽になったよ」

 百崎が素直に感謝すると、二人は照れくさそうに笑った。

「……それと、もう一つだけ」

 リンが再び声を発した。

「ん、何?」

「……次メルに会ったら、怪我のことについて謝るんじゃなくて、守ってくれてありがとうと言ってあげて。そっちの方がメルも嬉しいと思うから」

「ああ、必ず言うよ」

 百崎はリンの目を見て、はっきりとそう誓った。


「よし着いたぜー!」

 ローナは顔を上向けてやや高い所を見ながら、張り切った声で目的地に到着したことを告げた。

 百崎たちの前にそびえ立つ、一つの大きな建物。見上げるほどの高さを誇るそのデパートには、夕方ということもあってか、多くの人が出入りをしていた。

「おっかいものー♪ おっかいものー♪」

 ローナがメロディのついた歌のようなものを口ずさみながら、跳ねるように入口に向かっていく。常時テンションが高めのローナだが、今はより一層高い気がした。

 百崎は歩く速度を緩めて、リンの隣に並ぶ。ローナに聞こえないようにそっと質問をした。

「なあ。何であいつはあんなにテンション上がってるの?」

「……分かりません」

 言いながら、リンは小首をかしげた。それから百崎の方をちらりと見る。

 リンが、今度はデパートを見上げた。そして再び百崎を見た。今回はさっきよりも長くこちらを見ている。

「……ああ、なるほど」

 リンが正面を向いてからぽつりと呟いた。

「えっ? 分かったの?」

「……うん。けど、教えない」

 そう言ってリンは口を閉ざしてしまった。しかし、その口元がかすかに笑っているのに、百崎は気がついた。ローナのテンションが高まった理由がかなり気になるが、そのうち分かるだろうということで、今はそれ以上考えないことにした。

 三人は入口の自動ドアをくぐって中に入った。

「さてー、何から買おうかー」

 店内を見渡すと、実に多様なものが置かれている。さすがは百貨店だ。

 一階は服飾雑貨のスペースとなっているようで、化粧品やアクセサリー、ハンドバッグなどが多くを占めていた。

「特に順番とか決まってないし、思いついたのからでいいよなー?」

「いいと思うぞ」

「……うん」

「よし、それじゃー最初は下着類だー」

 ローナがある方向へ歩き出した。おそらくエスカレーターへ向かっているのだろう。ここには男物の下着は置いてないだろうし。

 予想通りエスカレーターに乗って上層階へ向かった。ついた場所は四階。紳士服売り場であった。三人はきょろきょろと周りを見回して、下着類が売っている店舗を探す。

 ローナとリンは女の子なのでこの場所には縁がないし、百崎はこのお店に来ることが初めてなので、詳しく知っている者はいなかった。

「おっ、あったぞー」

 ローナの指差した方向には、男用のパンツや靴下、肌着がいくつも置かれている店舗があった。ついでにパジャマの類も置いてあるようである。

 早速三人はその店舗へ足を運んだ。

「結構種類あるなー。サイフはどれがいいー?」

 トランクスの前で立ち止まると、ローナが聞いてくる。

「んー、別に何でもいいかな。デザインとかあんまし気にしないし」

「じゃあさー。ローナが決めてもいいかー?」

「いいぜ」

「よっしゃー! どうしよっかなー。……まずはこれだろー、あとは…………」

 嬉々としてトランクスを選び始めるローナ。その様子を眺めていると、つんつんと肩を突かれた。百崎がそちらを振り返ると、リンが立っていた。

「……肌着のシャツを見に行こうと思うんだけど」

「ああ、じゃあそっちはリンに任せるよ。俺は寝間着を見てくる」

「……サイズは?」

「そうだな、無難にLで」

 リンは頷くと、くるりと向きを変えて歩き出した。百崎は再びローナに向き直る。

「ローナ。俺は寝間着見てくるけど、どうする?」

「一人で行ってきてー、もう少しかかるからー」

 あいよ、と軽く返事をして百崎はパジャマのあるスペースへと向かった。それにしても、ローナはどんだけパンツに時間をかけているんだろう。別に自分がはくわけでもないのに。ま、楽しそうにしてるんだし、いいか。

 百崎はパジャマのスペースを一通り見て回ると、一番しっくりきた青いチェック柄のやつを手に取った。ちょうどその時、リンがシャツを何枚か持って百崎と合流した。

 二人はローナの所に戻ると、ローナもトランクス選びが終わったようだった。三人でレジに行って会計を済ませる。

 女性の店員に肌着の入った紙袋を二つ渡され、百崎が受け取った。

「ありがとうございました~」

 店舗をあとにすると、ローナが百崎の袖口を引っ張った。

「ん? どうした?」

「ローナが荷物を収納してやるぞー」

「収納?」

「そうだー。…………んよっと」

 ローナが気合を入れると、肘から下と膝から下が白い光に包まれた。次の瞬間、その光がパッと弾けると、四肢が黒い鋼で覆われていた。天使戦でもちらっと見かけたが、おそらくこれがローナの魔武器なのだろう。

「ほい、袋かしてー」

 言われた通りに紙袋を差し出すと、ローナは右手でまず一つ紙袋を持った。そして、残った左手をその袋の下に当てる。

 すると、紙袋がみるみるうちに小さくなっていった。五センチほどのミニチュアサイズになった袋の取っ手を、ローナは摘むように持っている。

 気がつくと左手の手の平に、人間の口のようなものが存在していた。その口は大きく開かれ、白い歯と赤い舌を覗かせている。それは、メルが刀の刃を広げて作り出すものと、規模は違うが形自体は似たようなものであった。ローナの場合、そこが吸金の時にお金を吸い込む所になるのだろうか。

 ローナは右手で摘んだ紙袋をそっと離し、左手の口の中へ落とし入れた。そういえば今朝、ベルゼブブと戦う前に、メルも自分の鞄を刀の中に投げ入れていたような気がする。魔武器って四次元ポケットみたいなこともできるのか。

 もう一つの紙袋も、同じように縮小化して口の中に入れた。

「うっし、これでよしっと」

 ローナが呟くと同時に、四肢の黒い鋼が白い光に再変換された。すぐにその光は空気中に溶け入るようにして消滅してしまう。光が消えると、変身前の白い肌やソックス、ローファーを履いた状態に戻った。

「魔武器ってすげぇな。そんなこともできるのか」

「だろー? 魔武器って言うけど、ほんとに武器として使ってるのはごくわずかでさー、ほとんどの奴はこうやって物の出し入れに使ったりしてる」

「そうなんだ。なんか、電話としての機能が薄れてきたスマホみたいだな……」

「あははー。言えてるなー」

 三人は次に、同じフロアにあるカジュアルファッションの店舗へと向かった。

 百崎はファッションに疎いので、ローナとリンから助言をもらいつつ、買い物を進めていく。そこそこ着れそうな無難なデザインのTシャツや上着、それとジーンズやカーゴパンツを買った。

 商品を見たり手に取ったりしながら、あれやこれやと会話をするのが、何だか服屋にデートに来たカップルみたいだった。

 ローナは商品を魔武器の中にしまい、三人は店舗を去った。

「次はどこへ行くんだ?」

 完全に二人に任せっきりの百崎である。

「そうだなー。あと何いるっけ?」

 ローナがリンの方に顔を向けた。

「……文房具と、シャンプーとか食器とかの日用品」

「んじゃ文房具から行こうかー。そっちの方が近いしー」

 ローナの道案内で、三人は一度三階へ下り、そこから連絡通路を通って別館三階へと足を運んだ。

 どうやらこのデパートには、本館と呼ばれる大きな建物と、別館と呼ばれる小さな建物があるようである。外から見た時はまったく気づかなかったが、その二つが合わさってこの一つのデパートを形成しているらしい。本館と別館へは、三階と五階にある連絡通路を通ることで行き来ができるようだ。

「ここが別館だぞー」

 小さな建物と言っていた割には、別館は結構な広さを持っていた。おおよそ本館の三分の二といったところだろうか。

 歩いてすぐの中央の辺りに、文房具を取り扱っている店舗があった。

 黒の筆箱を初めとして、シャーペン二本、消しゴム、四色ボールペン、定規、それとシャーペンの芯を買った。

 文房具類は例によってローナの四次元ポケットの中へ。

「それじゃー戻ろうかー」

 別館に移って十分もしないうちに、百崎たちは再び連絡通路を通って本館三階へと戻った。そこからエスカレーターを使って本館五階へ向かう。五階は、陶器・日用品など、家庭用品を取り揃えたフロアとなっているようだ。

 そこで男用のシャンプーや百崎のための食器を買う。あとは適当に必要になりそうなものを購入。これで普段の生活には困らないくらいに物が揃った。

 雑多なものを全て魔武器の中に収納し、ローナが声を発した。

「よーし、予定していたものは全部買ったかなー」

「……才人は、何か他に欲しいものある?」

「いや、いいよ。これだけで十分」

「そうかー。……ローナちょっとトイレに行きたくなっちゃったなー。ってことでサイフ、一緒に行こうぜー」

「ん、いいよ。行こうか」

 しかし一緒に行っても、自分にはトイレの前で待つことしかできないが。

「……どうぞ、行ってらっしゃい。私はこの辺りで、待ってるから」

 リンはローナを見てそう言った。百崎にしてみれば、それは何の変哲もない言動だったのだが、

「ちっ、くそ気づかれてたか」

 と、ローナはそんな言葉を返した。

「……もしあの時の才人の言葉がなかったら、もしかしたら気づかなかったかもしれない」

 リンとローナは向かい合って、お互いの目を見つめる。

「ふっふっふ。どうだ? リンもやるか?」

「……私は、自分一人だけ得をするようなことはしない」

「そんなこと言っても、あたいはやるからな」

「……やればいい。私は止めない」

「ぐぬぬ……。どうせみんなもいつかはやるんだ。それが早いか遅いかの違いでしかないからな!」

 ローナが語尾を強めて言った。そして百崎の手を取ると、すたすたと早足で歩き始める。百崎は二人の会話の意味も分からないまま、ローナに引っ張られていった。

 たどり着いた先は、案の定トイレだった。

 ローナは百崎と手を繋いだ状態で、ナチュラルに女子トイレに入ろうとする。百崎は慌てて声を上げた。

「ちょちょちょ、待て待て!」

 ローナはトイレの扉を半分ほど開けたところで、その声を聞いてようやく立ち止まった。首だけをこちらに向けてくる。

「何だよー」

「何だよー、じゃねぇ! 俺は男なの! 女子トイレの中までは一緒に行けないの!」

 女子トイレに入りたいと思う男はいるかもしれないが、男と一緒に女子トイレに入ろうとする女の人は聞いたことがない。それがたとえ、どんなに愛し合った二人だとしても、そんなことをする女性は普通いないだろう。

「お願いだから、今は何も言わずに一緒に入ってー。理由はあとで話すからー」

 ローナが心底懇願する口調で言う。何か事情があっての行動だったらしい。

「……わ、分かった」

 そう言われてしまうと、素直に相手のお願いを聞いてしまうのが、百崎という男である。

 ローナに先導されて、百崎は魅惑の女子トイレに足を踏み入れた。

 二人が中に入ると、バネの力によって扉がひとりでに閉まる。閉まった時に鳴ったバタンという音が、トイレの中に響き渡った。

 やがて無音になった室内に、人の気配はなかった。

「……よかったなーサイフ。誰もいなくてー」

「ホントだよ! いたらどうするつもりだったんだよ!?」

「その時はあれだー、『この子実は三歳なんですよ~』とか言い訳をすればー……」

「あ、考えてなかったな!」

 助かった。危うく変人扱いされるか、はたまた悲鳴を上げて通報されるところだった。

 一呼吸おいてから、ローナが再び口を開く。

「んじゃー個室に行こうか―」

 そう言うと、ローナは百崎の手を握る力をほんの少し強め、トイレの奥へと歩み出した。

「個室って、何のために?」

「それには二つの理由があるんだがー――」

 ローナはそこで一旦言葉を区切り、一番奥の個室に入った。百崎も続けて中に入る。ローナは扉を閉めると、スライド式の鍵をかけた。そして繋いでいた百崎の手をゆっくりと離し、それから区切った言葉の続きを話し始めた。

「――まずは、男であるサイフが女子トイレにいることをバレないようにするためだー」

「……うん、まあ、そうだろうね」

「もう一つは、これからやる行為が人に見られちゃヤバいものだからだー」

「や、ヤバい?」

 人に見られてヤバい行為とは、一体何をやるつもりなのだろうか。もしかして――

「――もしかして、エッチなこと?」

 冗談っぽく百崎は言ってみた。もしそうだったら死ぬほど嬉しいが、たぶんそんなわけはないだろう。

「んー、半分くらい正解かなー」

「ぶっ!? なにぃ!?」

 思わず素で驚いてしまう。まさかの正解だった。でも、半分正解ってことは、半分エッチなことってわけで。半分エッチなことって何だ?

