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第二章


 第二章 ベルゼブブと天使は、急に姿を現しました



「……………………………………きろ」

 翌朝。百崎は何か女性の声を聞いたような気がした。しかし、たぶん気のせいだろう。昨日あれだけメルたちの女の子の声を聞いたのだ、その感覚が耳に残っているだけかもしれない。

 体にかかっている毛布を首筋まで引っ張り上げる。朝は体温が下がっていて少し肌寒い。百崎はソファーの上で体勢を変えると、再び眠りの世界に落ちようとして、

「…………起きなさい!」

 耳に届いた甲高い声が、その眠りを妨害した。

「あとちょ「必殺! 肘突き!」ぶううううううううううぅぅぅぅぅぅぅぅ――――――――――――――!!」

 腹部に重く鈍い痛みが走った。百崎は腹を押さえて丸くなる。

「うぐぐ…………」

 涙目になりつつも薄く目を開けた。視界に二本のピンク色の柱が映っている。その柱をたどって視線を上げていくと、柱は途中で一本に繋がった。さらに視線を上向け、柱が一瞬肌色で細くなったかと思うと、その上にメルの顔があった。

「どわああああ!」

「ぷっ! ふひゃはははは! ……何よ、どわあって…………ふひゃはははははっ!!」

 メルはお腹を抱えて大爆笑していた。しばらく笑い声が続き、

「ははは…………。はあ、朝っぱらから笑わせないでよ」

 百崎はリビングのソファーから上体を起こし、足を床に降ろした。腹部の痛みもだいぶましになっていた。

「あたしの肘突きの味はどうだった?」

「吐くくらい不味かった。胃腸薬が必要なレベルだった」

「あらそう。……もうすぐ朝食の時間だから」

 メルはそう言うと、部屋を出ていった。部屋を出ていって顔が見えなくなるその直前まで、メルの口元にはにやにやとした笑いが貼りついていた。あ、こりゃまたやられるわ。百崎はそう確信した。

「…………顔でも洗うか」

 百崎はソファーから立ち上がる。メルのあとを追うように部屋を出た。

 昨日、転校の話が一段落したあと、メルが家の中を案内してくれた。一階にはリビング兼キッチンダイニングの部屋の他に、風呂場や洗面所、トイレ、収納スペースがあった。二階には、メル、アリス、ローナ、リンの各自の部屋があった。

 そういうわけで、百崎は洗面所の場所を知っている。寝起きの頭でも迷うことなく、洗面所にたどり着いた。

 鏡の前に立つと、自分がTシャツにパンツの姿であることを思い出した。ソファーで寝る時に、制服とワイシャツを脱いだのだった。

 蛇口から出た水を手ですくい、顔を洗う。冷たい水が眠気を吹き飛ばした。ついでに寝癖も直す。一通りの身なりを整え、リビングへと戻った。

 部屋に入ると、キッチンでアリスとリンが朝食の準備をしていた。それを横目で見つつ、ソファーへと向かう。準備の様子を眺めながら、手早く制服に着替えた。

 しばらくして、二人は朝食をテーブルに運び始める。その途中で、メルが部屋にやってきた。メルは二人と合流し、何かを話す。

 短い会話が終わると、メルは百崎の方に歩いてきた。両手に何かを持っている。

「あんたの分よ。これで我慢して」

 ガラステーブルの上に置かれたのは、食パン二枚と牛乳が注がれたシリアルの器だった。

 ありがとう、と百崎が言うとメルは向こうに引き返していった。

 朝食の準備が完了し、三人がダイニングテーブルの自分の席についた。しかし、まだローナが来ていない。どうするのかと百崎が思ったその瞬間、部屋の扉が開いた。

 ふらふらと体を揺らしながら、ローナが姿を現した。

(すげぇ眠そうだなぁ)

 彼女の目は、もともと半開きなうえにさらに眠気が乗っかり、完全に糸目の状態になっている。口も開いたままで、今にもよだれが垂れそう――あ、垂れた。口の端から流れ出たよだれを、ローナは手で拭う。拭い終えると同時に、ピタッとその動きが止まった。歩みを進めることも、ふらふらと揺れることもない、本当の停止。

 な、何だ? 何で止まった? 百崎の頭の中が疑問符で埋まっていく。

(もしかして、何か重大なr)

「ZZZ…………」

(ね、寝てたああああぁぁぁぁ――――!)

 立ち寝だ。立ったまま寝ている。そんな芸当のできる人間がいたとは!

「ローナ! 頑張って!」

「…………ふぁっ」

 メルの応援で、ローナは目を覚ました。ごしごしと目を擦り、再びふらふらと歩み始める。半ば倒れ込むように椅子に座った。

「いただきます」アリス「いただきまーす!」メル

「……いただきます」リン「……………………ぁーす」ローナ

 四種類のいただきますとともに、今日の朝食がスタートした。


   ◇   ◇   ◇


 学校へ行くための準備をするから待ってて、とメルに言われた。

『今日の占い!』

 テレビをつけると、ちょうど占いがやっていた。二位から六位までの星座名が画面に並ぶ。その横にはラッキーアイテムとラッキーカラーが一緒に書かれている。

『続いて七位から十一位!』

 百崎は自分の星座を探す。が、ここにも自分の星座はなかった。

『今日の一位は……』画面が切り替わり、『おとめ座の皆さんです! とっても良い一日になるでしょう。気になる人に接近できるチャンスが来るかも。ラッキーカラーはオレンジ。ラッキーアイテムはボールペンです』

(ああ、ってことは……)百崎のふたご座は――。

『残念。最下位はふたご座。今日は思いもよらないことが起きるでしょう。特に玄関の扉を開ける時には気をつけよう。運気を上げるラッキーカラーはシルバー。ラッキーアイテムは財布です』

 最下位か……、と百崎は少し気が重くなった。しょせん占いなんて、一位も十二位も大して変わらないのに、どうしてこんなにも気にしてしまうのだろう。……それが占いの魔力というものだろうか。

『それでは皆さん、良い一日を!』

 朝の情報番組が終わり、すぐさま次の番組が始まった。

「お待たせ!」

 気がつくとメルが隣に立っていた。制服姿で、鞄を持っている。

「今日は他の三人よりも早めに家を出るわ」

「ああ。転校初日だもんな」

 先に職員室に行って、いろいろ聞くことがあるだろうからな。

 百崎はテレビを消すと、ソファーから立ち上がった。

「そういえば俺の靴は?」

「玄関にあるわ」

 メルのあとに続いて部屋を出る。左に曲がり、廊下を真っ直ぐ進む。

 玄関の一段低くなっている場所の隅っこに、百崎の愛用する靴があった。

「マイシューズ!」

 手に取って靴を眺める。かかとののすり減り具合、汚れ、においなど、全てが自分の知っているものだ。履いて立ち上がると、慣れ親しんだ感覚が足を包んだ。

「さてと、行きましょうか」

 メルがローファーを履いて立ち上がる。鞄を手に持つと、顔だけを家の中の方に向け、「先に行くねー!」と声を発した。

 メルが玄関扉の取っ手を掴み、大きく開け放つ。


 巨大なハエのようなモンスターが、大量に空を飛び交っていた。


「うわあああああっ!!」

 その光景のあまりの気持ち悪さに、百崎は思わず悲鳴を上げた。

 バタンッ! とメルが高速で扉を閉める。

「ベルゼブブ!? 面倒くさいわねこんな時に!」

「何なんだよあれは!?」

 扉の向こうからは、かすかにではあるが絶えず羽音らしきものが聞こえてくる。

「魔物よ。名前はベルゼブブ。通称ハエ」

「魔物……。魔界だからやっぱり魔物もいるのか」

 しかし、玄関を開けたら即エンカウントなんて思いもよらないだろう。と、そこで百崎はさっきの占いを思い出した。テレビの中の女性が何と言っていたかを。

 『最下位はふたご座。今日は思いもよらないことが起きるでしょう。特に玄関の扉を開ける時には気をつけよう』

 占いが的中した。今まさに、占い通りのことが起きていた。

「どうするんだよ」

 百崎はメルを見る。自分にはこの状況を何とかできる方法を持っていない。

「……強行突破するわ!」

 メルは右手に光を収束させ、刀を生み出した。刃の口を開き、そこに鞄を投げ入れる。

「あんたも入りなさい。足手まといになるから」

 刃の口をぐいっ、と近づけてきた。

「ここからはお前の番だな」

 百崎はメルの言う通りにして、口の中に飛び込んだ。

「ここからはあたしが主役よ」


 Mission2 ハエを蹴散らし、学校にたどり着け


 ふぅ~~~、とメルは大きく息を吐いた。集中力が高まり、全身から余分な力が抜けていく。左手で玄関の取っ手を握り、自分がギリギリ通れるだけの隙間を素早く開けた。スルッと滑り込むように外に出て、しっかりと扉を閉める。