 百崎が驚きつつもその謎に首を捻っていると、ローナが説明をしてくれた。

「これからやる行為ってのはー、ローナがサイフの腕を一本もらって、それを金に換えるってやつだー。サイフはそのあと、エッチなことをして肉体を再生させてやるからなー。ほら、サイフは体内貯金が増えるのに性的興奮がいるだろー? だからエッチなことは、半分正解ってわけだー」

「な、なるほどね……」

 言われてみてから、半分エッチ・半分正解の意味がようやく分かった。

 それと、これからローナがやろうとしているのは、自分が魔界に来てすぐにテーブルの上でメルにやられたことと似たようなことのようだ。あの時は首から下を全て吸金されたが、今回は腕の一本でいいらしい。

「んで、女子トイレに一緒に入ってくれってお願いしたのはー、今言った行為をバレないように個室でやるための、その前段階だったからだー。トイレに入ってくれなきゃ、個室にも入ってくれないからなー」

「ああ、そうだったんだ。……ところでさ。その行為って、そんなに人に見られたらヤバいのか?」

「えっ?」

 ローナは百崎の言葉を聞いて、一瞬ポカンとした表情になった。しかしすぐに表情を変え、百崎の顔を凝視しながら言葉を返した。

「あー、そっか。サイフにはよく分からないよなー。魔武器で人を斬るってのは、周りの人から見れば、その人から金を強奪しているようにしか見えないんだよー。単純に金を渡したいだけなら、魔武器から取り出して渡せばいいわけだしー。でもサイフはそれができないから、強奪するように魔武器で斬るしかないんだよー。人に見られちゃヤバいってのは、そーゆう理由」

「確かにそうだったら、人に見られたらヤバいな」

 それから百崎は、ふと思いついた質問をする。

「……なあ、ローナ」

「んー?」

「俺で金を手に入れたらさ、何に使うつもりなんだ?」

「むふふー、聞きたいかー?」

 そう言ってローナは、もとからジト目であるその目をさらに細め、口元にニヤニヤとした笑いを浮かべた。

「まあ、差支えなければ」

「仕方ないなー、教えてやろう! あたいはな、その金を使って新しい服を買うんだー!」

 声高々にローナが宣言した直後、ギイッという扉の開く音が聞こえた。二人は慌てて息を殺し、身をひそめる。よほど変な音を立てない限り、怪しまれることはないだろう。

 ――それにしても、意外だなぁ。

 ローナの印象からいって、ゲームや漫画・アニメといった、そういう類のものにお金を使うと思っていた。昨日も夜に、メルと一緒に戦隊もののアニメを見ていたし。少なくとも、服――ファッションに優先的にお金を使うようには見えなかった。

 何ともまあ、人は見かけによらないものである。

 そんなことを思いつつ静かに待っていると、やがて何事もなく、先ほどの人がトイレから出ていく気配がした。

「行ったか」

 ふう、と百崎は一息つく。それからローナの方に視線を移して会話を再開した。

「……にしても服、か。結構おしゃれ好きなんだな」

「そうだぞー。新しい服を着るのももちろん好きだけどー、なんといってもやっぱり一番は、どんな服があるのかなーって探している時だなー! あの時のワクワク感がほんと大好きー!」

 そしてローナは、屈託のない笑顔を見せた。本当に心の底から好きだという思いが伝わってくる。心なしか、テンションが上がっているようにも感じ――

 ――テンション?

 そういえば、デパートの前でもローナはテンションが上がっていたな。リンにその理由を訊いたけど、教えてはくれなかった。

 しかし今のこの状況。これから自分の体を使ってお金を手に入れ、新しい服を買うというローナの発言。それを踏まえると、なぜあの瞬間テンションが上がっていたのか、分かったような気がする。

 おそらくは、デパートに買い物に行くと決まった時点で、ローナはこの行動を計画していたのだ。そして、いよいよデパートにたどり着いた頃には、どんな服が買えるかで頭の中がいっぱいだったに違いない。店を目の前にして、その興奮が一気に高まり、テンションが上がってしまったのだろう。

「このデパートに入る直前にもテンションが上がってたけど、もしかしてこの一連の流れを計画していたからなのか?」

 自分の考えの答え合わせをするかのように、百崎はローナに質問してみた。

「むむむ、よく気づいたなーサイフ。そうだ、その通りだー。あん時は変にテンション上げちゃって、しまったと後悔していたのだー」

 自分よりもすごいのはリンの方だ。あの瞬間にそれに気づいていたのだとすれば、恐ろしい洞察力である。

「ん、待てよ」

 百崎は、不意に先ほどのローナとリンの会話を思い出した。『リンもやるか?』とか、『一人だけ得をする』とかそんなことを言っていた会話だ。

「なあ、さっき二人がああだこうだ言っていた会話って、ひょっとして今からやる行為のこと?」

 ローナが言った行為は、確かにやった人一人だけがお金を手に入れられて得をするし、他人に同じことをさせようとするのにも意味が通る。

 何度目かの百崎の質問に、ローナは首肯してから答えた。

「うん、そうだぞー。なぜかリンには気づかれちゃってたけどなー。いつ気づいたんだろうなー?」

 ああ、間違いなくあの時だ。デパートの前で何気なく尋ねた、あのあとだ。やはりリンはあの瞬間、全てを見抜いていたのだ。

 抱えていた疑問が解消し、百崎は長く息を吐いた。それからローナの目を見つめて言う。

「……長々と質問して悪かったな。じゃあローナの考えている行為をやろうか」

「お、もういいのかー?」

「疑問は解消したし、それにリンをこれ以上待たせるわけにはいかないからな」

「ん。じゃあーまずは、腕をまくってくれー。制服を傷つけないためになー」

 ローナの指示を受け、百崎は左腕の袖をたくし上げた。続けてワイシャツの手首のボタンを外し、シャツも引き上げる。

「よし、いいぞ」

 ずり落ちないように袖を右手で押さえながら、百崎は言った。

 四肢に魔武器を装着し終えたローナが、その声を聞いてこくりと頷く。

「いくぞー! 斬撃モード!」

 ローナが声を発した瞬間、右手の甲から三本の短い刃がジャキンッ! と音を立てて伸びた。反りのない十五センチほどの刃は、四肢を覆う籠手と具足と同じ黒い鋼。両側についた薄く鋭い刃が、触れただけで血の滲みそうなくらいの恐ろしさを放っている。

「吸金!」

 と、続けてローナが声を発する。すると、左手の手の平で口が開いた。

 百崎は左腕を横に広げ、斬りやすい体勢を取る。最後にアイコンタクトをすると、ローナは右手を振り上げた。

 はっ、という掛け声とともに、右手が振り下ろされる。クロー系魔武器の鋭い爪が、百崎の左腕の肘の辺りを切断した。

 体から前腕が離れた直後、その腕が空中にとどまったまま黄金色に輝き始めた。輝きが増して光の状態に変化すると、次の瞬間、その光が弾けるように分散していくつもの小さな球体が生まれた。

 その数、七つ。

 そして黄金色の光の球体は、次に薄い長方形の物体へと姿を変える。それは、魔界で使われているお札、それも一万円のお札だ(なぜかやはり円という単位が、魔界では使用されていた。お札のデザインは日本のものとは違ったが)。

 空中を漂う一万円札たちは、次第に滑るように移動を始め、ローナの左手の平の口の中に吸い込まれていった。

「七万円、ゲットだぜー!」

 口角を上げて無邪気な顔を、ローナは見せる。

「よかったな」

「これで服が買えるぞー!! いやっふぅー!!」

「バ、バカっ! 声がでかいっ!」

 トイレに入ってからこの時まで、抑えめの声量で会話をしていたのだが、今のローナの声は素の叫び声だった。

「……ごめんごめん」

 再び最小限の声量でローナは謝った。それと同時に魔武器の装備も解除し、黒い鋼の手足が白い光に包まれる。光が消えると、いつも通りの少女の白い肌に戻り、ソックスと靴を履いた状態に戻った。

「えー、オホン。それじゃー早速、エロエロなことを始めようかー」

「おっ、待ってました!」

「何か要望はあるかーサイフ? なるべく叶えてやるぞー?」

「そうだなぁ、じゃあローナが内容を決めてくれ。女の子が男のために考えたエロ、っていうのを体験してみたい」

「なかなかマニアックな要望だなー。いいぞー、少し時間をくれー」

 そう言うと、ローナは目を閉じて、あごに手を当てながら考え始めた。

 一体ローナは、どんなエロティカルプレイを考えてくれるのだろうか。正直言って、それほど選択肢は多くない。

 制限される一つとして、まずこの個室の狭さが挙げられる。狭い空間ゆえに、広い空間が必要となるプレイは実行できない。しかし、これはさしたる制限というほどではない。なぜなら、エロいプレイとは基本的に、近接して行うものだからである。何メートルも離れた位置でないとできないプレイの方が、逆に珍しいと言えるだろう。そういうわけで、狭さは制限には挙げられるが、大した制限にはなっていない。

 それよりも大事なのは、この狭さのせいで大きく体勢が変えられないという点だ。そのせいで自分もローナも、立った状態か、しゃがんだ状態でのプレイに制限される。もちろん、絶対にその他の体勢に変えられないわけではない。座ることもできるし、その気になれば、この狭さでも無理矢理寝そべったりすることは可能だ。けれど、トイレの床ということもあって、そこまでの体勢はさすがにとれないだろう。

 それともう一つ制限がある。それは、自分の左腕がないことだ。これによって両腕が必要になるプレイはできないし、手を使うプレイは効果が半減してしまう。エロ、という神聖な行為の中で、『触る』が普段通りに行えないというのは、プレイを考えるローナにしてみればかなりの痛手であろう。

 そうこうしているうちに、ローナが目を開いた。

「よし、決まったぞー」

 あごに当てていた手を離し、今度はその手の人差し指をピンと立てた。

「題して、『この距離でまさかのタッチなし!? 目だけで楽しむエッチな行為! 女の子の特権、スカートとその中に迫る!』だっ!」

 まるで深夜のテレビ番組のようなタイトルを、ローナは言い放った。

 数秒の沈黙を挟んでから、再び声が発せられる。

「……サイフは、スカートが好きかー?」

 言いながら、ローナは学校指定の制服である、チェック柄の赤いスカートの左右の裾を手で摘んだ。

「ああ、好きだよ」

 スカート、ひいては白くきれいな太股に目をやりながら、百崎は答えた。

「じゃあさ、そのスカートの中にあるパンツにも、興味はあるかー?」

「も、もちろん」

 ――そんなこと言われたら、否が応でも意識してしまうではないか。

 百崎は赤い布の先にある神秘の布を意識して、ごくりとつばを飲み込んだ。

「……ねぇ、ローナが今どんなパンツをはいてるのか、知りたくない?」

 それは。

 それは、いつもの間延びした声とは違う、男を魅了する色気のある声だった。

 ローナがスカートの裾を摘んだ両手を、ほんの少しずつ上に持ち上げていく。

 それに伴って、スカートが徐々にたくし上がっていく。

 同時に、きめ細やかな肌をした、柔らかそうで思わず触りたくなるような太股が、ゆっくりとその見える範囲を広げていく。

 じりじりと、じりじりと、本当にわずかずつのスピードで、スカートは動かされる。

 しかし、とてつもないその遅さでも、苛立ちが湧いてくることはなかった。むしろ、この遅さの方が、より楽しめるしよりエロかった。

 少しずつたくし上げられるスカートと、女の子特有の艶めかしい太股に目を釘付けにされて、一体どれほどの時間が経っただろうか。

 そしていよいよ、その瞬間はやってくる。男として最も胸が高鳴る、あの瞬間が。

(み……見え……! あとちょっとで見える……!)

 スカートのたくし上げの終着点。

 それはもちろん、パンツが見える瞬間、である。

(――あ)

 ちらり、と。

(ああああああ!)

 薄い赤色の布が。

(ああああああああああああああああ!!)


 薄い赤色をしたパンツが、その姿を現した。


(見えたあああああああああああああ!!)

 その刹那、百崎の体内に電流が迸るッ! 興奮と快感が入り乱れた熱い衝撃が、神経を伝って全身を駆け巡るッ! 焦らされて巨大化した期待が、一気にその姿を幸福感へと変えて、百崎の脳に叩きつけられたッ!

 だが、これで終わりではなかった。

「み、見えた……?」

 と、ローナが小さく呟いた。百崎はその声を聞いて、ローナの顔の方へと視線を向けた。

 上目遣いでこちらを見てくるローナと目が合う。その頬がわずかに朱に染まっていた。

「……ど、どうだ……? ローナのパンツはー……?」

 ローナは消え入りそうな声で、恥ずかしそうにそう言った。

 ――ズガン、と。

 初めて見せた、その恥ずかしがる声と表情に、百崎の魂は一層強く揺さぶられた。

(ダメだエロすぎるうううううぅぅぅぅぅ―――――っ!)

 ここに来てついに臨界点を突破し、百崎の脳内に性的興奮が発生した。発生した性的興奮はみるみるうちに百崎の中心――もう一人の百崎を大きくしようとする。

 と。

 その瞬間、百崎の左腕のなくなった前腕の部分を形作るかのように、白い光が徐々に現れ始めた。白い光は次第に数を増やしながら密度を上げ、そして凝縮していき、白い『人間の腕』を完全に形作った。

 次の瞬間、その白い光が弾けるように四散し、中から肌色をした本来の腕が姿を現した。

「お! 再生したなー」

 ローナが復活した左腕を見て言う。百崎は二、三度手を閉じたり開いたりして感覚を確かめた。指先までしっかりと神経は繋がっている。いつも通りだ。

 百崎はまくっていたワイシャツの袖を下げ、ボタンを留めた。ブレザーの袖も引き下ろし、軽くしわを整える。

「再生したってことは、エロく感じちゃったってことだよなー?」

「ああ、めちゃくちゃエロかった」

 正直、スカートのたくし上げがあんなにエロいとは思わなかった。

 百崎の返事を聞いて、むふふー、とローナは微笑んだ。

「んじゃ、ここを出ようかー。見つかる前にさっさとなー」

 二人はタイミングを見計らって、女子トイレをあとにした。


   ◇   ◇   ◇


「おー! これ可愛いじゃん! ねーねーサイフ、これどうー?」

 ローナが手に取ったスカートを百崎の方に見せてくる。三段に分かれたフリルが付いた、黒いミニスカートだった。

 女子トイレから出たあと、二人はリンと合流し、ローナの要望で本館二階の婦人服売り場へと向かった。ここでは、若者向けのカジュアルファッションも売られているらしい。

 ローナが先頭に立ってある店舗へと入り、ショッピングタイムがスタート。百崎はローナが手に取った上着やらスカートの感想を言うことになってしまった。

「あー……うん、いいと思うよ。可愛い方にも大人な方にも使えるし」

 百崎は三段フリルが付いた黒いミニスカートを見て、そうコメントした。

 最初はポンポンと感想が口から出てきたが、回数を重ねるにつれて言うことが段々となくなってきていた。もともと女子のファッションには疎いので、褒めるボキャブラリーも少なく、そろそろ一度言った言葉をバレずにもう一度言うしかないかな、と百崎は思い始めていた。

「よしよし、これ買おーっと!」

 言いながら、ローナは黒いミニスカートをカゴの中へ入れた。それから再びスカートの群れを物色していく。

「なーサイフ、ローナに似合いそうなやつを選んでくれないー?」

 ハンガーに吊るされた商品のスカートの方に目をやりながら、ローナが何の気なしにそう言った。

 ついに感想を求めるだけでなく、具体的に商品を選ばせにくるとは。

 はっきり言って、自分にはコーディネートを考えた選び方などできない。できるといったら、せいぜいローナにはいてほしいものを選ぶことくらいだ。

 しかし、ローナは『似合いそうなやつを選んでくれ』と言った。これは言い換えると、自分が似合うと思ったものなら何でもいい、ということにならないだろうか。

 そして、似合いそうなものというのは、大きく捉えればはいてほしいもの、ということになる。

 つまりは、はいてほしいものを選ぶことが、ここでは似合いそうなやつを選んだことになり、ローナの要望をクリアできるというわけだ。だから自分は直感ではいてほしいと思ったものを選べばいい。

 百崎は並んだスカートに一通り目を通し、ピンときたグリーンチェックのフレアスカートに手を伸ばそうとした――

 ――その時だった。


 ずしん、と音を立てて、デパート全体が一瞬揺れた。


 地震……?

 すぐさまそんな単語が、百崎の脳裏をよぎった。だが、地震にしてはあまりに一瞬すぎる。とはいえ、ここは魔界なのだ。自分の知らない現象が起こっても不思議ではない。

 こういう時は、現地人に訊いてみるのが得策だろう。

「なあローナ、今ちょっと揺れたよな」

「揺れたなー。地震かなー?」

「魔界じゃあこんな一瞬みたいな地震が起こるのか?」

「いんや、ローナもこんなのは初めてだぞー?」

 ということは、これは魔界特有のものではないらしい。

 でも、まてよ……。その前に――

 ずしん、というあの音は、一体何の音だったのだ?

 地震は、誰もが知っている通り、地面が動くことによって揺れが発生する。地震の際に建物が立てる音というのは、大地の揺れが建物に伝わり、その建物を揺るがすくらいになってはじめて出るようになるものである。

 無論、そこにはいくらかのタイムラグがある。地震が起きてすぐに、建物が音を立てるほど揺れるなんてことはありえない。

 ならば、今聞こえたずしん、という響くような音は何の音なのだろう。

 それに加えて、一瞬だけ揺れた地震のようなものも謎である。

「……二人とも大丈夫?」

 わけの分からない現象に首を捻っていると、いつの間にかリンがそばにいた。ローナのショッピングが始まった時には気づかぬうちにいなくなっていたのだが、どうやらこの不可解な事態を前に戻ってきたらしい。

「うん、大丈夫だよ。リンは?」

 百崎が返事をする。

「……私も平気」

 リンが答えると、ローナが買い物カゴを床に置いてから言った。

「それにしても何だったんだろうなー、さっきのはー?」

「……分からない。けど、嫌な予感がする」

 ――その時。

 再び、ずしん、と音を響かせてデパート全体が一瞬揺れた。よく聞くと、その音はどうやら頭上、上の階の方から響いてきているようだった。

「おー、また来たぞー」

「一体何な――」

 ずしん。

 ――んだ、と百崎が言い切る前に、三度目の鈍い音と揺れが発生した。

「……おいおい、これはさすがにやべーんじゃねぇの?」

 訝しげな表情でローナが呟く。場に重々しい空気が流れ始めた。

 ………………ずしん。

 …………ずしん。

 ……ずしん。

「こりゃあ異常だって! 絶対何かが起きてる!」

 なおも断続的に続く揺れと振動音に、ローナが声を張り上げて言った。

「……ちょっと待って」

 と、リンが唐突に言い、自身のスカートのポケットを探り始めた。それと同時に、ローナの体からも軽快な音楽が流れ出した。

「何だ? メールかー?」

 呟きながら、ローナもスカートのポケットに手を突っ込んだ。二人がポケットから取り出したのは、スマホだった。ローナの体から流れた音楽は、着メロだったようだ。

 二人は慣れた手つきで指を動かし、少しの間画面を見つめていた。

 そして首を動かし、ローナとリンが互いに顔を見合わせたのはほぼ同時だった。

「どうした? 何か分かったのか?」

 百崎が訊く。ローナが答えた。

「このデパートの屋上に、クラーケン……んーと、巨大なタコみたいな魔物が現れたんだってー。この揺れもたぶんそいつのせいだと思う」

 やっぱり何か異常事態が起こっていたのか。

 すると突然、フロア内に放送が響き渡った。

『お客様に申し上げます! ただ今、当店屋上に巨大な魔物が出現し、大変危険な状態となっております! つきましては、速やかに避難いただきますよう、よろしくお願い申し上げます! 繰り返します、ただ今、当店屋上に巨大な――』

 この放送を聞いたフロア内の客たちが、一斉に移動を始めた。それぞれ思い思いの言葉を発しながら、しかし確かな足取りで歩いていく。悲鳴を上げたり、慌てたりする人はほとんどいなかった。

 魔界の住人にとっては、これくらいの事態は取り乱す対象にはならないのだろう。

「よし、それじゃーあたいたちも屋上へ向かうぞー」

 人々が次々と避難していくなか、ローナが思いがけないことを言った。

「え、逃げないの?」

「何言ってるんだーサイフ。ローナたちは害魔駆除士の資格を持ってるんだぞー。立ち向かわないでどうする?」

「いや、そうだとしてもさ……」

「それに、さっきメールで本部から討伐の依頼も来てたしー。倒せば報酬が手に入るんだぞー? こんなチャンス、逃したらもったいないじゃん」

 この少女には、危険なんて文字はないらしい。全てが金儲けのチャンスにしか見えていないのではないだろうか。

 百崎は観念して、一つ息を吐いてから言った。

「分かった。じゃあ屋上へ行こう」


 三人はデパートの階段を二段飛ばしで駆け上がる。

 エレベーターは不測の事態が起きかねないので使用はしないことにした。エスカレーターもあるが、駆け上がるのなら階段と大して変わらないうえに、こちらの方では屋上まで行くことができないので使わなかった。