「かかってきなさい。虫けらども」

 メルが左手をクイクイッと曲げ、挑発した。

 すると、今まで縦横無尽に飛び交っていたベルゼブブが、ホバリングをして一斉にメルの方を向いた。

 ベルゼブブは、通称の通りハエのような頭と胴体、それに薄い二枚の羽を持っている。唯一違うのは、頭に最も近い一対の脚の先端が、円形のノコギリになっていることだ。肉をズタズタに引き裂きそうな鋼色の刃が目にも止まらぬ速さで回転している。

 メルは地を蹴ってハエの群れに突っ込んだ。

 前方に立ち塞がった一匹を横方向にかわしながら、その胴体を水平に斬り払う。眼前に迫ったノコギリを上半身を屈めて避ける。左右から挟むように狙ってきた二匹に、メルはジャンプして股を開き、空中でその頭に蹴りを浴びせる。

 一直線にダッシュしながら、メルは家の敷地を飛び出した。住宅地の間を縫うように走る、細い道路に出る。

「ちっ……」舌打ちをする。「数が多い」

 メルが立ち止ると、ベルゼブブが一瞬で周りを取り囲む。外から見ると、まるで鈍色のドームのように見える。

 突っ切って振り払うことも可能ではあるが、それを決断できない理由があった。今はメルだけを狙っているが、もし強行突破を仕掛けている最中に他の人と出くわしてしまった場合、そちらの方に標的を変える危険性があるからだ。

 メルは『害魔駆除士』の資格を持っているので、魔物と戦う技術がそれなりに備わっている。しかし、他人がそれを持っているとは限らない。その人が魔物の標的にされれば、悲惨な光景に発展することになるかもしれない。

(こっちは急いでいるのに……!)

 メルは奥歯を噛みしめる。自分の都合だけを考えて強行突破してしまうか、周りのことを考えて退治しながら進むか。どちらにするべきかメルは悩んでいた。

 そんな彼女の葛藤を知りもしないハエたちは、再び攻撃を開始する。

 背後から不意をついてノコギリが接近する。メルは分かっていたかのようにそちらに振り向くと、恐るべき速さの斬り上げをお見舞いした。そのハエは一刀両断され、真っ二つになった体は地面に落ちる。

 メルは腕が振り上がったのを利用して、そのまま刀を引き絞るように構えた。頭上から襲来する奴をいとも簡単に突き刺す。それから大きく振り払うと、突き刺さったハエが刀から抜け、奥から接近を試みていた一匹と激突した。

(やっぱり少し数を減らすか)

 時間を食うかもしれないが、ここはやはり安全を取るべきだとメルは判断した。他人に魔物を押しつけてしまうのもそうだが、自分の安全のためでもあった。走りながらの戦闘というのは、意識を足に傾けている分、危険に陥りやすいのだ。

 ここでいくらか敵の数を減らし、残ったのは学校に向かいながら倒す。それが一番良い方法だと決定した。数が少なければ、他人を守るのも簡単になる。

「はっ!」

 気合の掛け声とともに、メルは日本刀の刃を伸ばした。

 細く長い白刃が、彼女の意思で自在に長さを変え、動く。その様子はまるで白い蛇のような印象を思わせる。

 五匹のベルゼブブが、同時に攻撃を仕掛けた。

 しかし、メルによって動かされた刀の切っ先が、ホーミングしてハエを貫く。そのまま貫通し、次の敵へと向かう。再び貫通、その次へ。貫通。そして次へ。

 メルの体を取り巻くように動かされた刃が、五匹全ての胴体を貫いた。串に刺さった団子のように、ハエは身動きがとれない。

「斬ッ!」

 決め台詞を言うと、ハエを貫いている部分の刃が薄く広がり、内部からその体を二つに切り裂いた。十個もの肉片が音を立てて地面に落下する。

 メルは刃のリーチを、人様の家屋を傷つけないレベルで最大限に伸ばす。今度は操るのではなく刀のとしての通常モードで固定。二メートル以上になった刀を、メルは両手で構えた。腰を落とし、重心を下げる。

 ダッ、と地面を蹴り上げ、自分からハエたちへ接近した。

 メルが巨大な太刀を音速ともいうべき速度で振るう。朝の住宅街に刀の白い軌跡が大きく描かれる。その軌跡が二つ、三つ、四つと描かれるたびに、ハエの体が斬り飛ばされていった。

 体勢を変え、斬撃の角度を変え、メルは三百六十度全ての範囲を攻撃する。斬撃の嵐にのまれたベルゼブブたちは急速にその数を減らしていく。

「はあっ!」

 最後に大きく一回転し、回転斬りを放つ。二匹のハエを巻き込み、水平に分断した。

 円形の軌跡が消えると、メルは刀の長さを普通に戻す。

 三十匹以上いたハエたちが、残り八匹となっていた。

(よし!)

 メルは学校へ向かうために走り出す。そして戦闘が行われた場所から数メートルほど離れると、刀を逆手に持ち替え、思い切りアスファルトの上に突き立てた。

 刀は手を離しても静止したままで、倒れることはなかった。メルはそのまま走り続けながら、「吸金!」と声を発した。

 刀の刃の部分が薄く広がり、その口を開ける。開いた口の先にあるのは、先ほどメルがバッサバッサと切り刻んだベルゼブブたちだ。

 そのハエたちの体が、黄金色に輝き始める。光のような姿になった直後、パッと弾けて大量の粒子を空中にまき散らした。そして粒子が瞬く間にお札へと変化し、刀の口に勢いよく吸い込まれていった。

 全てのお札を取り込むと、口が静かに閉じられた。十数秒前に戦闘が行われた場所には、きれいさっぱり何もなくなっていた。

「カモン! へーちゃん!」

 メルが格好つけて愛刀の名を呼ぶ。すると刀はその刀身を伸ばし始めた。切っ先はアスファルトに突き刺さって固定されているため、柄側の方が伸びて移動をする。空中を滑るように移動していく柄は、そのスピードを徐々に上げ、やがてメルの顔の横にまで追いついた。

 メルは柄を握り、刀全体を操作する。地面に刺さった切っ先に上向きの力を与え、スボッとその身を引き抜いた。巻き取られるコードのように、固定を失った白刃はするするとその長さを縮めていった。

 やや反りを持った普通の刀身に戻ると、メルは刀を肩に担ぐ。

 依然として八匹のベルゼブブに標的にされながら、走る速度をさらに速めた。


 人気のなさそうな所を選んで走ったのだが、生憎と言うべきか、何人もの通行人と出会ってしまった。

 しかし、ハエたちは標的をメルから変えることなく、執拗にメルだけを狙ってきた。時には通行人の真横を通ったりしたが、まったく気にも留めなかった。人間を倒したいだけなら、そんな行動を取るのはおかしい。

 しかし、なぜ? メルは内心で首をひねるが、全然分からなかった。

 けれども他人に被害が及ばないというのは、メルにとってはかなりありがたいものだった。他人がいないか常に気を配った状態では、ハエたちに意識を向ける時間が少なくなる。それは相手の攻撃を喰らいやすくもなるし、自分が攻撃するチャンスを逃すことにも繋がるからだ。

 メルは走りながら、ここまでに五匹のハエを仕留めていた。残るは三匹、学校まではあと十分程度だ。

 T字路を左に曲がり、メルは足を止めた。刀を両手で構え、今曲がった角を見つめる。

 待ち伏せだ。

 周りの建物は背が高く、飛び越えてショートカットするよりも、素直に角を曲がった方が間違いなく早い。ハエも馬鹿ではないので、同じくそう思って角を曲がってくるだろう。

 息を殺して、耳に神経を集中させる。ブゥゥゥン、と羽音が耳に届き、次の瞬間。

 角を飛び出してきた最も近いハエに対して、メルは全力を込めた刺突を繰り出した。不意打ちを避けれるはずもなく、刀はハエの胴体を軽々と貫いた。

 他のハエもようやく事態に気づき、メルの方に向かって突進してくる。

 刀を振って刺さった奴を投げ飛ばすと、接近してくる四つのノコギリをかわして再びダッシュを開始した。

 残り二匹のベルゼブブも、その後難なく屠ることができた。

 メルが走っていると、やがて川の上を横切るように建築された橋が見えてきた。通学路としていつも通っている橋だ。この橋を越えれば学校はもうすぐである。

 メルが橋に近づく。するとあることに気がついた。

「はああああぁぁぁぁ――――――っ!? 何でええええぇぇぇぇ――――っ!?」

 メルは絶叫した。

 壊れていたのだ、橋が。十五メートルほどの長さの橋だが、その中央部分の十メートルほどが、崩れて川の方に落下していた。飛び越えるのは不可能である。

(どうしよう。他の道は……)

 メルは周りを見渡す。かなり遠い所にもう一つ橋があった。しかし、あそこまで遠回りする時間は残っているだろうか。

(へーちゃん! 今何時!?)

『八時十分です』

(マジで!?)

 八時十五分には学校に来てくれ、と約束されている。

 それにしても、遅すぎる。家を出る時間は、歩いても二分の余裕を持って学校に着くように計算したのだ。ハエとエンカウントし、それに対処するはめになってしまったが、その時間を取り戻すためにメルは走った。歩いていく時間と同じか、それよりも早く着くと予想していたのだが、結果は歩くよりも遅くなっていた。

 たぶん人気のない所を選んで通る時に、ちょっと遠回りをしすぎたせいだろう。他人と出会う確率は高くなっても、もう少し時間のかからないルートにしておくべきだった。

 しかし後悔しても遅い。今はこの状況をどうするか考えなくては。

(隣の橋に行く……、だめ、時間がない。川に入って無理矢理渡る……、これもだめ。びしょびしょになったら余計に時間がかかる。他は…………、あー全然思いつかない!)

 時間による焦りが、メルの思考にブレーキをかけていた。

 こんなにも彼女が時間にこだわるのには理由がある。メルの担任は、約束を守れない生徒に対して罰金を科すのだ。正当な理由のない遅刻や欠席、早退に始まり、その他あらゆる『約束・決まり事』を破った生徒は、問答無用で罰金である。メルの『八時十五分までに学校に着く』もいわば約束事なので、破ったら罰金が科されるかもしれないのだ。そういうわけで、彼女はこんなにも時間を気にしているのである。

 人間界だったら間違いなく処分を受けている行いだが、魔界なので問題ない。

「あーもう! どうすりゃいいのよ!!」

 メルがイライラを発散するために刀をビュンと振るう。

 その時――。

 ブゥ……ブゥ……ブゥ……、とあまりにも弱々しい羽音が、断続的に聞こえた。振り向くと、一匹のベルゼブブがこちらに向かって飛んできていた。だがその飛行は、今にも墜落しそうなくらいふらふらとしている。浮くのがやっとといった様子だった。

(あいつは……)

 曲がり角で不意打ちした奴だ。突き刺して投げ飛ばしたのを覚えている。

 てっきり倒したと思っていたが、どうやら生きていたらしい。

(………………そうだ!)

 メルの脳がこの橋を渡る方法を閃いた。

 刃をハエの方に伸ばす。柔軟性を持った刃が、ハエの胴体にぐるぐると巻きついてその動きを封じる。そして、足元にそのハエを持ってくると、メルは橋の崩れている部分から距離を取った。

(これでいくしかない!)

 メルは覚悟を決めると、崩落した所をじっと見据え、ダッと地を蹴った。

 助走の速度を上げ、ギリギリの位置で跳躍する。体が重力に引かれて落下を始めた瞬間。

 刃を操作して、ハエを橋と同じ高さでの落下地点に移動させた。その背を踏みつけて足場とし、次の跳躍をする。

 跳んだと同時に、今度の落下地点にハエを移動させる。再び背を踏みつけてジャンプ。

 もう一度同じことを繰り返し、メルは向こう側にたどり着く。着地するとすぐに走るのを再開した。

(忘れないうちにこいつを倒しておかなくちゃ)

 メルはハエの拘束をほどいて、やや上方に角度をつけて前に投げる。刀を通常モードに戻し、放物線を描いて目の前に落ちてきたハエを、縦に一刀両断した。

「バイバイ。役に立ったわ」

 感謝の言葉を呟いて、メルは刀を消した。

 このまま全力で走れば間に合いそうだ。


 Mission2 complete


 百崎が刀から出ると、そこは昇降口だった。まばらだが他の生徒の姿も見えた。

「あんたの下駄箱は……右から1、2、3、下から1、2。ここね」

 スチール製の縦に六、横に十五ある、学校ではよく見かける下駄箱。その一つをメルは指差した。

 百崎が開けると、中にはオーソドックスな白い上履きが入っていた。下履きを入れて代わりに上履きを出す。履いてみると、ぴったり足にフィットした。

 昨日の夜、メルに何枚か写真を撮られた。パンツ一丁の姿で全身を前後左右から撮られ、足だけのやつもいくつか撮られた。何に使うのかと訊いたら、『制服や上履きのサイズを決めるためよ』と言われた。明日には制服も上履きも用意されているとのことだった。

 今、下駄箱を開けてみて、本当にサイズが合っているものが用意されていた。どうやって夜中の間に準備したは謎だが、まあ気にしないことにしよう。だって魔界だもの。

「職員室はこっちよ」

 メルに案内されて百崎は職員室へと向かった。人間界と変わらないいかにも学校といった廊下を右に左に進み、そしてお目当ての場所に到着する。

 失礼します、と言ってメルが中に入ったの見て、百崎もそれに倣った。室内を急ぎ足で歩き、ある先生の前で立ち止まった。

「キョーコ先生。おはようございます」

 メルが挨拶をすると、椅子に座って作業をしていた先生は首をこちらに向けた。

「? ああ、メルか。やっと来たな」ちらりと腕時計を見て、「何だ時間に間に合ったか、残念だなぁ」

 キョーコ先生は、パンツタイプのダークスーツを着た、細身で背の高い女性だった。髪を後ろでまとめていて、大人の女性の雰囲気を纏わせている。

 椅子を回転させて、先生は体全体を百崎たちの方に向けた。

「転校生を連れてきました」

「おお、君が」

 メルの隣に立つ百崎に、キョーコ先生が視線を移す。

「百崎才人です」

 名前を言って一礼した。

「わたしは酒井キョーコ。メルのクラス、もとい君のクラスの担任な。キョーコ先生って呼んでくれ」

「担任が美人で嬉しいです! キョーコ先生!」

「あっはっはっは! 言ってくれるね。なかなかいい男じゃん。そうそう…………はいこれ、君の制服ね」

 先生はデスクの近くにあった紙袋を持ち上げ、百崎に手渡した。

「早速で悪いけど、これからいろいろ済ませなきゃいけないことがあるんだ」

 そう言うと先生は立ち上がった。

「ちょっと一緒についてきてくれるか」

 と、一歩踏み出したところで、先生がはたと動きを止めた。くるりと振り返り、百崎ではなくメルの側に顔を向ける。

「そうそう、メルに頼みたいことがあるんだ。百崎の教科書と机のことな。悪いんだけど、必要な教科書と机を教室に運んでおいてくれないか?」

 言われた要求にメルが「はーい」と軽い返事をすると、先生は再び振り向いて歩き出した。


   ?   ?   ?


 コンコンと扉をノックすると、「入りたまえ」と内部から声がした。決して派手とは言えない扉を静かに開き、彼は中に足を踏み入れた。

「第六天使団団長、カマエルです」

 彼――カマエルが名乗ると、長机に向かい書類に目を通していた初老の男が顔を上げた。

「来たか」

「あの人物についての処遇はどうなりましたか」

「皆で議論した結果、まずは彼を拘束することに決定した。確保し、詳しく調べたのちに、処刑・釈放を判断する」

「処刑? 体内貯金が法則に反した増え方をするだけで、なぜそこまでする必要があるのですか?」

 カマエルの質問に、初老の男はすぐには答えなかった。少しの間をおいて、男の口が開かれた。

「……それは本来、団長である君ですら知ってはいけないことなのだが……、君との仲だ、他人に口外しないというのなら教えてあげよう」

「口外したら団長をやめることにしましょう。ですので教えていただけませんか」

「そこまでか……、いいだろう。君はサタンと呼ばれたルシフェルを知っているか?」

「はい、天界戦争で堕天使たちを率いた者ですよね」


 ――その昔、天界で一つの戦争が起きた。

 神の使いに嫌気が差し、天界という世界を憎む天使の集団が存在した。彼らは団結して神を討ち滅ぼして、天界を破壊してやろうと計画していた。その集団のトップに立ち、彼らを率いたのは、神と同等の力を手に入れた当時の第六天使団団長、ルシフェルであった。

 綿密に練られた計画はやがて実行に移される。神が一堂に会する場所が襲撃され、何十人もの神が殺された。そして天界各地で罪のない人々が虐殺された。

 この騒動を止めるために、天使の大軍は堕天使たちと戦った。戦いは激しさを増し、戦争と呼ばれるほどにまで発展していった。

 天使と堕天使の戦争は、天使が何万もの人数に対し、堕天使は千にも満たない数で行われた。それにもかかわらず、戦況は堕天使たちに傾く。圧倒的な力を持つ堕天使たちは、天使の大軍を次々蹴散らしていった。どんなに数を投入しても、一向に堕天使たちを倒すことはできなかった。

 平行化した状況を打破するために、神は堕天使に提案を持ちかける。そちらの望みを叶える代わりに攻撃行為をやめてほしい、というものだ。堕天使側はこの要求を呑み、望みとして神に自分たちのための新たな世界を創らせた。新世界に堕天使たちが移住したことで、のちに天界戦争と言われるこの戦いは終結する。