 前方を走るローナとリンに向かって、百崎は気になっていたある疑問をぶつけた。

「俺ってさ、屋上に行ってもできることなくね?」

 自分は二人みたいに戦うスキルなんて持ち合わせてはいないし、むしろ足手まといにしかならないだろう。

 百崎の疑問に、左斜め前方を走るローナが振り向かずに答えた。

「そうかもしれないなー。けど、できることがあるかもしれないじゃん。そんなことは行ってから考えればいいんだってー」

 ローナの言葉を聞いたリンが、話を引き継いで言った。

「……それに、才人は天使から狙われている。一人にはできない」

「ああそっか、俺狙われてたんだっけ」

 頭からすっぽりと抜け落ちて忘れていた。あの時学校で起きたことは、メルの怪我の印象があまりにも強すぎて、その他のこと――自分が天使に狙われていたなんてことはどっかに押しやられていた。

 できることがないんじゃない。できることを探すんだ。

 百崎は心の内にそう決めて、階段を駆け上がる速度を上げた。

 七階の踊り場を通過し、三人は最後の階段を上る。屋上と通路を隔てる扉を半ば体当りするようにリンが開け、三人は屋上へと飛び出した。

 クラーケンという巨大なタコのような魔物がいるらしいが――

「いた! ってかでけぇ!」

 どこにいる、なんてレベルではなかった。屋上に出た瞬間、視界いっぱいに赤黒い体色をしたその姿が映り込んだ。

 視界を塞ぐほどの横幅と、見上げるほどの高さを持った頭部。その下方には、目とは思えないほどの大きさを持った眼球がある。さらにその下からは八本に分かれた触手が伸び、その触手は屋上の床を埋め尽くしていた。

「気を引き締めろよー。ここからは戦場だー」

 ローナが言う。口調こそいつも通りだが、その声は鋭い真剣味を帯びていた。

 クラーケンが触手の一本を持ち上げ、勢いよく床を叩いた。ずしんッ! と轟音が鳴り響き、屋上、そしてデパート全体が強く振動した。

 これが今までの不可解な揺れと音の正体だったのか。

 百崎の中で合点がいった、その瞬間だった――

「た、助けてっ……!」

 ――――!?

 クラーケンのいる方向から、幼い少女の切迫した声が聞こえた。

「誰かいるのかー!?」ローナが叫ぶ。

 なぜこんな場所にまだ人が!? どうして逃げなかった!? 百崎の脳内を疑問符が埋め尽くしていくが、今はそんなことを考えている場合ではない。

 目を凝らすと、触手が動いた時にその少女のうつ伏せで倒れている姿がちらりと映った。

「今助けるっ!!」

 百崎は自らの命も惜しまず、少女に向かって駆け出した。

「ローナたちがあいつを引きつける! サイフはその隙にあの子を頼む!」

 早口でローナが叫ぶと、二人は百崎を追い越してクラーケンへと突撃していった。その手には、いつの間にか魔武器を装備していた。

 触手が再び屋上の床を激しく叩く。その轟音と揺れが、百崎の不安と恐怖を増大させる。しかし、その気持ちを振り落して百崎は走った。

 二本の触手の間で、少女はうつ伏せに倒れている。いつ押し潰されてもおかしくはない。

 自分も触手に注意を払いながら、けれど最大のスピードで彼女のもとへ向かう。

(あと少し……!)

 残り十メートル。クラーケンの不気味とも言えるその巨大な体が、近づくことでさらにその大きさを増す。

 このまま何も起こるな、と心の中で強く念じながら、百崎は残りの距離を駆け抜ける。

 そして何事もなく、少女のもとへたどり着いた。

 話しかけている暇はない。百崎は少女をうつ伏せの体勢から仰向けの体勢に変えると、お姫様抱っこの要領でその子を持ち上げた。

 白いワンピースを着たその少女は、とても軽く、顔にはまだ幼さが残っていた。年齢的には、十歳くらいであろうか。目立った外傷はなく、歩けないほど怪我をしているというわけではなかった。

 ならどうして逃げなかったのか。そんな疑問が湧き上がってくるが、考えている余裕はない。一刻も早く、ここから立ち去らなければ。

 百崎はしっかりと少女を抱きかかえて、来た道を戻ろうとする。二歩、三歩と走り出したところで――

 ――ビシビシッ! と屋上の床に何本もの大きなヒビが走った。

 その最初に生まれたヒビから、枝分かれするようにさらに無数のヒビが屋上全体へと広がっていく。あっという間に亀裂は隅々まで広がり、直後。

 すさまじい轟音を響かせながら、屋上の床が崩落した。

(んなぁっ!)

 忍者でもなければ、超人的な身体能力も持たないただの人間である百崎にとって、それはどうしようもない出来事だった。崩れ落ちる床の破片に次々と乗り移って難を逃れる、なんてアクションシーンがあるが、百崎には到底できるはずもなく。

 足場を急に失った人間ができることは、重力に引かれて落下することだけだった。

(まずいっ! 体勢が!)

 しかも、足場の崩れ方が悪く、百崎は空中で前につんのめった状態になってしまった。両手には離さないようにしっかりと抱えた少女がいる。このまま落下すれば、自分が上からこの少女を押し潰してしまうかもしれない。

 百崎はとっさに抱え方を変更した。左手で少女の後頭部を支え、右腕を腰にまわす。ちょうどハグをしているような、そんな抱え方だ。それから体を百八十度反転させて、自分が下の位置になるようにする。

 もうできることは何もない。あとは運を天に任せるだけだ。

 百崎は目をつぶって、神に祈りをささげた。

 数瞬後、大きな衝撃が背中を叩いた。響くようなその衝撃は、一瞬のうちに全身へと伝わる。肺から空気が押し出され、瞬間的に酸欠状態になった。

「――っはぁ……はぁ……」

 無意識に空気を求めて荒く呼吸をする。それと同時に、背中に鈍い痛みが走った。

 体が悲鳴を上げる中、百崎はなんとか目を開けた。状況を確認しなければ、安全な所へ行かなければ、と本能が告げていた。

 首を動かして周りを見ると、商品棚とクラーケンの触手が目に入った。依然として危険な状況であることに変わりはなかった。しかし、体が動かない。全然力が入らない。その場から動くことができなかった。

(動け! 動け! 痛くない! 痛くない! だから動けッ!)

 百崎は必死に自分を鼓舞する。歯を食いしばり、全ての力を振り絞って起き上がろうとする。すると、その時。

 ある二つの出来事が、同時に起こった。

 まずは、百崎の体から痛みが消えたことだ。落下の衝撃で大ダメージを受けたはずの体、特に背中ですら、何事もなかったかのように痛みが消えていた。痛覚が麻痺してしまったのかと思ったが、違う。怪我が治ったのだ。おそらく、ローナとエッチなことをした時に増えた体内貯金の残りによって、腕が再生するのと同じように、魔力によって怪我が治癒されたのだ。

 同時に起こったもう一つの出来事は、百崎の体の中ではなく、百崎の体の上で起こった。

 腕の中の少女が、百崎の体の上からむくりと上体を起こしたのである。

「……た、助かったの…………?」

 震えたか細い声を出しながら、白いワンピースの少女はゆっくりと目を開いた。床の上で仰向けになっている百崎と、その百崎の股の間でぺたんと座りこんだ少女の目が合った。

「……あ、あなたが、助けてくれた……の……?」

 と、少女はビクビクしながら質問してくる。百崎は首肯してから急いで体を起こし、片膝立ちになって少女と向き合った。

「俺は百崎才人。君は?」

「わたし……? わたしはキリエ……」

 少女――キリエが名乗った瞬間、二人の頭上をクラーケンの触手が通過していった。横薙ぎに振り払われた触手が、商品棚を豪快になぎ倒していく。がしゃがしゃがしゃ! と金属音やら硬い音が入り混じった音が辺りに響き渡る。

 百崎の心臓がどくんと跳ね上がり、心の内に恐怖が染み出してくる。百崎はやや早口で次の言葉を発した。

「キリエちゃん大丈夫か? 痛いところはないか?」

「……うん。 ……大丈夫だよ……」

「いいキリエちゃん、よく聞いて。今ここは危険なんだ。俺と一緒に逃げてくれるか」

「……うん」

 キリエはまだ状況がよく分かっていないようだったが、素直に頷いて言うことを聞いてくれた。素直に従ってくれない、なんてことがなくてよかった。

「よし、じゃあ行こう。……立てるか?」

 百崎はキリエの手を取る。キリエが立ち上がるのを確認してから、百崎も立ち上がった。

 周りを見渡して階段を見つけると、キリエの手を引いて走り出す。キリエの走る速度に気を配りながら、なるべく急ぎ足で階段へ向かおうとして、

 赤黒い触手が、百崎の体に巻きついてきた。

(―――なっ!?)

 一瞬のうちに百崎の歩みが止められる。万力で掴まれているかのように、一歩も動くことができない。

「きゃああああ!?」

 背後からキリエの悲鳴。振り返ると、キリエが同じようにクラーケンの別の触手に巻きつかれていた。

「キリエちゃん!! ……くそっ!!」

 百崎は繋いだ方の手と反対の手で触手を引き剥がそうとするが、人間の細い腕一本ごときではどうすることもできなかった。それでも諦めずに、何とかできないかと必死に体を動かしていると、やがて二本の触手が二人の間を引き離すように動いた。

 いくら強固に繋いだ手でも、魔物の強大な力にはかなわない。抵抗することなどできず、二人の手は一瞬にしてほどかれてしまった。

「いやぁああああああ!!」

「キリエちゃあああん!!」

 彼女との距離がみるみるうちに広がる。けれど、それは何十メートルも離れたわけではない。せいぜい十メートルにも満たない、その程度の距離。

 なのに。

 なのに、どんなに頑張っても絶対に手が届かない、絶対に助けられない、そんな絶望感が百崎を襲った。

(ダメだダメだッ)

 百崎は大きく頭を振る。その絶望感を振り落とすように、大きく頭を振った。

 よくない思考からは、よくない案しか思いつかない。

(考えろ……! この状況を打破する方法を……っ!)

 ローナとリンに助けを求めるか。でも、もし戦闘に集中している二人に声をかけて、その集中を乱してしまったら。集中を乱した二人が、クラーケンに痛手を受けてしまったら。そうなったら、事態はより悪い方向へと向かってしまう。

 他は。他には……。他…………。ほか………………。

 浮かばない。

 何も、ない。

 自分には――そしておそらくキリエにも、二人を頼る以外にこの状況を打破する方法はなかった。どんなに考えても、どんなに思考を巡らせても、選べる選択肢が他になかった。

 結局は、二人を頼るしかないのだ。

 く、そっ。百崎はぎりっ、と奥歯を噛んだ。

 何もできない自分が悔しい。みんなを頼ることしかできない自分が悔しい。

 自分にできることはない、他人を頼るしかない状況でも、それでも、何一つ自分じゃ解決できない自分自身が悔しかった。

 俺は……いつもみんなに守られて、助けられて、頼って…………。

 本当に、不甲斐ない男だ……俺は……。

 ――その時。

 百崎の、そんな自責の念を吹き飛ばすかのように。

 ドスッ、と。

 ――百崎のそばで、何か鋭いものが突き刺さるような、不思議な音が聞こえた。

(何、が……)

 ゆっくりとゆっくりと、百崎の首が動く。

 そして、それを見た。

 百崎の左脇腹辺りの、クラーケンの触手の表面に、刃物のようなものが突き刺さっていた。

 これは、見たことがある。これは――

 リンの短剣だ。

「……それを使って脱出してください!」

 遠くから声がした。しかし、その声の主がリンだと分かるのに、ゆうに三秒はかかった。

 それは、いつもの聞いている声とはまったく違うものだったから。

 声のした方へ首を向けると、クラーケンの攻撃を必死にかわしているリンの姿が目に入った。すでにこちらへ意識を向けてはいなかった。

 その手に握られている魔武器――短剣は、やはり右手の一本だけだった。ここに刺さっているのが、対となるもう一本のやつに間違いない。

(ありがとう、何とかしてみせるっ……!)