 ――この時創らせた世界こそが、魔界と呼ばれるものである。


「魔界で魔王となったルシフェルが、死ぬ直前にある術を発動したのだ。百年に一度、自分は復活するという術をな」

「復活……ですか」

「正確に言うのであれば、少し違う。強大な力を宿した、奴の肉体になる存在が生まれるのだ。ルシフェルはその者が力を増大させて、機が熟した時、その魂を乗っ取って復活を遂げるのだ」

「つまり、彼がその復活のための肉体である、と」

「そうだ。何もしなくても体内貯金が増えるというのが、復活の肉体で現れる現象の一つとなっている」

「ですが、彼のその体質は性的興奮という条件下での発現だったはずでは?」

「だからこそ、拘束し、その真偽を確かめねばならない。彼が復活の肉体であるかどうかのな。もし彼が復活の肉体だった場合、彼には申し訳ないが処刑せざるを得ない。それはしきたりであり、これまでの規則なのだ。いかなる理由があろうとも、復活をさせないのが天界の使命である」

「なるほど、よく分かりました。教えていただきありがとうございます」

 カマエルは軽く頭を下げた。

「さて、遅くなったが、君の第六天使団に任務を言い渡す。言うまでもないが彼の確保だ。方法は問わない。魔界への被害もある程度なら許可しよう。だが、絶対に生きた状態で捕らえてくれ。期間は特に設けないが、なるべく早くしてもらえると助かる。確保と同時に分析が行えるように、第二天使団と協力して行動してくれ。むこうの方にも連絡はいっているはずだ。指揮権は第六天使団が持っているので、君の判断でむこうを好きなように動かしてもらって構わない。以上だ」

「了解しました。速やかに手配いたします」


   ◇   ◇   ◇


 百崎は白い廊下を歩いていた。前をキョーコ先生が歩いている。

 今百崎が着ているのは、この学校の制服である。もとの制服を入れた紙袋は、メルが預かると言ってきたので渡してしまった。なので現在は手ぶらの状態だ。

 学校中にチャイムが鳴り響き、百崎は先生と一緒に教室――一年B組へと向かっていた。特に言うこともなく目的地に到着し、先生のあとに続いて教室に入る。視界端に映る生徒たちがざわざわと騒ぎ始めた。教卓の前に立った先生の隣に百崎は立ち、体をクラスメイトの方に向けた。

「みんな静かにー。転校生を紹介するぞ」

 そう言ってから先生は黒板にチョークを走らせた。百崎才人と縦に名前が書かれる。

「百崎才人君だ。ほれ、自己紹介」

 先生に促されて、百崎はクラスメイトの顔を見た。左端最前列にはアリス、その二列後ろにリン、右端四列目にローナ、そして一番後ろの真ん中にメルがいた。そしてメルの隣は空席となっている。おそらくそれが、メルの準備してくれた自分の席なのだと百崎は思った。

「百崎才人です。女子の皆さんは仲良くしてくださいね。あ、男子はそれなりでいいですよ。よろしくお願いします」

 百崎が自己紹介を終えると、教室の中ほどにいたいかにも友達が多そうでムードメーカー的存在の男子が、「何だよそれー」と笑い交じりにツッコミを入れてきてくれた。教室内に笑いが起こり、クラスメイトとの距離がグッと縮まった。

「それじゃあみんな、仲良くしてやってくれ。百崎の席は一番後ろのあそこな」

 先生が指を差す。先ほど思った通りに、メルの隣の空席が百崎の席だった。百崎は教壇を下りてその席へと向かった。

「お疲れさん。気を利かせてあたしの隣にしといてあげたわよ」

 席に着くと、メルが小声で話しかけてきた。

「サンキュー。助かった」

 百崎も体を寄せて小声で言葉を返した。

 メルがふふっと微笑む。朝のSHR(ショート・ホーム・ルーム)が始まった。


「えーっ!? 百崎くんって人間界の出身なの!?」

 昼食を済ませたあとの昼休み。百崎の席の周りには何人ものクラスメイトが集まっていた。転校生と落ち着いて話せるのはこの昼休みと、あとは放課後くらいである。自分が真っ先に友達になるんだ、と意気込む人にとっては無駄にできない時間だ。

「そうだよ。そんなに驚くってことは珍しいの?」

「珍しいよぉ。人間界から魔界に来る人なんて滅多にいないよ」

「どうして百崎くんは魔界に来たの?」

「あーっと、それは…………」

 真実を話すべきか、話すとしてもどう話せばいいのか。悩んだ結果、メルに助けを求めることにした。百崎はメルを見る。

「ああ、それはね」

 百崎の意図をくみ取ったメルが、言葉を引き継いで話し始めた。他の生徒がメルの方に顔を向ける。

「あたしが連れてきたの。才人はこっちの世界でどうしても必要だったから」

「へー、そうなんだ。ってことはメルちゃんの家に住んでるってこと?」

「あ、うん。そうだね、住んでるよ」

 百崎が会話を引き継いだ。

「一つ屋根の下かぁー。憧れるなぁ」

「でもさでもさ、知花さんの家って他にも高月さんと一条さんと清宮さんが一緒に住んでるんだよね?」

 苗字で言われたのですぐにピンとこなかったが、アリスローナとリンのことだった。

「そうだね。四人と暮らしてるよ」

「きゃぁー! すごい、ギャルゲーみたい!」

「ぎゃ、ギャルゲーって……」

 女子なのにギャルゲーみたいな状況で喜ぶのはどうしてなのだろうか。

「百崎はさ、人間界のどこ出身なんだ?」

「ん? 日本だけど?」

「えーっ!? 日本!?」

「ホントに!?」

「マジで!?」

 周りにいたクラスメイトが一斉に驚きの声を上げた。

「え……、そんなに驚くの?」

「驚くよぉ! だって日本だよ!? みんな大好き漫画やアニメやゲームが盛んで、私たちにとっては夢のような国なんだよ!?」

「魔界の人が旅行に行きたい場所、二十八年連続一位が『人間界・日本』だし!」

「日本の漫画やゲームは魔界じゃ超高額で取引されるんだぜ?」

「あ、ああ、そうなんだ……」

 なんか魔界のすごい秘密を聞いてしまった気がする。日本のエンターテインメントは海外でも高い評価を受けているらしいが、まさか異世界でもそうだとは思わなかった。

「百崎はドラゴンファンタジーとファイナルクエストはやったことあるか?」

「シリーズ全部はないけど、いくつかはやったことあるよ」

「はぁ~。俺もやってみてぇなあ」

「ねぇねぇ、あの漫画読んだことある? ワンピンズとNAROTO」

「あるよ。単行本も全巻持ってるし」

「いいなぁー。私も読んでみたーい」

 クラスメイトと漫画やアニメ、ゲームの話で盛り上がっていると、しばらくして昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。思い思いの言葉を発し、クラスのみんなは名残惜しそうに自分の席へと戻っていった。

「次は何?」

 隣のメルに訊く。

「数学よ」

 数学数学と呟きながら百崎は机の中を探った。数学Ⅰの教科書とノート、筆箱を取り出して机の上に置く。

 程なくして、先生が教室にやってきた。ガラガラと扉が開き、黒いスーツの女性が入ってくる。担任でもあるキョーコ先生だった。教卓の前に立つと出席簿を開いた。

「みんないるなー」

 教室全体を見渡して確認し、出席簿を閉じる。

「今日は六十七ページからだな」

 先生が言うと、生徒たちも教科書を開く。

 どこにでもある普通の授業が開始された。


 昼食後の穏やかな昼下がり。学生にとっては最も眠くなる時間帯である。授業開始から三十分が経った今、三分の一近くの生徒が睡魔と闘っていた。メルも頬杖をついてまぶたが落ちかかっているし、左斜め前に座っているローナにいたっては、睡魔と闘うどころか両腕を枕にして完全に寝ていた。

 けれども右端前方にいる二人、アリスとリンはいたって真面目で、黒板を見ながらしっかりとノートにペンを走らせていた。

「じゃあ練習問題3をやってみよう」

 そう言う先生の声が耳に届き、百崎は教科書に視線を移した。

 ピーンポーンパーンポーン♪

 ――その時だ。黒板上部に設置されている校内放送用スピーカーから、用件を伝える前に流れるメロディーが聞こえてきた。

『……これでいいのかな。あ、あ、あ、あー。聞こえてる? オッケー?』

 続いて、スピーカーからは若い女の子の声が聞こえてきた。

『えー、コホン。みんな勉強頑張ってるー!? ミサエルの、頑張れ魔界人の時間だよ! わたしの声を聞いて今日も一生懸命に生きてね!』

 急にラジオ番組始まった――――っ!?

『最近暑くなってきましたよね。そういえばわたしですね、この間暑くて掛け布団を掛けずに寝たんですけど、見事に体調を崩しました(笑)。いやー、先輩に怒られましたよ。みんなは気をつけるんだぞ!』

 キョーコ先生の数学の授業は完全に停止していた。

『さてさて、もうすぐ夏になるわけですが、夏で一番困るのってみんなは何かな? わたしはね、あれ、夏バテ。毎年なっちゃうんですよねー。食欲はなくなるわ、体の調子は悪いわで本当にね、ガチでつらいの。何かいい対処法ってないのかなぁー。てか、ここまでわたしの体調の話しかしてないね(笑)。じゃあ最初のコーナーいってみよう! …………って、うわああああぁぁぁぁ!? 先輩いいいいぃぃぃぃ――――――――っ!?』

『さっさと作戦を実行しなさい! 何やってるの!』

『うぅ……。だってラジオのパーソナリティを一度やってみたかったんですよぉ~』

『そういうのは作戦に支障がない程度にしておきなさい! さすがに長すぎよ!』

『す、すみません……』

 ……何なんだこの茶番は。百崎は呆気にとられていた。いや、おそらく学校中の全ての人が呆気にとられているだろう。

 スピーカーが沈黙し、しばらく間を置いてから放送が再開された。

『あー、えっと、オホン! 我々は神直属の第六天使団である。今ここに我々が来たのは神の命によるものだ。簡潔に言おう、百崎才人君はどこにいる?』

 んな! と百崎は驚いて声を上げた。

「お、俺が何だっていうんだ……?」

 神、天使、とスピーカーの声は言った。そんな高次元の存在が、自分だけを指名してくるとは一体何事だろうか。しかし壮大なイタズラ、もしくはサプライズイベントとして、冗談でその名を口にしているのかもしれない。

 けれども、魔界があったのだ。ならば本当に天界――神、天使がいる世界が存在してもおかしくはないのではないか。

『百崎才人君。いるのはすでに分かっている。君の顔も我々は知っている。だが、一人一人虱潰しに探すのはこちらとしても面倒だ。そこで、君にはある行動をしてもらいたい。その行動をして君の場所を教えてくれたのなら、他の生徒および教師に危害は加えないことを約束しよう。だがもし、君がこの取引に応じてくれなかった場合、他人に被害が及ぶと思いたまえ。我々には攻撃行為の許可が下りている』

 ――これは本当に、天使からの問いかけだ。百崎はそう判断した。

 指名されたのが自分で、自分にだけ何かが起こるのならばそれで良かった。しかし違う。スピーカーの主は他人に危害を加えると言った。それではもう、自分の感情だけで動くことはできない。

『では百崎君、席を立ち、外側の窓の方を向いて手を挙げるのだ』

 百崎は椅子を引き、極力音を立てずに立ち上がった。クラスの視線が百崎に集まる。

 外側の窓、つまり廊下側ではなく中庭が見える側の窓の方に体を向け、百崎は右手を高く挙げた。

(何が来る……?)

 ごくりと喉を鳴らし、気を張り詰める。過ぎていく一秒一秒がとても長く感じる。

 五秒…………十秒…………。

 ――やがて。

 窓の外を、何かが高速で飛んでいった。下から上へ行ったのは分かったが、その正体はまったく分からなかった。しかしすぐに、窓の上方から下りてくるものが視界に入った。

 メカニカルな人物だった。

 一言で言うならば、それが最も当てはまっている。メカ娘と言ってもいいだろう。

 白と黒と黄色で構成された、ロボットの装甲のようなものが、女の子の全身に装着されていた。けれどもそれは、決してゴツゴツしているのではなく、その子の体のラインが想像できるほどにシャープなものだった。

 右手に持っているのは、同じ三色で作られた剣。そして背中には、これまたメカメカしい翼らしきものが備わっていた。

 メカの迫力とカッコよさで埋もれてしまっているが、女の子の頭上には、煌々と輝く光のリングがあった。天使の象徴として描かれることの多い光の輪。それがあるということは、この子が天使であることを決定づけていた。

 天使は浮遊しながら教室内を覗いている。正確には、教室内の百崎の顔を凝視していた。百崎と天使の視線が交差する。

 と。

 天使が左手を持ち上げ、手の平を窓に向けた。次の瞬間。

 バァン!! と、二人の間を隔てている窓ガラスの全てが、外側に向かって木っ端微塵に砕け散った。細かくなったガラス片がバラバラと落ちていく。だがどんなに激しく破砕されようと、教室内には一片たりともガラスは入ってこなかった。

 天使が左手をグッと握る。すると百崎のそばの何もないはずの空間から、急に黄色い光で作られた鎖が伸びてきた。その鎖は百崎の体を螺旋状に回り、身動きがとれないように縛り上げていく。最後に端と端の部分が結合することによって、百崎は完全に動きを封じられてしまった。

「うおっ!」

 それだけでは終わらない。百崎の体が浮かび上がったかと思うと、その周りを水色の円柱が取り囲んだ。不思議な浮遊感とともに、視界が水色一色で埋め尽くされる。

(これはさすがにヤバい状況なんじゃ……)

 百崎もいよいよ焦りを感じていた。確固たる理由があるわけではないが、このままあの天使の好きにさせていたら大変なことになる気がする。

 せめてもの抵抗として体をよじってみるが、まったくの無意味だった。自分にはもう、どうすることもできない。

 天使は握ったままの左手を自分の方へ引きつけた。イメージ的には引っ張ったと言った方が正しいかもしれない。その左手の動きと同時に、百崎を捕らえている円柱が移動を始める。どうやらこの円柱はその場に捕らえるだけではなく、意のままに操ることも可能らしい。

「こらこら、あんた、人様の所有物を勝手に奪わないでくれるかしら?」

 気がつくと、水色一色になった百崎の視界の真ん中に、メルが立っていた。

 天使と円柱の間に割って入り、円柱の前に立ち塞がっている。

「メ、メル……」

 メルは天使を睨みつけながら、左手を円柱に叩きつけた。そして動いてくるものを止めるように、体に力を入れる。天使に近づくように移動していた円柱は、メルの左手によってその動きを完全に止められた。

 天使が驚愕の表情をする。しかしすぐに真剣な顔に戻った。

 直後、メルの左腕にかかる動こうとする力がさらに強まった。対してメルも、必死になってそれを押しとどめようとする。

「だーかーらー――」

 メルは残った右手に魔武器である日本刀を生み出し、

「――これはあたしのものだって言ってんでしょうがああああああああああ!!」

 白刃一閃! 大上段から振り下ろされた鋭い斬撃が、円柱を深々と切り裂いた。

「…………えっ?」

 百崎は間の抜けた声を出してしまう。強大な力を持つはずのメルの斬撃が当たったのに、何も変化が起こらない。一体なぜ? もしや効かなかったのか――。

 ピシッ、と。

 円柱と鎖に小さくヒビが入った。そのヒビは瞬く間に四方八方に広がっていき、やがて全体に大量のヒビが走る。バギン、というガラスが砕ける音にも似た破砕音を教室中に響かせ、円柱と鎖は同時に消滅した。

 「おお!」と歓声を上げたのも束の間。百崎の浮遊感が失われ、まったくと言っていいほど高さはないが、重力に引かれて落下した。やや慌てながらも、立った状態で着地する。

 二人はそろって天使を見た。

「あんだけ偉そうに言っておいてこの程度!? 案外大したことないのね!」

 メルが挑発とも取れる言葉を言い放つ。それを聞いた天使は特に表情を変えることもなかったが、代わりに耳のメカパーツに手を当てて、何か口を動かしていた。どうやら誰かと話しているようである。

「何? 仲間とお喋り? じゃあ、あたしも混ぜてくれない?」

 メルが再び声を発する。天使が耳から手を離し、口を閉じた。数秒後、目視外である窓の上から、新たな天使が舞い降りてきた。こちらも白・黒・黄の三色で構成された装甲を身に纏い、頭上には光の輪が存在している。

「やーみんなー! ミサエルだよっ! わたしの放送はどうだったかな!?」

 新たに降りてきた方の天使――ミサエルが、百崎を含めクラスのみんなに手を振った。

「わたしはですね、ラジオみたいな楽しいお喋りも、演説のようなかしこまった話もできる、ひじょーに多才な人なわけですよ。どうです? すごいと思いませんか!? ああ、でも褒めたって何も出ませんからね! そこは勘違いすることのないように!」

「…………ミサエル」

「いやー、みんな正直惚れちゃいそうでしょ? このわたしに。顔もいい、声もいい、スタイルもいい、それに優秀ときたもんだ。これで好きにならない人がいたら、その人の人格を疑っちゃいますね。でも残念だなー! わたしには好きな方がいるんですよ! だから惚れられてもその気持ちに応えることはできな」