 心の中で最大限の感謝をリンに送ってから、百崎は再び突き刺さった短剣を見据えた。

 リンが戦闘中、他のことに気をまわす余裕なんてない中で、それでも自分のためにやってくれたのだ。絶対に無駄にはしない。

 百崎は左手で短剣の柄を握った。かなり深く刺さっているようで、ポロっと取れるようなことはなかった。左腕に力を込め、思いっきり引き抜く。

 ズッ、と摩擦音を発しながら、クラーケンの触手から短剣が抜けた。見た目の割には、手にずしりとした重みが伝わってくる。

 左手の上に右手を重ね、両手で短剣の柄を握る。両腕を体の正面にもっていき、意を決してクラーケンの表面に刃を突き立てた。

 ドッ、と鈍い音が響き、刃先がめり込む。そのまま二度、三度と深く押し込むように短剣を動かす。何度も何度も力を込めて突き刺すと、やがて根元付近にまで刃が刺さった。

 そこから、今度は下に向かって短剣を動かしていく。切り裂くように、引き裂くように、体重を乗せて下に滑らせていく。

(……ちくしょう! 硬ぇ!)

 クラーケンは、言うなれば巨大なタコのはず。それなのに、可能な限り短剣に力を込めても、一回で切り裂ける距離は五センチにも満たなかった。やはり魔物というわけか。常識が通用しない、一筋縄ではいかないらしい。

 いつ握り潰されるか分からない不安と戦いながら、百崎は持てる全ての力を振り絞って短剣を動かし続けた。

(待ってろキリエちゃん……! 今俺が助けてやるからな……!)

 たとえ一回が数センチでも、何十回と繰り返せば大きな切れ目となる。百崎はやっとのことで、腕が伸びきる位置まで短剣を引き下ろすことができた。

 一体何十秒、いや何分かかってしまっただろうか。そう思って、百崎の中に少し焦りが生まれる。

 短剣を触手から引き抜く。そして百崎は、今度はその短剣を口でくわえた。柄の部分を、しっかりと歯で挟む。リンには申し訳ないが、両手をフルで使うためだ。

 百崎は両手で触手を掴むと、体との隙間を広げるように外側へ押した。大きな切れ目をつけた場所より先の部分は、巻きつく力が明らかに弱くなっていた。それでも、両手でやっと動かせるほどだったが、脱出するだけならそれで十分すぎた。

 徐々に体と触手の間に隙間ができていく。それに伴って、ズルッズルッと百崎の体が滑るように下に落ち始めた。最後にもう一押しすると、拘束力は完全になくなって百崎の体は重力に引かれて落下した。

 触手の拘束から抜け出した百崎は、二メートルほど落下して床に着地する。すぐさま首をまわしてキリエの場所を確認すると、そこに向かって一目散に駆け出した。

 瓦礫のようになった商品たちやその陳列用の棚などを、避け、飛び越えながら、百崎はキリエが捕まっている触手を目指す。とはいえその触手は、先ほど自分が捕まっていたものの隣の位置にある。すでに直線にしてあと五メートルもなかった。

 おもちゃの残骸を飛び越え、いよいよ目前にキリエのいる触手が迫る。天が味方してくれたのか、その時ちょうど、触手は地上に近い位置にあった。

 再び右手で短剣の柄を握り締め、一撃をお見舞いしてやろうとしたところで、

 その触手が上にひょい、と持ち上がった。

(ちょ、まっ!)

 瞬間の出来事に、百崎の顔が愕然となる。触手はすぐに、百崎の頭の上にまで達してしまう。

「くっそぉおおおおお!」

 叫びながら、百崎は跳躍した。そして、ダッシュの速度を乗せたまま、右手の短剣を触手に向かって思いっきり突き立てた。

 ガスッ! と。刃が肉を貫く。さすがに根元までとはいかず、短剣は半分ほどクラーケンに突き刺さった。刺さった短剣は、まるで突起のようになり、柄を掴んでいる百崎は一緒に空中へと吊り上げられた。

(よ、よし。まだ何とかなる――)

 そう思って百崎は顔を上げて、

 しかし、そこでようやく気づく。

 この状況では、自分は何もできないということに。

(―――ぁ)

 他に掴むところもなければ、足を掛けられるところもない。体を引き上げようにも、そんな腕力は持ち合わせてはいないし、そもそもそんな場所はない。

 無我夢中でやった行為が、結局は何の役にも立たない。次へ繋がらない。

 空中では、人はあまりに無力すぎた。

 宙ぶらりんの状態で、百崎は一人沈黙する。思考が完全に止まっていた。

 徐々に右手の握力なくなっていく。十秒も経たないうちに限界が来る。

「……何でだよ」

 なぜかそんな言葉が口から出て、そして百崎は柄から右手を離してしまった。

 先ほどよりもやや高い位置から地面に落下する。ドサッと音を立てて着地し、そのまま床に膝をついた。

 再び思考を働かせるために一つ呼吸をする。まだ何も終わってはいない。

 だが。

 百崎が気持ちを切り替え、足元に落としていた視線を上に上げた瞬間、それは起こった。

(――ッ!?)

 視界を。触手が。埋め尽くした。

 ドンッ、というあまりにコミカルな音。しかし、百崎の体はそれだけで蹴飛ばした小石のごとく吹き飛ばされた。クラーケンが、横薙ぎに触手を動かしたのだと分かるのに、一秒もかからなかった。

 床を何度もバウンドし、商品の瓦礫にぶつかり、それでも勢いはなかなか止まらない。必死に頭を守りながら、百崎は自分の体が止まってくれるのをじっと待った。ひたすら集団から殴られ蹴られるような激痛に耐え、そしてようやくボロボロになりながら、百崎の体は停止した。

「…………っは…………はぁ…………」

 呼吸をするたびにズキズキとした痛みが全身に走る。

(それが、どうした…………)

 少し体を動かすだけで鈍痛が走る。

(だからといって……)

 体中が鉛になってしまったかのように重い。

(それは、)

 頭もはっきりとはしない。

(それは! 全部! 諦める理由にはならねぇだろうがッ!!)


「おぉぉおおおおおおあぁぁあああああああああああああああああああああ!!」


 そうして、百崎は天に吠えるように立ち上がった。

 全身が、骨が筋肉が内臓が血管が皮膚が神経が脳が、悲鳴を上げた。

 だが、それが何だと言うのか。

 この程度の怪我で、キリエちゃんを助けるのを諦められるものか。

「待ってろ……キリエちゃん」

 一歩。また一歩。ふらふらとした足取りで、けれど百崎は倒れることなく前へ進む。

 直後、歩みを続ける百崎の体に変化が起こる。全身の擦り傷、切り傷、打撲、その他ありとあらゆる怪我をした部分の、その表面を、白い光の粒子が覆った。

 その瞬間、怪我による痛みが体感で分かるくらいの速度で引いていった。表面だけではない、骨や筋肉、内臓といった内側に存在する痛みも同時になくなっていく。

 体を蝕む痛みが薄れていくにつれ、百崎の足取りが確かなものに変わる。ふらふらしていたものが、一直線を歩くように変化する。

 さらに痛みが消える。百崎は肩で風を切るように前へ進んでいく。

 そして白い光の粒子が弾けて消えた時、傷は完全に癒え、痛みはまったくなくなっていた。その瞬間に、百崎は再び駆け出していた。

「今度こそ助け―――」

 百崎がキリエに向かって叫んだ、その途中だった。


「これは作戦失敗ですねっ」


 声が聞こえた。しかし、その声はまるで耳元で話されたかのように聞こえた。

 不可思議な現象に、百崎の足がガクンと止まる。けれども、そばに人なんていない。いるはずがない。

 だが、問題なのはそこじゃない。

 その声がどんな聞こえ方をしたかなんて、この際どうでもいい。問題なのは、今の声が間違いなく、そう、間違いなどなく――

 キリエちゃんの声だったことだ。

 百崎は半ば睨むように、キリエを見据えた。

「はぁ~、計画通りに進まないものですねぇ、物事というのはっ」

 再びキリエの声。これも耳元で話すような、そんな声だった。

 キリエは触手に捕まった状態で、けれど拘束されていない両腕をヒョイと持ち上げる。やれやれ、といったポーズをとった。その顔の表情に、不安や恐怖などのようなものは一切ない。何分か前までの、恐怖に怯える幼い少女の姿はどこにもなかった。

「キリエちゃん、だよ……な……?」

 本気で聞くつもりもなくただ呟いただけだったのだが、

「そうです、わたしはキリエですよっ」

 キリエは百崎の、その絶対に聞こえるはずのない問いに答えた。

 どう考えても、あちらには聞こえるはずのない呟きだったはずだ。おそらくは、何らかの形で声を送ったり、聞いたりしているのだろう。その方法は微塵も分からないが、呟く程度の声でキリエに声が届くことだけはよく分かった。

「君は……いやお前は、一体何なんだ……?」

「わたしが何者か、ですって? ……ふふふ、わたしはね――テ・ン・シ、ですよっ」

 テ・ン・シ。すなわち、天使。

 その三文字を聞いた瞬間、百崎の全身に悪寒が走った。脳裏に思い出されるのは、昼にあったあの光景。一人の少女の、悲惨な光景だった。

「……てん、し……?」

「そうです、天使っ。わたしは第六天使団所属の、正真正銘の天使ですよっ。ついでなので言いますと、わたしの本当の名前はキリエルですっ。キリエちゃんではないのですよっ」

「……また俺を、捕らえに来たのか?」

 天使が自分の所に来る目的は、今のところそれ一つしかない。

「はい、そのつもりでしたっ。でも、もう無理そうですっ」

 そう言ってキリエ――ではなくキリエルは、クラーケンの触手をポンと手で叩いた。それだけで、触手の巻きつきはしゅるりと解かれ、キリエルは晴れて自由の身になった。しかし、その体は地面に落ちることなく宙に浮いたままである。

「せっかくこの子を用意したのに、無駄になってしまいましたっ」

「この子を用意って……お前がこのクラーケンをこんな所に連れてきたのか!?」

「はい、作戦のためにっ。もちろん、わたし一人だけでやったわけではありませんよっ。仲間とともに、協力してやりましたっ」

「ただの人間一人を捕らえるために、ずいぶんと大掛かりなことをするんだな」

「確かに大掛かりですねっ。でも、こうしないと捕らえられそうになかったのですよっ」

「さっきも作戦とか言ってたな。どんな作戦だったんだ?」

 その言葉を百崎は皮肉のつもりで言ったのだが、

「いいですよ、失敗記念に教えてあげましょうかっ」

 と、マジな質問だと捉えられてしまった。仕方がないので聞いてやることにする。

「あなたたち五人組が分裂してくれたのは、こちらとしてはとてもありがたいことでしたっ。しかし、堂々と襲撃すればまた異次元に避難されてしまいますっ。そうなれば、いくら人数が減ったとしても、戦闘力の高いあなたたちのことですから、こちらの兵は撃退されてしまうでしょうっ。そこで我々は、あなたを異次元に入れることなく一人にさせる策を考えましたっ。それがこの作戦というわけですっ」

 キリエルは右手の人差し指をピンと立てて、『1』の意味を作ってから話を続ける。

「ルートAは、あなたが屋上へ行かずに、一人でデパートの外に避難したところを捕らえるというものでしたっ。我々としてはこれがベストだったのですが、生憎上手くはいきませんでしたっ」

 キリエルは右手の中指を立てて『2』の意味を作る。

「そこでルートBに切り替えますっ。わたしが逃げ遅れた少女としてあなたたちの前に現れることで、二人はクラーケンの対処をし、あなたはわたしを連れて外に避難するようにさせますっ。あとはデパートから出てきたところを、ルートAと同じように捕らえる、というのがルートBの作戦でしたっ」

 右手を下ろし、なおも話は続く。

「けれど、まさかあんな不測の事態が起こるとは思いませんでしたっ。そう、屋上が崩落したやつですっ。あれのせいでクラーケンの行動パターンにエラーが起きてしまい、おかしな行動を取るようになってしまいましたっ。本来だったら避難を妨げるような行動は起こさないはずなのに、わたしたちを拘束してきちゃいましたしっ。それさえなければ、ルートBで上手くいっていたはずなのですよっ」

 そこまで言うと、キリエルの話はようやく終わった。

「……なんか、残念だったな」

 百崎は返す言葉が見つからず、とりあえずそう言っておいた。

「まったくですよっ。世界は思ったように回ってくれないものですねっ。……ああ、そろそろクラーケンが倒されるみたいですよっ」

 キリエルがそう言って視線をクラーケンの方へ向けた。つられて百崎もそちらの方へ顔を向ける。

 その瞬間、クラーケンの全身が墨でもつけられたかのように真っ黒になった。体のどこにも、先ほどまでの色のついた部分は存在しない。完全なる黒。しかもその黒は、光を反射することのない、光沢のない黒だった。

 直後、クラーケンの触手の先端が、黒い粒子となって分解され始めた。分解は、徐々に根元の方まで進行していく。八本の触手がなくなると、今度は下から上に向かって頭の方が分解されていった。

 頭のてっぺんまで完全に分解され、黒い粒子が空気中に溶けて消えてしまうと、その場には何も残ってはいなかった。巨大な魔物が消えて、フロアがぐんと広くなったように感じる。商品がなぎ払われて隅に押しやられてしまったことも、フロアを広く感じさせる要因になっていた。

「それでは、わたしは帰りますっ」

 キリエルの声。百崎は空中に浮いている彼女の方へ再び顔を向けた。

 ばいばーい、とキリエルが最後に言うと、その体が白い光に包まれた。そしてその白い光が弾けて四散すると、そこにはもうキリエルの姿はなかった。

 天井のないデパートの七階に静寂が戻る。ぽっかりと開いた天井からは、夕方の赤みを帯びた空がよく見えた。空を見上げていると、すぐにローナとリンが百崎の近くにやってきた。

「大丈夫かーサイフー」

 いつも通りの口調でローナが話しかけてくる。すでに魔武器は装備していなかった。

「ああ。二人も平気か?」

「平気平気ー。余裕だぜ―」「……うん」

 二人とも怪我がなくて百崎は安心した。同時に、あれほどの魔物を相手にして無傷でいる二人を改めてすごいとも思った。

「……ごめん、あの子のことなんだけど…………」

 百崎は、屋上で逃げ遅れていた少女――キリエルのことについて、それと彼女が語ってくれたこの騒動の真実について二人に話した。

「そんな裏があったとはなー。まあこんな所に急にクラーケンが出る時点で、おかしいとは思ってたんだけどなー」

「……運が良くて本当によかった」

 と、二人は百崎の話を聞いて様々な感想を口にした。

「さて、これからどうするんだ?」

 広大な空間の中、百崎はこれからの行動予定を二人に尋ねた。

「んー、この状況じゃあもうデパートで買い物はできないと思うしー。あとは帰るしかないかなー」

 ローナが頭の後ろで手を組んで答えた、その時だった。

「……ちょっと待って、着信」

 と、リンが呟き、スカートのポケットに手を差し込んだ。スマホが握られて外に出てくる。ブルーブラックのカバーがついたスマホの画面を見て、リンが言った。

「……アリスから電話」

 リンがスマホを耳に当てる。数秒後、その目が大きく見開かれた。

「…………うん……すぐ帰る」

 そう言ってリンは電話を切った。そして、顔を百崎とローナの方に向けて言った。

「……メルが、さらわれたって……」

 その瞬間、百崎とローナの表情がこわばった。


   ◇   ◇   ◇


「おい! どういうことだよ!? メルがさらわれたって!?」

 自宅の玄関の扉を開けるなり、ローナが大声で叫んだ。

 デパートでアリスから『メルがさらわれた』という知らせを聞き、百崎とローナとリンの三人は急いで家に帰ってきた。帰り道の途中でも、三人は気が気ではなかった。

 ローナは靴を脱ぎ散らかしたまま室内に上がっていく。二人もできるだけ急いで靴を脱ぎ、ローナのあとを追った。

 リビングに向かうと、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けているアリスの姿があった。うつむいているが、その横顔からは沈鬱そうな表情が見て取れた。

「アリスっ!」

 ローナが声をかけると、アリスは三人の方を向いた。

「…………」

 しかしアリスは一瞬だけみんなの顔を見ると、再び視線をそらしてしまった。

 ローナが今度は押し殺した声でアリスに訊く。

「どういうことだよ。メルがさらわれたって」

「…………」

 アリスは顔を伏せた状態で何か言おうと数回口を動かしたが、肝心の言葉が出てこなかった。何を言えばいいのか、どう言えばいいのか、たぶん分からないのだろう。自分たち以上に、アリスも混乱しているのだ。この事態に。

「……アリス。とりあえず、メルがいなくなった時のことを話してくれない?」

 アリスのそんな心中を察したのか、リンがそう言葉をかけた。話すべきことを一つに限定することで、混乱した頭でも話しやすくなるようにするためだ。

「…………分かったわ」

 リンの言葉を聞いて少し落ち着いたのか、アリスはいつもの凛とした声を出した。そしてゆっくりと、思い出すように、メルがいなくなったという時のことを話し始めた。

「……あの時……、わたしは看病をするために、メルの寝ているベッドの隣にいたんだけど……、……トイレに行きたくなって……、それでメルに言ってからトイレに行ったわ……。そしてトイレから戻ったら…………」

 アリスはそこで一呼吸置き、それから言った。

「……もうすでに、メルはいなくなってたの…………」

 リビングに沈黙が落ちる。三人は誰も声を発さなかった。

 アリスが話を再開する。

「窓は開けていたから、たぶんそこから入ったんだと思う……。ベッドの掛け布団もきれいなままで……、荒らされた様子も一切なくて……。本当にメルだけがきれいにいなくなってた……。最初は目を疑ったわ……。でもどんなに経ってもメルが戻ってくることはなくて……。それで何気なく枕を見たら、その上に手紙が置いてあったの…………」

 そう言ってアリスは、テーブルの上から一通の手紙を手に取った。

「……これが、その手紙」

 アリスは言いながら、三人にその手紙を見せた。

 封筒の色は純白。何の柄もついていない。表には、黒のインクで『この家の皆様へ』と書かれていた。ローナが手を伸ばして、その手紙をアリスから受け取る。百崎とリンは、ローナの後ろからその手紙を一緒に見た。

「開けるぞ」

 ローナが言う。アリスは無言で頷いた。

 封筒を裏返すと、すでに封は開いていた。これはアリスが読むために開いたからだろう。中から便箋を取り出す。こちらも何の柄もついていない白色だった。

 しかし、その便箋は封筒と同じサイズの、とても小さなものだった。畳んで封筒と同じサイズなのではなく、広げた状態で封筒と同じサイズしかないのだ。

 そこには、きれいな文字で、

『この家の皆様へ。

 知花メル様は、我々の手中に収めさせていただきました。

 取り返したくば、三丁目の交差点にお越しください。

                 第六天使団     』

 と、だけ書かれていた。

「何だよ……何だよこれっ!?」

 ローナが手紙を握り締めながら叫んだ。

「またあいつらかよ!? 何でメルが!?」

 ローナが叫びたくなる気持ちは、百崎にもよく分かった。今まで天使たちが狙っていたのは自分だったはずなのだ。それなのに、どうして今になってメルを狙ったのか。

「…………みんな」

 でも、だからこそ、百崎の心は決まっていた。

「俺は、さらわれたメルを助けに行く」

 自分の代わりに捕まった女の子は、自分が助けに行くのだ。

「……ふっ、何言ってんだよー」

 そう言ったのは、ローナだ。手に持っていた手紙をくしゃくしゃに丸め、ポイッと投げ捨ててから言葉を続けた。

「あたいも行くに決まってんだろー」

「……私も行く」

 リンもローナのあとに続いて言った。

 残るは……、と三人は示し合わせたかのように同時にアリスの方を見た。

「も、もちろんわたしだって行くわよ。当然でしょ!」

 椅子から立ち上がりながら、アリスは慌てて言った。

「よし、じゃあ行こう。全員でメルを助けに!」

 百崎が最後に一声発し、四人は家を飛び出した。


 三丁目の交差点。手紙に指定された場所に着いた時には、すでに夕方は後半に差しかかり、夜の気配が近づいてきていた。

「あいつら、いないじゃねーか」

 百崎の隣で、ローナがそう呟く。確かに周りには、呼び出したと思われる天使たちの姿は見当たらなかった。いや、それ以前に――

「他に、誰もいない……?」

 そうなのだ。天使たちがいないのもそうだが、他に通行人らしき人まで誰一人としていないのである。そして通行人はおろか、車道にすら一台も車が走ってはいなかった。この時間帯に誰の姿も見えない、なんてことは本来ありえないはずだ。

「気をつけろみんな。何かがおかしい」

 百崎が三人に注意を呼びかける。四人は周りに目を配りながら、かたまって移動をした。

 そして十字の交差点の真ん中。車道の中心に立った時のことだった。

「やあ、よく来たね」

 背後から声。やや高めの男の声が、背後から聞こえた。

 四人が振り向くと、十メートルほど先の場所に何人もの人の姿があった。その数、七名。全員が同じような白い制服を身に纏っていた。ただし、男か女を分けるためなのか、ズボンとタイトスカートの二種類のタイプがあった。

 そしてその後ろには、透明なガラスのような円柱に捕らわれたメルの姿もあった。円柱の中でふよふよと宙に浮いた状態で、しかしその顔は伏せられていてよく見えなかった。

「さあ、うちのメルを返してもらおうか」

 ローナが早速語気を強めて言う。

「まあそう慌てないでくれたまえ」

 円柱の前にいる背の高い男が、ローナの声を聞いて言葉を返した。真っ先に聞こえた男の声と、その声は同じものだった。どうやら先ほどの声も彼から発されたものらしい。

「望みは何? どうしたら返してくれるのよ?」とアリスが言う。

「なかなか理性的じゃないか。てっきり実力行使で来ると思ったのだが」

「そうしてもいいが、それを真っ先にするほどバカじゃあない」とローナ。

「ふむ、いい心がけだ。ならばさっさと条件を言おうか」

 条件、と聞いて、四人の体に緊張が走る。


「――百崎才人君をこちらに渡せ」


 なっ……、と全員が一瞬その場に固まった。

「条件はそれだけだ」

「……メルをさらったのって、そういうことかよ」とローナが言う。

 メルを人質に取り、交換条件として百崎を提示することで、確実に手中に収めようとする寸法なのだ。人質を取られていれば、こちらは下手なことはできないし、相手の有利なように事を運ぶことができる。