「ミサエルッッッ!!」

「うわぁ!? 何ですか副団長!?」

 ミサエルが驚いて隣の、副団長と呼ばれた天使を見た。

「……あなたは確かに優秀な天使なのですが、いかんせんその性格に問題があります。無理に直せとは言いませんが、そのままだと苦労することもあるでしょう。昇進にだって響いてくるはずです。そこのところ、よく理解していますか?」

「あはは、もちろんですって! 気にしすぎですよ、副団長は!」

「…………、まあいいでしょう。ここではこれ以上の言及はしません。それよりも目の前の任務に集中してください」

「あいあいさー!」

 会話が終わると、天使二人は体から余分な力を抜き、戦闘態勢に入った。

「お? ついに来る? 待ちくたびれたわ」

 メルは肩に担いでいた刀を降ろし、口の端を吊り上げる。誰がどう見ても戦いを楽しんでいる奴の顔だった。獰猛な笑いを浮かべながら、天使たちを見据え――。

 ガラガラと教室の扉が開く音がした。

「――っ!?」

 メルが振り向き、百崎もやや遅れて扉の方を振り向いた。

 教室の二か所に設置されているスライド式の扉が同時に開き、新たな二人の天使が姿を現した。例によって、三色でできた装甲を標準装備していた。この装備は、天使である人物に与えられる決まった装備であるらしい。

「三人ともお願い!!」

 メルが素早く叫ぶ。その声が届くよりも少し早く、アリスとリンとローナの三人は行動を開始していた。

 アリスはゆるやかに立ち上がると、黒板側の扉に向かってすたすたと歩み寄りながら、巨大な鎌を出現させた。死神が持っているような、禍々しい大鎌を慣れた手つきで構え、天使の前に立ち塞がる。

 リンは二つの短剣を両手に生み出すと、目にも止まらぬ速さで教室を駆け、気づいた時には後ろ側の扉の前に立っていた。

 ローナは席を立つと、椅子、机へと順に飛び乗り、次に窓のサッシに向けて跳躍した。窓枠に飛び移ると、落下しないようにその上でしゃがみ込む。その直後、彼女の肘から下と膝から下が白い光に包まれ、次の瞬間には、その部分が黒い鋼で覆われていた。

 三人が戦闘準備を終えたのは、ほぼ同時であった。

 戦況が四対一から、一気に四対四へと変わる。四人の凄さに、百崎は改めて驚いていた。

「サイフ! 入りなさい!」

 メルがそう言って、刀を背後にまわし床ぎりぎりまで下げる。いつものように刃が薄く広がり、その口を大きく開けた。

 百崎は刀に駆け寄り、ややスライディング気味に中へ飛び込んだ。


 Mission3 天使を退け、彼を守り抜け


 百崎が中に飛び込むと、メルは刀の口を閉じた。床を蹴り上げて走り出す。窓に近づき、跳躍。窓枠に足を掛けて、勢いを保ったまま再びジャンプし、外へ飛び出した。

「おりゃあ! 死にさらせやああああ!」

 メルは威勢よく副団長の天使に突撃していく。空中で刀を大上段に構え、必殺の威力を込めた一撃を振り下ろした。自分の中で最大の瞬間火力を持つ攻撃だ。岩だろうがダイヤモンドだろうが、軽々と一刀両断できるほどの威力を持っている。

 しかしその斬撃は、副団長の手にするロングソードによって、いとも簡単に受け止められた。

 激しい金属音が響き、空中でつばぜり合いに発展する。だが、メルは空中に浮かぶ能力を持ち合わせていない。そのまま重力に引かれ、地面に向かって自由落下を始める。

(!? 防がれた!?)

 驚きが頭を埋め尽くす。この攻撃の狙いは、たとえ武器や盾でガードを行ったとしても、それすらを切り裂き・貫通して直撃を与えることにあった。もしかわされても、牽制の意味合いが強いので、それはそれで構わない。

 けれども相手は、真正面からこの一撃を受けた。狙い通りにその剣を貫通してやろうとしたが、貫通するどころか、傷一つつけられないままつばぜり合いに移行してしまった。

(何なのよ!? あの剣は!?)

 メルは心の中で叫んだ。ありえない。切れ味を最大にまで増強した自分の斬撃が防がれるなんて。今まで出会ったどんな硬いもの、厚いものでも、この刀が斬れないものなど一つとしてなかった。金燃費の悪さと引き換えに授けられた絶対の切れ味が、負けたことなど一度としてなかったのだ。

 しかし今はそんなことを気にしている場合ではない。メルは刀を逆手に持ち替えると、地面に向かって思いっ切り投げつけた。空を切って一直線に進んだ刀は、鈍い音を立てて地に突き立った。

 刺さった瞬間、地面で切っ先が固定されたのを利用しつつ、刃を伸ばす。柄が上方へするすると昇っていき、メルの足元にまで到達した。すると今度はメルの落下速度に合わせて柄は降下していく。メルはその、柄の先端というごくわずかな面積に右足を乗せた。

 同じ速度のものに着地した場合、体にかかる衝撃はほとんど存在しない。メルは片足で柄の上に乗ったまま、器用にバランスを取った。そして降下の速度を徐々に緩めていく。エレベーターに乗った時のように、体にGがかかった。

 通常の刀の長さにまで縮まると、降下は停止する。メルは柄から飛び降りて、地面に刺さった刀を抜いた。顔を上げ、副団長を見据えた。

「おや、どうしたのですか? ずいぶんと驚いた表情をされていたようですが。何か予想外のことでも起こりましたか?」

 本当に純粋な疑問として言っているのか、それとも皮肉を込めた言葉なのか、そんなどっちとも取れる質問を副団長は発した。

「そうね、予想外すぎて声が出そうだったわよ」

「ふむ。大方その刀のパワーをいかして何かするつもりだったのでしょうが、なぜか失敗に終わってしまったといったところですか」

「さすが副団長。その地位は伊達ではないようね。そうよ、その通り。あたしの刀は切れ味が取り柄でね、あんたをその剣ごとバッサリいく予定だったんだけど、見事に防がれちゃったわ。どんな素材でできてるのよ、あんたの剣は」

「残念ですが、装備開発は第四天使団の担当です。私の職務ではないので知りません」

「あー、そう。まあいいわ」

 もしかしたら素材、物資のせいではなく、神の加護とかそういった類のもののせいなのかもしれない。けれどもメルには、知る由もない。あちらさんが知らないことを、無関係のこちらが知る可能性など、万に一つもありはしない。

『ま、マスター!』

 と、その時。頭の中にへーちゃんの声が響いた。

『申請したエアリアルの使用が許可されました!』

(ったく遅いわねー、政府は何やってるのよ。こっちは一刻を争うんだから)

『準備にあと十五秒ほどかかります。お待ちください』

 ぷつ、と思考共有が解除される。

 ところで、と副団長は言った。

「あなたは空中で戦う術を持っていないようですが」

「そりゃあ持ってないわよ。空中で戦うことなんて滅多にないし」

「では、どうなさるおつもりで?」

「――今から、手に入れるのよ」

 メルは柄を両手で握ると、刀を胸の前に引き寄せた。

『エアリアル、発動します!』

 パチッ、バチッ、と静電気が発するような音とともに、メルの側頭部の両側から濃い紫の光が弾けた。その光は次第に強さを増していき、それに伴ってそこから発生する音もまた、激しさを増していく。

 紫電が弾ける速度が上がり、その音が絶え間なく響くほどになった時、メルの頭に変化が起こった。

 荒れ狂う電光の下にある側頭部の、ゆるやかにウェーブのかかった髪の間から、電流と同じく濃い紫をした角が生えてきた。

『体内の電気信号を魔力へと置換』

 その角は、長く伸びるのが進むにつれて頭の前方へ屈曲していく。

 そう時間もかからないうちに、角は額の辺りまで到達するくらいの長さになった。

 紫電の奔流がやがておさまっていき、周りにはこれまで通りの静寂が訪れた。

『置換完了。エアリアル、発動を確認しました』

(へーちゃん聞いて)

『は、はい!』

(あいつの剣があの強度ということは、身に付けている装甲もかなりの強度のはず。ダメージを与えるには最大出力でいかなくちゃダメだわ。チャンスの時だけ出力を切り替えるなんて余裕はなさそうだから、初めから最大でいく。お金の消費が激しいから、サイフと協力して常に補給しておいて)

『分かり、ました』

 魔人が所持している全ての魔武器は、つぎ込む魔力の量によって威力が変化する。メルの刀も例外ではなく、むしろ威力の上昇率は他の魔武器に比べて格段に高い。

 しかし、ただでさえ金燃費が悪いメルの魔武器である。その上、威力まで上げようと魔力を大量に使っていたら、体内貯金はみるみるうちになくなってしまう。そこでメルは(メルだけではなく全員がやっていることだが)、攻撃が間違いなく当たるチャンスの時以外は、威力を強化させずに戦うようにしている。