「さて、どうするんだ? 渡すのか、渡さないのか」

 アリスとローナとリンはの三人は、ぐっと黙り込んでしまった。おそらくいろんな考えが頭を回っているのだろう。そんな中で、百崎は一人男に向かって質問をした。

「……なあ、一つ訊いていいか?」

「何だね?」

「俺がそっちへ行ったら、メルは必ず解放してくれるんだろうな?」

「もちろんだとも。それは保障しよう」

「……分かった」

 そう言って百崎は、三歩前に出た。そして三人の方を振り返る。

「みんな。俺は取引に応じる」

 迷いなく、はっきりと百崎はそう言った。

「……で、でも」とローナが不安そうな声を出す。

 アリスとリンも、声には出さないが不安そうな表情をしていた。

 その理由は明白だ。天使たちのもとへ向かって捕まったあと、一体何をされるか分からないからだ。考えたくはないが、最悪殺される場合もないわけではない。

 しかし、だからといって、メルを見殺しにすることはできない。

 自分の代わりに捕まったのなら、自分が救い出してやるってのが筋ってもんだ。

 それに、自分の存在だけで返してくれるというのだ。だったら安いもんだろう。

「そんな顔しないでくれよ。もしかしたら大したことないかもしれないだろ?」

 言って、百崎は再度振り返った。これ以上彼女たちの顔を見ていられなかった。

 一歩踏み出す。歩き出す。百崎は真っ直ぐ天使たちのもとへ歩いていった。

 背の高い男の前まで行くと、一度立ち止まった。そして口を開く。

「メルを返してくれ。あとはそれからだ」

「いいだろう。二天にてんの諸君、返したまえ」

 男が指示を飛ばすと、タブレット端末を持った一人がそのタブレットを操作し始めた。すると、メルが捕らわれた透明な円柱が、地面を滑るように移動した。

 百崎の隣を、メルが宙に浮いたまま通り過ぎていく。顔が伏せられたままの彼女の姿がとても近くで目に入った。メルはどうやら気絶させられているようだった。

「メルはちゃんと無事なんだろうな?」

 百崎の問いに、男が答える。

「ああ、安心してくれたまえ。気絶しているだけだ。そのうち目を覚ますだろう」

 メルの円柱はアリスたちの前まで行って停止し、直後、ガラスの割れるような音を発してその円柱は砕け散った。浮いていたメルがゆっくりと地面に落ち、そのまま地面に倒れそうになったところを、すんでのところでローナが受け止めた。

 それを確認した百崎は、視線を再び背の高い男の方に向けた。

「……どうすればいい、俺は?」

「そうだな、そこに立ってくれるか」

 男が指差したのは、さっきまでメルを閉じ込めていた円柱のあった場所だった。

 百崎は男の横を通ってそこへ向かい、そしてその位置に立った。後ろを向き、メルたちがいる方を向いておく。

(…………?)

 特に不思議な感覚などはない。百崎が疑問に思っていると、男が他の天使たちに再度指示を出した。

「では、二天の諸君は解析を開始。六天の諸君は一層の警戒を怠るな」

 はっ! と威勢のいい声が他の天使たち六人から発せられ、そのうち三人が声を発したあとに場所を移動した。その三人は百崎を取り囲むように、背後と左右の場所にそれぞれ一人ずつ立った。

 そしてその三人は、手に持っていたタブレット端末を操作し始める。

「『拘束円柱』を設置」

 と、左の一人が言う。すると、百崎の周りにメルの時と同じような、透明なガラスのようなものでできた円柱がいきなり現れた。

「『拘束力場』を発生」

 と、今度は右の一人が言う。次はなんだ、と百崎は身構えた。しかし――

「うわっ!」

 ――次に起こったのは、百崎の体が空中に浮かび上がるという現象だった。重力が方向を変えてしまったかのように、体が急に持ち上がった。宙に浮いた状態では、体を動かしても移動することができなくなる。これも一種の拘束なのだろう。メルが宙に浮いていたのも、これをやられていたからか。

「解析を開始します」

 と、残った背後の一人がそう言った。それと同時に、円柱の中が白い光で満たされる。百崎の体が白い光で包まれ、視界も白一色で埋め尽くされた。

(な、なんも見えねぇ)

 百崎を取り囲む白い光は、驚くべき光量を放っており、数センチ先にある自分の手すら見えないほどだった。けれどもその光は通常の光とは違うようで、こんな光量であるにかかわらず、目を開けていても何ともなかった。その上熱量もないので、体がどうにかなるなんてことは一切なかった。

 結果として、ただ何も見えないという状況が作り出されただけだった。

(…………こいつらは)

 百崎はそんな中、自分が置かれた状況について考える。

(一体何をしているんだ?)

 そういえば……、と百崎は思い出す。背の高い男の言葉と、背後にいる一人の言葉。二人の発した言葉の中に、気になる単語があった。

 解析。

 そうだ、解析だ。あの二人は、自分に対して解析を始めると言っていた。

 解析とはつまり、何かを調べるということだろうか? 自分の体を調べることが、こいつらの目的なのか?

 仮にそうだとして、自分にそんな調べるようなことはあっただろうか。……待てよ、そういえばメルたちに、百崎の体は特殊な体質を持っている、とか言われたような。性的興奮で体内貯金が増えるとか、魔力再生がとてつもなく早いとか、そういったのが特殊体質であると言われたような気がする。

 天使たちのやっている解析とは、それに関係するものなのだろうか……?

 と、百崎が思案していると、背後の一人が再び声を発した。

「解析、八十パーセント完了。残り八秒……七……六……――」

 終了のカウントダウンが始まる。そして、

「――三……二……一……、解析完了しました」

「よし、照合に移れ」

「はい。照合、開始します」

 男の指示で、背後の一人は次の行動へと移った。しかし百崎には何も見えない。

 何度目かの沈黙がその場に降りる。だが、次の言葉は意外に早く訪れた。

「照合の結果が出ました」

「どうだった?」

 男が訊く。背後の一人は滑らかに報告した。

「照合の結果、百崎才人と比較データの、指定された部分が一致しました」

 その報告を聞いた男は、まるでそれを望んでいたかのように喜びをあらわにした。

「そうかそうか! これで僕の計画がまた一歩現実のものとなるだろう! ……よし、ではデータを差し替えて上に報告しておけ」

「了解しました」

 背後の一人が返事をして数秒後、円柱を満たしていた白い光がふっと消滅した。百崎の視界に、夕闇に染まった街の姿が再度映し出される。

「素晴らしいよ百崎才人君。君は僕の希望だ」

 と、気がつけば背の高い男が百崎の正面に立っていた。

「な、何だよ希望って。……それよりも、さっきの解析とか照合ってなんだ?」

 百崎が男に質問する。男はふふっ、と不敵な笑いを浮かべ、言った。

「君にはある疑いがかけられていてね。それで今さっきの解析と照合は、それの白黒をはっきりさせるために行ったものなんだよ。で、その疑いというのが――」

 一拍置き、直後。


「――君がルシフェルの復活のための肉体かどうか、というものだ」


(…………?)

 しかし言われても、百崎には何のことだかさっぱり分からなかった。とりあえず、変な疑いの白黒をはっきりさせるために、先ほどの解析と照合を行ったことだけは分かった。

「……ルシ、フェル……だって……?」

 その時、遠く離れた位置にいるローナが、ぽつりと言った。

「ルシフェルって、魔界を創ったっていうあの堕天使のことだろ!?」

 ローナの続く大きな声に、背の高い男はただ一言、「そうだ」と答えた。

「そのルシフェルと才人との間に、何でそんな関係があるんだよ!?」

 半ば叫ぶように、ローナが再び言った。

「さあね。それは僕の知ったことではないよ。世界がそう決めたんだ」

 けれど男は、あくまで冷静な言葉を返した。そう言われたローナは、それ以上何も言うことができないようだった。やや高めの声の男は、百崎の方に向き直る。

「百崎才人君。君は本来だったら、この場で死ななければならない運命なんだ」

「死ッ――?」

「でも、その役割を任されたのが僕で良かったね。そのおかげで君の運命は変わり、ここで死ぬことはなくなる」

「……は?」

「君の運命は、死から僕の手駒へとここで変わるんだよ」

「だから何言って―――」

「――脳の初期化を始めろ」

 男が周りに指示を飛ばす。はっ! と他の天使たちが返事をした――

 次の瞬間。


 頭の奥に響くような頭痛が、百崎を襲った。


「―――ぐうぅぅううううう!?」

 急激に来た痛みに、百崎は頭を押さえる。が、頭の奥の方に発生する痛みは、そうしたところで消えることはなかった。

(あいつら、なんて言った!? 脳の……初期化だって!?)

 だとすると、この頭痛は人為的に起こされているのだろうか。すぐどうこうなるほどの痛みではないが、これが長時間続くとなるとさすがにヤバい。

 いや、頭痛なんかよりももっとヤバいのは、その『脳の初期化』というやつだ。初期化とはつまり、何もない最初の状態にするということだ。コンピュータなんかでも、初期化という機能があったりするし。

 脳を初期化するってことは、記憶も思い出も全て消してしまうってことか!?

「――あああぁぁああああ!?」

 より一層頭痛がひどくなる。

「百崎!」「サイフっ!」「……才人!」

 遠くでアリスとローナとリンの三人の声がした。

「動くな。変なまねはするなよ」

 しかしその周りを、同じく三人の天使が取り囲んでいた。いつの間にかその服装は、白い制服から学校の時に見た三色のメカのような装甲服姿に変わっている。頭上にはしっかりと光の輪を携え、手には剣を持っていた。

(く、そっ! みんなに……手出しは、させないってか!)

 それに加え、気絶しているメルを除き、それ以外の三人が全員とも魔武器を装備していなかった。自分を助けるために、今さら魔武器を装備しようとしてももう無理だろう。天使たちがそれを許すはずがない。

 必然的に、ここは自分の力で何とかするしか方法はない。

(自分の、力で何とかって……いってもよ……ッ!)

 どうすればいい。この絶望的な状況を打破するにはっ。

「ぐっ……ううううぅぅぅ!」

 頭痛がひどい。さらに頭が回らなくなる。

(俺にも……みんなみたいに、魔武器があればっ……!)

 そんなことを無意識に考えて――――

 魔武器?

(……そうだ。……そうだよッ!)

 これまで魔界で聞いてきた全ての言葉、体験してきた全ての場面が、百崎の頭の中を洪水のように流れていった。

(俺だって……俺だって魔人なんだ! だったら!)


 俺の中にも、魔武器があるはずだ―――ッ!!


 そう思い立った百崎は、襲い来る頭痛に必死に耐えながら自分の内部へと心を向ける。

 しかし。

 魔武器をどうやって出すのか。どうやって使うのか。魔力の使い方。お金から魔力への変換の仕方。しかしその一切を、百崎は知らなかった。

(でも、これしか……ないんだよっ……!)