 だが無強化とはいえ、そこらへんの平均的な魔武器の中途半端な強化よりは、メルの無強化の刀の方が威力が高い。それこそが、金燃費の悪さと引き換えに手に入れた強さの一つでもある。

 これからあいつ――副団長の天使と戦うことになる。一度刃を交えただけだが、それだけではっきりと分かる。絶好のチャンスなど来ない、と。一瞬の隙を逃さずに斬撃を叩き込んでいくしか、あいつに勝つ方法はない。

 だからこそ、魔力の消費を気にせずに、最初から最大出力で行くのだ。一瞬しかない隙の間では、威力の強化をしてから斬撃を繰り出すなんて時間はないのだから。

 メルは意識を集中させ、切れ味が最高になるように刀に魔力を注ぎ込む。無意識下でも常に注ぎ込む量が変わらないように、体内の回路を固定する。

 左手を柄から離し、右手だけで刀を水平に振った。風を切る音が鳴る。

 その場で膝を曲げ、ジャンプ。脳内で上に移動していくのをイメージすると、体は重力に引かれることなく、空中を滑るように上昇していった。

 副団長と同じ高さまで浮かび上がると、メルはその位置で停止した。

「お待たせ。律儀に待ってくれるなんて、とんだお人好しなのね」

「天使、ですから私は。姑息な妨害などいたしません」

「まるで特撮ヒーローのようね」

「ええ。では、そのヒーローを全力で潰したいと思います」

 話が終わると、メルがまばたきをした刹那の虚をついて、副団長が接近してきた。瞬時に最高速に達し、二人の距離が縮まっていく。メルもワンテンポ遅れて空中を走った。

 両手で構えた刀を、下段から斬り上げる。空を駆ける推進力によって速度の増した斬撃に対し、副団長も同じく推進力を乗せた斬り下ろしを放ってきた。甲高い剣戟の音が響き、両者の剣の動きが止まる。即座にメルは刀を引き、間髪を入れずに二撃目を繰り出した。副団長は慌てず騒がず、その攻撃を弾いて防御する。

 メルは一度バックステップして距離を取った。息を吸う。戦闘中は視神経と肉体制御に全神経を注いでいるため、生命維持に必要な呼吸すら後回しになる。だがそれも仕方がない。呼吸をしたところで、この戦いに負ければ、自分の命は失われてしまうのかもしれないのだから。

 再び副団長に向かって直進する。体当り気味に接敵し、垂直に刀を振り下ろす。副団長は正面からその斬撃を受け止めた。ギチギチと剣たちが音を立て、窓から飛び出して行った初撃と同じつばぜり合いに持ち込まれる。

「なんで……! 両手のあたしと……片手のあんたが同じ力なのよ……!」

 押し合う二振りの剣。メルは日本刀を両手で構え、一方副団長は、メカニカルな装飾が施された直剣を片手で構えていた。刀身と柄の長さからして、そもそも作り自体が片手用であった。

「このボディアーマーの……アシストですよ。不思議なことは……ありません」

「ちくしょう……いい装備しちゃって……! 絶対……切り刻んでやるんだから……!」

「やってみて……ください。ところで……」

 副団長がそう言った瞬間。

 ぞわり、と。メルの背筋に悪寒が走った。とっさに左へ横っ飛びをする。

 今いた所を、副団長の左腕が貫いた。空気の壁を突き破るがごときパンチだった。

「っと、危ないわね!」

 メルは体勢を立て直す。空中なので体を回転させるだけだ。地上と違って立ち上がる必要がない。

「ふむ、惜しかったですね。当たれば肋骨の二、三本は砕けたはずなのに」

 副団長が握った拳を開きながら言う。

「思ったより厄介ね、そのアシスト」

 本来両手が必要なところを、片手で対処できるのだ。残った片手があれば、実に様々なことが同時に行えるようになる。しかもそれだけではない。剣同士の戦いから、素手での取っ組み合いになった場合、まず間違いなく自分は勝てなくなる。

「だけど」と、メルは呟く。

「だけど……何です?」

「こっちにも、あんたが持っていない力があるの――よッ!」

 気合の言葉とともに、メルは移動を開始した。副団長との距離を詰め、中段を水平に斬り払う。副団長は初めて、弾いて防御するのではなく、後ろに下がってその斬撃を避けた。

 メルは手を止めずに、次撃を叩き込む。左上からの斜め斬り下ろし。しかしそれも、下がって避けられてしまう。

 ならばと思い、メルは突きを放つ。攻撃範囲は小さいが、連続性と追尾性には優れる。突きの初撃を、副団長は体を捻ってかわした。すぐさま腕を引き、二撃目。

 もう一度体をずらしてかわされるが、回避するタイミングがさっきよりも遅れていた。次で仕留められる。メルはそう確信し、三撃目を繰り出す。

 胸に向かって刀が吸い込まれていく直前、副団長の直剣が煙るように動いた。

 アシストによって加速した直剣が、刀の先端を横から叩く。横方向から思わぬ衝撃を受けた刀は、方向を変えて何もない虚空を貫いた。

 剣で弾く動作と同時に後ろへ飛び退かれたため、副団長とは距離を取られてしまう。

「ふう。危ないところでした」

「……何で急に避けるようになったのかしら?」

「何かしてくるような気がして。だって何か力、策があるようなことを言っていたではないですか」

「あたしの巧妙なハッタリかもしれないわよ?」

「それは、嘘ですね」

 副団長はキッパリと断言した。何か確信でもあるかのような、揺るぎのない言葉だった。

「な、何でそう言い切れるのよ」

「先ほどの言葉には、わずかながらの『震え』がありました。あなたでさえ分からないほどのものですが、私の耳なら分かります」

 そう言って副団長は、耳に装着されているパーツを左手でつんつんと突いた。

「そんな能力までついてるの!? そのアーマーは!?」

 メルが目を見開いて驚愕の声を上げた。

「おや?」

 副団長の目が細まる。口の端を少し上げ、意味深な表情をする。

「な、何よ?」

「その言動と様子だと、隠している力があるのは本当のようですね」

「は? あんたさっき自分でそう断言したじゃない」

「あれは嘘です。そんな能力はありません」

「嘘!?」

「音を増幅する補聴器的な能力は、本当にありますが」

 くそ、してやられた。ハッタリをかましたはずが、逆に相手のハッタリに乗せられてしまった。天使という存在は嘘をつかないと、心のどこかで思っていたのかもしれない。

「……くっ、あたしがまんまとハメられるなんてね」

 嫌味な笑いを浮かべて、メルは副団長を睨みつけた。

「ところで……、その力とやらはいつになったら見せてくれるのですか?」

 メルの睨みつけなど気にもせず、副団長はマイペースに話を進める。

「…………はぁ」

 メルはため息をついて、ひょいと肩をすくめた。

「そんなに早く知りたきゃ、教えてあげるわよ」

 顔から余計な表情を消して、頭の中も空っぽにする。ただ目の前の敵だけを見据えて、愛刀の柄を両手で握りしめた。一切の無駄を省いた、完全なる戦闘態勢に移る。

「行くわよッ!」

 気勢に乗って、メルは素早く空中を滑り出した。

 上半身を屈めて、腕を腰の辺りに引きつける。剣先を下向け、得意の下段の構えを取った。副団長の懐に潜り込むように接近し、下から垂直の斬り上げを放つ。副団長はまたも後ろへ飛び退った。攻撃圏内から逃げられ、白き半円の軌跡だけが空に描かれる。

 メルはそのまま動きを止めずに、副団長に向かって突進した。腕が振り上がったのを利用して、今度は斬り下ろしを繰り出す。副団長は再びバックステップで回避行動を取った。

(ここだ!)