 メルの刀の中に入って出会った、水色の髪の少女へーちゃんのように、自分の内にいるもう一人の存在を強く意識する。願うように、呼び起こすように、心の奥へと必死に語りかける。

(頼む、頼む、頼む、頼む!)

 だが、そう都合よく上手くはいかない。

 頭痛のせいで、嫌な吐き気もこみ上げてくる。

 やっぱりダメなのか……。無理なのか……。百崎の心が折れそうになり――――

『お呼びですか?』

 ―――その声は、突然聞こえた。

「……ッ!?」

 百崎は閉じていた目を大きく開ける。

(あ、え……? ほんと……に、とどい……て……?)

 脳内ですら、上手く言葉が作れない。それほどまでに百崎は驚いていた。

『はい、しっかりと届きました。私の眠りを覚ます声が』

 再び頭の中に、直接声が聞こえてくる。百崎は深呼吸をして、一度心を落ち着けた。

 そして心の内に話しかけるように声を発する。

(頼む、今大変な状況なんだ! 俺に力を貸してくれ!)

『分かりました。ですが、一つ間違いがあります』

(な、何だ?)

『私は別人格のあなたなのです。この力はあなたのものであって、貸してもらうものではありません。ですから、自分の力を使うという認識で良いのです』

(わ、分かった。じゃあ今すぐ武器を出したいんだが、どうすればいい?)

 時間が経つにつれて驚きや混乱が薄まっていき、それに伴って意識の外にあった頭痛が再度表に出てくる。百崎はその頭痛に耐えながら、次にすべき行動を取っていく。

『あなたは魔武器を出したいと思いながら、その魔武器をイメージしてください。あとは私が全てやりますので、心配は無用ですよ』

(分かった)

『私、デフォルト名「パンドラ」のイメージは、黒の指輪です。指にはまった黒い指輪をイメージしてください』

(分かった。よ、よし。それじゃあ、いくぞ)

 百崎は持ち上げた自分の右手に視線を向け、中指の根元辺りに黒い指輪をイメージした。もちろん、魔武器を出したいという思いもセットで。

 しかし、思いもよらない事態が発生。

『すみません、魔力および体内残金が足りないようです。このままでは魔武器を召喚できません』

(え、お、おい嘘だろ!?)

『緊急用として、体の一部――例として左腕などを魔力に再変換することで、短時間ではありますが召喚することは可能です』

(それでいい! だから早く頼む!)

『了解しました。それではどうぞ』

 そう言われ、百崎はもう一度中指に指輪をイメージする。すると、直後。

 肩から先の左腕が一瞬にして白い光に変換され、そしてその光が消えると同時に、今度は右手の中指の根元がリング状に白い光で輝き始めた。

 中指の根元の白い光がパッと弾けるようにして消えると、その光の中からデザインなどまったくない、ただの黒い輪っか然とした指輪が現れた。

(よし、できたぞ!)

 左腕をなくした状態で、百崎は再び心の内に話しかける。

(……で、何で武器が指輪なんだよ!?)

 ここに来てついに抑えきれなくなり、思わずツッコミを入れてしまった。指輪と言われた時点で何でだよ、とは思っていた。てっきり、メルみたいに剣とかだと思っていたのに。

 けれど、彼女(推測)はつとめて冷静に言う。

『その指輪はあくまでも制御のための道具です。真に武器となるのは、あなたの魔力から生まれる「闇」なのです』

(や、み……?)

『闇に決まった形はありません。時に剣となり槍となり、盾となり壁となり、手となり足となります。あなたが思うように操作してもらって構いません』

(どうやって、操作するんだよ……?)

『それは簡単です。頭の中で思い描けばいいのです。これもイメージ、と言っていいかもしれませんね。闇の生まれる位置、その動く範囲、距離、形状、それらを頭の中で考えるだけです。言葉で言うと難しく聞こえますが、意外にやってみれば大したことはありませんよ』

(分かった、やってやる)

『それでは、ご武運を』

 それっきり、彼女の声は聞こえなくなった。百崎はまだ、希望を失っていない瞳で周りを見る。まずは、この透明な円柱を何とかしなければならない。

 と。

「さっきの光は何だ? この期に及んでまだ何かするつもりかな?」

 百崎の変化に気づいた背の高い男が、そう声を発した。

 対して百崎は、口角を上げて笑いを浮かべながら言葉を返す。

「そうだ。今から俺は、ここを出る」

 その瞬間、百崎は円柱を闇で内側から外へ押すようにイメージした。

 すると、それとほぼ同時に、漆黒の液体のようなものが円柱の内壁にバシッと張りついた。それを見た瞬間、百崎は全てを理解する。

 これが、彼女の言っていた『闇』だ。

「な、何をしている?」

 男がやや慌てた声を出す。

 しかし百崎は何も答えず、ただその闇で外へ外へと押すように強くイメージする。

「おい、何をしているんだ」

 答えない。ただ外へ外へとより強くイメージする。

 バシバシッ、と。新たに生み出された闇がさらに円柱の内壁に張りついていく。

「なッ……、やめろ……」

 ピシッ、と。円柱の一部分にヒビが走る。

「やめろッ……」

 ビシビシビシビシッ!

「やめてくれッ…………」

 ビシビシビシビシビシビシビシビシビシビシビシ――――――――ッ!!

「やめろおおおおおおぉぉぉぉ――――――ッ!」

 男が叫んだ瞬間。

 ガラスが割れるような音を周囲に振り撒きながら、透明な円柱は粉々に砕け散った。

 円柱の破壊によってなのか、百崎を宙に浮かせていた力場も、その効力を消滅させる。若干体のバランスを崩しながらも、百崎は地面に降り立った。気がつけば、あれほど深刻だった頭痛も消えている。

 円柱の残骸は、極小の粒子に分解された。そしてその粒子は風に吹かれて遠くに飛ばされ、円柱は跡形もなく消滅してしまった。

「さて、今回は俺がみんなを助けてあげる番だ」

 百崎は、メルたちのいる方に目を向ける。その顔は、ヒロインを救う主人公がごとく。

「くっ……! 百崎才人を押さえろ!」

 男が慌てて他の天使に指示を飛ばす。メルたちを取り囲んでいた三人の天使のうち、二人が百崎に向かって近づいてきた。

 二人はメカニカルな翼から光の粒子をまき散らし、ホバー状態で地面を滑るように向かってくる。対して百崎は何もしない。ただその場で、二人が来るのをじっと待っている。

 両者の距離が近づく。天使の二人は、手に持った剣を構えた。

 そして剣の攻撃範囲に百崎が入り、二人は百崎に向かって剣を振り下ろした。

 直後。

 ズッ! という音が、その場に響き渡った。

 それは。

 それは、剣が百崎を切り裂いた音――ではない。

 その音は、百崎の闇が襲い来る斬撃を受け止めた、その瞬間の音。

「なっ……!」「……ッ!」

 二人の天使が、驚愕で目を見開く。そして二人は即座に剣を引き戻し、百崎から一旦距離を取ろうとして――

 しかしそれより一瞬早く、闇が二人の体にまとわりついた。

「ぐっ……!」「うッ……!」

 二人は必死に逃げ出そうとする。だが、どんなに力を込めようとも、そのまとわりつかれた闇から抜け出すことはできなかった。

 百崎が右手を持ち上げる。それから、その開いた右手をぐっと握り締めた。

 次の瞬間。

 バキィッ!! と豪快な音を立てて、天使が軽々と握り潰された。

 握り潰したのは、今さっき二人にまとわりついた百崎の闇。想像を絶するほどの圧力が、その闇から発せられ、二人の体を襲ったのだ。

 まとわりついていた闇が、空気中に溶けるようにしてふっと消える。

 ぼとっ、ぼとっ、と。二人の天使が地面に倒れた。もうピクリとも動くことはない。

 けれども全身を砕かれた二人は、それでも何とか生きていた。

「は、早くッ! 彼を止めるんだッ!」

 やや高めの声の男が必死に叫ぶ。メルたちのそばにいる残った一人が、命令を受けて百崎の方に体を向けた。

 先ほどの二人と同じように飛行状態に移り、こちらも地面を滑るように距離を詰めてくる。だがさっきのを見て警戒したのか、一直線に突っ込んでくるようなことはしない。横移動を織り交ぜながら、慎重に少しずつ近づいてくる。おそらく、百崎の攻撃は遠距離からでも来ることを読んで、的を絞らせないようにしているのだろう。

 しかし、百崎の闇の前には、そんな小細工は通じない。

 天使が右に動いた瞬間を見計らって、闇を右から襲わせる。まるで移動した方向にそれがあったかのように、まるで自分から飛び込んでしまったかのように、天使はいとも簡単に捕まってしまった。

 そして、百崎は天使を捕らえたその闇を上空高く持ち上げると、

 一気に地面のアスファルトに向かって、それを叩きつけた。

 バアァンッ!! と。何かが墜落したようなすさまじい音が響き渡る。

 闇が消えると、そこにはアスファルトにめり込んだ無残な天使の姿があった。

「さぁて、次はあんただ」

 百崎が、感情の死んだ平坦な声を出す。誰、と特定して言ったわけではないのに、背の高い男は真っ先に自分のことだと思ってしまう。

 その声を向けられた男は、一瞬薄ら寒いものを自分の中に感じて、得体の知れないようなものを見るかのような目で百崎を見た。

 百崎が、ゆらりと、男の方を見る。

「―――ぁ」

 その刹那、男が感じたものは。

 もうどうすることもできないという、諦観。

「…………全員、即刻帰還せよ」

 男が静かにそう告げる。それを聞いた他の天使たちは、自らの体を白い光で包んでいく。それは、何回か見たことのある、天使がこの場からいなくなる時の光景。

 タブレットを持った調査員らしき三人が、まず初めに姿を消す。続いて地面に倒れた戦闘員の三人が、あとを追うように姿を消した。

 残るは、背の高い男のみ。

「……百崎才人君。僕は君という存在を必ず手に入れる」

 最後にそう言うと、男の体が白い光に包まれた。それからその体が無数の粒子に分解されて四散し、空気中に溶け入るように消えていった。

 男の姿はもう、どこにもなかった。


『ご主人様』

 百崎の頭の中に、直接声が響いた。彼女だ。

『魔武器召喚の限界時間です』

 彼女が言うと、百崎の右手の中指にある黒い指輪が、何の変化も見せずに消滅した。

「ああ、もう必要ない。……ありがとう」

『いえ。――それでは、また』

 ぷつっ、と。頭の中で何かが途切れるような感覚がして。

 彼女の存在が、感じられないほどどこか遠くへ消えていた。

「………………」

 百崎は、一度息を長く吸って、そして吐いた。

 それから、みんなのいる方へ体を向ける。確かな足取りで、みんなのもとへ向かった。

 全て終わった。一時はどうなることかと思ったが、何とか切り抜けることができた。

 まだ納得のいかない部分や、謎に包まれたことはたくさんあるが、今はもういいだろう。

 小難しいことを考えるのは、またあとでだ。

 今はただ、みんなの顔が見たい。

「…………サイフ」「…………百崎」「…………才人」

 百崎がみんなのもとに歩み寄ると、気絶しているメル以外の三人が同時に百崎に声をかけた。それに対し、百崎は優しい声で一言、

「終わったよ」

 と、だけ言った。

 その時、メルの口から「んっ……」という声が漏れ、メルが意識を取り戻した。

 薄く目を開けたメルの顔を、百崎は覗き込んで、

「おはよう」

 と。穏やかな笑みとともに、そう言った。

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