 メルは斬り下ろしを途中で止め、グッと瞬間的に移動の速度を引き上げて、副団長へ突撃した。副団長は、いきなり急接近してきたことに対して驚きながらも、反射的に剣を構えた。

 刀を相手の剣にぶつけながら、体全体を前進させる。体が触れ合うほどの距離で、メルは副団長を押していく。最初こそ勢いで押すことができたが、すぐにあちらも推進力を発揮してイーブンに持ち込まれた。カチカチと剣たちが音を立て、三度のつばぜり合いに発展する。

「見せてあげるわ。あたしの力を!」

 メルは声高々に宣言し、刀に意識を向けた。

 刃の先端をしゅるりと伸ばし、まるで獲物を見つけた蛇のように、副団長の胴体に巻きつけていく。二の腕も内側に巻き込み、両腕の動きも封じた。そしてその刃の先端を、蛇が鎌首をもたげた時のようにクイッと曲げ、いつでも貫けるように首筋を照準させた。

 メルは副団長と距離を取るために、柄側の刃を伸ばしつつ後ろに下がった。

「どう!? これがあたしの持つ力よ!」

 自分の力を知らしめる気持ちを孕んだ声をメルは発する。

 副団長は、刃にグルグルに巻きつかれた自らの体を見下ろして、感心したように頷いた。

「ふむふむ。確かにこれは、私には持っていない力のようです」

「あんたはちょこまかと避けるし、ガードもパリィも上手い。だから捕らえさせてもらったわ。これなら何もできないでしょう?」

 副団長は腕に力を込めたり、体をよじったりしてみる。が、刃の拘束はその程度では解くことはできない。

「……無理ですね。そしてお手上げです」

 お手上げ、とはつまり、私の負けだと観念したということだろうか。

「じゃあ、取引をしましょう」

 すかさずメルは、副団長に向けて取引を持ちかける。

「取引?」

「何もせずに部下たちを連れて帰ってくれるのなら、危害を加えずに拘束を解いてあげるわ」

「…………」

 副団長はメルの取引の提案を聞いて、そのまぶたを静かに閉じた。……答えはなかなか返ってこない。メルも口をつぐみ、場に沈黙が流れていく。

 と。

「……――いですね」

 副団長が限りなく小さな声で呟いた。続けて、その目がスッと開かれる。

「おっ? 返事する気になった?」

「……先ほどお手上げだと言いましたね」

 取引に対する返事ではないことに、メルの顔が怪訝なものになった。副団長は話を続ける。

「あれは、拘束を解くことができないことに関して、お手上げだと言ったのです」

「何? 何が言いたいの?」

「ですから、私は、それ以外のことに対してまで、お手上げと言ったつもりはありません」

「回りくどい言い方をせずに、はっきりと言ったらどう?」

「つまり、この戦いを諦めたわけではないということですよ!」

 副団長が今までにない大声で叫ぶ。すると、背中にある翼型のメカパーツの、それを構成している部品の結合部分の隙間一つ一つから、純白とも言うべき光の粒子が迸った。

 その瞬間、恐るべき速度をもって、副団長がこちらに向かって飛んできた。

 メルはとっさに刃を制御し、自分に来る方向とは真逆の方向に、副団長の体を刃を使って引っ張った。反対方向の力が加わり、副団長の進むスピードがガクンと落ちる。しかし、それでも止めることはできずに、じりじりとこっちに向かって前進してくる。

 刃の拘束は、体の動きを止めるのには有効だが、位置の移動を止めるのには適さない。適さないといっても、移動力がそこまでないなら、さして気にする必要はない。刃を動かして移動を押さえてやればいいのだ。

 だが、ある程度以上の速さを持つもの、刃の引っ張る力以上の速さを持つものは、押さえつけることができない。その点があるからこそ、位置の移動を止めるのには適さないというわけだ。

 今回、その弱点を的確に突かれた。これでは接近を許すのも時間の問題である。

「はああああああっ!」

 副団長が威勢よく声を上げると、翼の光の粒子がさらに強まった。一段と推進力を上げ、じりじりどころではなく確かな速度をもって、メルの方に近づいてくる。

 ――止めるのは無理。そう判断したメルは、副団長の首筋を狙って待機させておいた刃の先端を、一瞬の躊躇もなく動かした。

 ドスッ、と鈍い音を立てて、首に深々と突き刺さる。そして反対側から切っ先が突き出て、拍子抜けするほどあっさりと貫通した。

 ――しかし。

「ぐッ、おおおおおおっ!」

 止まらない。

 副団長は右手に持っていた剣を手放した。素手になるが、けれどもやはり強引に前進してくる。もうすでに一メートルもない。

(まずい……避け……!)

 本能がそう叫ぶ。避けて距離を取れ、と。メルは反射的に回避しようとして、

 それが最大の過ちだった。

 反射的に避けようとした瞬間、刃に向けていた意識も切り離してしまう。それは、刃による引っ張りをやめるということと同じだ。かなりの牽引力を持った刃と、それを上回る移動速度を持った敵。この状況で引っ張ることをやめた場合、どうなるか――


 ――閃光のごとき速さが、その一〇〇%の性能を発揮する。


 避ける、などという行為は不可能。脳から出た指令が体を数センチだけ動かしたその刹那、何かの残像じみたものとしか認識できないほどの速度で、副団長はメルに激突した。

「ぐうッッッ!!」

 メルが前方からの衝撃を感じた直後には、背中から校舎の壁面に叩きつけられていた。

 ドゴォン!! と、人同士の戦いでは起きそうにない音が、しかし現実で起こった。

 メルは飛びそうになる意識の中で、自分の骨の何本かが砕けたのを自覚していた。それは、自分がまだ生きている証拠でもあった。

 こんなことが起きたにもかからわず、痛みはほとんど感じない。ああ、意識がもうろうとして、脳が麻痺しているんだな、と他人事のように思った。

 今、あたしはどうなっているんだろう。薄まった意識の中で、そんなことを考えた。

 目は開くかな。――うん、大丈夫そうだ。

 メルは、薄く目を開ける。

 副団長に両手で首を掴まれていた。けど、その掴まれている感覚も、どこか遠くのものに感じられた。

 こりゃ参ったなぁ、戦況が逆転しちゃった……。あはは……、とメルは弱々しく笑う。

 その時、体から込み上げてくるものがあった。抑えることができず、ごふっ、と口からそれが漏れる。液体だった。口からあごへ、そしてのどへとその液体が垂れていく。

 血の味がした。吐血したんだ、とメルはぼんやり思った。

 もう指一本動かない。死ぬ間際ってこんな感じなのかな。……ごめんね、アリス・リン・ローナ。あたしの人生はここまでみたい。今まで楽しかったよ――。

 メルの目がゆっくりと閉じられて、

「メルッ!!」「メル!!」「メルーっ!!」

 その声は突然聞こえた。

 ――何だろう、三人の声が聞こえたような……。はは、幻聴かなぁ……。やっぱり死にたくないんだ……。心の奥では諦めきれていないんだ……。生きて、もっと三人の声を聞きたいと思っているんだ……。もっとみんなと一緒にいたいと思っているんだ……。だから、そんな声を――

「メルから離れなさい」

 再び声がした。……? ……なに? ……これは……幻聴じゃないの……?メルはまぶたに力を込める。すると不思議なことに、その目はすんなりと開いた。

 アリスの大鎌とリンの短剣が、それぞれ左右から副団長の天使ののど元に当てられていた。そういえば、自分の刀も消えている。

「あなたの部下は全員撤退しました。残るはあなただけです」

 副団長のそばに立つアリスが言う。

「……そのようですね。……それに、私のテレズマももうすぐなくなります。……私に勝ち目は、ありません」

 副団長は観念した口調でそう言い、メルの首から手を離した。

「しかし、これは神からの命令です。完遂するまで我々は、あなた方の前に現れ続けるでしょう。どんなに足掻いても、それは無駄なことですよ」

 忠告はしました、と最後に付け加えると、副団長の体が白い光に包まれた。その体が無数の粒子に分解されて四散し、空中に溶け入るように消えていった。

 ――よかった…………。

 メルは安心して気が抜けたのか、ぐらりと上体をよろめかせる。

 前方に倒れそうになった体を、ローナが優しく受け止めた。

「よく頑張ったよ、メル」


 Mission3 complete



   ?   ?   ?


「どういうことですか、カマエル様。天使がこちらにやってくるなんて」

『ああ、上から指令が出てね。百崎君を捕獲せよ、とのことだ』

「捕獲? 取り押さえるということですか?」

『そうだ。取り押さえてある分析にかける』

「分析……とは?」

『理由は口外できない……って、ああ、そうか。君には関係なかったね。んー、そうだね、何から話せばいいだろうか」

 やや高めの声の男、第六天使団団長・カマエルは、少し間を開けてから話を続ける。

『……君は、ルシフェルを知っているかな?』

「はい。天界戦争および魔界創造に関わった中心人物ですよね」

『そう。そのルシフェルが死ぬ直前に、ある術を発動したらしい。百年に一度、自分が復活するという術だ』

「復活、ですか」

『厳密に言うなら、百年に一度、強大で特殊な力を持った魔人が生まれ、その体を乗っ取って復活を遂げるらしい。で、その肉体役が百崎君かもしれないとのことだ』

「なるほど、それで捕獲からの分析というわけですか」

『その通り』

「確かに彼には、常人とは異なった体質がありますからね。……それで、復活用の肉体だと判断された場合はどうなるのですか?」

『上からは、即刻処刑せよとの指令が出ている』

「そうですか。……ふふっ、でも、そんなことするつもりはないのでしょう?」

『もちろんだとも。味方につければこれほど強力な戦力はいないからね』

「……一つ訊きたいのですが、自分は天使と接触した時、どのように行動すればよろしいでしょうか」

『そうだね……変に感づかれてもあれだし、全力でそちら側についてくれていいよ。こちらのことは気にしなくていい』

「了解しました。ではそのように」

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